宴のあと。「おう、お疲れさん」
「ごめんなさい、お待たせしちゃいました」
「飲んで待ってたから気にすんな〜」
深夜零時。待ち合わせは薄暗い間接照明が照らす閑静なバー。まぁ、いわゆる"いつもの"バーってやつ。こちらに背を向けたカウンターで酒を呷っていたはず待ち合わせ相手は、私が入店したことにいち早く気が付いて煙草を挟んだままの大きな手をひらりと振る。火を点けたばかりの煙草は紫がかった煙を細く立ち昇らせて軌跡を描いた。
隣の席に腰かけると、待ちかねたかのようにキースさんはジントニックを注文して煙草を咥え直して濃ゆい煙を吐き出す。彼のグラスにはなみなみとビールを注がれているから訝しくも思ったけれど、程なくして出されたそれは『こちらのお客様からだ』と掠れた声で笑って私の目の前に差し出された。
「キースさんにしては珍しくかっこいいことしてくれるんですね」
「なんだよ、気に入らなかったか?」
「いいえ、嬉しい。ありがとうございます」
ささやかに乾杯をして、冷たい酒をくいと呷る。ライムとハーブの香りが混じる強めの酒は、今日の記憶を楽しかった思い出に書き換えていってくれる。キースさんも私の仕草に合わせてビールを大きく嚥下すると、照明の深いオレンジ色に照らされた喉仏がごろりと上下しているのがよく見えた。もう何百、何千と見てきた姿だったけれど、やはり刺激が強すぎるってもの。大人の色気にこと関して彼に敵うものを見つけるのは、そう容易なことではなかった。
「……何見てんだよすけべ~」
「すっ、……そんな、キースさんじゃあるまいし」
「おっ、なんでバレてんだ?」
「少しくらいは否定してくださいよ」
「どーせ後から嫌って程わかるんだから、それこそ非効率ってやつだろ」
「……すけべ」
「そうだよ。おまけに久しぶりの休日ときたもんだ。堪能させてもらうつもりだぜ」
普段は甘ったるい言葉なんてひとつも与えてくれないのに、キースさんはこの間接照明の下だけはこう甘ったるい毒を吐くことに躊躇いがないのだ。ご丁寧に、頬に引っかかった髪を払うボディタッチ付き。彼を象徴するほどに鼻に馴染んだ煙草の匂いが近いところで香るのは、正直あまり心臓によろしくない。
「そうだ、帰りコンビニ寄ってこうぜ」
「コンビニ?帰ってもお酒飲むつもりですか?」
「違ぇよ。……いや、違くはねぇけど……明日の朝食うパン買って帰んの」
「じゃあ、角食がいい。フレンチトースト作ってください」
「ホント好きだよなぁ。最初からそのつもりだったから喜んでいいぞ」
他でもないキースさんと明日の朝の話をなんでもなくできることに腹の底から湧き上がる幸せを感じて、それを収めるためにジントニックを流し込んだ。けれどじわりと焼き付くアルコールの熱がやはり気の逸りを見逃してはくれなかった。
グラスから滴った結露が私のスカートに落ちる寸前で淡いの光を帯びて宙に留まるのを視界の端で捉えた。重力に逆らった水滴は楽し気に宙を泳いで、それからおしぼりに吸収されて姿は見えなくなる。それだけの些細な行為だったけれど、それはキースさんの視線が私に注がれているからこそ起きた行為である何よりの証左であった。
疲れた体にアルコールを急に注いだからか、それとも、この大人っぽい空気に充てられたか、そのどちらもかはわからないけれど思考に段々靄がかかり始めて、どうもうまく言葉が紡げない。ふわふわと体が軽くなって、日々の少しだけ嫌だったことが遠く奥に隠されていくような嫋やかな酩酊感は、やはり心地が良くて。いつもは恥ずかしくて出来ないからたまには、とどさくさに紛れてキースさんの肩に頭を預けてみる。普段ものぐさな癖に、人並み以上にしっかりとした硬さを纏う肩はあたたかくて、とろりと眠気が瞼に纏わりついてくる。
「なんだ、あんたにしては珍しく可愛いことしてくれるじゃねぇか」
それは私の言葉に対する意趣返しだった。少し上のところにある岩緑青の瞳が細められている。
「……なんだか、キースさんが隣にいるのって、夢みたいなんです」
「はは、何を今更言ってんだか」
それから、一度だけ煙草を持たない方の手で私の頭をさらりと撫ぜて、手を引くついでに頬を指が擦った。手入れのされていないかさついた硬い指だったけれど、それが何より愛おしかった。
半分程吸い切った煙草をくしゃりと灰皿に押し付けてから席を立ち、私に向かってぶっきらぼうに手を差し伸べる。
「帰ろうぜ。アフターパーティーだ」
彼と歩く帰り道は、もう見知った道だ。