店主は根無し草だ。
やがて訪れる大願の成就のため願いを集め、おばけずかんの試練を与える。願いを叶える人間の力と、ときに『おばけ』と呼ばれる妖怪たちの力。それがを集めるのが、店主の使命であった。
願いのためなら、日本全国津々浦々。古本屋を背負子に変え、可愛い相棒である図鑑坊と共にどこまでも。
「ここはいつ来ても変わんないな」
店主がここを訪れたのは二年ぶりだった。特段金を持たない店主の移動方法は基本的に徒歩しかないため、以前訪れた場所に行くのも一苦労だった。
山の中の、岩肌を削ってできた小さな社。今はもう訪れるモノも少ないのか、花が飾られることもない。その横に、地下へ通じる穴がある。人一人が屈んでようやく通れるくらいの大きさの穴で、奥からは湧き水と思われる透明な水が流れ出ている。
店主は背負子を背負ったまま、しばらく穴の中を見つめている。入るか、入らないか。それを迷っているようで、先程からうんうん渋い唸り声を絞り出している。
「おい」
「うひゃ!」
店主の背後から、突然低い声が聞こえてきた。周囲に気配を一切感じておらず油断していた店主は、驚きのあまり素っ頓狂な声を上げ慌てて振り返った。
「な、なんだ、お前か」
「人の家の前で何やってんだよお前は」
動悸が止まらない胸を押さえながら店主がため息をつけば、着流し姿の男は眉を顰めて首を傾ける。
男は左眉から目に掛けて切り傷のような傷が走っており、頭には木で出来たような角が生えている。
「いや、その。久々に来たから、顔くらい見てやろうと思って」
「へぇ、珍しい」
どこか言い淀むような店主の言葉ではあったが、角の生えた男――ミズキはどこか喜色を滲ませ口の端をあげ笑った。
「まぁ、湿気たとこだけど入れよ」
「あ、あぁ」
ミズキは小さな穴の前で、右手で何かを払うような動作をする。その瞬間、穴の周囲の空間がぐにゃりと歪んだ。すると、先程の穴より大きい洞窟のような空間が広がった。
「水気をつけろよ」
「ん」
草履を水に濡らしながら洞窟の奥に進んでいくミズキの後を、店主は追う。パシャパシャと水が跳ね、店主の袴の裾が僅かに濡れる。
店主は片方の目でミズキの背を見やる。
随分と細くなった。
着物も、以前に比べて簡素になった。昔は豪勢な飾りも付いていたが、今畑だの着流し一枚だ。
ミズキは水神の力を持つ妖怪だ。神は、人間の信仰心に依存している部分がある。
人々が神を恐れ、崇め、奉る。故に神は、その力を保つことが出来る。
先程見た、花が添えられることのなくなった朽ちかけた石の社を思い出す。
住み処であるこの洞窟も、随分土が乾き朽ちてきているように感じる。ひとつひとつ、目に映るものが、ミズキの神としての力が衰えているように感じる。
このまま行けば、やがてミズキは、人間に忘れられ神の力を失ってしまうだろう。
ならば、残るのは。
「今日は随分と静かだな」
ミズキの声が反響し店主の耳に届いた瞬間、店主ははっと意識を元に戻す。
ミズキが店主を肩越しにチラリと見て、そしてすぐ視線を逸らした。ミズキの顔が見えなくなった。
それだけだ。それだけなのに、どうしてか。店主の中にうっすらと、不安感と焦燥感が募る。
「疲れてんのか?」
ぶっきらぼうな言い方だが、その声色に若干の心配の色が滲んで聞こえるのは、店主の思い込みかもしれない。
あっという間に洞窟の奥に着いた。そこは水面に繧繝縁(うんげんべり)のような畳が浮いており、ミズキはどっかりとそこに座る。店主は、ミズキが力を使っているからか足を水に濡らすことなく水面を歩き、腰を下ろそうとする。
そうすると、ミズキはやや不機嫌そうに眉を顰め指で店主を招く。もう少し近くに来い、と言いたげなミズキに、店主はミズキの向かいに腰を下ろす。座布団はないが、不思議と腰が濡れることもない。水面と店主の身体の間に、薄い硝子が張っているようだった。
「今回は随分と長かったな」
「四国の方まで行ってた」
「随分遠くに行ったな」
「悪くなかったよ、山が多くて足がおかしくなるかと思ったけど」
「うどんは?」
「金があればな、うどん食べ歩きなんてのも悪くなかったかも。坊は食わせてもらったらしいけど」
ミズキは胡座をかき、肘を突きながらニヤニヤと笑い店主の話を聞く。
ミズキは、この土地から離れることが出来ない土着の神の力を持っている。故に、ミズキは店主の話を聞くことを何より楽しみにしている。
店主の話を聞くときのミズキは、何よりも楽しそうだった。己の神としての力が衰えていることに気づいていながら、それを店主には見せない。
店主はなるべく、この男の元へ行くようにしている。
ミズキという男が、消えてしまわないように。
ミズキという男が、忘れられないように。
自分だけでも、覚えて、共に。
「……どうした?」
俯いたまま急に押し黙った店主に、ミズキは目を丸くする。
言葉の続きが、出てこなかった。もっとミズキに話したいことがあった。土産話は山ほどある。
それなのに、ミズキがいなくなるかもしれない。その目前の現実に、店主は言葉を失ってしまっていた。
「またおセンチメンタルになったのか?長く生きると、厄介なもんだな」
「うるさい」
声が震えてしまっていた。泣くなんて思わなかった。泣く筈なんて無かった。涙など、あの時置いて、死んだはず。
「お前みたいなやつには、俺がいてやんねぇとな」
ミズキが水面に手をかざすと、水がぐるりと渦巻き、瞬きする間もなくあっという間に一本の瓶と二つの盃が生まれた。
「ここの清流で造った酒だ。天狗のには負けるが、悪くないぜ」
手酌で二つの盃に酒を注いだミズキは、一つを店主に差し出す。店主はじっとそれを見つめた後、ゆっくり手を伸ばし盃を受け取った。
「俺は死なねぇよ。お前がいる限り」
「キザったらしい奴だよな、本当」
「そんな俺が好きなんだろ?」
「うるさ」
ミズキが差し出した盃に、店主は己の手の中にある盃の端を合わせる。かちり、と鈍い音がした。その音は小さく、洞窟の中でも響かなかった。
清流の酒は、少し塩みが利いて生温かった。