メーデー もうこれで何回目だろう。目が覚めると、自分の部屋とは違うにおいがして、それでここがどこだか分かる。もう慣れたもんだな、なんて。
薄暗い部屋で両手首が太めのリボンで胸の前で縛られ、祈るようなポーズで仰向けでベッドに寝かされている。縛ると言ってもリボンはさほどキツく結ばれていないから口で片方の端を引っ張ればするするとほどけて、そのまま流れるようにベッドから足をおろす。
そして床には、土下座した男子生徒。相変わらずその体は震えていた。
「ごめ、ごめんなさい……っごめん、この、これで、ゆるしてください……っ!」
そうして床に置かれたとくせいカプセルやおうかんや基礎ポイントを上げるアイテム達をかき集めるみたいにしてからこちらに差し出してくる。
俺は返事もせずにそれらを拾い上げて、両手で抱えて部屋を出た。廊下は暗い。きっと夜中なのだろう。随分眠っていたらしい。
「勉強……勉強しなきゃな……」
ふらふらした足取りで自室に戻ろうと誰もいない廊下を歩く。次はふしぎなあめもあったらいいなぁなんて考えながら。
俺は時々、名前も知らない一学年上の先輩に誘拐される。
初めてあの部屋で目が覚めた時はそれはそれは恐怖を感じた。手首はまとめて太めの真っ赤なリボンで可愛らしく結ばれていて、頭のすぐ横にはオタチのぬいぐるみ。オタチなんて、この学園の人が連れているところを見かけた事はない。なのに、俺に寄り添うように隣に置かれていて、まるで俺の手持ちの事を知っていて俺の為に用意したみたいで、かわいいはずのぬいぐるみがどうしようもなく怖かった。
「……っ」
どこ、ここ。誰の部屋? なんで縛られてんだ。おれ、確か、勉強の為に図書室行って、その帰りに……?
この部屋から逃げないと。本能的にそう思って、ベッドから降りる。腕は縛られているけど足はなにもされて無くて、これなら逃げられると思った、瞬間だった。
「ひっ!」
足をおろし、その三歩ほど出入口の方へ向いた所に、人が蹲っていた。薄暗い部屋でよく分からないが震えていて、はぁはぁと呼吸もちゃんとできていないようで。誰も居ないと勝手に思い込んでいたから驚きで心臓がバクバクとうるさい。なんでこんな床で。もしかしてこの人も気付いたらここに居て、恐怖を感じて震えているのだろうか。だとしたら、一緒に逃げないと。
「ご、ごめんなさい……!」
「あの……」
「ちが、違うんだ……! 見てるだけで、よかった、のに、気付いたらっ……僕、こんな事して……っ」
錯乱状態で、何だか怖くて、思わず一歩下がって声をかける。
「落ち着いて……あの、なんでおれ、ここ居るか……知ってる?」
「ごめんなさいっ、スグリくん、ごめんなさい」
俺の名前を知っている。そしてこれだけ謝って……恐らくここに連れてきて手首を縛ってベッドに寝かせていたのはこの人が犯人なんだと理解した。きっと計画的ではなく衝動的に行動して、そして結局怖くなってこうして謝っている。なんで、こんな事を。
「先週から……っ林間学校から帰ってきてから、スグリくん、あっあんまり、お姉さんと一緒に居なくて、ひとり……の時多いなって、思ったら、一人でいる時、こんな事できるなとか、色々考えちゃって……! それで、そんなつもりなかったのに、気付いたら行動してて……!」
言い訳をしながら土下座で伏せていた頭を上げて、初めてその顔が見えたが、やっぱりどう考えても全く知らない人だった。気持ち悪い、と素直に思う。
「……俺のこと、どうする気?」
「なっなにもしないよ!! 何か危害を加えたいたいわけじゃなかったんだ、信じて、本当だから……! あっ、腕、腕の……! 怖くなってつい縛って、ごめんなさいすぐ外すから……っ」
その人はそう言って俺に一歩近づくとリボンの端をひっぱり、するりと腕が解放される。
「……こんな事して、どうなるか分かってんの……?」
腕が自由になった事と、目の前の犯人が気が弱そうで物凄く謝ってくるから少し強気になっていた。冷静になってくると、一分一秒が惜しいほど勉強しなければいけないのにその時間を無駄にさせられたという怒りもわいてくる。
「先生に……」
「ごめんなさい、本当に、本当にごめんなさい……!!! これで、どうか許して下さい……っ」
先生に相談し、そうなれば停学か最悪退学になるだろうと考えていたのに。それなのに目の前に差し出されたものを見ると、ぱちんと、自分の中の何かがおかしくなる音がした。
とくせいパッチ。今一番欲しかったもの。元々そんなにどうぐは持っていなかったから、急に勉強して対策や育成を頑張ろうとしてもあれが足りないこれが足りないばかりで、思うようにいかなくてもどかしいばかりでここ最近ずっと苛立っていた。どうにか早急に手に入れなければいけないがBPもお金もないからどうすればいいかと思っていたそれが、目の前でこちらに差し出されている。これが、これがあれば、あれが試せる、いや先にあっちの方がいいかも。もっと別の方法も考えてみてもいい。そんな事ばかりがぐるぐると頭の中を物凄い勢いで駆け巡って、目の前がチカチカして、ほとんど無意識的にそこに手を伸ばしていた。
「これで、許して……見逃してもらえる……?」
伸ばした手がとくせいパッチに届く瞬間。俺の顔を見て、もう殆ど確信しているのか安心したようにそう聞いてくる。
「……うん」
恐怖心も、気持ち悪いと思っていたのも、ちょっとした苛立ちも、全部全部一瞬でどこかへ行ってしまって、ただ目の前のそれが、自分のものになるという事で頭がいっぱいだった。
それからというもの、俺はあの名前も知らない男子生徒に度々誘拐されるようになった。
あの人は多分、俺が高価なアイテムを渡せば見逃すと分かったからか、何かそういうものが手に入ると発作的に俺を誘拐している。そんな気はないのにどうしてもやってしまう。そうして震えながら床で土下座状態で俺の目が覚めるのを待って、それを渡して見逃してもらう。その繰り返し。
ただ、今回こそ許して貰えないかも、という恐怖心もあるらしく渡されるものの量は回数を重ねるごとにどんどんと増えていた。だから、俺もそのアイテムを受け取るためにその誘拐を受け入れていた。
ただ数時間眠らされ、謝られ、アイテムを受け取る。それ以外になにかされる訳でもない。会話もしない。それで、そのアイテムでまた強くなれる。強くなる為に必要なものが、こんなにも簡単に手に入る。
そんな中、またそろそろ誘拐される頃かと思いながら、勉強をするため自室に戻ろうとした時だった。
「こいつに何か用かい」
声がして、振り向けば「ごめんなさい……っ」という知った声と走り去る足音。そして、俺のすぐ前に立ち塞がるように立つ、カキツバタの背中。
「……は」
「今の、うちの学年のやつだろい。知り合いか? ……相当ヤバい目でオマエの事見てたけど」
振り向いて、じっと俺を見下ろしてくる。途端に今何が起きたのかを理解して、思わず大きな声が出た。
「なんっで、邪魔した!!?」
怒りと焦りで喉が詰まって、妙に情けない怒鳴り声が出る。
呼吸が乱れて、自分でも少し落ち着いた方がいいと思いつつも、焦りの方が上だった。
「……知り合いで待ち合わせしてたようには見えなかったけどねい」
俺の反応に一瞬驚いた顔をした後、すぐに目を細め何か疑うようなじっとりとりとした視線を向けてくる。何だその顔。助けてやったのにみたいな顔しやがって。何も、なんもわかってねえくせに。
「うざい、うるさい!! お前には関係ない……っ!」
カキツバタの背中で隠され姿は見えなかったけれど、さっきの声は間違いなくあの人だった。前回からの日数を考えても、そろそろ来る頃だった。だから、多分、今日誘拐される日だったのに、それをカキツバタに邪魔をされた。手に入るはずだったアイテムが、強くなる為に必要なものが、一秒でも早く強くならなければいけないのに、それを、よりによって、お前が、倒すべきチャンピオンのお前が、邪魔するのか。
「……なあスグリ。強くなるのはいい事だけど、最近オマエが変だって、みんな心配してんぜ?」
俺はお前を倒すために、今、必死に勉強して、対策を考えて、ずっと、ずっと、死ぬ気で、考えて、それなのに、お前が、お前のせいで、また、一歩出遅れる事になって、俺は……俺は……!!
言い返そうと、見上げたカキツバタの顔はまるで「かわいそう」と言わんばかりで。それを見た途端、怒りが限界に達したのか何なのか自分でもよく分からないが、怒りよりも悔しいような、惨めなような感情が強くなり、どうにか深く息を吐き出して、カキツバタの胸ぐらに掴みかかりそうになった手を押さえる。
「……頼むからほっといて」
怒りと、焦りと、ぐちゃぐちゃに感情が混ざって涙が出そうになって、情けないし悔しいしどうしようもなくなりながら最後に涙を堪えてカキツバタを睨みつけ、逃げるようにその場を離れて自室の方へと走った。
部屋に入りすぐにベッドに飛び込む。勉強をしなければ。時間なんかいくらあっても足りないのに、それなのに、手繰り寄せた布団の中に潜り込んで、小さくまるまって、震えが止まらない。
もし、もし今日のカキツバタのせいで、あの人が怖くなってもう俺を誘拐するのをやめてしまったら、そしたら、俺は、どうやってアイテムを集めればいいんだろう。いや、集められるけど、でも、あの人に誘拐されるのが一番早くてたくさん手に入っていたから、アイテム集めに時間が取られれば当然効率が著しく落ちる。どうしよう。あれが、あのアイテムたちが貰えなければ、強くなるのにもっと時間がかかってしまうのに。どうしたらいい。強くなりたいのに、なんでこんなに上手くいかないんだ。
ぼろりと涙が零れて慌ててそれを拭う。だめだ。こんな事で動けなくなっていたらそれこそ余計な、時間の無駄だ。どうにかベッドから出て机に向かい、全てを忘れるように勉強に集中した。
目が覚めると、自分の部屋とは違うにおいがして、それが分かった瞬間安心で泣きそうになってしまった。
あれから三日。もう誘拐されないかも知れないと不安に思っていたのに、ちゃんと腕はリボンで縛られ、床にはあの人が土下座して、何故かいつも以上に震えている。
「ごめんなさい、ごめんなさい……っ」
そしてそこに置いてあるアイテムも、いつもより明らかに多い。
「違う、本当に、もうやめなきゃと思って、でも……でもっ」
もう慣れきった手順でリボンをほどき、ベッドをおりて、床に置かれたアイテムを拾う。
「気付いたら、スグリくんを見かけたら、やっぱり我慢出来なくなって……」
いつもなら、この言い訳を聞き流しながら、黙々とアイテムを拾い上げていた。
「お願いっ、お願いだから、先生にも、……カキツバタくんにも、言わないで……!」
「……うん。言わない」
返事をしたのなんて、初めてここに連れて来られた時以来だと思う。話しかけた本人もまさか返事が返ってくると思っていなかったらしく、口をぽかんと開けて驚いた顔でこちらを見てくるが、無視して床に置かれたいつもより多いアイテムを拾い上げていく。
「俺、カキツバタに勝つから」
そんでチャンピオンになっから。そう言えば、安心したのか何なのか、何故か顔を赤らめて嬉しそうに何度も頷かれる。
「絶対勝てる。応援、してるから」
「うん」
その日の会話はそれだけで、両手いっぱいにどうぐを抱えて、これだけあればあれができる、だからカキツバタに勝てると考えながら部屋に戻るため薄暗い廊下を歩いた。
そしてその次の週。俺は宣言通りカキツバタに勝ってチャンピオンになった。
「なあスグリ。あん時のアイツと、ふたりでコソコソなにやってんだ?」
俺がチャンピオンになって、俺の振る舞いが気に入らないと言い合いをするようになっても、カキツバタはこうして馴れ馴れしく絡むように話しかけて来たりもする。
「……なんも」
「なんもってこたぁねぇだろい」
ニヤニヤしながら、でも何を考えているのかよく分からない目で、じっとりとこちらを見てくる。また一人退部させて、昨日その件で言い合いしたばかりなのに、こうして平然と話をしようとする。
「見たってやつが居るんだよ。消灯時間もとっくに過ぎた夜遅くにアイツの部屋から大量のレアアイテムかかえたスグリが出てきたって。夜遅くまでふたりっきりでナニしてんだろうねい?」
「何が言いたいわけ」
目的は分からないけれど、鎌をかけて何かを探ろうとしているのは分かる。それが多分、俺にとって良くない事なのも。
「……アイテム貰ってるだけ」
「結構前に、意識なさそうなスグリを、アイツが部屋に連れ込むの見た事あるって別のやつもいんだよなぁ」
「……なに、先生に告げ口でもする気?」
チャンピオンになってしばらく経つが、俺が目立つようになったせいで動きにくいのか、誘拐の頻度は物凄く下がった。だから最近の目撃証言も無いだろうから、誤魔化せはすると思う。
睨みつける俺を、カキツバタは軽く鼻で笑った。
「いや。気になるだけ」
じっと見つめられれば何だか気まずくて、俺の方から視線を逸らす。
「……時間の無駄。俺もう、行くから」
「まあ待て待て」
手首を捕まれ逃げられなくされる。何となく嫌な予感がするから離れたいのは勿論、勉強しなきゃいけないから時間の無駄だと思ってるのも本当で、とにかくここを去りたかった。
「離せ」
「アイツの部屋で何してるかだけ教えてくれりゃすぐ離すって」
やっぱり何を考えているのか分からない。イラつきながら掴まれた腕を振りほどこうとしても上手くいかず、仕方ないから適当に話して終わらせようと口を開いた。
「何もしてない。いつも起きたらあの部屋にいてアイテム貰って帰るだけ」
「……起きたら?」
「そう。もういいだろ、離して」
カキツバタはまだ離さない。
「それは、スグリの意思関係なく……いつもって言うぐらい何回も部屋連れ込まれてるって事かい」
「そう。だけど何もないから。カキツバタが何を知りたいのか知らないけど、なにもない。アイテムくれるから俺も怒ってない。もういい?」
何か考えるように数秒黙って、そして離すどころか手首を掴む力が更に強くなる。
「なに、痛い、」
「……スグリ、お前その部屋でいつもどれくらいの時間眠らされてんだ」
「えっ……知らない、多分四時間とか、そのくらい……?」
でも夕方一人で図書室に行ったりしてる所から記憶が無くなって、帰る時は外が真っ暗で廊下にも人が居ないような時間だから、もっと長い時間眠っているのだろうか。いつもアイテムを抱えて部屋に戻り、それを使って何ができるかを考えるのに必死だったから、あまり気にしていなかった。
「その間、あいつは何を」
「さぁ……? でも俺が目が覚めた時はいっつも謝りながら床で土下座してるから、ずっとそうしてるんじゃ?」
「四時間もずっと?」
「知らないけど。そうなんじゃないの」
何なんだ、さっきから。カキツバタの顔からは表情が消え、より一層何を考えているのか分からなくなった。早く離してほしい。引っ張って揺すってみても全然離して貰えそうにない。
「なぁ、スグリ。お前……眠らされてる間にアイツに何かされてんじゃねえのかい」
「は?」
何かってなに? 急に何を言い出したんだか。
「どうやって眠らされてるのか、薬なのかポケモンのわざなのか知らねぇが……毎回そんな長時間途中で起きることなく夜遅くまで眠らされてんだろ?」
カキツバタは、妙に真剣な目で俺を見る。
「寝てる間に体触られたり……もしかしたらもっとひでぇ事だってされてるんじゃねぇのか」
「なっ……、きっ、気持ち悪ぃ事言うな!!!!」
思わず大声を出して腕を振り払えば、声に驚いたのか手首を掴んでいた手が離れた。すぐにもう一度掴まれないように距離を取り、そこからカキツバタを睨みつける。
「……スグリ」
「気持ち悪い、気持ち悪い!! カキツバタが変態だからそんなこと思いつくだけで、みんながみんなそんな事する訳ないだろ……っ!」
「……はぁ、そうかい。まぁ、そうだとしても、少なくともお前は他人のそういう好意とか性欲とかに鈍感過ぎて、お前もお前でまともじゃないと思うけどねぃ」
「なっ」
カキツバタの顔からは完全に表情が消えて、怒ってるのか、呆れてるのか、軽蔑してるのか、分からないけど物凄く冷たい目をしていて、何となく怖い、と思ってしまう。
「なぁ、お前本気で分かってねぇのか。……あの日、オイラがちょっと見かけただけでコイツはとんでもない事する気だって分かって声かけちまうくらい、本気でヤバい目でお前の事見てただろ、アイツ」
あの日。カキツバタに邪魔をされた日。また、また邪魔をする気なのか。心配してるみたいなフリして、俺の邪魔をする。以前からみんなそうだ。お前は子どもだからとか、弱いからとか言って、俺の邪魔ばっかりする。カキツバタもおんなじ。チャンピオンになってもまだ、そうやってみんな、俺に言うこと聞かせようとして、邪魔ばっかりするんだ。
「うるさい、お前がアイテムくれるわけでもないくせに……っ! 邪魔すんな!!!」
そう叫んで、カキツバタが何か言う前にその場から走って逃げる。
強くなるのにアイテムは必要だし、あんなに震えながら謝るような人がそんな事出来るわけないし、俺は、なにもされてない。されてるわけがない。
そして、次の誘拐が来る前に、俺はチャンピオンじゃなくなった。
***
「スグリくん」
チャンピオンじゃなくなって、休学して、キタカミで暫く過ごして。そして復学して。
復学してからみんなに謝って回って、色々あったし自分でもあの頃に比べ成長して精神的に落ち着いたな、と思っていた。これから今までの分も頑張って、まともな学校生活を送ろうと考えていた。
そんな中、休学していた間の授業の遅れを取り戻すため、先生に特別に課題を出して貰いそれを提出しに行った帰り。寮へと向かう細いその廊下には他に誰の気配もなくて、静かなそこで、声をかけられた。
よく知った声。部屋はいつも薄暗いから顔をはっきり見た事がないし、相変わらず名前も知らない。だけど、声と部屋のにおいだけ知っている、一学年上の男子生徒。
「戻ってきたんだね」
笑顔でそう言われた瞬間、心臓がバクバク鳴り始め、ただただ『気持ち悪い』と思った。
忘れていた訳じゃない。ただ、色々な事と向き合い考えなければいけない中で、この人との事だけ、ぼんやり目を逸らし、考える事から逃げていた。出来るだけ考えたくなかった。
廊下の少し先にいる、うっすら頬を赤らめて、目を細めて、うっとりした顔で俺を見るその人。明るいところで顔を見たのは初めてで、あの部屋以外で話すのだって初めてで、気持ち悪いも、怖いも、最初の一回だけであとは何とも思っていなかったはずなのに。それなのに今は怖くて、気持ち悪くて、ガタガタ体が震えてしまう。
足がすくんで動かない。違う、逃げずに、この人とも話をしないと。怖い、気持ち悪い、逃げたい。でも、向き合わなきゃいけない。自分の、自分がやってきた事から逃げちゃいけない。あの誘拐を受け入れたのは自分だから。アイテムを受け取ったのは俺だから。だから、ちゃんと向き合って、話をしなければいけないのに。なのに目の前の笑顔がどうしようもないほど怖かった。カキツバタに言われた事が頭に浮かぶ。本気でヤバい目でお前の事見てただろ、って、多分、こういう目だったんだろう。何がどうヤバいのかは分からないけれど、とにかく逃げた方がいい、と今なら分かる。だけど、話をちゃんとしなければいけないから。逃げないで、ちゃんと、話をしないと。
「……ずっと、心配してた。休学して、全然戻って来なくて、このまま学校辞めちゃうなんて噂も出てたから……だから、スグリくんが戻ってきてくれて本当に嬉しい」
復学してから沢山の人に同じような事を言われ、それは全部嬉しかったはずなのに、それなのにこの人に言われると、どうしてこんなに気持ち悪く思えるんだろう。
「僕、ずっと考えてたんだ。スグリくんのために僕が出来ること……それで、やっぱりこれしかないなって」
そう言って、ポケットからとくせいパッチを取り出し、手のひらに乗せてこちらへと差し出してくる。
あの頃欲しくて欲しくてたまらなかったもの。でも、今はいらない。必要なら時間がかかっても自分の力で手に入れる。だから、勝手だとは分かっているけど、正直、もう関わりたくない。
「スグリくんが居ない間も、たくさん集めたんだ。だから、部屋にもっともっとたくさん、アイテムがあるんだよ」
俺が返事をしなくても、一方的に話を続ける。それが俺たちのいつも通りだから。でも、今日は返事をして、ちゃんと話をしなければいけない。なのに話の切り口がわからない。
「ねぇ、スグリくん。この後久しぶりに僕の部屋に来ない?」
当然受け入れられると思っている笑顔。怖い。気持ち悪い。
「僕、スグリくんと、ちゃんと『仲良く』なりたいんだ」
以前の俺ならきっと視野が狭過ぎて分からなかった。だけど今なら、できるだけ周りを見るようになった、以前より少し人を見る余裕ができた俺なら分かる。迷惑をかけた人達に謝り歩き、その中で「いいよ気にしないで」と言いながらも、俺を許していないどころか謝ったせいで余計に俺に嫌悪感を持っていた人も、何となく分かったから。そういう、人の本心のようなものも、少しずつ分かるよう成長しているから、だから目の前のこの人の『仲良く』が、違うのも、今なら分かる。
「……行かない」
「え?」
この人は、俺をナメている。アイテムを渡して、謝って、申し訳ない顔をすれば、全部誤魔化せると思っている。俺が馬鹿だから、すぐ騙されて、本当に『仲良く』なれば、今までの事もなあなあで済むし、そっちの方が大事にするより俺にも都合がいいはずだからそうなると思っている。そして、多分、仲良くなれば、あわよくばまた、とも思っている。
キタカミにいて、ゆっくり一人で考える時間がたくさんあったから、ずっと考えていた。カキツバタに言われた言葉。あの頃の俺には見えていなかった、この人の事。でも今目の前にいるこの人を見て、ほとんど確信に変わった。
「…………なあ、俺が眠ってる間、ほんとは何してた?」
そう言った途端、そいつはポケットに手を突っ込みこちらへ足を踏み出した。
瞬時に「やばい逃げなければ」と思ったが既に遅く、逃げる為に背を向けた瞬間、俺の記憶は途切れた。
目が覚めると、自分の部屋ではないにおい。やばい、と思ったが、すぐにもうすっかり覚えたあの人の部屋のにおいではない事に気付いた。
電気もついていて明るい。腕も縛られていない。ここどこ? と首を動かせば、ベッドの横の椅子に座っていたらしい誰かがすぐに駆け寄ってきた。
「目ぇ覚めたのか!?」
「カキツバタ……?」
カキツバタは俺の顔を見て心底安心したように、へなへなと椅子に座り直した。
「……はぁ、お前さん、何があったか覚えてるかい」
「え……っと、あの人に話しかけられて、ちょっと喋って……、逃げようとしたら、意識失った?」
「喋ってたのか……多分そのすぐ後、アイツがお前運んでるとこ、オイラも偶然遭遇して……心臓止まるかと思ったぜぃ」
カキツバタは本当に心配してくれていたのか、いつもより余裕がなくて、何だかしなしなしている。
そこでやっと、ここがカキツバタの部屋であろう事を理解した。起き上がり、時計を探す。
「え……カキツバタ、今何時?」
「今、夜中の二時ちょっと過ぎたとこ」
「わや……そんなに……」
多分、あの時はまだ夕方の五時半くらいだったから……そんなにずっと眠っていたのか。きっと今までもそのくらい眠らされていたんだと思う。
「揺すっても大声で呼んでも全然起きねえから、気が気じゃなかった……けど、目ぇ覚めて本当によかった」
カキツバタは本当に安心したように深いため息をついていて、素直に申し訳ないなと思う。でもこんなに長い時間、そんなに何かしても目を覚まさないなら、やっぱり。
「……なあ、カキツバタ。俺、やっぱ眠ってるうちに何かされてたのかな……」
手が震える。気持ち悪い。何も分からないのに、分からないから、余計に全部が気持ち悪い。でもあの人に寝ている間の事を聞いた瞬間あんな反応を返されたということは、それはつまりそういう事なんだと思う。何かあったとして、記憶も意識ないなら、それはまるで俺の体で起きた事じゃないみたいなのに、全部全部ちゃんと俺の事で。……ただただきもちわるい。
「覚えてねぇなら、なかったでいいだろい」
「そんなの……」
ぼろぼろと涙が出てくると、カキツバタはぎょっとした顔で両手をおろおろとさ迷わせていて、それは多分俺が触られるのを嫌がるんじゃないかという気遣いでそうなっている。カキツバタらしくない気遣いしやがって。
泣きながら両手を広げて見せれば、意図が伝わったのか数秒沈黙した後ゆっくりと抱きしめられた。
「……復学してから、なるべくスグリが一人にならないよう気ぃつけてたんだけどねぃ。まあそれはオイラだけじゃないけど」
「え?」
思い返せば、カキツバタには暇さえあればずっと元チャンピオンだなんだと絡まれ、購買やどこかへ行くと言えばじゃあついでにと誰かしらが着いて来たりしてあまり一人の時間は無かったような気もする。
「もしかして、みんなもあの人の事知って……!?」
「いや、アイツ関係なく復学して頑張ってるお前が心配だったんだろ。アイツの事はオイラしか知らねぇはず」
「そっか……よかった……」
こんな事知られていたら、と思うとまた違う怖さがあった。
「やっぱ、アイツの事、先生達に言ったり大事にすんの嫌、だよな……?」
警察動くレベルではあると思うけどよ、とカキツバタはもごもご言っていて、よく分からないがやっぱり心配してくれているらしい。
「……うん。俺も悪いし、みんなに知られたくない」
「いや、アイツが悪ぃだろ……。けどまあ、じゃあ、わかった」
カキツバタは少しバツが悪そうに、さっきの事なんだけども、とボソボソ話し始める。
「お前の事探し回ってたら、そのお前を抱えて歩いてるアイツが居て、すぐ状況理解して頭に血が上っちまって。それで……まあ、色々怒鳴りつけて……暴力もちょっと、な。でもそれだけの事やっててもお前は起きないし、何か……最悪このままコイツの事殺しちまうかもってとこでオイラのスマホが鳴って、その一瞬で逃げられたんだけど……。あんだけやりゃ多分、アイツ、明日には自主退学でもしてんじゃねぇか? そしたらもう会うこともねぇよ」
そう言って背中を撫でられる。もう会うことはない。そう言われると安心してまた涙がぼろぼろとこぼれた。
「カキツバタ……」
「おう」
「こわかった、きもちわるかった」
「そりゃあそうだろうねぃ」
暫く背中を撫でられながら、わんわん声を上げて泣いていた。その間もずっと、カキツバタは「おお泣け泣け、もう大丈夫だから」と声をかけてくれていた。
「落ち着いたかい」
「……うん。なんか、カキツバタって意外と俺のこと心配してくれてたんだな、ありがとう」
背中に回していた腕をようやく離して鼻をすすりながらそう言うと、カキツバタは驚いた顔をしたあとすぐに眉間に皺を寄せて「オイラずっとお前の心配してたけど?」と不貞腐れるみたいに言った。
「えっ」
「お前がオイラに勝つ前からずーっとお前の心配してただろうが。お前の事見てるやつの事、お前より敏感に気付くぐらいお前の事見てただろうが。……スグリ、お前、この意味分かるか?」
「え……俺が、何か、危なっかしかったとか、そういう?」
「うーん……半分正解っちゃ正解だねぃ……」
カキツバタは残念そうに頭をガシガシかいて、そして、スマホを見て「そろそろ寝るか」と呟いた。
「あんなけ眠らされてりゃ眠くないかも知れねぇけど、明日も朝から授業出て休んでた分取り返すんだろ?」
「カキツバタも朝から授業さちゃんと出た方がいい」
「じゃあオイラに朝イチから授業出て欲しけりゃ寝坊しないよう寝ろ」
そう言いながら、俺に布団をかけようとする。
「えっ、俺ちゃんと自分の部屋戻るから」
「アイツが学校辞めるまで部屋でも一人にさせる気ねぇよ」
「でも……」
「じゃあオイラもお前の部屋で寝る。全然使ってない寝袋あるからねぃ」
「ええ……」
結局、このままカキツバタの部屋で寝ることになり、俺がベッドを使わせて貰う事になった。カキツバタはどこからか引っ張り出してきた寝袋を広げて寝る準備をしている。
「カキツバタの部屋なんだから、カキツバタがベッド使えばいいべ」
「お前は今日しっかり寝なきゃ駄目な人間だから」
「じゃあやっぱ一緒に……」
「……お前さんは、そういう距離感から勉強していこうねぃ」
「……うん?」
寝るか、となり今日は電気も点けっぱなしにしようかねとカキツバタが呟く。きっと俺が怖くないように。
「カキツバタって意外と優しいんだな」
「やっと気付いたか。だからお前はオイラの優しさに存分に甘えりゃいいんだよ」
「……うん」
「おお……素直だねぃ」
あんなに長時間眠っていたのに、なぜかまた眠たくなってくる。
「……あの人、本当に学校辞めるかな」
「辞めなきゃオイラがもっかいお話しに行ってやるよ」
この部屋のにおいか、もしくはカキツバタのいつもより優しい声が心地よくて、それが眠気を誘っているのかもしれない。
「でも、アイツの退学が確定するまで絶対一人になるなよ、スグリ?」
俺がうとうとし始めているのに気付いたのかカキツバタの声がまた一段と優しくなる。
「……じゃあ、カキツバタが、ずっと一緒にいて、くれればいいべ」
そう言うと、カキツバタが体を起こして何かを言っていたが、それが何か分からないまま眠りに落ちた。