【ラヴミリ展示】とろり、とける。 飲み明け特有の浅い微睡みから目覚めて、キースはカーテンの隙間から差し込むまっちろい冬の朝日に眉を顰める。せっかくの休日なのだからもう少し惰眠を貪りたくて、けれど抱き枕にしてやろうと画策していたぬくもりが隣からすっかり失われていることに気が付いて、靄かかる意識はゆっくりと覚醒へと向かっていった。
――随分と芳ばしい匂いがする。パンが焼ける朝の匂いだ。お世辞にも朝に強いとは言い難いキースではあるけれど、その食欲を誘う匂いと、何よりそれを今しがた何やらを調理しているであろうキッチンの主へちょっかいをかけてやりたくて、キースはもそりと重い身体を引き起こした。
のそのそと訪れたキッチンにはやはり彼女が立っていて、ジジジと電熱線が鳴るトースターの前で手持ち無沙汰にトングをカチカチ鳴らしている。寝室から顔を出したキースを見つければ一転、ほろりと花の綻ぶ笑顔を見せた。たったそれだけで、冬の室温で冷えてしまったキースの心はじんわりと熱を持つ。
「あっキース、おはよ。まだ寝てても良かったのに」
「ン~~~……なにやってんだよ」
「えぇ?ツナメルト焼いて……って、ちょっと何?重いよ」
「ン"~~~~~~~……」
彼女の細い肩へ顎を載せると、いつの間にか彼女の匂いだと認識してしまったシャンプーの匂いがふわりとキースの鼻腔を甘く擽る。それは熱を分かち合った昨夜の記憶を脳裏へ鮮明に蘇らせるには充分すぎる要因で、燻りかけた熱を誤魔化すように首筋に鼻を埋めて深く呼吸をすれば、彼女の香りが肺いっぱいに満たされていく。オレの吸ってる煙草が全部この匂いになんねぇかな。いや、それだと吸う度にムラムラしてかなわねぇか。……なんてことを寝覚めの鈍い脳内で思考を巡らせていた。
「朝飯食いてぇなら起こしてくれても良かったんだぞ」
「キースにはいつも作ってもらってるから、たまにはね」
「はは、結構なことで。んじゃ、オレはコーヒーでも淹れてやるか~」
「やった!今日は丁寧なやつがいいな」
「仰せのままに、お姫サマ」
彼女はキースの淹れたコーヒーを殊更に気に入っているらしく、手に持つトングがまた機嫌良く鳴る。コーヒーを淹れる間、彼の大きな肩越しにドリップ仕草を覗き込んで気の抜けた声で笑いながら匂いを深く吸い込んだり、お気に入りのコーヒーカップを彼女専用の食器棚から選んできたりと小動物のようにせせこましく動いて回った。そうしているうちにトースターも焼き上がりを報せ、ゆったりと朝食の支度が仕上がっていく。
彼女が悩みに悩んで結局選び抜いた今日のコーヒーカップは、ふたりが親しい仲となる以前にキースが贈ったもの。彼女の手に馴染むほどに使い込まれているであろうそれを見れば『貰ったけどオレは使わねぇから』なんて苦しい言い訳で彼女の気を惹いていた頃が随分と昔のように思えた。そこに手製のコーヒーを注げば、湯気の向こうにはいつか彼が思い描いた朝の夢が現実となって現れる。その擽ったい瞬間がキースも存外嫌いではなかった。
これまた彼女のお気に入りであるお皿に今しがた焼き上がったパンを載せて、揃いの色をした小鉢には昨夜帰りがけに買った桃を切ってヨーグルトと一緒に盛り付ける。『休みの日は好きな物にだけ囲まれていたいの』なんていつか零した言葉のとおり、こうも彼女の好きな物ばかりに囲まれていると、もしかしたら自分もその一部なのかもしれない、とキースにしては随分とらしくない勘違いを起こしてしまいかねないものだ。
「お~うまそ」
「キース、これ好きだったよね」
「ツナメルトか?おー……おう。言われてみりゃそう、かもな」
お前と食うから好きなんだよ。とはさすがに照れが勝って言えはしない。言えたら苦労はしていない。
ふたり揃って手を合わせて、いただきますをする。彼女に合わせて仕草を真似ているうちにいつの間にか癖となってしまったそれは、キースにとって彼女と食事をする前の儀式という意味合いだけを持っていた。
たっぷりと載せられたチェダーチーズがツナとよく絡んで、分厚い角食とともに齧ればとろりと伸びる。熱々とろとろの内側には挽きたてのブラックペッパーが隠れていて、ぴりりとした新鮮な辛味が鼻を抜けた。それだけじゃない。まろやかさを引き出すマヨネーズ、ちょっとのガーリック……と彼女こだわりのアレンジがこの一枚の至る所に潜んでいて、きっと唯一の味はいつの間にかキースの記憶へと深く結びついていた。
もりもりと元気よく頬張るせいで頬にくっついたやんちゃなツナの欠片をキースの親指が拭えば、彼女は『ありがとう』と目で応える。とろりと、あまりに甘ったるい瞳はキースだけを見つめていた。鶯色の髪の隙間から垣間見える深緑の瞳も、彼女だけを見つめている。そこに会話が割り込むほどの余白はない。
ダイニングテーブルを挟んだちょっとの先で同じものをこんなにも嬉しそうに食べる彼女が、キースの目には途方もなく愛おしく映る。彼女の、司令としてはきっと誰にも見せない……キースにしか見せることのないこの無邪気で腑抜けた顔を、誰にも譲りたくないと柄にもなく思ってしまった。
きっと彼女は、キースと一緒じゃなくても生きていける。キースだって、彼女と共に人生を歩まなかったとしても、この先長いとも短いとも知れぬ道をのんべんだらりと往くのだろう。けれど、誰でも良いし誰も要らないこの先を、例えば誰かと一緒に歩むとするならば、きっとこの人がいい。いつか淡く抱き始めた幻想は次第にあまい骨とあたたかな肉を纏い、キースも知らぬうちに取り返しのつかない夢へと育ってしまった。
――オレが死ぬその日まで、そうやって笑うのはオレの前だけでいてほしい。
「なぁ」
「ん~?」
「籍でも入れるか」
とろり、と。彼女のトーストからツナが蕩け落ちた。