魔女パロその8 雨風が頬を強く叩く。顎から伝う雫は滝のように滴り落ちて箒を握る手の甲を冷やしていく。たまらず息を吐けば、口の中に冷たい水が飛び込んできた。唾とともに吐き出して、冷えた口でもごもごと呪文を唱えなおす。風除け、雨除け、雷除け。風裂きと追い風。風にエーテルと火を混ぜ込み、織り上げて、薄衣一枚風を纏う。は、と息を吸う。じんわりと身体が温まり、息は格段にしやすくなった。
ピカリと空が輝き、恐ろしい雷鳴が雲を伝って鼓膜を揺らす。バクバクと痛いほどに喚く心臓は悲鳴を上げていて、目尻はかっと熱いまま。もうずっと泣きそうだ。それでも、少しだけ暖まりじんと痺れる手で黒い柄を締める。まだ動く。まだ握れる。まだ飛べる。ごうと下から巻き上げる強風に乗り上げて、眼前の暗闇を睨んで冷たい風を裂きながら飛んでいく。行くのだ。あのひとの、もとへ。
けれど視界を塞ぐ雨雲はどこまでも広く分厚い。どれだけ箒を操っても、スレッタだけの力ではこのとてつもなく大きな積乱雲はどれだけ登っても突き抜けることができそうになかった。せめて、エアリアルが居てくれれば。
改めて眼下を見下ろすと、この嵐に見舞われているのは嵐の森だけではない。一国すべてを呑み込んでいる。明らかに自然のものではなかった。
──魔法。それも魔女のもの。
こんなことになっているなんて、どうして外に出るまで気づけなかったのだろう。雨に風に混ぜ込まれたエーテルが流れの指向性を保ちながら周囲のエーテルをさらに取り込んで、この嵐を無尽蔵に大きくしているのだ。本来なら崩壊する大きさになっても魔法によって嵐としての形を維持し続けている。これは怪物だ。すべてを呑み込みなぎ倒す魔女の災害。破滅の怪物。けれど、それが嵐ならば。負けるわけにはいかない。
だって、スレッタは嵐の魔女だから。その名を偉大な魔女プロスペラから受け継いだのだから。
「──行こう」
飛んできた木の幹を風の刃で切り裂き、箒を操り進路を変える。目指すは嵐の中心、魔法の駆動部。そこに嵐を維持する術の要があるはずなのだ。
しかし、嵐の中心に進むということはより雨風が強くなるということである。壁のような強風に水の中のように息ができなくなる。苦しさに喘ぎながら風を手繰り、亀のような速度でゆっくりと進む。一歩分進んだと思えば押し戻され、二歩分進んだと思えば雨の礫に弾き飛ばされる。風が頬を裂き、雷避けをしているのに目の前をチカチカと雷が走り髪の毛を焼く。そのたびに心が強張り引き攣っていく。怖い。嫌だ。雷は苦手だ。ひとりの夜を思い出すから。誰もいない家を照らすから。嵐の闇夜を濃くするから。
それでも、逃げるわけにはいかない。家には帰れない。
だって、進まなきゃ。何かを得るためじゃない。逃げてしまえば、もう会えない。顔も名前もわからない、あのひとに。
彼のことを知りたいから。触れたいから。話したいから。
会いたい。会うんだ、絶対に!
「ひょわぁっ! か、風……!」
強くなる風に抗いながら進み、視界を覆う白い壁に触れたとたん、箒がバチリと弾かれ後方に飛ばされた。ぐるぐると回転しながら箒を握り直し、どうにか体勢を整える。
不自然なほどの大きな空気の流れ。全てを弾き侵入を固く拒む風が壁になってスレッタを阻んでいる。きっと無理に通ろうとすれば少女の柔らかな身体は千切れて四散してしまうだろう。けれどもやはり、この壁も風を撚り合わせて作られているものに過ぎない。ならば解ける。嵐の魔女なら。
ぐっと腕を伸ばして、血を流しながら壁に触れる。大丈夫、できる。細い糸の上を渡り続けるようなバランスと緻密さで風と風とを撚り分けて人ひとりが通り抜けられるような穴を作る。
「──できた!」
風の壁を抜けた先、嵐の中心は外側と違いひどく静かな場所だった。嵐が巻き上げただろう木材や動物の死骸の山の中に、見慣れない巨大な建造物が鎮座していた。
「これは……船?」
学園で習ったことがある、海や川を渡るために用いる木や鉄でできた流線形の乗り物だ。それがどうして海でもないこんな場所に? これも嵐に巻かれてやってきたのだろうか。
傷だらけになった箒を撫でて船に降りる。
「わっ、とと……」
箒から降りて立とうとした足にうまく力が入らず、甲板の上に尻もちをついてしまった。今更ながらに身体が震え、あらゆるところに痛みがぶり返す。怖かった。痛かった。苦しかった。けど、頑張った。
涙をぬぐい、特に痛む腕に軟膏を塗る。手鏡を見ながら乱れてしまった髪を手櫛で整えて、裾の破れた服を簡単に縫い直す。随分とみっともなくなってしまったけれど。
「ガッカリされないといいな……」
そんなひとではない、よね? おぼろげな記憶をたどるが確証はない。好きなひと。知りたいひと。どうしても、会いたいひと。本能が、衝動がそう訴えかけているのに反して記憶はほとんど戻っていない。どうして忘れてしまったのかもわからない。ただ、自分のピースがぽっかりと欠け抜けたようにしっくりこない。きっと最近の落ち着かなさの原因はそれで間違いなかった。
会いに行かなきゃ。そうでなければ、あの森で待っていても会えない。確信があった。そうだ、言われたのだ。「待ってる」と。だからこれは。
「待ち合わせ、なのかな」
そう思うと、ドキドキして、わくわくしてきた。
荒れた箒の毛先を整えて、感覚の戻った足で立ち上がる。荒れた甲板は歩くとギイギイ鳴るけれど、腐り切っている様子はない。それだけではない、たくさんのひとが血を流して亡くなっているが、腐っている様子がない。臭いもしない。まるで時が止まっているかのように。
「これも嵐の魔法の効果なのかな……」
これでは死者の魂が旅立てない。解放しなければ、いずれ彼らは悪いものになってしまうだろう。一刻も早く魔法の核を探すべく、スレッタは船を探索して回った。船尾楼から調理室、寝室、操舵室、船倉まで。核らしきものは見つからなかったがわかったこともある。死者はみな、高価そうな鎧や衣装を身に着けているのだ。手に武器を握りしめて亡くなっているものもいる。
「もしかして、騎士さん……?」
思い返すのは学園でできた友人のひとり、グエルもまた騎士を志していたはずだ。騎士たちはミオリネのような国に必要なひとびとを守るために魔獣や他の国と戦うのだ。そんな彼らがこの船でどこへ行こうとしていたのか。
視線を上げれば見えるのは、白い雲の切れ間、青空に浮かんでいる丸い月。もしかして、あの月に行こうとしていたのだろうか。そんな発想が何故だか浮かんだ。
船は空を飛ぶのだろうか。学園ではそうとは習わなかったが、魔女ではない普通の人間にもミオリネのような頭のいい人々はたくさんいるのだ。できないことは、ないのかもしれない。
釈然としないまま甲板で首を傾げていると、船の外から小さな声が聞こえてきた。
くおおん、くおおん。
どこかで聞いたことのあるような鳴き声だった。鳥、ではない。狼でも狐でも、虫でもない。
箒を使って外に飛び、廃材の山の上に降り立つ。もしこの下に埋まっているのなら探すのはかなり骨が折れそうだ。
袖を捲りながら耳を澄ますと、声はスレッタの後から聞こえてくるようだ。慌てて振り返り、船の下に目を向けて、気づいた。
船の中心を背骨のように支える一番大事な柱……そう、竜骨、というのだったか。その中にひとつ、精霊に近いものの魂が縛り付けられている。その呪いに絡めて嵐の魔法も固定されているようだった。
「どうしてこんなところに?」
首を傾げるが、よくよく観察してみて納得した。
──この竜骨は、もとは小さなクジラの背骨だったのだ。
「ずっとここにいたの?」
尋ねると、クジラは弱々しく鳴いた。なにかを恋しがっているみたいに切なげに。
力のあるものが命を終えると精霊になることがある。ひょっとすると、クジラの彼もそういう存在として骨の中に捕らわれてしまったのかもしれない。
解放してやらないと。スレッタは箒を構える。魔女のかけた呪いを解くのはスレッタにはまだ難しい。お母さんにはまだ早いと言われ勉強させてもらえなかったからだ。そのはずなのに。
「……どうして」
その呪いは、ひどく分かりやすいものだった。まるで昔に勉強したことがあるかのように、知らない知識が湧いてきて、呪いを解く手順を示すのだ。これも、もしかしたら彼に関係することなのだろうか。それから、もうひとつ。スレッタは、この呪いの主を知っている。好む材料、手順、優しげな筆致。昔からよく見ている、それは。
ぎゅっと握り締めた箒の柄から手を離し、滑らかな竜骨を撫でる。
「さ、帰ろう」
魂を導く呪文の最後の一音を紡ぐと、ぶわりと暖かな風が吹き上がった。
緒は分かたれ、魂は昇る。王の呼ぶ世界を訪れ、眠るために。
「わっ……ちょっ……ひょおっ」
クジラや騎士の人々の魂と共にスレッタは空へと舞い上がる。嵐が突然なくなったせいで行き場を失った風が押し上げているのだ。
いや、構わない。この風を利用すれば、スレッタはどこまでも高く飛べる。このまま門をくぐれば、あのひとの元に。スレッタの胸が希望でいっぱいになった瞬間に、滑り込んできた風の刃によってスレッタは魂の流れから弾き出されてしまった。
慌てて箒を握り、高度を保つ。いったい誰が。振り返った先、空の夜闇にほど近い、その場所。冥界の門の前にその月は浮かんでいた。
これだけ近づけばさすがにわかる。これは月ではない。内部に空気と水を貯え、すべてを美しく整えられた生活空間。スレッタはそれを知っている。
「箱庭……」
薄い空気でも花の香りが漂ってくる。きっとあの中には満開の花が咲いている。
紺色の空にたたずむ天国のミニチュア。その中からそっと降りてくる存在があった。その気配を、スレッタは知っている。
「──エアリアル」
風が吹く。嵐が巻き起こる。集まった雨粒はやがてスレッタと瓜二つの少女の姿をとった。
ごぽり。少女は呟く。
『帰って』
突如、風が言うことを聞かなくなった。暴れる箒を宥めながら、落ちないように必死に風を捕まえる。
「エアリアル! どうして!?」
『スレッタこそ、どうしてこんなところに来ちゃったの? 悪い子だね。夜ふかしはダメってお母さんも言っただろうに』
エアリアルの風がスレッタを捕まえようと迫る。無理やり躱して、速度を上げた。八方から迫る風の手を避けながらエアリアルの低い声を聞く。
『そばを離れてごめんね。ちゃんと戻るから、家でいい子にして待っててよ』
「違うの! そうじゃなくて……っ」
叫ぼうとして気が付いた。空気が薄い。声がうまく届かない。
エアリアルは告げる。
『お母さんの邪魔をしないで』
いるのだ、そこに。お母さんが。
ミオリネの声が脳裏によみがえる。
『あんたの母親は今、空のかなたに大きな球体を浮かべてその中であんたの姉とよろしくやってるわ』
彼女の言っていたことは 本当だったのだ。
スレッタは嘘をつかれていたのだ。いや、プロスペラのことだから言えない事情があったに違いない。お母さんは魔女のなかの魔女なのだから、当然すべてを明かすことなど望むべきではない。けれど、どうして信じてくれなかったのだろうか。一言言ってくれなかったのだろうか。スレッタは、彼女にとって『良い子』ではなかったのだろうか。決まってる。プロスペラにとっての『良い子』は。一番は。選んだのは。
視界がぐらぐらと揺れる。
信じたく、ない。
「や、だっ、いやだ!」
本当は、心のどこかで気付いていた。スレッタはプロスペラにとってただの道具だった。すべてはエアリアル──死んで精霊になった姉、エリクトを取り戻すための。
だからプロスペラはスレッタに神秘に耐えうる身体を与え、魔女の術を教え、研究に用いる素材を集めさせた。魔女狩りに目を付けられてからは気を逸らすために学園に潜入させた。すべてはこの、精霊であるエリクトが実存できる箱庭を作り出すために。
そしてそれを完遂したプロスペラは、唯一ここにたどり着けるスレッタをあの誰も来ない森に縛り付けたのだ。決して邪魔をされないように。
夜の十二時、鐘の音を合図に必ず家に戻ってくるように、夜ふかしのできない魔法をかけて。
風がスレッタの足を捉え、箒から引きずり落とす。箒が無ければ魔女は飛べない。当然、スレッタは真っ逆さまに────落ちる。
「あぁああああぁあぁあっ!!」
わかっていた。それでも信じたかったのだ。真実を直視することがたまらなく怖かったから。あの柔らかな眼差しの奥に確かな想いがあることを願っていたから。そうでなければ、生きていけなかった。
ごうごうと風が吹く。眼下の景色が溶けてぼろぼろと零れる涙は膜すら張れずに流れていく。息ができなくなって、はくはくと喘いだ。痛い。苦しい。悲しい。
ぎゅっと目をつぶる。もう、何もできない。落ちていく。
目の前に黒い羽根が舞った。
『え……?』
手に触れたのはスレッタの箒だった。
どうして。口の中で呟く。
──ああ。あの森に、スレッタのもとに、彼が来たから。彼と会ったから。だからスレッタは、待てなくなった。
彼の羽根で黒く染まった箒を握り、飛行の魔法の呪文を唱える。ゆっくりと減速し、停止、浮上する。お母さんからもらった箒。けれど今は、夜のほうがよく馴染む。
言いたいことはたくさんあった。どうして話してくれなかったのか、どうして置いていったのか、どうして縛り付けたのか。疑問、弱音、悲しみ、恨み言。
けれど、ひとつだけ言えるのなら。
「エアリアル……エリクト! お母さん!……お母さんっ!!」
使うのは、風に声を乗せる魔法。きっと届けとだれかに願う。
「──だいすきっ!!」
一瞬、エアリアルの動きが止まった。その隙にスレッタは最後の力を振り絞り、門の奥に広がる星空の中へと飛び込んだ。
初めて来る冥界は真っ黒な闇の中にちらちらと星が輝く星空の世界だった。その美しさにほう、と息を吐く。まるで、あの洞窟のなかのようだ、と思う。嵐の森にある、スレッタの好きな場所。そう、あそこにも彼と行ったのだった。
「もう、待ってるよね」
会いたい、あのひとに。
星空の世界は上下も左右もわからない。ふわふわと浮かびながら少しだけ悩み、星の多く見える方向に進んだ。音もしない、匂いもしない不思議な世界。じっと見つめていると意識が呑み込まれて戻ってこれなくなりそうで、背筋がゾッと冷える。闇の奥にゆらゆらと見てはいけないものが見えそうだった。どれだけ進んだだろうか、追い越した星の数をとうに忘れたころに突然、星ではないものが現れた。
闇の中に浮かび上がるそれは青年の姿をしていた。浮かんだソファに長い足を組み、優雅にお茶を飲んでいる。
「あの……あの! すみません!」
スレッタが大声を上げるとペリドットの瞳がこちらを向いた。上品な顔をにやりと粗野に崩し、気安げにスレッタへ手のひらをかざす。
『よう。魔女か、珍しいな。こんなところまでなんの用だ』
なにか、違和感がスレッタの喉を塞いだ。似ているが、違う。なんとなく視線を合わせづらくて、もじもじと捏ねる指に目を落とす。
「……会いたいひとがいて。先に来てると思うんですけど」
『ここはデートスポットじゃねぇんだが……まあいい。ほら、探してみたらどうだ?』
ソファに深く座り直した青年が指先で指し示す先には無数の星が散らばっている。この中に、彼がいるのだろうか?
疑いは捨てきれなかったが、スレッタはとりあえずその場にある星をひとつひとつ確かめてみた。強く輝きすぎて遠巻きにされている孤独な星。泣きそうなほどに小さいのに周りと照らそうと懸命な暖かい星。周囲に集まった星々に隠されてしまった優しい星。色んな星から火を奪い集めて大きく膨らんだ空っぽの星。迷い惑いたくさんの衝突で傷ついて歪になってしまった悲しい星。
箒で飛べるスレッタであっても、すべての星を検めるのには長い永い時間がかかった。星はそのどれもが美しく輝いている。けれど、違う。
「全部、違います」
『んじゃ、来てねぇのかもな。すっぽかされたのか、可哀想に』
にやにやと青年は笑う。彼がさくりと齧る市松模様のクッキーにお腹をさするが、空腹は感じなかった。あれだけ動いたのに、と首を傾げるが、やはり冥界であるから現世の常識は通用しないのだろうと思い直す。
手がかりを失い悩むスレッタの前で、手袋をはめていない大きな手がくいと指を曲げる。と、ポットがひとりでにカップに黒い中身を注ぎ入れた。ポットの形から紅茶かと思ったが、コーヒーのようだ。苦く酸っぱい独特の香りが辺りに広がって消える。
「コーヒー、美味しいですか? 飲んだことなくて」
『やらねぇよ。これは死者専用だ』
スレッタの物欲しげな視線をすげなく躱し、青年は黒々としたコーヒーを美味しそうに啜って長い足を組み替えた、その拍子。めくれたテーブルクロスの下、机の脚の中に淡く照る小さな光を見た。こんなところにも。
「あの、その星も、見せてもらっていいですか?」
『ん? ……ああ、このみすぼらしいの?』
スレッタの視線を追った青年は、形の良い鼻で笑いながら無造作に星を掴むとスレッタに投げ渡した。
投げるなんて! 綺麗な放物線を描いた流れ星を慌てて両手でキャッチする。その、ひたりと手のひらに吸い付くような感覚に心臓がときりと跳ねた。……もしかして。大きく膨らんだ期待に、柔らかな輝きの中をそっと覗き込む。
ぎゅうと息が詰まるような孤独の陰を抱えているのに、優しくて、暖かい。
「あ……」
彼だ。スレッタの星だ。
強く抱きしめると冷たい森の香りが身体に廻った。心はピースがはまったように落ち着くのに、心の臓はどきどきと音を立てている。
会えてよかった。じわりと滲んだ涙をぬぐい、鼻を鳴らす。
じいんと広がる歓喜に浸ったスレッタを引き戻したのは、辺りに響くぱちぱちと乾いた音だった。
彼に似た青年が彼に似ない笑みを浮かべて拍手をしている。
『ご名答』
「あなたは……」
スレッタもうっすらと気づいてはいた。この青年は人間ではない。冥界の王、というわけではないだろう。けれど驚くほどに強いもの。さきほどのクジラと同じ。そしてエアリアルと同じだ。力の強いものが死ぬと精霊になることがあるという。この曖昧な世界で形を保つことができているのはそれだけの力があるということだ。そして彼らはどれほど強くとも、容れ物なしにはこの世界の外で姿を表すことはできない。
『そいつは俺の容れ物だ。──昔話は知ってるだろ? 帰れるのは一人だけ。置いてけよ』
青年──精霊が酷薄に笑う顔をずいとスレッタに近づける。神が作ったと思しき美しい顔は間近で見るだけで強い威圧感を感じる。背筋にひやりと汗を流しながら、スレッタは引かず宝石のような眼を見返しながら口を開いた。
「帰ります。ふたりで。……このひとは生きてるから」
昔話とは違うのだ。彼は死んでここにきたのではない。生きて、地の底の裏門からこの世界を訪れた。だから、生きている。
生者と生者が入ったならば、帰路もまた生者と生者であるべきだ。
ふ、と気の抜けたように精霊は笑った。
『いいよ。持ってけ。俺はこっから出たいとも思ってねぇし頼んでもいねぇ。ここはなんにもせずとも愚民どもを笑って眺めてられる天国なんだぜ? 頼まれたって出ねぇよ。……それに、容れ物は空っぽでないといけねぇってのに、そんなに雁字搦めにされてたんじゃ入れないしな』
「? どういうことですか?」
彼の呪いのすべてはきっとこの精霊を受け入れるためのものだ。そのためにすべてを失い空っぽに生きてきた。それが目的を妨げるものだとは思えない。
少女の疑問を鼻で笑った精霊の長い指がスレッタの胸を指す。
『妬み嫉みに恨みに執着。つまり、恋やら愛やら。ひとからひとに向けられる強い感情は全部呪いだよ。こいつはアンタに呪われてる。それもまあ手垢みたいにべったりだ。お熱いことだね』
精霊はソファにどかりと座り直し、コーヒーを酒のようにぐいと飲み干した。
呪いは魔女の執着だ。
魔女はいつでも夢を見る。現実がそうでないことを悲しみ、そうあれと願い、情念を抱えた魔女は現実を歪めるためにひとを呪う。だから呪いは忌むべきもので解くべきもの。けれど、そうではないと目の前の彼は言う。
ひとはひとを呪う生き物なのだと。恋も愛もすべてはひとを縛る呪いなのだと。それは彼の悲観的な視点から出た言葉かもしれない。けれど、スレッタには違った響きに聞こえた。
恋も愛もひとを結び支える美しいものだ。ならば、魔女の呪いだってそうなりえるのではないだろうか。
恋した魔女がひとを蛙にと呪うように。恋が娘を奴隷から姫君へと変えるように。スレッタの恋という呪いが、彼を容れ物からひとへと変えたのではないだろうか。
なんて、楽観が過ぎるだろうか。恥ずかしい。けれど、本当ならこれほど嬉しいことはない。だんだん顔が熱くなってきた。
精霊は再びポットから──今度は紅茶を──継ぎ足して、もじもじしているスレッタに告げた。
『そいつもさ、俺に精霊として契約しろって言ってきたんだよ。飼い主の命令は無視して』
「え?」
『そのために来たんだと。そのうえ、面倒だから絶対に蘇るなってさ。バカすぎて笑えるだろ』
ケタケタと笑いながら青い花びらを浮かべた紅茶を美味しそうに飲む。その傍らで、スレッタの頬には熱いものが流れていた。
「そう、なんですね。そう……」
光をぎゅっと抱きしめる。
良かった。
彼は、ここに死にに来たのではない。生きるためにやってきたのだ。
嬉しくて落ちる涙が星空に真珠のように散っていく。
えへへ、と笑うスレッタに精霊はため息を零す。
『そういうことで。お帰りはあちらだ』
青年が指を振ると、それに呼応するように景色が流れた。精霊も星空もぐんと遠ざかり、見えなくっていく。これでお別れなのだ。スレッタは慌てて声を張り上げた。
「あっ、あのっ! ありがとうございます!」
声は聞こえただろうか。あれほど大きく口を開けていた異世界はあとかたもなく消えてしまっていた。
星の海の中、青い星にゆっくりと落ちていく。
耳には嵐の音も雷の音も聞こえない。ひどく静かな時間だった。
「……エランさん」
胸に抱いた柔らかな光にそっと口付けて、身体中をかき集めた呪いの残滓を返す。それが足りないのならば、呪いも祝福も混ぜ合わせ、自分の渡せるすべてを注ぐ。
会いたいから、話したいから、生きてほしいから。
魔女は呪う。
ありったけの『好き』を込めて。
ふ、と唇に吐息がかかる。
恐々と目を開くその先で、長い睫毛に縁取られた瞼もまた、そっと開いた。
現れたのはどの星よりも鮮やかに静かに輝くペリドット。
「ぁ……」
せっかく見えた黄緑がふるりと歪む。涙を見せなくなくて、目の前の胸に額を押し付けた。幻ではない確かな実体に腕を回し、ぎゅうとしがみつく。清涼な森の香りのひと。
暖かく柔らかな胸元に顔をうずめると、とく、とくと音がする。
「エランさん……」
「うん」
甘く低い声に胸が震えた。
この人だ。この声、この目、この香り、この温度。……この人だ。スレッタが、こんなところまでやってくるほど会いたかったのは。
「エランさん、エラン、さん、エランさ……、エランさんっ……!」
何度も何度も名前を呼ぶ。彼のものではない名前を、他の呼び方を知らないから。本当の顔も、姿も、過去も。それでも、あの嵐の夜に一緒にいてくれたのは、スレッタが恋に落ちたのは。スレッタの好きなひとは彼だ。彼なのだ。
優しい手が少女の震える頭を撫でる。
「……ごめんね」
「え?」
ぱちり、瞬いて顔を上げると、エランは悲し気に睫毛を伏せていた。手袋をはめた手がそっとスレッタの涙を拭う。
「本当は、自分でここを出てきみのところに行くつもりだったんだ」
「そんなこと! わたしのほうこそ、来るの遅れちゃって……ごめんなさい」
あまつさえ、何日も違和感を感じながら森から動かなかったのだ。母にかけられた魔法の副次効果とはいえ、もっと早く来るべきだったのに。
強く握り締めた少女の手に、エランは指を差し入れ、絡める。
「でも、きみは来てくれた。ありがとう」
星が流れていく。
どこかひんやりと冷えた世界で、手の中の温度が混じりあう。
じぃん、と。震えた心を伝えたかった。
「エランさんも……エランさんもっ! 会いに来てくれました、森に! わたしにっ! うれしかったです! うれしいんです! だからっ!」
少年がかすかに微笑む。その表情が目に焼き付いて。
これもまた、きっと呪いだ。
「ありがとう、ございます。……エランさんが、エランさんでいてくれて」
「……うん」
ありがとう。ありがとう。ここにいてくれて。生まれてくれて。愛してくれて。愛されてくれて。
どんな言葉でも足りなくて、きっと見つめあうだけで充分で。それでも求めて抱きしめあった。
くおおん、くおおん。遠くでクジラが鳴いている。ああ彼も、会いたいひとに会えたのだ。
青い星は近づいて、森の蒼さが視界を覆う。──どこからか、歌が聞こえた。
夜空の月は変わらずに輝いている。
柔らかな風がふたりを撫でる。妖精たちが歌っている。
芳しい花の香りがどこからか流れてくる。
──リィン、ゴーン、ガロラン。ガロンロンラン。広い夜の森に鐘の音が鳴り響いた。
それは誰かを呼び戻す、終わりのための鐘ではなく、きっと。
「スレッタ・マーキュリー」
「な、なんですか? エランさん」
スレッタが尋ねると、エランはつないだ手をそっと持ち上げて、柔らかく笑いかけた。
「踊ろう」
「──はいっ!」
夜空の中、エランのリードでくるくると回る。よれていたワンピースに黒い羽根が重なり、花のように広がる。ステップを踏むたびキラキラと光が跳ねる。
いち、にい、さんっ。くるりと回って景色が広がる。以前より、ずっとうまく踊れている。引っ張って、引っ張られて。きらきら、ふわふわ、どきどき。
くるくる、くるくると世界は回る。夜が彩られる。きらきら輝く。その中で愛おしい黄緑がひときわ鮮やかで。
「あははっ」
嵐の魔女は誰よりも自由に踊る。紅い髪は鮮やかに、風をベールのようになびかせて。
さあ、恋を楽しもう。
夜はまだ始まったばかりなのだから。