風がぶわっと、桜の花びらを舞いあげながら吹き抜ける。なんともなしに振り返ったその先に、心臓がどきりと跳ねた。きれいなひと。こんなひとに服を仕立てるならきっとフリルがたっぷりの――そこまで考えたところで、駆け寄ってくるその姿がスローモーションのように見えたかと思うと、思いきり抱きしめられるまで俺は瞬きひとつもできなかった。
「クロエ、クロエ」
隣に座った友達に二の腕をつつかれて、はっとした。クラスはしんと静まりかえって、皆が俺に注目してる。あてられてるよ。友達が小声で教えてくれたけれど、どうしようもなくて、情けなく立ち上がった。
「聞いてませんでした……」
「大丈夫? どこか痛い? 顔色がよくないね」
首をかしげながら顔を覗きこんでくる先生のその仕草に、なんだか違和感があった。もやもやとしたなにかが、頭の中をぐるぐると渦巻いている。最近もう、ずっと変なんだ。たくさんの桜が散るなか、このひとに会った、あのときから。
「ラスティカ先生、さよ~なら」
「うん、さようなら。気をつけて」
キャーッ。女子が騒ぎながら廊下を走って行く。しばらく避けていたけれど、なにかに引き寄せられるように先生の元にやってきてしまった。先生はそれをわかっていたみたいに、俺は何も言っていないのに、クロエ、おいで。そう声をかけて部屋に入っていった。音楽準備室。このひとは俺が通う高校の、音楽教師だった。
「具合はいいの? 授業中、元気がなかったみたいだったけれど」
「あの……あんたは」
「ああ、そう呼んでくれるのかい? とても嬉しいな」
懐かしくて。先生はそう続けて、紅茶のポットにお湯を注ぐ。ああ、また――違和感。ラスティカ先生は。そう言い直すと、少しだけ残念そうな笑みを浮かべた。
「俺のこと知ってるんですか」
「もちろん知ってるよ。まだ裁縫はしているの」
「なんで……」
俺の家はテーラーで、子どもの頃から裁縫が好きだし、今も鞄にソーイングセットと作りかけのシャツを忍ばせている。刺繍がとても上手だったね。静かでやさしい声。気の抜けるみたいな午後の日差しが、先生の長めの前髪と下がり気味の眉を照らしてきらきら光っている。紅茶と、日向と……何の香り?
「きみにずっと会いたかったんだ」
「え……?」
「クロエと僕は、前世で長い時間一緒にいたんだ」
「いきなり、そんなこと言われても……」
ちょっと変なひとなのかな? どう反応を返したらいいのかがわからない。先生は俺にそっと近寄って、少しだけきみにふれてもいいかな、と尋ねた。黙っていると、先生は俺の右胸のあたりを指でなぞった。あまりに的確にその場所にふれられて、のどの奥がきゅっとなった。
「もしかしてここに、生まれつき薄く痣があるんじゃない?」
こんな感じの。まるで先生には見えているみたいに示されるそのかたち。どきどき、胸がうるさくて、それはきれいなこのひとにふれられているからだけじゃない。ぞわぞわ背中をかけあがる、焦りや戸惑い、恐怖と、期待。
「僕のここにも、似たものがあるよ。見てみる?」
先生が座ると、椅子がキィ、と音をたてる。校庭を走る運動部の掛け声が遠くにきこえた。吸いこまれるみたいに先生が指さしたシャツのえりに手をのばす。満足そうに目をとじた先生のまつげを俺はしばらく見ていた。知っていると思った。そして――ふれたいと思った。
「じゃあ先生と俺って、何でしたか。もしかして……恋人とか?」
「クロエはどうだったと思う?」
少しの好奇心から軽い気持ちで尋ねたけれど、先生の白い喉元から、目が離せないまま何も言えなくなった。前世なんて信じてない。ドラマとか漫画とかと、現実は違う。それなのに、どうしてなのか自分でもわからないのに、先生が気になって、つい最近まで全然知らないひとだったのに、今変なことを言って先生を傷つけてしまったらどうしようと思った。だってどうして、そんな、泣きそうな顔してるんだよ。
「恋人じゃなかったよ。クロエの気持ちはきけないままで……きいてはいけなかったから」
先生のシャツのボタンを外していく。それだけのことなのに、なんか……いやらしいことをしてるような気分になる。ひとつ外しただけでうっすらと痣が見えた。不思議なんだ。だって、やっぱり、知っている。
「よくそうやって、クロエにしてもらっていたな」
「着替えくらい、自分でできないと……」
「そう! そう言いながら、クロエは毎日僕の世話を焼いてくれていたよ」
「あの」
遮るように言うと、先生はきょとんとした。もしかしたら前世の俺は、このひとの話を遮ったことなんてなかったのかもしれない。それでも俺は、先生にどうしても言いたいことがあった。
「前世の俺が、先生に何をしたのか知らないけど……俺は俺だから、今の俺を見てくれないと、もう、何言ってんだろ、よくわかんないけど……」
しどろもどろの話の途中から、先生は両手を祈るように握ってうん、うん、と瞳を輝かせた。
「やっぱりクロエだ!」
「あんた、俺の話聞いてた!?」
「ふふ。うん、すまない。クロエの言う通りだね。『きみ』のことが知りたいな。僕に教えてくれるかい? あ、ちなみに」
手招きされるがままに、先生に顔を寄せる。秘密の話をするみたいに小声で、俺の耳元で先生は言った。
――前世のクロエとは恋人じゃなかったけれど、たくさんキスをしたよ。それに数え切れないくらい、きみに抱かれた。
「抱っ…………」
きみはどうする? 面食らった俺を見て、先生は心底楽しそうに笑った。どうするもこうするも……ない。こんなひと、俺の手に負えるわけがない。嘘かもしれない。からかわれているだけかもしれない。それなのに、すっかり先生のペースにのまれて、俺だけがどぎまぎしてる。
クロエ、まっか。ふいに頬にふれられて飛びあがってしまった。
「俺っ、帰り、ますっ!」
鞄を掴んで走り出す。初めて桜のなかで出会ったときも、俺はこうして逃げだした。初対面でいきなり抱きしめられたり、前世だとか変なこと言ってきたり、先生のことはまったくわからない。それでも、大切ななにかを見つけたときみたいにいま、どきどきして、たまらない。
知りたいから、教えてほしい。先生はクロエを、俺を、どうしたいんですか。