遡行ifその6「辛くない?」
「だいじょぶ、ですよ」
スレッタ・マーキュリーは赤い顔でへにゃりと笑った。
午前10時。快晴。ひとのあまり通らない遊歩道の少し先。柔らかな陽射しが降り注ぐベンチにふたりで座る。うまく力の入っていないスレッタの身体を自分に寄りかからせて、エランは熱い背をそっと撫でた。甘えるようにエランの肩に頬を摺り寄せてスレッタは笑う。そこだけ切り取れば、ただのデートの一場面のようでもあった。
「んへへ。エランさんといっしょ、うれしいです」
柔らかな手が白手袋に軽く触れ、戯れるように表面を掻く。エランが手袋を外すとスレッタの一回り小さな手は吸い付くようにしっかりと指を絡め満足げに握り込んだ。
幼い甘え方は不安の裏返しだ。今朝は透明化が胸まで広がっていた。熱を持つ赤い耳にエランはそっと囁いた。
「スレッタ・マーキュリー。なにか、してほしいことはある?」
エランの問いに、スレッタは眉根を寄せて少しだけ唇を尖らせた。スレッタの誘いを断った夜のことを根に持っているようだ。それでも、すぐに目尻は緩む。
「おはなし、したいです」
喉に言葉が詰まった。スレッタの主張は出会ったときから変わらない。話したい。聞きたい。知りたい。
「エランさんのこと、もっとおしえてください」
「……うん。話そう」
それは、エランも同じだった。
エランに過去の記憶はない。持ち物も趣味も自分さえもなく、未来もない。ひとと長く話すために切り崩せるものは、なにも持ち合わせていない。だというのに、スレッタとどれだけ話しても言葉は尽きることはなかった。スレッタの話がうまい、というわけではないだろう。話が前後することは多いし、脇道にそれることはしょっちゅうだ。けれど、自分の感じたことや思ったことを余すことなく伝えようとする懸命さは好ましく、エランの口を軽くさせた。スレッタもまたエランの少ない言葉を咀嚼しようと何度でも尋ね、根気よく聞きだしては広げていく。エランの知らないエランのことを掬いあげ、丁寧に磨いてはきらきらとした青い目で認めていく。無残で惨めなそれらが、まるで宝物であるかのように。
限られた時間は光よりも速く進む。気づけば模擬太陽の位置は天頂をとうに越え、傾き始めていた。
少しだけカサついた指がエランの手のひらをゆっくりと撫でる。何度も、何度も。確かめるように。その動きでエランもまた確かめる。彼女はそこにいる。間違いなく。
「エランさん。諦めないでくださいね」
スレッタは潤んだ目でエランを見上げる。熱で朦朧とした意識、身体が軋む苦しみの中でエランに微笑みかける。
「わたしには想像できないくらいたくさん、辛いことがあったんだと思います。ひとりで、辛くて、苦しくて。どこにも居場所がなくて、真っ暗で、どうしていいかわからなくて。でも、エランさん」
世界は苦痛でできている。ぽかんと空いた暗闇は極寒で、気まぐれに顔を出した太陽の眼差しは肺を焼く。ただひと呼吸が苦しくて、何処へ行くにも針の筵を歩くよう。滴った血だまりに足をすくわれ、恐れも悲しみもへばりついて離れない。
それでも、彼女は笑う。何ひとつも憂いはないと言うように。
「わたし、エランさんに笑ってほしいんです。いっぱい。エランさんの笑顔、優しくて、素敵で。何度見ても……好きだから」
真っ暗な宇宙に明かりを灯す。暖かな手で、胸でエランの冷えた手を抱きしめる。
「エランさんの誕生日を祝ってくれるひとは、いるんです。わたしも、そう」
だから、生きてくださいね。
そう、魔女はエランを呪う。
歌うように。
「それはおかしいよ」
エランの言葉に、スレッタはぽかんと口を開けた。
「きみも、生きてよ」
優しい微笑みがぐにゃりと歪む。ひどく傷ついた顔をして、目から雫をぼとぼとと落としていく。
「どうして、そんなこと言うんですか……?」
好きだと思う。笑顔も、泣き顔も。だから、こんなにも胸が締めつけられて、息ができなくなる。
スレッタは鼻をすすりながら、喘ぐように口を開く。
「リ、ハビリ、苦しいんですよ」
「……うん」
「すぐ熱出して、身体、戻っちゃうしっ」
辛いだろう。苦しいだろう。モビルスーツを操り、宇宙を縦横無尽に駆け巡っていただろう彼女が、今はほとんど歩けない。動くには杖が必要で、生活にも他人が必要で、それもずっと他者に劣る。その無力感は如何ほどだろう。喪失感は、絶望は。
「痛いし、眠れないし、苦しいしっ」
世界は無音の暗闇で、幸せな日々は近くにあってもあまりに遠い。手を伸ばしても蜃気楼のように揺らめいては消えていき、ただ纏わりつく泥のような徒労感だけが残るのだ。怒りも悲しみも疲れ果てる。きっと、諦めるのが一番楽だった。
「だから、そんなこと、言わないでください……っ」
ずっと笑っていた彼女の、初めての、弱音。ようやく剥けた柔らかなそれを、ひどく嬉しく思った。
「ぼくだってそうだよ」
「え……?」
二人は同じところに立っていた。長い悪路に疲れて途方に暮れている。だから、スレッタがエランに願うことはそういうことだ。
ただひとつ、遠くの星しか見えないのに、顔を上げてもう一度。痛みすら失くした足を持ち上げて、どれだけの時間を無為にしてでも、先の景色を願い、歩き出すこと。
「生きてよ。そうじゃなきゃ不公平だ」
困るのだ。そうでなくては星など見上げられない。願うことなんてできない。独りでは、エランは。
柔く熱い身体を抱きしめる。心臓の音がする。どれだけ透明でも、誰にも見えなくとも。そんな彼女が死んでいるはずがない。
「きみは、えらいね」
すべてを放棄してきたエランよりもずっと。撫でる髪はしなやかで心地が良い。
「──必ず。必ず、『きみ』に会いに行くよ。そのときに、きみの誕生日を祝わせて」
約束をしよう。前を向くために。先の景色を願うために。まだしていないことがあるのだから。
「誕生日にご褒美をあげる。なんでも」
「なんでも」
鸚鵡返しに繰り返して、スレッタはぱちりと瞬きした。ぽろぽろと星をこぼしながら青い瞳がエランを見上げる。
「……いいんですか? わたし、欲張りなんですよ?」
「うん。いいよ」
とびきりのプレゼントを用意しよう。エランの与えられるすべてから。
だから。
「生きて」
ふにゃりと、スレッタは笑った。
「歌、うたって、いいですか?」
「うん。聞きたい。聞かせて」
エランの腕の中でスレッタはくすくすと笑う。
「ハッピバースディ、トゥユー、ハッピバースディ、トゥユー」
高く、甘く澄んだ声が夕焼けに染みていく。その歌に低い声を追うように重ねる。追いつき、追い越し、絡み合う。きっと、想いも。
「ハッピー、バースディ、ディア……」
偽物の空にようやく現れた、一番星。
その星に、エランは初めて願いをかけた。
一人になっても、日々は滔々と過ぎていく。苦痛も世界も何も変わることはない。ベルメリア・ウィンストンは罪を忘れたがり、ペイル社は命を顧みることはない。シャディク・ゼネリは思惑を笑みの裏に隠して暗躍し、グエル・ジェタークは己の負けを許さない。ミオリネ・レンブランはただひとり、父親への反抗を続けている。
それでも、少しずつ、生きるための準備を重ねていく。河原に石を積むように、砂を運んで見上げる山を作るように。生きるとは、そういうものだった。
見上げると、スクリーンでは目を焼くような流星群が軌跡を描いている。その名前を、エランは知っていた。
「──GUND-ARM、ガンダム」