名前なんて、なんだっていいよ 新宿・歌舞伎町。この地には都市伝説と化して、ある話がまかり歩く。
〝五条悟の名刺を手にした者は、この世の全てを手に入れる〟
「いや、五条悟って誰すか」
「さぁ? 俺も詳しくは知らん」
紫煙を夜に吐き出して、二人の男は談笑にふけっていた。年若い男はつい先日働き始めたばかりの新人で、一回り以上年の離れた男が面倒を見ていた。休憩がてら、こうして裏手に連れ出している。
「俺たちみたいなこの街の端くれクラブにゃ縁がねぇがな。居たとしたら向こう側の、一晩で億以上の金が動くような所だな」
「億ゥ!?」
ごくりと喉が動くのを見て、素直な奴だと口角が上がった。
「お前初日、見事な金髪にしてきたろ。可哀想なことに速攻黒染めさせられてたけど」
「先輩もそう思うっすよね!? 染めんの禁止なら先に言えっての」
「まぁなぁ。でもそれが、ここでのボーイの暗黙のルール。キャストより目立つなってな」
「はぁ……」
若い男は全く腑に落ちないという顔で、口だけの肯定をしてみせた。
「くく、まぁお前みたいにそこそこ顔の整ったホスト崩れのヤツなら、気持ちはわからんでもねぇけどな」
「はぁ!? 先輩ヒドッ、俺は結構真面目に目指してたんすけど!」
髪をぐしゃりと掻き混ぜて口を尖らせる男を懐かしむように見て、笑う。
「お前の金髪よりもっと白に近い、それはそれは綺麗な白銀の男だよ、五条悟は」
煙草を加え直して息を吐く。闇に浮かぶ煙が宙に留まって視界を遮る。
「あぁ……違うな。体格は良いが肌は雪みてぇに白くて恐ろしく顔の整った男で──何よりあの、眼だ。ブルーダイヤモンドを埋め込んだような、この世のものとは思えない美しさだ。だから五条悟の客は女だけじゃねぇって話だぜ。営業一切無しで太客が寄ってきて、トップまで一足飛び。だから五条悟の名刺は幻とも言われてるし、物珍しさに寄ってくる暇な金持ち共もいる」
「……先輩、そいつに会ったことあるんすか」
「……いや、風の噂で聞いただけさ」
咥えていた煙草を携帯灰皿へねじ込んで、踵を返した。扉の先の、まがい物の輝きで形作られた世界へ。
シャン、シャン、と手入れされた鋏の鳴る音が鼓膜を優しく揺さぶって、徐々に意識が浮上する。
「悟、終わったよ。さぁ目を開けて」
眠りから目覚めを告げる声。気遣われた音量と指先。どうしてこうも、この男の奏でる音は心地良いのか。
「んー……ありがとぉ……」
「ふふ。よく寝ていたね」
「あー、昨日……いや今日か。仕事のあと、店に行ったりしたからね」
くぁ、と欠伸をすると、鏡越しに笑われた。
「へぇ、大変だね、売れっ子ともなると。そんなに疲れてるなら、今日は無理しなくて良かったのに」
「そしたらまた先まで予約取れなくなっちゃうでしょ? 面倒見てる子を飲みに連れてっただけだから、大変じゃないよ。涼しい顔してジャブジャブ飲むんだよアイツ。飲めない僕に気遣う素振りもないし、朝まで財布にされたよ」
「随分と気心が知れてる相手なんだね。後輩?」
「後輩といえば後輩になるのかな? 同じクラブにはいるんだけど、アイツはボーイ。それ以前に子供の頃から知り合いでね。せっかく顔はいいんだからキャストやれって言ったんだけどまぁ、性格上ムリかな! 僕の横について、代わりに酒飲んでほしかったんだけど」
前髪の毛束をつまむようにセットされた髪。大きめの鏡を後ろに掲げて見せるから、仕上がりを確認して頷いた。
「お気に召したようで何より」
「何でもいいよ、どうせ僕似合っちゃうし〜」
「うーん、美容師に火をつけるねぇ毎度」
今日は毛先をふんわり巻いて分けたあと、ワックスで毛の流れを遊ばせた感じ。ちょっと無造作感がありつつ品もある。僕が髪型にこだわりがないのは事実だから、これは彼の好み──いや、僕の客が僕に望んでるスタイリングだろうな。この前髪の毛束一本だけくるんとしてんのってこだわり?
「オマエがやるなら、って意味だよ。売れっ子美容師さん」
「……君でもお世辞が言えるんだね」
「ちょっとどういう意味〜? 本業だっつの」
口を膨らませて文句を言うと、くすくすと彼が笑った。
「あっそーだ! 今度そいつも連れてきてあげる。僕と違って癖強ウニヘアーだからね、オマエの腕がなるんじゃない?」
「それはぜひお会いしたいね。やりがいがありそうだ」
生まれた時から、いや、生まれる前からの記憶。もう一度アイツに会いたい。会って話したい。今度はずっと一緒に──その気持ちだけで、文字通り一生をかけて探してきた。
そして、あの日オマエと別れたあの土地で、ついに見つけた。
雑踏の中へ消えるオマエの手を、今度こそ掴んだ。
『────ッ、すぐる!』
間違いない。俺が間違えるわけない。もう間違えない。色んなものが頭を巡って、何十年も考えてきた言葉が出てこない。クソ、なんで反転使えねぇんだよ。
『…………どちら様ですか?』
僕を見る目は、僕を覚えていなかった。
『……突然ごめんね。……知り合いに、似てて』
咄嗟に口から出たのは、下手なナンパみたいな言い訳で。ナンバーワンが聞いて呆れる。
『そうでしたか、お客様だったらどうしようかと。でも名前も違いますし、人違いですね』
『……っ』
初めて他人行儀なその笑顔を向けられたことに、僕の心臓は嫌な音を立てた。回れ口……
『……ぁ、のさ。迷惑かけちゃったからお詫びしたいんだけど、良かったら来て。奢るよ』
懐に何年も燻っている、新品同然の名刺を一枚取り出した。差し出したそれを茶色がかった目が追う。
『いやいや、そんな迷惑なんてかけられてないですし、こんな煌びやかな場所、私には不釣り合いですよ』
知らないホストから声をかけられたと警戒しているのだろうか。まぁそうだよな、僕でもさっさと逃げる。このまま上手いこと躱される、そんな予感がした。放したくない、この機会を。必死だった。
『それじゃ僕の気が済まない。じゃあさ、君の売上に貢献するよ。お客様って言ってたよね? 何か商売してるんでしょ? 客としてならいいよね』
得意の笑みを貼り付けて、少し強引に押した。『…………そこまで仰るなら。私にあなたのヘアセットをさせてください』
掴んだ手とは反対の手で、彼自身の意思で僕の名刺を手に取った。
名刺は今持っていないからと、店と彼の名前を教えてもらった。彼は美容師をしているらしい。ホストのヘアセットは初めてだと笑っていた。
『お待ちしていますね、五条さん』
名刺を財布の中に仕舞う時に見えた綺麗に切り揃えられた爪が、鮮明に瞼に残った。
僕はスマホを取り出して、もう一度彼の店のホームページ画面を開いた。スタッフ一覧にある彼は、傑と同じ顔で違う名前。
傑の名前が、今世では「夏油傑」じゃなかった。僕は傑が見つけやすいよう、同じ名前にしたのにな。
『…………』
あー、なんか腹立ってきた。なぁにが「人違いですね」だっつの。俺の魂がオマエ見間違えるわけねぇだろ。つーか僕はオマエもホストやってそうだとか思ってたんだけど? 胡散臭い教祖様なんてやるくらいだしさぁ!
これ以上力を入れたらスマートフォンがミシリと悲鳴を上げそうなので、怒りを無理やり飲み込んだ。
まぁでもこれまでの数年間、傑を探すためホストの情報網を利用していたが進展がなかったところでの、大収穫だ。また会えた。
さっさと次の約束を取り付けようと、予約のページを開こうとした。
『……ってはぁああ 二ヶ月先まで予約埋まってんじゃん』
それから予約を定期的に取っては、常連にまでなった。普通あの時間なら同業は寝てる時間だけど、僕がショートスリーパーで良かったよね。
彼の店は新宿から何駅か離れているからか僕のことを知っている人間もいないし、大騒ぎになることはない。まぁ最初行った時はちょっとザワついてたけどね。でもそれ以降は全然普通だったし、僕にとっても居心地は良かった。彼の働きぶりとか普段の様子とか、僕も周りの子に聞けるし。
見聞きしたりしてわかったのは、彼がこの店の指名率ナンバーワンだということと、物腰柔らかく勤勉でいて実力もあり、同僚の信頼も厚いこと。
本当は専属にしたいけど、美容師という職を楽しんでいるようだから、研鑽する機会を奪いたくないという気持ちもある。本来のアイツは人間が好きな筈なんだ。そういう姿を見ているのも悪くなかった。
「……ニヤついて気持ち悪いですよ」
「コラ、お前くらいだよ〜この僕に気持ち悪いなんてほざくのは。そんな子に育てた覚えはありませんよっ!」
ビシ! と頭上にある仏頂面のウニ頭を指差した。「育てられた覚えもないですから」と本当にウニみたいなツンツンとした態度で、可愛げをどこに落っことしてきちゃったのかな。確かに前世とは違って子育てと言うには遅い、もう大きくなった頃に出会った。長い付き合いだった恵と再会して僕は嬉しかったけど、この子も覚えていなかった。それでもまたこうして、見守ることにした。
「そーだ恵。今度僕と一緒に美容院行こうよ。今日僕を担当してる人にお前のこと話したら、ぜひだって。すっごく腕が良いから、僕みたいにカッコよくなれるよ♪」
セットしたての髪を披露するように、ソファから身を乗り出し恵を見上げた。すると「ああ、道理で……」と冷めた目で呟いた。
「別に見た目とかどうでもいいですけど、アンタの金なら行きます。ちょうど伸びて鬱陶しいと思ってたとこだったんで」
「お前ホント僕を財布だと思ってるよね。泣くよ?」
「これから開店なんで、シャキっとしてください」
恵は否定も肯定もせず、自分の仕事に戻っていった。そんなに顔に出ていたんだろうか。僕はいつでもGLGだけど、ナンバーワンである以上それらしくしろと再三言われる。まったくいつの時代も、いろんなもののっけてくれちゃって。
僕は伸びをしてから立ち上がると、ジャケットのシワを整えた。周りのスタッフたちが一斉に僕へと視線を集めた。僕はその中心に立ち、いつもの挨拶で今夜の帳を下ろすのだ。
「悟……っ」
ある女性客が、切羽詰まったように僕のスーツの裾を掴んだ。その目はうるうると揺れ、頬は紅潮し熱っぽい息を吐いて。
瞬間、フロア全体に雷が落ちたと錯覚するほどの緊張が走った。
「……最初に言ったよね僕、言うこと聞けない子とはもう会わないって」
「ッ──」
冷たく見下ろされた瞳に凍りついた女は、失言をしてしまった口をわなわなと震わせた。
「ぁ、っ……さと……」
「連れ出して」
手で合図を送るとすぐにボーイが女を取り囲み、一も二もなく姿を消した。
「うわ……久々に見たアレ……知らないのかな悟の噂」
「身の程知らずよね、馬鹿な真似するとああなるのに」
ヒソヒソと話し声があちこちから聞こえ始めた。乱れた場を仕切り直すための音楽の音量が大きくなる。
裏に一度引っ込んだ五条の横を、恵が通りがかりに声をかけた。
「……今日は一段と感情的ですね。いつもならもっと上手くやるでしょ」
「……うん、ごめん。皆に悪いことしたね」
横目で見ても真っ黒なサングラスからは表情が窺えず、それ以上は語らぬまま五条だけがバックヤードに残った。
何でもそつなくこなす五条の心を荒らしているのは、つい先日のできごとだった。
『……悟』
『ん、なぁに』
店でのスタイリングを終えていつものように出入口まで見送られる直前、振り返ってその顔を見る。いつもは扉前までなのに、今日はそこのマットを飛び越えていた。
『実は、海外へ留学したいと思っているんだ』
『……え?』
思わず零れた声に、青年は申し訳なさそうに眉を歪めた。
『驚かせてすまない。でも君はお得意さまである前に……、私の口から先に伝えたかった』
『…………』
『…………』
互いに沈黙して、その場からすぐに動けない。
『……すごいじゃん。びっくりしすぎて声が出なかったよ』
『悟……っ、』
『ごめん、もう行かなきゃ』
『…………』
半ば無理やり言葉を遮ってその場から立ち去った。たぶん、それが向こうにも伝わったと五条は悟った。
去り際に見た顔が、いつぞやの夏を思い出させて、また目を閉ざした自分がひどく嫌になった。
「はぁ……」
詳細を聞かないまま、もう数日経っている。日程はもう決まっているのか。どこに行くのか。……戻ってくるのか。気になることは山ほどあるくせに、足が赴かない。会いに行かなければ会えないというのに。
そうこうしているうちに、もう出発してしまったら──勝手に落ち込んで、勝手に焦っている。こんなに臆病だったか僕?
いや、あいつだからだ。また僕の前からいなくなる、そう思った瞬間に拒否反応が出てしまった。
いやだ。嫌だ。僕の前から居なくなんなよ。今度こそ傍にいるって決めたんだよ。
壁についた手に力を込め溜息を押し殺す。そうしていると、背後からこちらを窺う気配がした。戻らない僕を呼びに来たのだろう。当たり前だ、ナンバーワンのスケジュールは分刻みと言って等しい。
「……五条さん」
「……うん、今行く」
「あ、その……新規の方がいらしてて、男性の」
男が客としてくること自体はそう珍しいことでもない。いきなり来て会わせろと吠える人間もいないわけではない。それにしてはボーイの様子がおかしい。それら以外で懸念することなどあっただろうか。
「もしかしてトラブルあった? 僕もう今日はリピートの予約で埋まってるはずだけど」
「そうは言ったんですけど、その方、五条さんの名刺を持ってて『いつぞやの借りを返してもらいに来た』と……」
「ッ……!」
まだ言いきらないうちに駆け出していた。僕の名刺を渡した人間なんて、たった一人だから。
「あ、本当に来た。やぁ悟。邪魔をして悪いね」
「っ、……、……っ」
「少し話がしたいんだ。これに免じて、君の時間を少しくれないかな」
その手には、もうとっくにどこかへやってしまっていたんだと思っていた名刺があった。
「君が空くまで待っ──!」
堪らなかった。希った相手が目の前にいることも、僕の名刺を持ってくれていたことも。
「…………っ」
「……皆さん戸惑ってるよ、悟」
あの五条悟が自ら名刺を渡した相手がいることに衝撃を受けている人、力強く抱きついた相手が男だということにショックを受けている人、突然のことで何が何だかわかっていない人、仕事中に起きたこれをどう収拾すべきか悩んでいる人。いきなり来た者でさえ感じ取れる様々な思念が、今ここにいる二人に集結している。
「……伊地知」
傍に控えていたチーフマネージャーを呼ぶ。僕が働き始めた当初からいる奴だ。
「今日の予定、全部キャンセルして!」
「へっ!? ごっ、ごご五条さん!?」
この後の処理を任せられるのは、僕が一番信用できるあいつだけ。振り返らずに彼の手を取り店を駆け出した。
ネオンの街を抜け、捕まえたタクシーで適当なところまで走った。白スーツすら目立たない夜の闇に身を隠せるように。
「……悟。ドタキャンなんてして、物凄く怒られるんじゃないか」
「いいよ、もともと人を探すために始めた仕事だから、どうなっても。目的は果たしたし、いつ辞めようか考えてたところだった」
「…………」
「……軽蔑した? オマエと違って、仕事に誇りなんて持ち合わせてない人間で」
呪術師として生きた記憶がある。その状態で何をしようにも、自分には「これじゃない」という感覚がずっとあった。ひとつの生き方しか選べなかったし選んできた前回とは違って、呪いのない平和な世界なら、なににだってなれるはずなのに。悔しいが今になって、呪術師が天職だったのかもしれないとすら思える。そもそも傑を探すための人生だったから、それ以外を考えた選択をしてこなかった。
「……いいや」
彼は何かを言いたげな間を置いて、それを否定する。
「君がずっと探していたのは、出会った時に呼んでいた名前の人だろう?」
「……覚えてたんだ」
「ふふ、覚えているさ、こう見えて記憶力はいいほうでね。まぁそれでなくとも君との出会いは、印象的だったから」
笑いながら、綺麗に手入れされた指で手元の名刺をなぞっている。角折れもしていないそれを、案外大事にしてくれていたんだと見てとれた。
「あれ以来君はその話をしないし、もう会えたんだろうと思ってはいたけれど。……君はおしゃべりのくせに、肝心なことは何も言わない。……いや、何が他人にとって肝心なのかがわかっていない、とでも言えばいいのかな」
「……っ」
それはオマエもそうだろ、と喉まででかかった。
「ねぇ悟。……もし私が君の探し人だったなら、きっと同じことを思っただろうね。君の人生を生きてほしいって。誰かの延長じゃなく、誰にも縛られない、君だけの人生を」
「……は」
夜風がぬるりと頬を撫でて抜けていく。
「……っだから、言ったのかよ。僕の前から居なくなるって!」
──他でもない、オマエが!
気付けば胸元の服を鷲掴んでいた。ただまっすぐに僕を見つめる瞳が、目の前にあった。
「……悟、声が大きいよ」
「あ、……」
手を離してその場に立ち尽くす。ここは新宿と言っても静かな場所で、周りには住宅もある。近所迷惑だと諭すように告げられても、僕は到底納得できなかった。そんなことを今気にする余裕が、オマエにあるってことが。
「……君がその人のことをすごく大切にしているから、相手もそうなんだろうなって思ったんだよ」
襟元を正して、至極落ち着いた声で言い放った。いつでもどこでもこの声で僕を呼ぶから、楽しいことも面倒なことも、一緒にやってこれた。
夏が、木霊する。
「君は今、私に対して怒ってない。私を通した『私』だろう」
カラカラと木の葉が地を転がった。今度は冷えた風が通り抜けて、垂れた前髪を攫っていく。
「図星みたいだね」
「…………オマエ、もしかして……」
やっと絞り出せたのはそれくらいで、ドッ、ドッ、と心臓に濁流が押し寄せる。
彼は目配せするように一度だけ首を振り、それを否定した。
「私は『五条悟』という人間を知らなかった。……知らなかったはずなのに、君といると安心するし、懐かしさも感じる。でもこれが『私自身』の感情ではないかもしれないという違和感と、一体『誰』の感情なのかという疑問を、無視できなかった」
「…………」
「すまない、君を試す形になっちゃったね。……けど、そうか。本当に『私』なんだな」
「っ……」
僕の奥の奥、記憶すら見透かすように覗かれた。
「私じゃない誰かをずっと追いかけている君……友人として接してくれるけど、私と君には隔たりがあるような気がしていた。本当にそれでいいのか、「私自身」を見ていない悟とこのままでいいのか、私は友人というポジションに何の努力もしないでいていいのか、という迷いもあった。いつか、この差が大きな縺れになる日が来そうだと……」
繊細な部分を他人に見せようとしない、それが僕の知っている傑だった。でも今のオマエは、僕に明かしてくれている。不安そうにも見える顔を僕に晒すことなんてあっただろうか。
「だから留学を決意したんだ。悟にも「私自身」との関係を見直す期間になってくれればと思った。さっきも言ったけど……それで離れてしまうようなら、それまでだったと言い聞かせるつもりで」
「……やっぱ、置いてくつもりだったんじゃん」
爪が食い込むほどに拳を握る。不貞腐れた餓鬼みたいな声で吐き捨てた。
「悟」
返事をしようとして、できなかった。続く言葉がきっと僕を大きく変えてしまう──そんな予感がしたから。
「君は、前の私たちと同じになりたいのか? 前とは違うかたちになるっていう選択肢はない?」
「……!」
夜の音すべて遠ざかって、ようやくたった二人きりになった気がした。
「私は君と、ちゃんと始めたい。君が望むかたちにはなれないかもしれないし、どうなるかはわからないけど……っ」
抱き込んだその体は少しだけ特有の薬品の香りがして、彼が退勤してからそう時間が経っていないことを物語っていた。まっすぐ僕のところに来てくれたのだと。
「……っ、あーもう……、オマエはいっつもそーやって……ックソ、ムカつく……!」
また、置いていかれるところだった。僕だけ前世に囚われて、オマエはとっくに前を向いてたなんて。
「……ははっ、それが君の素か。いいね、やっと私から君に触れられた気がする」
くしゃりと頭を撫でてくる。何度も髪には触れられたのに、そのどれとも違った手だった。
「オマエがまた笑って俺の名前を呼んでくれることが、それだけが生きがいだった」
見てくれには拘りがあったくせに変なところでズボラなアイツの髪とは違って、手入れの行き届いた手触りの良い髪。違うところなんていっぱいあるじゃん。……いや、あの頃から僕が見ないようにしていただけかもしれない。
それでも、知った気になっていたのは僕のほう。同じ魂だけど違う人間なんだと、唐突に理解した。 生まれ変わった傑に、僕は「親友」になることを押し付けていたんだな。
「……またオマエのことわかったつもりになって、馬鹿だなぁ僕は」
「…………」
そっと腕を解き自嘲を込めて笑う僕に、彼は滾々と視線を注いだままだった。
「オマエが望むならそれでいいよ、それでオマエが安心するなら。僕はオマエといられるなら、名前なんて何だっていい」
その目がどんどん見開かれて、切れ長の目がめいっぱいに広がった。
「でも僕から離れんな。これだけは譲れない」
「……なにそれ。何でもいいって顔じゃないよ、悟」
片眉を下げて笑う笑い方も、眉間を押さえる仕草も、全部知ってる。知らないのは、オマエと共に生きていける日々だけだ。
あの時とは違う未来がほしい。
「改めてよろしく」
手を差し伸べ彼の名を呼ぶ。そうすると瞳が見えなくなるくらいに笑った顔を、新しく記憶に刻み込んだ。
「……色々格好つけたけど、留学は『私と〝彼〟は違う』と君にアピールするためでもあったんだ。子どもじみた意地みたいなものかな」
手元のストローをくるくると回すと、氷が音を立てた。手を扱う職業病ともいえばいいのか、彼は手持ち無沙汰になるとよく指で物を弄る癖がある。
日差しを遮る大きなサングラスには、この都市の象徴である自由のシンボルが映り込んでいる。隙間から覗くその表情には、少年と青年が入り交じっていたように見えた。
「いいんじゃない? 負けず嫌いなところは嫌いじゃないよ」
「へぇ。……じゃあ、私の好きなところは?」
全部見たい。
そう思った僕は、かけていた自分のサングラスをテーブルに置いて、傍らにいる彼のお揃いのそれも外してやる。
「今見てるところ」
「それは爪だろう。ちょっと悟、こういう時は真面目に答えるものだよ」
「だから全部! 今のオマエ、全部」
「……!」
遮るものが何も無い僕らを風がさらって、駆けていく。目にかかる前髪を手で避けその表情を堪能した僕は、イタズラが成功したとばかりに笑いかけた。
すると彼はまるで参ったなという顔で穏やかに微笑んで、同じように僕の方へ手を伸ばす。
「髪が乱れたね。おいで、セットし直してあげよう」
「んっふふ、照れ隠しー?」
寄りかかるように肩を組んで、バルコニーをあとにした。