トワイライトと金の犬 着古したスウェットにダウンをはおったラスティカに、早く早くと催促されて実家で飼っていた犬のことを思い出した。
いつも散歩に行くと言ってもああそんな時間ね、とサバサバしているくせに土砂降りの日や雪の日、嵐の日なんかになると同じ犬かと疑うくらいに興奮して自らリードを持ってきた。変わっている。
それでやっぱりラスティカも変わっていた。寒さがピークの二月も半ば、一昨日降った雪がまだ道に残ってカチカチで、しかも今は夜中の二時だ。よりによってどうしてこんな寒い時にコンビニ行きたいの? なにか必要なわけでもないのに。けれど、着いていかないと言ったらきっと思いっきりがっかりした顔をするだろうし、それでも頑固だからひとりで出掛けたとしても、方向音痴だからあっという間にどこかに行ってしまうかもしれない。それは困る。俺も甘い。
文句を言いながらも、いざ外に出てみるとぴんと張った冷たい空気はなかなか気持ちが良かった。深呼吸をしながら歩いている間ラスティカとは何も話さなかったけれど、たまに合った視線は優しくて、別にそれだけでいいなと思う。
暗闇の中ぼやっと現れるコンビニはなんだか異世界感があって嫌いじゃなかった。いきなり目に痛い蛍光灯や、早口でまくしたてる店内放送、油や無機質なにおい。はじめてここに来たときと同じように、ラスティカは目を輝かせておにぎりの行列を見学している。
ラスティカとは、一週間ほど前に出会った。出会ったというか、拾ったという方が正しいかもしれない。バイトから帰ったらアパートの入り口に人が倒れていて、大丈夫ですか、と顔を覗きこんだその瞬間が運の尽き。ときめきも程々に、一歩うしろにすっ飛んでその人の全身の雰囲気を確認して、やっと見つけた――そう思った。俺はそのとき、モデルを探していた。衣装のモデルだ。そこからは早かった。
どうやら寝ていただけだった(なんで?)その人は、たしかに狭いワンルームなんだけど、俺の部屋に入るなり「きみは玄関に住んでいるの?」などと言い出し、あまりに失礼なそのコメントに思わず反射でハァ?となったが、どうやら悪気はないらしかった。着ていた服も靴もビスポークだったし、その顔立ちや佇まいはたしかに高貴なものだった。世間知らずのお金持ちって本当にいるんだな。コーラを出したら珍しそうにしげしげと眺めてから「はじめて飲んだ」とこの上なくおいしそうに飲み干した。
俺は人生で一番と言っていいほど興奮していて、挨拶もそこそこにモデルの件を打診して即オッケーをもらい、天にも昇る気持ちだった。友人たちに試着してもらったときにはどうもしっくりこなかった作りかけの衣装をその人に当ててみるだけで、全然違う作品に見えた。似合いすぎているのである。「どこかの王子様でもつかまえてこないとキツいんじゃね、俺らじゃ無理だわ」と匙を投げられた何重にもなったフリルが、途端に生き生きとして見えた。うっとりと感動のあまり涙と鼻血が出そうになりながら王子様の手をぎゅっと握りしめたら、これは完全に王子様、まさにそんな笑顔で王子様は言った。
――ところで僕、記憶がないみたい。
そこからの大騒ぎ(俺だけ)、名前は? 住所は? 警察に――。そう言っても首を左右に振るばかりで、警察には行きたくないと言う。いわく「なにかひどいことを言われた気がする」らしい。
手がかりはコートの裏地に刺繍されていた名前だけ。そんなドラマみたいな話だったけれど、ラスティカは明るく爛漫だった。悲壮感はないが行き場もない、そんなラスティカと俺の『玄関』での二人暮らしがはじまったのだった。根に持っているわけではない。
「クロエ、クロエ、あれは何? 水の中にふわふわとたくさん浮いている! とても楽しそう」
「おでん。知らない? おいしいよ。練り物とか大根とか、お出汁で煮たやつ。買う?」
「うん!」
お会計をしていると、ラスティカが「先日いただいたあんまんというものはとても美味しかったです。あなたの腕は素晴らしい」などと店員に話し掛けている。シェフか。この手の奇行にはもう慣れたので俺は何も言わない。
帰り道、凍った道で転びそうになったラスティカの手を取った。俺のスウェット、俺のダウン、適当に買った安物のスニーカー。ラスティカはどれも面白いくらいに似合ってなくて、けれど一番似合う服を作る自信が俺にはあるから、たぶんそれで良かった。
そしてはたと気づいた。やられたと思った。こんな深夜に連れ出されたのは、衣装づくりに煮詰まっていた俺に気分転換をさせるためだ。ラスティカの鼻歌が皆眠る住宅街に静かに落ちていく。思い返せば、犬もそうだった。土砂降りの日や雪の日、嵐の日だけじゃなく、俺が怒られたり失敗していたときに一層、尻尾を振って外に連れ出してくれたのだった。
「ラスティカって俺が飼ってた犬に似てる」
「わん!」
「も~っ」
ビニール袋の中のおでんが冷めるのも気にしない。転んじゃう、を言い訳にして手を繋いだままゆっくり歩いて帰りたい。今、なんかそんな気分。
ラスティカは家事ができない、壊滅的に。
一度俺が授業に出ている間に気を利かせたラスティカが濡れた洗濯物をどうにかしていた、壊滅的に。またあるときは夕飯を用意しようとキッチンをどうにかしていた、壊滅的に。どうにかしていたというより、本人もろともどうにかなっていたというほうが正しいかも。そんなラスティカがレストランのホールなんて、やっぱりできるわけがないのだ。
俺がバイトしているレストランに、ラスティカがはじめて着いてきた日。僕にもなにかお手伝いさせてください、と笑顔を向けるラスティカを、店長は二つ返事で受け入れた。
「クロエ、どう? 似合うかな?」
「正直言うとめちゃくちゃ似合う。でも……」
あんた本当にホールの仕事なんてできるの?という疑惑の眼差しを向けられても、ラスティカは任せて!と根拠不明の自信に満ち満ち、らんらんとした瞳ではりきっている。白いシャツに腰巻きの黒いロングエプロンを身につけたラスティカはそれはそれは格好良く、店長の狙い通り面食いの客の心をがっちり掴んだのだが、それと仕事ができるかどうかはベクトルがまるで違うのである。
オーダーを取りに行ったはずが何も覚えていないどころかミュージカルが始まっていたり(謎に歌うまッ)、テーブルに着席して客と談笑しやたらと盛り上がってしまったりするので即クビになり、あの人使いの荒い店長に「まかない出すからここに座って食事をしていて。それだけでいいから本当お願い」とまで言わしめた。その姿が「家のことはなにもしなくていいから俺の応援だけしてて。本当お願い」とラスティカに頼みこんだ自分ともろに被り、誰も彼もこうなってしまうのかと妙に納得したけど、ラスティカの人生本当にそれでいいのかな? 結局、ラスティカはなんかとにかく美しい所作でニコニコと食事をするだけの輝かしいサクラの役目を手に入れてしまったのだった。
こう言うとただのヤバイ人物かと思うが、ラスティカはとても魅力的な人間だった。記憶を失ったこととは関係なく世間知らずだったが、愛嬌があり、分け隔てなくどんな相手にも親しげに接する姿は誰から見ても好ましく、品や育ち、性根の良さは周囲の人々を余すことなくとろかした。客はもちろん店長やホールの先輩、キッチンの古株まで皆ラスティカを好きになった。俺がひとりでバイトに行った日には「今日は王子一緒じゃないの?」と尋ねられる始末。天性の愛され属性恐るべしである。
そんなある日、なんだかんだで平和だった日々に一石が投じられる。
「依頼してたピアニストが来れない?」
レストランでは月に二度ほど、ピアノの生演奏が行われる。それを目当てに訪れた客で店内がすでに混雑し始めるなか、焦って通話を切った店長がスタッフたちを集めて小声で言う。
「誰か、ピアノ弾ける人ー?」
沈黙。静寂。
誰もが首を横に振り、諦めムードが漂い始めた。……ただ、ひとりを除いて。
「僕が弾いてみましょう」
ひとりゆったりと紅茶を飲んでいたラスティカの言葉に、目を見合わせたスタッフの心がひとつになる。いやいやいや。冗談じゃん、と。また絶対とんでもないことが起こるじゃん、と。
結論から言うと、店長は泣いてたし、とんでもないことは本当に起きた。
ラスティカは椅子にかけ、撫でるようにピアノにふれた。思えばそのときにもう、なんらかの直感があった。ああ、もう、きっと大丈夫だ、って。
クラシックなんて滅多に聴かない俺にも、その演奏はかなり洗練されたものだとわかった。これはラスティカ風表現だけどまさに「ピアノと踊っていた」と言っても大げさではない。ざわついていた店内が一瞬で静まりかえり、縛られたように視線が集まる。皆がラスティカの演奏にひきこまれてしまう。そしてラスティカは、あふれんばかりの拍手と歓声をすべて欲しいままにしてしまった。
演奏が終わって客に優雅に一礼したあと脇目もふらず俺の元にかけてきたラスティカを思わず抱きしめた。まるで感動の再会みたいに強く、強く。そうしたらラスティカは目を細めて笑った。見えない尻尾が、ぶんぶんと振られているような気がした。
「どう? すごい?」
「すごいよ……」
「ふふ、クロエ、嬉しい? もっとほめてくれる?」
「嬉しいし、びっくりしたし、かっこいいし、意味わかんないくらい上手だし……もう、もう……すごすぎっ!!!」
そうしているうち、うんわかるよ、ラスティカめちゃくちゃかっこよかったもんね、ラスティカはあっという間に何人かの客に囲まれた。たぶんそういう好意から連絡先を聞かれている。当の本人は眉を下げて困ったようにこっちに視線を投げてよこした。
「すみません、僕、連絡先がないんです。クロエの連絡先なら……」
「ラスティカ、それはたぶん意味が違うんじゃない……?」
「それもそうだね? ええと、クロエがだめって言ったらだめなんです」
「えぇ!? 俺のせいみたいじゃん!」
またお店に来てくださるのを楽しみにしていますね、と客にパーフェクトな回答をして店長をさらに泣かせ、ラスティカは再びピアノと向かい合った。身体の痛むところをさするような優しい手つきに、もしかしたらラスティカは記憶に繋がるなにかを見つけたのかもしれないと思った。見たことのない、表情をしてる。
ラスティカの好きなものや大切なものが早く思い出されればいいと心から願っているのに、変にどきどきする心臓は、決していい意味だけを予感させない。俺の知らないラスティカは、俺の知っているラスティカと同じように笑うだろうか?
「うん。いい感じ」
「もうすぐ完成かな? クロエはとても器用だね。繊細で、緻密で、それなのに大胆だし愛に溢れている。こんなに美しい衣装を作れるなんて、きっときみの心が美しく澄んでいるからに違いないね」
なんで言いながら照れないんだろう? 同じ台詞を言ってみろと言われたらたぶんできない、俺はね。口説かれているようで照れてしまうからやめてほしいのに、くすぐったくて嬉しくて、でも赤くなってるかもしれない顔は夕日のおかげでバレずに済むだろう。ラスティカが試着して身につけた衣装のフリルがくっきりと影を落としている。我ながらこれ以上ないほどの良い出来だ。
ラスティカの記憶が戻ったら。この衣装が完成したら。どちらも喜ばしいことだ。けれど、そうしたらもう一緒にいる必要はなくなる。最初からわかっていた、それなのにどうしてこんなにもやもやするのか、苦しいのか、もう少しだけわからないふりをしていたい。ふわふわ落ち着かない夢のような光に包まれて、重い指先でカメラアプリのシャッターを押す。画面越しに微笑むラスティカは今まで見たどんなラスティカよりも、きれいだった。
「撮れた、ありがとう。脱がすね」
「良かった。ねえクロエ、僕は役に立てている?」
「もちろん! 全然嫌な顔しないで何度も試着付き合ってくれて助かるし、なにより似合う。ラスティカは俺の理想なんだ。どんどんアイデアが湧いてくるし……もう、あんたじゃないと、俺はだめだからさ」
フリルシャツのボタンを外す、今日に限ってなぜかその指先がもつれた。影で濃く強調されたラスティカの鎖骨が、こちらをじっと覗いているように思われた。それはまばたきの一瞬だったかもしれないし、もしかしたらもっと長い時間だったかもしれない。ラスティカは、俺が目線だけ先に動かしてから顔をあげるのを静かに待っていた。待っていて、それから流れるようにキスをした。優しくて、寄り添うようなキスだった、全身が驚いたみたいにびりびりして飛び上がりそうになるのに、ぜんぜん、動けなくなって、だから言い訳が欲しくて、ラスティカの目を見た。いつもどおり笑ってるだけなのに、なんだか違うように、見える。
「きみがあんまり可愛いらしいから、つい」
つい、じゃないんだよな。
コンロで沸かしていたやかんのお湯がピーと鳴り、俺はボタンが一杯に詰まった小箱をひっくり返しながら弾かれるようにしてミニキッチンへ走った。ラスティカはタンスの下に転がり入ってしまったボタンをノールックで追いかけておでこをぶつけている。「行かないで、クロエのとても大切なものなのに、きみがいなくなったらクロエが悲しむ」とおでこを押さえながら涙ぐむ姿に、笑っちゃいけないのに噴き出しそうになった、なんか可愛くて。
それでも、そのあとラスティカと半分こして食べたカップ焼きそばにマヨネーズ入れるのを忘れてたことに最後まで気づかなかったくらいには、俺は冷静さを失っていた。それって結構な重罪だが、だって味なんてなんにもしなかったのだ。ラスティカは「お湯ってとてもすごいんだね」と言いながら焼きそばを食べている。そっち?今日のメニューはあんまり好きじゃないみたい。……ねえ、なんで、キスなんてしたの?
俺が寝るベッドの横に、ラスティカはふとんを敷いて寝る。いつか使うかもしれないじゃんと友人(絶対自分が泊まりに来る気じゃん)に押しつけられたシロモノだ。はじめてふとんで横になったとき、ラスティカは「床で眠るなんて信じられない!ピクニックをしているみたいで素敵だね」と何かがツボに入ったらしくころころ転がりながらずっと笑っていた。狭いワンルームの床にふとんなんてそりゃリッチな人には慣れないだろうに、そうやって回っているうちにラスティカは本当に寝てしまったので、こわいほどに寝付きが良い。
それなのに今日のラスティカは、かけぶとんの中からこちらの様子を伺うようにじっと見つめてくる。
「寝ないの?」
「うん」
「寝られない?」
「うん」
大事なものを見つけたときみたいにこの上なく幸せそうに、ラスティカは頷く。ラスティカの周りにはいつもキラキラしたなにかが浮いているのが見える。それがいつもより多めに浮いている、そんな感じだ。なにか言いたげなのに何も言わないから、いつまでもキラキラの視線を向けられてる俺の方が痺れを切らす。「こっちに入る?」と聞いてみると、ラスティカは待ってました、と言わんばかりにぴょこと起きあがって、俺のベッドへまっすぐやってくる。ちゃんと成人男性のラスティカの体重に、シングルのベッドが驚いてぎいと音をたてた。一緒に横になると単純に狭い。俺が乾かしたばかりの亜麻色の髪から、同じシャンプーの香りがする。
「可愛いクロエは、最近元気がないね。衣装づくりもあまりしていないし」
「うん……」
小さな間接照明。どきどきするのに落ち着くような不思議な空気だった。ラスティカの体温が心地よくて、あったかい毛布があって、いいにおいがして……、とん、とん、と一定のリズムで背中を撫でる大きな手も、なにもかもが優しいのに、優しくされすぎて、なんか、泣きそうになった。ラスティカのことを考えると寂しくなる。それなのにラスティカのことばかり考えてしまうから、もっともっと寂しくなった。こんなに近くに、いるのに。
「話、していい?」
「もちろん。きみの話ならいくらでも聞きたいな」
「……昔、犬を飼ってたんだ。大きくて淡い小麦色の、きれいな犬。変わった子でね、言うこと全然聞かなくて、そっち行っちゃダメって言ったほうに絶対迷わず行くし、学校についてきちゃってどうしても離れなくて、一緒に授業受けたこともあった。でもそういうときって、俺って失敗してばっかりでだめだなあ、もっと頑張らなきゃなあって思ってるときだったりして……、」
てのひらを差し出すと、自然にラスティカの手が重ねられる。握って、目を閉じた。かすかに歌が聴こえて、星のちらちらする小さな湖に漕ぎ出したはずが、色とりどりの風船が漂う終わりかけの夕焼け空へ浮かんでいる、あ、これ、夢だ。隣に俺にお手をする犬がいて、自慢の毛並みが照らされて金色に光ってて、そう、でもいなくなっちゃったんだよね。犬はもういない。ある日ふっといなくなって、ずっと、ずっと待ってたけど帰ってこなかったんだ。
「おやすみ、大好きなクロエ」
あんたは、いなくならないでね。
肌寒くて目を覚ますと、明け方のワンルームがぼんやりした光の中、なんだかがらんとしている。ほうっておいたらいくらでも寝ているラスティカの姿がない。
ベランダに出ると、空がゆっくり白みはじめていた。ここには、ラスティカが育てていたプランターがいくつか置いてある。なにもかも壊滅させてしまうラスティカだったが、植物とはなんとか共存できた。朝には歌いながら水をやり、「きみの葉って、クロエの好きな雑誌に載っていたドレスのようでとてもきれいだね」だなんて聞いていて恥ずかしくなるくらいベタ褒めをする。天気の良いときには隣で横になって一緒に陽にあたったりしていた。さすがにそれはやめてと髪についた土をはらったら、俺まで照れそうなくらい栄養たっぷりの笑顔をするのだ。
ラスティカを探した。いつものコンビニも、レストランも、スーパーも、花屋さんも、どこを探してもラスティカは見つからなかった。花屋のおばちゃんが「らっちゃん、いなくなっちゃったの」と心配して、そっと渡してくれた一輪の花を受け取ったときはじめて俺は涙が出た。おや、とか言いながら、髪をはねさせながら、この街のどこかからふらっと出てきそうな気がしていたのだ。
ひとりでいるととても静かだった。ほんの数週間のあいだの話なのに、毎日どたばたして、驚いたり呆れたり笑ったりそれはもう忙しくしていたから、ラスティカと一緒に住む前の自分のことも思い出せないくらいになっていた。クローゼットにはラスティカが元々着ていたコートがかかったままだし、ついきのう、おでこをぶつけながら拾ってくれた飾りボタンもテーブルの上に置きっぱなしだ。あんただけ、いない。
なにかの弾みにラスティカの記憶は戻ったのかもしれない。それで、大切なだれかのところへ帰ったのかもしれない。かもしれない、をたくさん繰り返して、でも、それならそれで良かったじゃないか、と思う。すべて元通り。俺と一緒にいた時間が、ちょっといつもと違っていただけ。
そうして自分を納得させて、息をついた、その瞬間に。玄関の扉が勢いよく、ばかあと開く。
「クロエ! ただいま!」
「俺の感傷返して?」
首元がよれたスウェットのままで、急いで来たのか息を切らせつつ王子様みたいに笑う。それはどこからどう見たってラスティカ。なに、ちょっと近所に出掛けてきたみたいな感じで普通にいるんだよ。浸っちゃった自分が恥ずかしくて猫パンチを何度かお見舞いする。それを律儀に全部受けて、ラスティカはやっぱり笑っていた。
ラスティカによると、
①寝返りしたらベッドから落ちた。
②頭を打ちその衝撃で記憶が戻った。
③俺に伝えようとしたがよく寝ていたし寝顔が可愛くて起こせなかった。
④大事な用事を思い出したので一度そちらへ向かうことにした。
⑤寝顔が可愛かったのでキスをした。
⑥置き手紙をして家を出た。
――らしい。
まず③と⑤いる? いらないよね? ていうか⑥嘘すぎない? とラスティカに詰め寄ると裁縫箱を指さすので開けてみると、『クロエ 愛している』ときれいな字で書かれたメモ帳がひらりと出てきた。
「え……っ!? えっ?」
「ほらね」
「あんたね……置き手紙の意味わかってる!? あ、愛してr……じゃ何もわかんないだろ!? ていうかなんでここから出てくるの!?」
「きみは毎日必ず裁縫箱を使うからすぐにわかるかと思って」
「起きて、あんたがいなくて、それどころじゃなかったんだからあ!」
急にぼろぼろ出てきて止まらない涙をひとつひとつ指でぬぐわれる。その仕草に驚いて、涙は止まるどころかもっと出てきた。そのうち間に合わなくなって、ラスティカはそれをキスでぬぐった。ラスティカがいなくなることがこんなにつらいだなんて思いもしなかった。大事で、大切で、大好きな、たったひとつの存在。俺の心のそういう場所に、ラスティカはもうすっぽりとおさまってしまっているのだ。
「ごめんね、クロエ。泣かないで」
「思い出したの? 全部?」
「うん」
「大事な用事あったの? 大丈夫だった?」
「うん」
「そのまますぐ帰ってきてくれたの?」
「うん」
「俺のこと、あ、あいしてr……の?」
「ふふ。うん」
「じゃあ、もういなくならない?」
「うん。約束するよ」
ぐえ、となりそうなくらい抱きしめ合うことが、こんなに幸せだなんて。苦しくて笑いあう。見つめあってキスを……、しようとしたらコンロで沸かしていたやかんのお湯がピーと鳴った。あとで見ちゃったんだけど、ラスティカは「いつもきみにクロエをとられてしまう」とやかんに文句を言っていた。
ラスティカの記憶が戻ったら大切な人のところへ戻るんじゃないかとか、ちょっと性格違ってたりしてとか考えていた。けれど、俺のところへ戻ってきてくれたしラスティカは何も変わらなかった。それがどんなに嬉しかったか。どんなに救われたか。気乗りしないらしいラスティカ(いやあんた頭打ってるからね)を無理やり引きずって行った病院の待合室で、誰にも見つからないようにまたひとりでこっそり泣いた。
ラスティカが作曲家だったと聞いて、歌とピアノの尋常でない上手さが腑に落ちた。プロじゃん。というか俺の知ってる(誰でも知ってる)アーティストの曲も作るくらいの普通にすごい人だった。よくリピートしてるプレイリストの中にいくつかラスティカの作った曲があった。ついミーハーな気持ちになって、「先生、サインください」なんて言ったら「いいよ」って頬にキスされた。「サインだってば」ってもう一回言ったらもう一回キスされた。調子狂う。なんかくやしくて「誰にでもそうやってサインするんだ」って拗ねたら、「クロエだけ特別」って、やっぱりキスをされた。敵わない。
「でも、いきなりラスティカが消えて仕事の人に探されてなかったの?」
「もともとふらっと旅に出たくなったりするから、マネージャーもわかってくれているよ。今回の仕事も間に合ったし、お小言は少しもらってしまったけれど」
思い出した大事な用事というのも、新曲の締め切りだったらしい。そんな中、数週間消えてもお小言で済むってわかってくれているというか、諦めているというか。いなくなったと思ったら、いきなりよれよれのスウェットで帰ってきて、すごい勢いで曲を作ってまたすぐにいなくなるラスティカを想像してマネージャーさんに同情した。
そして噂をすれば、そのマネージャーさんが高そうな菓子折りを持ってやってきた。パリッと糊の利いたシャツがそのまま性格を表しているようなその人は、先生が大変ご迷惑をおかけしました、とこっちが申し訳なくなるくらいパリッと頭を下げた。菓子折りだけでなくなんか厚みのある封筒(大人が問題を解決するときに使うアレと思われる)を渡そうとしてきたのでそれは本当に断った。
その後、絶対連れ帰りたいマネージャーさんVS絶対帰りたくないラスティカの攻防戦が繰り広げられている。
「先生、帰りますよ!」
「ああっ、僕からクロエを奪わないで……」
「クロエさんにこれ以上ご迷惑かけないでください!」
「あのっ! 迷惑じゃないので、俺は大丈夫です……。あっ、仕事に支障がなければ、なんですけど。お、俺はラスティカにいて欲しくて、むしろもうどこかに行ってほしくなくて、だからその、その……。なんかす、すみません……」
「あ、もしかして、そういう……?」
察しの良いマネージャーさんはピンときたようで、湯気が出そうになりながら俺がこくこくと頷くと、また深々と謝られてしまった。そして、先生をよろしくお願いしますと言い残して嵐のように去って行った。恥ずかしすぎてへなへな床に座りこんだ俺のまわりを、ラスティカは心底嬉しそうにくるくる回っている。
「もう戻ってこないかと思った」
「どうして? クロエが大好きだし、クロエを離したくないよ。それに僕は、きみの理想のモデルだからね」
『理想のモデル』を強調して少し得意げに笑いながら胸を張る。ラスティカに1を出すと100くらいで返ってくるから、それには気をつけなければいけない。雨みたいなキスに溺れそうになりながら、どう考えても俺をからかって遊んでいる指先が耳をかすめていくのをやっとの思いでやり過ごす。
「俺、ラスティカに隠してたことがある」
「なんだろう?」
「衣装……、実はもう結構前に完成してた……」
「そうなのかい?」
「うん。衣装が出来上がったら、一緒にいる理由がなくなっちゃうと思って言えなかった。ごめんなさい」
驚いたように俺を見たラスティカに、怒られるよね、怒られるだろうなあ……、身構えていた身体はすぐにふわりと抱きしめられて、あれ? 頬を染めて甘く甘く微笑むラスティカは珍しく寡黙になってしまって、それからしばらく俺を抱きしめたまま離してくれなかった。さっきされていたのを真似してラスティカの耳にそっとふれてみたら、どきどきするくらいに熱かった。
ラスティカと一緒の毎日は、めまぐるしくて楽しい。
サクラからピアニストへ昇格?したラスティカは、たまにレストランで演奏をするようになった。作曲家としての仕事があるのになんで?と尋ねたら「だってきみにかっこいいところをたくさん見せたいからね」「僕をたくさんほめて」とウインクが飛んでくる。やめてやめて皆見てるじゃん。慌ててるのは俺だけで、皆はもうすっかり慣れてた。店長は笑ってた。
『フリル事件』と友人たちにあだ名(愛はある)をつけられていた俺の衣装は、なんと学内のコンテストで賞をもらった。嬉しさのあまり、コンテスト会場から衣装を身に着けたままのラスティカと手を繋いで走り出した。息ができなくなるくらい笑って、お互いを振り回しそうになりながら踊った。
その現場はあとから追ってきた友人たちにおさえられ、コンテストの打ち上げと称した尋問が行われることになった。はずだったのだけれど。「おこのみやきって何だろう? 少し怒っているのかな?」と通常運転のラスティカに友人たちが「ラスティカさん、知らねーの!? スゲーッ! これ食べてみてマジでうまいから」と盛り上がってお好み焼き屋で普通に楽しく食事して終わった。
ラスティカはもうおにぎりの行列に慣れたし、パピコの食べ方だってわかるようになった。募金箱に所持金全部をねじ込んだりもしなくなった。それでもお会計をしていると、ラスティカが「先日いただいたはろはろというものはとても美味しかったです。あなたの腕は素晴らしい」などと店員に話し掛けている。シェフか、といつもどおり心の中でツッコミを入れようとしていたのに「ねえクロエ?」とラスティカに振られてしまったので、「うん、おいしかったです」と俺まで巻き込まれるはめになった。
コンビニを出て帰り道、手を繋ぐ。じりじりと焼けつくような暑さだ。でも手を繋ぐ。俺は住んでいたワンルームから引っ越して、同じ街の、もう少し広い部屋でラスティカと暮らしている。ワンルームにグランドピアノを無理やり運び入れようとして俺に怒られてしゅんと耳を垂らしたラスティカと、ラスティカが住んでいたワンフロアまるごとのタワマンパリピセレブルーム(語弊がある。なんて表現したらいいかわからなかった)に気後れしてしまった俺の、ちょうどいい新しい部屋だ。
「……あれ? ラスティカ、やかん知らない?」
「う、う、ん? 知らないなあ……?」
「おかしいな、さっきまでここにあったのに……あっ、もう……だめだよ」
すぐじゃれついてくるラスティカをいなしながら、それに失敗してエプロンの紐を解かれてしまう。言葉では何も言わないまま「本当にだめ?」と視線で問いかけてくるラスティカはこういうとき、いつもと少し違う。いつもはぽやぽや、ほわわんとしているのに別人のようにずるい大人になってしまって、それどこにしまってたのっていう色気に俺はめっぽう弱い。
記憶をなくす前の、俺の知らないラスティカのことが少しこわかった。けれど知らないラスティカを知るのは楽しいかもと今は思える。ずっと一緒だって、もうわかっているから。
「可愛い可愛い僕のクロエ。僕はきみのことをたくさん待ったから、ほめてくれる?」
「待ってラスティカ……っ、もう、待ってってばあ」
「……わん?」
あっこれ、待つ気まったくないな。
小さな出窓から差し込む光に照らされたラスティカの髪は、きらきら、金色に輝いている。