【ラヴミリ展示】アディショナルナイト 寝るまでの時間を、映画を観て過ごそうと勧めたのは私だ。
というのも、お付き合いを始める前に映画館へふたりで足を運んだ作品が最近サブスクに追加されたのだ。『原作が好きだから』なんて後付けの理由で、正直に言えばきっかけづくりでしかなかった映画の内容は正直あまり覚えていなくて、独りで観ても良かったけれど、せっかくならまた一緒に観たくて今日まで寝かせておいていた。
序盤はかなり真剣に観ていたつもりだったけれど、中盤くらいからの記憶がきれいさっぱりと抜けている。正面に構えたテレビは真っ暗に落とされているのを見るに……どうやら、寝落ちてしまったらしい。
隣にあったはずの体温がまるっと失われていて一瞬どきりとしたけれど、レモンの香りがふわっと部屋中に広がっているから、きっとグレイはキッチンでレモネードを作っているのだろう。きゅんと甘酸っぱい手製の香りはグレイとお泊まりをする日のナイトルーティンで、ふたりで温かいレモネードをゆっくり飲んで、体を内側からほかほかにしてからお布団に入る。それはいつの間にかできてしまったグレイとの"当たり前"のひとつだった。
ふわりと優しく香る甘酸っぱい匂いに蕩れていると、キッチンから戻ってくる気配を感じて――なぜか咄嗟に目蓋を閉じ直してしまった。理由なんてなく、ただただ反射的に。
それを知らぬグレイがぺたぺたと素足を鳴らしながらリビングルームへ戻ってきて、ソファに深く腰掛ける。ふかふか柔らかいソファはグレイの重みを受けて沈み、拍子に触れたところからじんわりと感じる自分とは違う体温にささやかに胸がときめいてしまう。眠った振りのせいで項垂れたままの頭をグレイの手が優しく誘う先で、頬が彼の肩に触れる感触があった。硬くて骨ばった肩はお世辞にも心地良いとは言い難いけれど、それを振り切る気概はひとつも湧いてこなかった。
コチコチと、時計の針の音だけが顕著に響いている。視覚が奪われると他の感覚が研ぎ澄まされるというのはあながち間違いではないのかもしれない。
言い出せずに目蓋を閉じ続ける間、グレイはレモネードを啜ったり、スマホをいじったりして、何を言うわけでもなくただひっそりと夜のひと間を過ごしているようだった。
そうしてどれくらいの時間が経っただろうか。コト、とマグカップがソファの向こうにあるテーブルへそっと置かれる音がして――それから不意に名前を呼ばれた。
ぎく、と体が強ばる。
「――起きてるよね」
「……、……………………寝てるよ」
「ふふ、おはよう」
はだけてしまったブランケットを肩までかけ直してくれたグレイが鼻先だけでゆるく笑う。いつから、と問えば最初から、と。狸寝入りはすっかりお見通しだったらしく、頬に熱が集まる。
「気づいてたなら言ってよ」
「どこまで耐えるのかなって。ぼちぼち悪戯でもしようかなって思ってた」
「……何する気だったの?」
「何をしてほしかった?」
しっとりと未だ湿気を帯びる黒い前髪の隙間から、目に毒なほどに鮮やかな琥珀色が覗いて、逸らすことなく私を真っ直ぐに見つめている。刺すほどに強い視線には、言葉にならない言葉がたくさん詰め込まれているのを知っている。例えば、揶揄い。それから……期待だとか。目は口程に物を言うとは言うけれど、彼の場合あまりにそれを体現しすぎなのではなかろうか。
ブランケットの内側にグレイの手がするりと滑り込んできて、私の手がすっかり絡め取られる。指の一本ずつがしたたかに絡んで、ぎゅう、と逃げる余地すらないほどにぴったりと触れ合った手の平はじっとりと熱い。さっきまであたたかいレモネードを飲んでいたせいだとすぐに思い当たった。
「グレイ」
「うん」
「……私もレモネード、飲みたい」
「今?」
「だめ?」
「うーん」
なんやかんやとお兄ちゃん体質な彼は、こうやってねだればいつもなら『しょうがないなぁ』なんて言いながらも満更でもない顔をしながら作ってくれるところだけれど、今日はそうもいかないらしい。
ねぇ、ともう一度問いかけようとした声はグレイに丸々食べられてしまって、後には同じ体温になった吐息だけが残る。昼間の触れるようなキスとは違う、じわじわと心も体もグレイの熱でぐちゃぐちゃにするためのキスだ。
グレイがさっきまで飲んでいたレモネードの甘酸っぱい香りがまるで余韻とでも言わんばかりに舌先へ焼き付いて、それは彼とのナイトルーティンの記憶をふっと過らせた。
「あとでね」
「……そう言って作ってくれたこと、ないじゃん」
「それは終わったあときみがすぐ寝ちゃうからだよ」
そう言っているうちにも私の体はずるずると押し倒れされていって、気が付けばもう既にグレイのかんばせがすぐ目の前にあって。背中はソファの座面が柔らかく受け止めてくれている。……逃げ場なんてどこにもない、ふかふかのあたたかい檻だ。
シーリングライトの灯りが遮られたグレイの表情はうまく読み取れないけれど、べっこう飴みたいにきらきらした奥にはじっとりとした熱がこびりついていた。
――箍の外れたグレイは、存外に強引だ。けれどそれは私が彼を拒絶していないという信頼と経験からなっていて、本気の拒絶のサインは言葉にせずとも敏く受け取ってくれる。……まぁ、つまりそういうこと。
「なんというか、元気だね……お出かけもしたのに」
「ふふ、ありがとう」
「褒めてはいないけどね?」
返事はない。その代わりに、ぐりぐりとマーキングをするみたく肩口へ額を擦り付けられる。なんだかねこみたいだ。わずかに湿気の残る柔らかい髪に指を通せばくすくすと擽ったそうに吐息を漏らしていた。
「いい匂いするね」
「今日はグレイもお揃いでしょ」
「ん……そうだった。お揃いだ」
何度も何度もキスを落とされるうちに、その唇によって理性を少しずつ蕩かされていくような気がする。すっかり頭が空っぽになってしまえば恥もへったくれもないけれど、こんなふうに中途半端な理性があるうちは私に触れるグレイの一挙一動が恥ずかしくて仕方ない。
ルームウェアのボタンがぷち、と外される音が胸元から聞こえて、はっとグレイの手を引っ掴んでしまう。まるでこちらが何か悪さをしたみたいな表情を隠さないグレイはそのまま私の手を口元まで運んで、指先をかぷ、と甘く食まれてしまう。痛くはない。けれど反射的に肩を跳ねさせてしまうとグレイは満足そうに目を細めていた。
「ぐれい」
「ん」
「まって」
「いっぱい待ったから、もう待たない」
「あう……やだ……」
「嫌だったら……後で叱っていいから」
彼の情念へいつ火を放ってしまったのか、私にはもうわからない。ただ、やけに準備の良いグレイはポケットからリモコンを取り出して、私が何を言う間もなくリビングルームの明かりを落とした。