ポリヴァン10/31 普段から何にも興味を抱かないつまらないガキだった俺は、子供の頃から好きな人がいる。
その人は当時すでに大人で。けれど俺を見つけると嬉しそうに笑って、自分の好きなものの話をたくさんしてくれた。俺はそれをただ聞いているだけだったけど、二人だけの時間が楽しくて幸せだった。だから子供ながらに、これからもずっとこの人と一緒にいると強く思っていた。
その気持ちを両親に話した。公務員の両親は頭ごなしに怒鳴りはしなかったが、もっといろんな経験をしてから、いろんな人と出会ってみてから考えてもいいんじゃない?と、遠回しの言葉で俺の気持ちを、あの人のことを否定した。子供ながら主張をしない、当時俺は珍しく怒った。
それから今度はその怒りをあの人に話した。俺はこの人だけには俺がどれだけ本気で、どれだけ真っ直ぐな気持ちなのかを伝えたかった。
あの人は優しく聞いていた。静かに相槌を打ち、悲しそうな表情をして、俺をなだめてくれた。だからその内に気持ちも落ち着いてきて、両親に対して申し訳なくなっていた。
俺は話を終えた。そうしてあの人が口を開いた。
「突然だけど、仕事の事情でこの街を出ていくことになったんだ」
信じられない。今俺はあなたへの気持ちを告げたはずなのに、あなたはいなくなるのか?
言葉にしなかったが顔には出ていただろう。しかしこの人はそんなものを無視して話を進めていく。
もう二度とこの街には来ないこと、どこへ行くのかは教えないこと、今まで楽しかったこと。そして自分のことは忘れてほしいと言った。
ふざけるなと俺はあの人に手を伸ばしたけれど、六歳の手はあっさりと止められ、躱された。あの人からの明確な拒絶だった。
俺はただ悔しくて、悔しくて。家を出たときは両親が疎ましかったのに、今ははっきりと俺を否定したあの人が憎くて、憎くて。家に帰りつくなり、母の膝に縋り付いて泣いた。大好きなあの人に選んでもらえなかったことがただただ悲しかった。この時俺は人の気持ちを、思いを知りながら、それを正面から否定するような大人にはならないと誓った。
誓ったはずなのに……。
あの頃の俺が今の俺を見たら、あの人にしたような軽蔑の目を向けるに違いない。
俺、アオ・イサミは現在、深夜の繁華街に居座る未成年の補導と指導をして回っている。
路上に座り込み、場所を取る未成年たち。一概には言えないが、彼ら彼女らは家庭に居場所がなく、仲間を求め安寧を求めて、不夜の街に集まってくる。イサミの仕事は彼ら彼女らに適切な指導を行い、犯罪に発展しないように見張ることである。そうやっていることはあの時のあの人と同じ、相手の気持ちを汲み切れない、決まりきった大人のルールの押し付けに過ぎなかった。
──あの人と同じにはなりたくなくて、警察官になったはずなのに。あの人と同じやり方しかできてない。
大人になった今、あの時の両親の心配も、あの人の決意も理解できた。
子供ながらに憤ったあの時の気持ちの方が真面目ではなかった。あの人の拒絶こそ、俺に対する真っ直ぐな本気だったんだ。
あのつらい経験が、それからの様々な経験が、今のイサミにそんな思いを抱かせていた。
「できることなら、もう一度あの人に会って、謝罪と俺の本気の気持ちを伝えたい……」
繁華街の喧騒の前では何の意味もなかった。
深夜4時
眠らない街とは言えど、人気が少なくなる時間帯はある。
夜の顔が薄れ、朝と入れ替わる時間は一瞬だけ人通りが減る。深夜の勤務もそろそろ終わるころ。ゴミ捨て場には人がよく倒れている。飲み明かして路上で寝てしまう人が落ちているのだ。そんな人に声をかけるのが最後の仕事になる。
一人、二人、三人グループ。丁寧に声をかけ、移動手段のある方向へと誘導してた。
そして、よく人が落ちている裏路地のゴミ捨て場をのぞけば、4件目の落ち人の足が見え、イサミは仕事を全うするために近づく。
色白でほっそりとした足。そばに赤いスニーカーが落ちているが、明らかにサイズが合っていない。白いハーフパンツ。ブルーのTシャツ。髪は金髪。少し頬のこけた子供が転がっていた。
「おい!しっかりしろ!」
普段落ちているメンツとはかけ離れた風貌にイサミは驚き、慌てて抱きかかえた。
歳は十歳にも満たない男の子。着ている服は少し大きく、肩からずり落ちている。眉間にはしわが寄り、表情は固い。短く細かい呼吸を繰り返している。手から伝わる体温が低い。
そう…体温が低いのだ。
一瞬イサミは低体温症を危惧したが、すぐに否定した。か細く呼吸をする口元に牙が見えたのだ。
”吸血鬼”
この世界の九十九パーセントはホモサピエンスであるが、残りの一パーセントには様々な種族がいる。その一つが吸血鬼族。彼らは体温が低く、色白。太陽の光で死に、臭いの強い食材などを嫌う。人の何倍もの寿命を持ち、そして人の血肉を主食とする……と言われ、人が文明を持ち始めてから迫害を受けてきた一族である。現在は、しっかりとした生態研究がされ、手厚い保護対象の一族になっている。
ただし、彼らの総数は非常に少なくなっており、世界的保護と血筋管理が行われ、見かけたというだけの情報提供だけでもそれなりの報酬が届くというほど、徹底した保護活動が行われている種族でもあった。
しかしイサミが驚いたのはそこではなかった。
この子供は、あの人に似ていた。
まるであの人を子供にしたらこんな姿なのではないかと思えるほどに似ていたのだ。
イサミの心臓は大きく音を立てた。
あの人は何故、自分の元から離れたのか。あの人は子供が遊ぶ昼間の時間帯、大人が仕事をする時間によく会った。あの人は野菜が嫌いで肉料理が好きだと言っていた。地球温暖化で熱い夏でもいつも涼しそうな顔をしていた。好きなものの話をするときはいつも「昔と違って」と前置きをした。イサミと話すようになったのはイサミがいつも一人で遊んでいたから、自分と同じで一人だったから、イサミが寂しくないように話しかけてきたからだ。仕事の話なんて最後に会ったときにしか聞いたことがない。
イサミの大切な思い出は、忘れてくれといったあの人の言葉を拒絶して、今でも鮮やかにはっきりと残っていた。そして最後に思い出すのは、寂しいそうに眉を寄せて目を細め傷ついた顔だった。
物思いにふけっていると空は白澄み、そろそろ日が昇る頃だ。イサミの勤務時間も終わる。吸血鬼と思われるこの子をどうするか。正しい行いをするならば保護機関へ連絡すべきだ。しかしそんなことをしたら、あの人の面影を持つこの子は即座に連れていかれてしまうだろう。
イサミには子供のころから好きな人がいる。
これから取る行動はまっとうなルールではない、自分本位の選択になる。それでもイサミは一度誤ってしまった選択を巻き返すチャンスを逃したくはなかった。
静まり返った街が起き始め、昼の姿を見せ始める中、イサミは腕に小さな少年を抱えて、光の薄い裏路地を通り抜け、自宅へと急いだ。