仙文③ 衝立の向こうでごそごそする物音に仙蔵は目を覚ました。障子越しに差し込む朝の光に、いつも通りの時間のようだと目算をつけながら布団の中で体を伸ばす。体の調子はよさそうだ。
「仙蔵、起きたか」
「ああ、おはよう文次郎」
「おお、おはよう」
仙蔵が目を覚ました気配に気付いたのか、衝立越しに掛けられた声に仙蔵も挨拶を返した。特段声の調子にいつもと変わりはない。
軽く夜着の合わせと髪を整えて布団を出る。桶と手拭いを取り出して顔を洗いに行く準備をすると、文次郎も立ち上がった。
「昨日も遅かったな」
「ああ」
「精が出ることだ」
連れ立って部屋を出て、普段と変わらない益体もない会話を交わしながら長屋前の井戸に向かう。
つるべを落とす文次郎に自分の桶を差し出すと、文次郎が黙って清い水を注いだ。四年の頃位までは自分でやれなんてたまにぶつぶつ文句を言っていた覚えがあるが、いつの間にか何も言わずにやるようになった。文句を言っても無駄だと諦めたのか、ただ当たり前のことと体に染みついてしまっているのかは知らない。
文次郎が汲んだ水で顔を洗っていると、前髪を跳ねさせた伊作が二人に声を掛けながら歩いてきた。
「文次郎、仙蔵、おはよう」
「伊作」
「おはよう」
伊作は眠そうにしながら文次郎の隣に並んで水を汲み上げた。仙蔵は自分の顔を拭くと、髪を梳りながら文次郎に目をやった。
顔を洗った文次郎は、太い髪を手早く梳きながら後頭部で結わえていた。腕を上げた拍子にはだけた襟元に目をやれば、赤い吸い痕が目に入る。色事など無縁の謹直な佇まいを持つ男に不似合いな印だが、仙蔵が残した位置と一致する。
昨晩の相手については十中八九この男だろうと思っていたが、間違いがないようだった。
態度にも、仕草にも昨夜の名残を見せないが、仙蔵が残した痕だけはそこにあった。自分では目に入らない、変装のために化粧をする時でもなければ鏡で見ることもない場所だろう。きれいに自分の痕跡を残さず仙蔵には自身の正体を隠したつもりのようだが、文次郎自身も気付かないその痕をつけた仙蔵だけがわかる目印だけが残っていた。
ふと視線を感じて目をやると、伊作が呆れた顔で洗った顔を拭いていた。仙蔵が昨夜の相手に気付いていたことも、痕を残した意図も察したのだろう。
「仙蔵、なにか考え事?」
「ふむ、少し厄介ごとを抱えておってな」
「そう。遠慮せずにいつでも相談してね」
文次郎がその場にいることもあって伊作は何気ない会話に紛らわせて、にこっと笑う。寝癖をつけた間抜けな格好だが、圧の強さに苦笑する。適当なことをするなよ、と言外に釘をさしているのだろう。
「ああ、どうしようもなくなったら頼む」
誰が相談するか、という思いを込めて仙蔵は笑みを返すが、伊作は眉をひそめてどこか憐れむような眼をした。
「仙蔵って機微に疎いところがあるから心配だよ」
「はあ? お前、朝から私に喧嘩を売ってるのか?」
仙蔵が眉を上げ、睨みつけるのを伊作は笑ってる。
文次郎は含みのある二人の会話に入ってはこなかったが、聞いてはいたようで呆れたように鼻で笑った。否定をしないということは、文次郎の認識にも齟齬がないのだろう。
「おい文次郎、お前もなにを笑ってる」
「仙蔵は僕達六年の中でも五車の術を上手く使うけどさ」
「ああ、自分の望むように相手を動かせているといって、人の深い所を理解してるとは言えん」
伊作の言葉に文次郎が肯いた。
「なんだお前ら、言いたいことがあるならはっきり言え」
「それで困ることがあったら、相談してってことだよ。
そうだ、文次郎。委員会のことで相談があるんだけど」
「おお、予算は上げられんぞ」
仙蔵を軽くいなすと伊作は文次郎と話し込む姿勢を見せた。
「まったく何なのだ、お前らは。文次郎、先に戻ってるぞ」
「おお」
「じゃあ、後でね」
言いたいことだけ言って話し始めた二人に鼻を鳴らして、仙蔵は一人で部屋に足を向けた。
仙蔵の手前、伊作は委員会にかこつけたことを言ったが、実際には昨晩のことを話すつもりなのだろう。
昨晩のことが文次郎と伊作の間でどのようなやりとりを交わしてのことなのかは知らない。文次郎から伊作に相談をしたわけではないだろうから、伊作が最近塞いでいた文次郎を心配して声を掛け、文次郎は伊作の口車に乗せられてああいうことになったのだろう。伊作については、心配がほとんどだろうが正直面白がっている向きも否めない。
文次郎が望むのならばと、最初は一夜限りにしてやるつもりだった。だが去り際に手拭いを渡したのは、それだけで済ますのが惜しくなったからだ。文次郎が望むのならば、このまま顔が見えぬ夜を重ねてもよいと思った。
「……私も場の空気に流されておったかな」
明るい日差しの下で改めて思えば、昨晩は暗闇の中で感傷的になっていたようだ。
一夜を望むのであれば、直接言えば相手をしたものを。伊作を頼ってまで自分の正体を隠して抱かれようとするなんて、どれほど信頼されていないのだなんて憤りもある。
だがそうして夜を過ごした後、自分たちの関係は今までと変わらずいられただろうか。同室で何もない夜を過ごし、実習や忍務で二人で並んで取り組み、委員会で正面切ってやりあうようなことが。
そういった関係を崩したくないから、あのような無茶苦茶な要望を言ってきたのだとも理解している。
仙蔵にはわからないことが一つだけあった。なぜ文次郎が仙蔵に抱かれてもよいと思ったか、だ。
念弟にと声を掛けてきた先輩を受け入れていれば、優しく男を知ることができただろう。相手は知らぬが、文次郎に慕う様子と敬意が見えたから悪い男ではないだろう。よっぽど反りが合わぬ男だったのだろうか。少なくともその男よりは仙蔵の方が好ましいと思ったものの、これまでの関係を崩したくはなかったから正体を隠したのだろうと思っている。
ただ、ほんの少しだけ、伊作が口にした己が機微に疎いという言葉だけが心の端に引っ掛かった。