誰かに足を拭かれるなんて、この世界に生を受けて以降初めてのことだ。
「マイスター、もういいだろう。そんなことは君の仕事じゃない」
誰の仕事でもない。
自分ですべきことだ。
足を引き抜こうとすると、ワックスで艶を帯びた黒い両手が追い縋ってくる。
「お待ちを。もう少しだけ」
最初は膝を付いて布で拭いている程度だったが、今や完全に床に座り込み細々とした道具を並べて本格的に足を磨き始めている。
無数にある小さな傷に入り込んだ土を細い棒でサリサリと削り落とし、布で磨き上げ、ワックスがかけられていく。
「君はさっきも『もう少し』と言ったな」
「大丈夫ですよ。どうかお気になさらず」
大丈夫ではないし、どうしたって気になる。
「マイスター」
少し咎めるように名前を呼んでみても、手は止まらない。
「擽ったいでしょうか?」
「それもあるが、誰かに足を拭かれるなんて初めての経験だ。落ち着かない」
「嬉しいですね。また一つ司令官の初めてをいただけるとは」
向けられた本当に嬉しそうな笑顔に、何を言っても無駄かと思う。
「手持ち無沙汰でしたら、そちらのパッドの決裁をお願いいたします」
「……もう終わった。君が色々と道具を取りに行っている間に」
マイスター本人が全ての体裁を整え、サインだけをすれば良いものを持ってきたのだ。
すぐ終わるに決まっている。
「でしたら私の手に集中していてください」
結局それが狙いなのだろう。
そう思ったが、それを口に出すのも癪である。
何せここは寝室だし、寝台に腰掛けさせられている。
しかも、こちらの弱点を知り尽くした指先が、時折意味ありげに足首のジョイント部分を撫でてくる。
マイスターと共にこの部屋にいる時にすることなど決まっているのだ。
「君がしてくれることだ。無駄とは言わないが……。明日には元通り、埃と泥だらけだ」
「そうですね。ですが今日だけなら、あと数時間の間だけならこのまま保っておけるかも」
「何も起こらなければな」
「ええ、何も起こらなければ。さあ、お待たせしました。終わりです」
右足が掬いあげられ、まるで何かの儀式かのように爪先に口付けられる。
「満足したかね?」
「ええ、司令官の足を磨くことに関しては」
含みのある言い方をしながら立ち上がり、今度はマスクに口付けてくる。
「焦らしてしまってすみませんでした。お詫びに必ず司令官を満足させてみせます。全て委ねていただければですが」
委ねないという選択肢は与えられていない。
いつだって途中から、かなり早い段階で何も考えられなくなってしまうのだから。
何を言わずとも、マスクを外したらそれが許可の合図だ。
柔らかく優しい口付けの合間に、足を寝台の上に乗せるよう促される。
「念の為申し上げておきますが、私は汚れている司令官の足もとても好きなのですよ。同じ場所に立っていてくださるのだとよく分かりますから。ですが、汚れを知らない世界にいてほしいと願うこともあるのです。誰かの体から流れ出たオイルや泥で汚れていないような、埃ひとつない綺麗に磨かれた床の上だけを歩いていてほしい。どこをどう歩くかは司令官がお決めになることで、私が口出しなどするものではありませんが。……すみません、少し喋りすぎましたね」
滅多に言葉として出されることのないマイスターの願いだ。
あと数時間、何もトラブルが発生しないことを祈ろう。
そして今、マイスターは足への口付けに夢中になっている。
もしかしてまだ焦らされるのだろうか。