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    怒涛の犬、ド犬

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    怒涛の犬、ド犬

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    冬のぐれぶきぐれです

    十二月某日、東京は大寒波に襲われていた。最低気温は零度を下回り、最高気温は一桁前半という近年稀に見る寒さ。降雪によって電車は止まり、社会活動は微かに不活発になる。いい事がないですね、冬というものは。パフォーマンスも落ちるんですよね、手指が冷えて作業のひとつもままならない。しかも東京の風って冷たいし強いし乾いてるしで最悪なんですよね、おかげで風が吹くと耳が冷えて頭痛がする。この歳と風貌で耳当てをする訳にもいきませんし、対策の仕様がない所も腹立たしい。そんな私の苛立ちとは裏腹に千晴くんは元気そうだ。この寒さの中機敏に走るなんて、若さが為せる技でしょうか。彼が向かった路地裏の奥へ歩みを進める。コツコツと硬質な靴の音が反響した。
    ああ、居ましたね。仕事が早くて何よりです。

    「遅えぞ時雨ェ!」
    「すみません。如何せん今日は歩き辛いもので」

    こちらを振り向いた千晴くんの鼻の頭は真っ赤に染まっている。いくら彼が元気とは言え、この寒さは堪えたらしい。千晴くんは緑のジャケットを一番上まで上げて、そのポケットに手を突っ込んでいた。そもそも君、いつもと格好変わらないですもんね。それは寒いに決まってますよ。着込むのは動きを制限されているようで気に入らないから、なんて以前言ってましたけど、体調を崩すのだけは辞めてくださいよ。しかし、君ならダウンジャケットもマフラーも、耳あてだって似合いそうなものですが。耳あてをして雪だるまを作る千晴くんの姿が脳に浮かぶ。うん、しっくり来ますね。…いや、これは流石に色眼鏡で見すぎか。千晴くんの同期を見てもそうは思いませんから。そうそう、20代後半とはそういう年齢でした。いけませんね、千晴君を見ているとつい感覚を忘れてしまいそうになる。

    「うっわ、時雨の手冷た!死んでるわこれ」
    「生きてますよ。冷え性なので、この時期はどうしてもね」

    千晴くんのいる位置まで歩み寄る。千晴くんはポケットに入れていた手を出して、私の手を握るなりそう言った。自分から触っといてそれはないでしょう。それに冬なんてみんなこんなものじゃないですか?千晴くんが子供体温なだけで。にしても温かいですね、千晴くんの手。到底冬の手とは思えない。彼にしてみれば今日だってなんてことない寒さなんでしょうか。寒そうな格好で風邪を引くかもしれないなんて心配は、杞憂だったかもしれませんね。千晴くんは揉み込むように手を数回握ると、パッと勢いよく離した。途端冷えていく指先は、風に晒されていた先程よりも冷たく感じた。その手の温度を知らなければ、こんなに指が冷たいなんて思わずに済んだのに。背後から吹く風に指の温度は奪われていく。それを逃したくなくて、強く指を折り込んだ。

    「手が冷たいヤツって心が暖かいって言うけどよ、時雨はマジで手のまんまだよな」

    「心が死んでるって言いたいんですか?まあ自分が温かみのある心を持ってるとは思ってませんけど、それはそれとして失礼ですね」

    千晴くんはニマニマと笑みを浮かべている。だって事実だろ、なんて心の声が聞こえて来ますね。当たり前ですけど、事実だからってなんでもしていい訳じゃないですから。楽をして稼げる事実に気付いた小賢しい間抜けが、決して許されていないようにね。

    「千晴くんはそうですね、基礎体温が高いですから。手が暖かい人は心が冷たいんでしたっけ?合ってるじゃないですか」

    「おいおい、心優しき相棒に対してそんなこと言っていいのか?さっきだってお前のお望み通りの働きしてやったのによお。」

    手が冷たい人は心が温かくて、手が暖かい人は心が冷たい。よくある言説だ。私もよく使いますよ。初対面の人との会話の切り口で便利なんですよね、これ。握手をした後の間にちょうど良くて。
    私はこの説の肯定はしませんが、否定もしませんよ。信じてはいませんね。私の手は冷たいですが心が暖かい訳でもないですし、千晴くんの手は温かいですが心が冷たい訳でもないので。真面目に悩んでる冷え性の腹いせにああは言いましたけど、心が冷たいと言うとちょっと語弊があるんですよね。千晴くんの場合、身内には懐が広いというか、甘いというか。まあ身内と言っても私だけみたいですけど。警察に多い真面目で正義感のあるタイプ、特にエリート然としている捜査二課の方々とは気質が合わないようで。特にトラブルを起こす訳ではありませんが、千晴くんが同期と上手く付き合っているところとか見たことがないんですよね。以前千晴くんとそういう話になった時、お前だってめちゃくちゃ浮いてるからなと信じられないものを見る目で言われたことをよく覚えています。千晴くんよりはマシだと思いましたし、実際言葉が喉まで出ましたね。千晴くんは良い意味でも悪い意味でも有名で避けられているというのもありますが。同僚の多くは千晴くんにとって嫌いというより無関心に近い存在なんだと思います。そういう意味では一番の無価値かも知れませんね。
    敵に位置する存在に対しては冷たいというより、彼なりの情熱を持って接していますよ。彼の目指すヒーローには悪役がいなければ成り立たないですから。悪にどんな過去があろうと興味が無いと明言する程なので、悪人からすれば優しさなんて1mmたりともないけれど。

    今日だってそうだ。

    「ええ、優しい君は悪人を存分に痛め付けてくれましたね。それも態々手間のかかる蹴りで」

    千晴くんは悪人を嬲る際、手を使うことを好む。なんでも己の拳の骨と殴打した箇所の骨がぶつかる感触が好きなんだと。道具じゃ得られないアドレナリンが出るらしいですよ。反対に蹴りは好きではないらしい。攻撃のバリエーションが限られる、悪人の視点が遠いなど、考えうる理由は幾つかある。手の場合は直接皮膚に触れますが、蹴りの場合は靴があるので、感触が鈍るのもあるかもしれないですね。普段使うとしても足先で転がしたり、複数人と対峙して手が埋まっていた時に仕方なく蹴るくらいだ。それなのに今日は何故か、蹴りに拘るようだった。手を使う時の倍ほどの時間を掛けてまで。おかげで少々時間が押している。手を痛めた様子はない。キックボクシングに嵌ったという話も聞かない。手が使えないという訳でもなければ、蹴りを好きになった訳でもなさそうだった。

    「だってお前手繋いでくんねえじゃん、血着いてたら」

    なるほど。好きでもない蹴りに固執したのは、好きな私に手を繋いでほしいから。…今これくらい恥ずかしいことを言っていますよ、千晴くんは。歯の浮くようなセリフを吐いた当の本人は平然としている。私がおかしいんですかね。まあ悪い気はしませんが。二十代後半の強面の男が吐くセリフにしては健気で可愛らしい。

    彼は期待を込めた目でこちらを見ている。時間こそ掛かったものの、仕事は十二分に果たしてもらった。私の教育方針は『褒めて伸ばす』ですから、彼にはご褒美が要る。

    「健気ですねえ。偉い子にはご褒美をあげましょうか」

    「っしゃ!ここ確か近くに居酒屋あっただろ、そこ行こうぜ!」

    千晴くんは私と目を合わせたまま歩き出した。つまり後ろ歩き。以前それをして見事に転んだのを、もう忘れたのでしょうか。あの時は散々だった。バランスを崩した千晴くんが咄嗟に私を掴んで、私はそれに釣られるような形で転倒して。腰から行きましたよ。この歳で転ぶと洒落にならないんですから、本当に。転ぶなら一人で転んで欲しいものです。それを言っても無駄でしょうから、リスクを減らす方に働きかけるべきですね。

    「調子に乗っているとまた転びますよ。転ぶなら一人で転んでくださいね、私を巻き込まず」

    「じゃあまた手繋いでてくれよ。お前の手もあったまるし、俺はどっか行かないしで一石二鳥。な?」

    どっか行かないって。君はいい歳した成人男性でしょう、いいんですかそれで。けれど確かにメリットは多い。私の手は温まる。千晴くんは私と手を繋げて嬉しいし、機嫌が良いと取り扱いも随分楽になる。唯一懸念点があるとしたら、前みたく二人一緒に転ぶことでしょうか。けれど千晴くんはいい子なので私の歩調に合わせてゆっくり歩いてくれますし、私もそう簡単に転びはしませんから。

    …なんて、こんなに理由を付けて。手を繋ぐことに抵抗を示さなかった時点で、私も大概浮かれている。

    「しょうがないですねえ。」

    その前に。

    血で真っ赤に染まった、千晴くんの鼻の頭をハンカチで拭う。まだ乾く前で良かった。血はばっちいですからね。千晴くんは目を閉じて、私にされるがままになっている。私に対する無条件の信頼を感じられて、気分は悪くない。この子も大分懐いたものだ、ここまで来ると感慨深い。懐かなかった拾い猫が心を開いてくれた時のような、そんな達成感がありますね。

    「げ、コイツの血付いてた?なあ、お前のせいで時雨のハンカチ汚れたんだけど。聞いてんのか、あ?」

    「追加で蹴らないで下さいよ、血で靴が汚れます」

    千晴くんは目を開けると、血の付着したハンカチを視認したようだった。再び路地の奥へ戻ると、悪人の男の顎を靴で持ち上げてそう問うた。男はぐったりと横たえたまま動かず、目を開くことすらせずにいた。微かな喘鳴が喉から漏れるのみで、後はなされるがまま。派手な外傷はない。四肢は正しい位置に正しい角度で付いている。呼吸も頻脈気味ではあるが正常。確認の意味を込めて千晴くんを見遣る。大丈夫なんでしょうね、これ。千晴くんはこくりと頷いた。そこに焦りや綻びの色はなく、千晴くんはただ事実を示しただけに思えた。この男が痛みに弱いだけですか。それなら問題ありませんね。

    千晴くんは目線を下に戻すと、靴で男の顎を二度三度転がすように動かした。反応がないことがお気に召さなかったのか、千晴くんは男の鳩尾に靴の先端を深く沈めた。蛙が潰れたような音がした。男に瞑目は許されなかった。限界まで目を見開いて、吐瀉物を撒き散らす。目からは涙が、鼻からは血液と鼻水が、口からは唾液と吐瀉物が、身体からは汗と血液が。全身の穴という穴からあらゆる体液を分泌させて、みっともなく男は地面を這った。

    「ちょっと、蹴らないでって言ったでしょう」

    「血は出なかったからいいだろ、ゲロは出たけど」

    ああ言えばこう言う。私が言ったのは『汚すな』です。しかもどう考えても血液より吐瀉物の方が汚らしいでしょう。きっと100人に聞いてもそう答えるはずだ。言葉遊びをご所望するのならまた別日にしてください。君はいいかもしれませんが、私は寒いのが嫌いなんです。一分一秒でも早く屋内に行きたいんですよ。風の当たらない所へ。ああほら、頭痛が酷くなってきた。キィと喧しい音が鳴るのは、頭痛のせいか、血が頭に登ったからか。

    「汚すことが好きだから鼻に血液を付けていたと?そうですか。どうやったって蹴りで付きようがないですもんね、鼻なんて。ああ知らなかった、ハンカチは無駄でしたね」

    悪人の血液が付着したハンカチなんて、二度使う気はない。漂白剤に漬けて汚れが落ちたらそのままゴミ箱行きだ。君が汚れているから使用したとは言え、悪人にくれてやるハンカチなどないのですがね。君の言う通り、私に慈悲の心などないので。しかし手巾ひとつとは言え相当な値の張る物ですが、この子は分かってるのでしょうか。いや、大金を手にしてもバイク以外には金をかけない子だ。きっと知らないし、理解する気もないだろう。決して悪いことでは無い。けれど勿体ないと思う。絢爛に着飾るとまでは言いませんが、出来る限り身につける物は質の高い物にしておいた方がいい。我々は一度舐められたらお終いですから。ここからは私の持論ですが、所有物はシンプルに、かつ愛着が湧く物であるべきだ。自分の手元に置くものは良いもので固めておきたいんです。それが物であっても、人であってもね。

    「わりーわりー、拗ねんなって時雨。楽しく蹴ってただけなんだけどよお、無心でやってたらなっちまったんだって」

    私の持つ良い物を無駄にしてまで、綺麗にしてやりたいと思う私の良い者。千晴くんのことを身内に甘いと評しましたけど、私も大概ですね。人に線引きをする私の、唯一の例外。隣に招き入れた稀有な存在。言ってしまえば私は君が好きなんです。だからどうか。私と君の間に、私にその線を引かせないでいて。

    「ほら、行きますよ」

    それまでは、隣で手を繋いでいよう。



    世間は近付くクリスマスに浮き足立っている。街は至る所に電飾が飾られていて、ピカピカとした光が目を引いた。ここは下町気質の飲み屋街で、表通りは客引きと酔っ払いの大きな声がひっきりなしに響いている。少し奥へ引っ込めば、タチの悪い酔い方をした人間と四課の世話になる類の人間との揉め事が目の前で見られる。今私たちがいるのは更に外れの、その喧騒すら届かないような場所だ。こんな暗い路地裏には誰も気を留めない。この男が通報でもしようものなら話は変わるが、後ろめたいものを持つ人間は通報なんて出来やしない。我々に見つかるような小賢しい間抜けだ、それがどんな破滅を招くのか理解するだけの脳はある。

    路地裏を出ようと歩を進めると、男が初めて口を開いた。男が発するのは獣に似た唸り声、恨みを隠しきれていない懇願。すみません、もうしませんから、だからどうか、どうか。吐瀉物に塗れた口から我々にとってお馴染みの戯言が飛び出す。小さな器に見合わぬ大きなプライドが窺えるそれ。まだ己に選択肢が残されていると勘違いした、今まで選ぶことを許されてきた者特有の傲慢さ。しかしそれは蜘蛛の糸を手繰り寄せようと醜く足掻く、乞うことしか出来ぬ弱者の仕草でもあった。ああ、なんて滑稽なんでしょう。だから賢くて馬鹿なんだ。悪人のみっともない様というのは、変わり映えこそしないが何度見聞きしても飽きない物だ。それこそ自分から見に行くほどね。けれどそれが我々の足を止めることは叶わない。むしろ美味い酒が飲めそうだった。期待に足が早まる。

    「あーさみぃさみぃ。なあ、居酒屋で鍋物頼もうぜ」
    「私もつ鍋にします」
    「お、いいね」

    アスファルトを叩く二人分の靴の音。カツカツ。男が地に爪を立てる音。我々の談笑の声と、男の呻き声が路地裏に響く。血と雪のにおいが混じった、薄暗い路地裏を後にした。
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