シャイロックのバーを訪ねると魔法使いたちの笑い声や歌声が響き、酒と煙と甘いチョコレートの香りがいっぱいに広がっている。思っていたよりもだいぶ賑やかで、クロエはきょろきょろとバーを見回した。普段より目がキラキラしているルチルが声を掛けてくれたので事情を聞くと、どうやら先程までアルコールを含むボンボン・ショコラの食べ比べ大会が行われていたらしい。盛り上がるわけだ。
それでもバーを破壊するような暴力行為や、耳に美しくない言葉のやりとり、酒や食事を粗末にするようなことは起きていない。そのすべてをシャイロックは絶対に許さないから、誰かひとりでも道を外すようなことがあればもう全員がバーから締め出されているはずなので、節度の保たれた大人の宴のようだ。
そんな主のシャイロックはというと、ムルとラスティカと冗談を言い合い、カクテルを飲みながら笑っている。気がついた三人にこっちこっちと手招きされて近寄ると、クロエはそのままぎゅうと抱きしめられてしまった。
「来た来た、クロエー!」
「やっと会いにきてくれたんだね」
「ちょうど愛らしいあなたの話をしていたところでした。なにか飲みますか?」
「み、みんな、酔ってるでしょ!?」
頭を撫でられたり手を握られたり頬をつつかれたりの猫可愛がりをされながら、このままじゃ雰囲気にのまれちゃう、そう思ったクロエは思い切って切り出した。
「あの! 俺……、ラスティカに用事があるんだけど、いいかな?」
「おや……妬けてしまいますね」
「ラスティカ、ずるーい!」
「クロエのお願いならばすぐにでも。ご指名ありがとうございます」
ラスティカは立ち上がってクロエをくるりとひとまわし、手の甲にキス、軽やかなウインクで仕上げ。やや芝居じみた、けれど板についてしまっている仕草にクロエは心臓を持っていかれそうになって胸をおさえた。
「減点! お姫様抱っこがない!」
「これはこれは、ごちそうさまです」
「お先に失礼、良い夜を」
笑顔で手を振るシャイロックとムルにからかわれながらラスティカに手を引かれバーの出口までエスコートされて、クロエはすでに茹であがりそうになっている。
「やりたかったことはできた?」
「う、うん」
「良かった」
やりたいことがあるから少しひとりにして欲しい。クロエはそうお願いしてラスティカにバーで待ってもらっていた。それよりもクロエが今気になっているのは――なんでまだ手を繋ぎっぱなしなのか? この一点に尽きる。スムーズにあの場から立ち去るためのパフォーマンスならもうその必要はないはずだった。ここは魔法舎の廊下で、誰に見られるかもわからなくて。それなのにむしろさっきよりも指を絡めて繋がれた手がなかなか振りほどけなくて、クロエの心の休まるすきがない。
「そ、そういえば、ボンボン・ショコラの食べ比べ大会をしたんでしょ? ルチルが言ってた。ラスティカも参加したの?」
「うん、優勝はできなかったけれど。ルチルはさすがだね。お酒の神様は彼に恋をしているに違いない」
「じゃあラスティカ、結構酔っぱらっちゃった?」
「ああ、香るかな? すまない」
ラスティカは呪文で自らが纏っていたバーの香りを消した。バーで目が合ったときからなんとなく感じていた隔たりが薄れて、いつものラスティカに戻ったようでクロエは少しほっとしたけれど、それでも手は強く繋がれたままだった。
「僕の部屋でいい?」
ラスティカの問いかけに、はらはらしながら頷く。
◇
――なんで? クロエは混乱していた。ラスティカの部屋に着いたと思うやいなや、あまりに自然なその流れに流されて、ソファに腰掛けたラスティカの膝の上に乗せられている。
「ええっと……ラスティカ?」
「嫌?」
「ヤ……じゃないけど。酔ってるよね?」
「だめ?」
「ダメ……じゃないけど」
埒があかない。半分はラスティカに甘い自分のせいだけれど。どちらにしてももう引き下がることもできないので、クロエは自分の本来の目的を果たすために小箱を取り出した。
「俺、チョコレート、作ってみたんだ」
「それはすごいね!」
「ラスティカにあげる」
「とても嬉しいな。ありがとう、クロエ」
「ラスティカに『だけ』、あげる」
クロエが言い直すと、ラスティカは目を細めて微笑んでもう一度、ありがとうと囁いた。赤いリボンを解くと丸いチョコレートが三つ、可愛らしい飾りつけをされて誇らしげに並んでいる。
「素晴らしい! さすがクロエは器用だからとても上手だね。今まで見たどのチョコレートたちよりもおしゃれで幸せそうだ」
「もう、褒めすぎっ。でも頑張ったんだ。ネロに教わったんだけど、魔法使わないでやったよ。テンパリングっていう温度調節が大事で、絶対ツヤツヤにしたかったから……あ、ごめん、俺ったら」
話しすぎたのを気にしたクロエが黙ってしまったのを、ラスティカは頭を撫でながらにこにこと見守っている。クロエはまた恥ずかしくなって、照れ隠しにチョコレートをひとつ摘み、ラスティカの口元へ運んだ。素直に口を開けたのが可愛く思えて、はらはらしていたばかりのクロエの心がきゅんとときめく。
「ど、どう……? あんたの口に合うかな?」
返事はなかった。代わりにキスが返ってきた。いつもより熱く感じるラスティカに溶かされたチョコレートが余計に甘くとろけてもどかしく、ほのかなアルコールの風味が混ざってクロエの心をどうしようもなくしてしまう。一度してしまったら何度でも繰り返されてしまう、キスの合間にもお互い何も言わなかったが、絡む視線にラスティカの色気を拾ったクロエは、腰にびりびりとした痺れを自覚してつい呼吸が荒くなる。
「…………おいしいね、」
それってちゃんとチョコレートの話だよね? とはもちろん聞けない。ジャケットの下、サスペンダーがぱちんと外される音がしたから、相変わらずこういうことに関してだけ器用で素早いのは勘弁して欲しいと思いながらも、そんなラスティカを愛しく思うくらいにはなってしまっている、クロエはラスティカに抱きついた。
「僕はきみが思っているよりずっときみのことが好きだから、今日クロエにひとりでやりたいことがあると言われてからも何をしているかずっと気になっていたし……、ああ。クロエ、僕の手袋を外してくれるかい?」
シャツを引き出して素肌にふれようとしたラスティカが、クロエの口元に手を差し出す。口で外して、と言いたいのだ。自分でなくクロエにさせるのは、この行為はきみも望んでいること? の確認作業のようなもので、クロエをさらに甘い壺の底へ落としてしまう、ひとりだけずるくならないラスティカの最もずるい部分だった。
「ん……、う」
クロエが手袋の中指を軽く咥えてそのまま引っ張るとするりと抜けて、クロエにふれるためだけにラスティカの手が露わになる。腰から背中をゆっくりと撫で上げられて、待ちわびたクロエが小さく喘ぐ。
「そうしたら可愛い恋人が僕を迎えに来てくれて、僕のためだけに贈り物をくれたんだ。とびきり素敵で、美しくて、美味しくて、幸せな……」
「あっ、もう、ラスティカぁ、」
「だからクロエが可愛すぎて待ちきれなくて、もうキスもしてしまった。ごめんね?」
「あんた、酔って……」
「そう。僕は今酔っているから、仕方がないよね」
「最初から酔ってないね!?」
「うん?」
ラスティカが首を傾げて笑う、それは絶対嘘をつくときにやるやつ――、睨んでみるけれど、すでにクロエの瞳は潤んでいるし頬も真っ赤に染まっているので、逆効果でしかなかった。
「確かに酔いは……もう覚めてしまったんだ。クロエがあんまり可愛いことをしてくれるから。けれど大丈夫。今はきみに酔ってしまったようだから」
いったい何が大丈夫なんだ。そう思いながらクロエはジャケットを脱いだ。なぜならラスティカの膝の上から逃げることはもうできないとわかっているから。
「ねえクロエ、もっと食べてもいい?」
それってちゃんとチョコレートの話だよね? とは、もちろん聞けない。