甘く、舞い上がる「僕の原作とイメージが掛け離れてるんだけど…まあ、決まっちゃったものは仕方ないね…」
私がヒロインとして抜擢された映画の原作者こと、北浦京吾さんに初対面で言われた言葉。
どこか諦観したような、皮肉げなその笑みと鋭い視線が文字通り私の胸にグサリと突き刺さったような気がした。
確かに小説などを原作とした映像作品では諸々の事情や客層に合わせて、配役や展開が原作と掛け離れてしまうのはままある話だ。
けれども、大ヒットした北浦さん原作の映画の続編で世間から注目を浴びている作品にヒロインとして出演を依頼された私は舞い上がっていた。
…だからこそ、胸が痛い。期待されてプレッシャーに押し潰されそうになる痛みとは違う。最初から生みの親から求められていなかったのだ。私は。
それでも他の監督さんやスタッフの方々に期待された以上、やるしかなかった。いや、やりたかった。そうして北浦さんのどこか諦めたような笑みをひっくり返してやりたかった。諦観と皮肉の入り混じることのない顔を見たかった。
…今思えば、一種の一目惚れだった。
撮影は順調だった。このまま何事もなくクランクインするはずだったのに。
私は、バイク事故に巻き込まれた。そして最後の撮影が続行できずにそのまま入院。
…あまりにも情けなくて、病室で一人ギプスをはめた足を恨めしげに見つめていた。
「最悪だ…私のせいだ…」
「何が最悪だって?」
「…え」
音もなく病室に入ってきたのは…北浦さん。その手には黄色いバラの花束。
「暇ができたからお見舞いに来たよ…元気そう…とは言えない感じだね…」
相変わらず、感情のわかりにくい切長の目に薄らと口元に笑みを浮かべて、その人は立っていた。
私は反射的に体を起こしてぎこちなく、それでいて勢いよく頭を下げる。
「ご、ごめんなさい…!北浦先生…!せっかくの映画を…私のせいで…!」
一瞬だけ呆気に取られたように細い目を開かせたけれども、北浦さんはすぐにまた目を細め、まるで軽い世間話しているかのように笑った。
「…ふふっ、やっぱり気にしてるんだ。まあ気にするよね…。でももう君が気に病む必要はないよ…どちらにしてもポシャった話だし…」
「…えっ…どういうことですか…」
「ん?テレビ見てない…?その映画の監督である磯上さんがプロデューサーの川端さんを殺して捕まったのさ…どう考えても代役云々の話じゃないから…わかるでしょ?」
私は驚愕で顔を青くして口をパクパクするしかできなかった。殺人事件にも思うところはあったが、経緯や動機が何であれ、結局あの映画が完成することは、もう、ない…。
「……花…花瓶に生けてくるね…」
私の行き場のない感情を知ってか知らずなのか、北浦さんは薄笑いを浮かべたままそれだけ言って、一旦病室から出て行ってしまった。一人置き去りにされた私は再びギプスをはめた足を見つめる。ただただ虚しくなってしまった感情を向けるものが他にはもうなかったから。
「遅くなってすまないね、普段は花を生けるなんてしないから手間取っちゃって…お詫びにジュース買ってきたんだけどいるかな…?」
本当に悪いと思っているのかと怪訝に思うほどに、相変わらずの薄笑いで北浦さんは帰ってきた。花瓶とジュースと一緒に。
「ありがとうございます…お花…綺麗ですね…黄色のバラが可愛いです」
「それはどうも…お見舞いなんて滅多に行かないからこういうのには詳しくなくてね…作品にもあまりそういった描写をしないから、花屋に聞いて最低限のマナーレベルのものを選んだつもりだけど…気に入ってもらえたなら何よりだよ…」
「そんな…私なんかのためにわざわざすみません…あれ?バラ以外に一本だけ別のお花が…黄色の…これはミモザ…かな…」
「ああ…バラだけじゃ味気ないかなって思ってね…」
「…お気遣い、嬉しいです」
他愛ない会話。私はいつの間にか彼との時間が居心地良いことに気付いていた。そういえば撮影でお会いしていたときはいつも緊張して気を張っていたっけ。
もしかして、北浦さんって物言いが嫌味っぽいだけで、すごく気遣いのできる優しい人なのかな…さっきも花瓶に生けるのが手間取っちゃってとか言っていたけど、私が一人で落ち着ける時間をくれたのかな…なんて。考えすぎかな。
「…ところで、退院はいつになるのかな?」
「えっと、リハビリも含めて二週間ぐらいです…」
「…そう。以外と酷い怪我じゃなくてよかったね…役者は体が資本だから…」
「そう…ですね…反省しています…」
「…?どうして君が反省するのかな?巻き込まれただけなんでしょ?」
「それは…っ、そうなんですけど…ヒロインに抜擢されて舞い上がっていたから油断していたと言いますか…どちらにしても各方面の方々にご迷惑をかけたのは事実なので…」
「……君には悪いけど、あのヒロイン役と君はイメージが違いすぎた。君がたまたま出演を承諾してくれたから決まっただけで正直、ポシャるポシャらない関係なく原作者の僕としては君が役を降りてくれてラッキーだったよ…」
…あ。痛い。
…深く、深く、また深く胸を鋭いものが刺さった。
ああ…私はまた一人舞い上がっていた…北浦さんが私のためにお見舞いに来てくれたことは本当でも…やはり彼にとっての大切な作品に…私は相応しくなかったんだ。
雨が、降り始めた。
「原作者の僕としては君が役を降りてくれてラッキーだったよ…」
無事、怪我が完治しリハビリも終えて私は退院した。
…北浦さんがお見舞いに来てくれてからずっとあの言葉が私の胸を刺し続けている。私は再び北浦さんが怖くなっていた。それでいてどうしようもなく惹かれている。
…やはり好きなんだろうか。怖いのに?後ろめたいのに?
大体、北浦さんは私をどう思っているのだろうか?暇ができたからとはいえ、わざわざマナーを学んでから花を持ってお見舞いに来てくれたのだ。嫌われているわけではないのだろうけれど…。ああいった創作に携わる方々は世間一般と言われるような価値観とは離れた考えを持つ人が多いと聞くし、あくまでも仕事と私事を切り離した結果、北浦さんの性格的にあの言動になったのだろうか。
…わからない。私は、一体どうしたいのだろう。
気付いたらスマホを手に取っていた。ただ、何となく。北浦さんが持ってきてくれたお見舞いのお花についてやマナーについて調べていた。
「鉢植えや香りの強いお花は連想する言葉や衛生的にあまりよろしくない…ふんふん…白、青、紫はお悔やみに使う…赤は血を連想させる…オススメはやっぱり黄色やオレンジ、ピンクのお花…北浦さん本当に気を遣ってくれたんだな…黄色のバラとミモザだったし…」
ふと、そういえばと、花言葉が気になった。あくまでお見舞い用だから深く考えることはないのだろうけど、こういうのが気になるのって女子だからだろうか…。
そんなことを思い耽りながら花言葉について検索してみる。
「黄色いバラは…"友情"…友人のお見舞いなどにオススメでよく贈られる……そっかぁ…」
友情か…でも嫌われてはいないんだろうな…。それだけがわかっただけで少しホッとしたような気がした。勿論、あくまでお見舞い用として定番だから花言葉とか考えずに適当に選んだだけかもしれないけれど。
「…えっと、次はミモザ…"友情"…"感謝"……感謝って怪我して降板してくれてありがとうってこと…?うう…わざわざ一本追加した辺りやっぱりそういうことなのかな…」
自分から調べておいて一人虚しくなる。少し泣きたくなったけれど、涙が流れることはなかった。
とうとう、北浦さんがお住まいのマンションへ来てしまった。
いずれ、御礼に伺うつもりではあったが、連絡先を知らなかったので担当編集の方に頼み込んで住所を教えてもらい、アポを取ってもらった。急な申し出で迷惑かと思ったが、ありがたいことに映画の件で縁ができていたからか快諾してもらえた。
緊張で震える指でインターホンを鳴らす。少しして声が聞こえた。
「…はい」
「あっ、北浦先生ですか?先日はお見舞いありがとうございました…!御礼に参ったのですが…」
「…ああ、聞いているよ。鍵は開けておくから中へどうぞ…」
オートロックを解除してもらい、エレベーターで部屋の前まで向かう。どうしよう…手汗が止まらない。スカートの裾をギュッと掴む。鍵は開けてくれたみたいだけど、一応またインターホン鳴らした方がいいのかな…せめてノックぐらいしてから入った方がいいかな…そうやって扉の前でモジモジしていたら扉がゆっくりと開いた。
「わっ…」
「あれ?入ってよかったのに…遅いからまた事故ったのかと思ったよ…」
意地悪そうな笑みを浮かべた北浦さんがそこにはいた。
「すみません…!念のために部屋の前のインターホンを押すかノックした方がいいのかと思って…」
「はは…まあ、慣れない人は迷うかもね…ここで立ち話もなんだし、とにかく部屋に入りなよ…」
「お邪魔します…」
北浦さんのお部屋は物は多いけれど、綺麗に整頓されていて埃一つなかった。几帳面そうだと思ってはいたけれど想像以上かもしれない。
北浦さん本人は暗い紺色のハイネックと青みがかったグレーのズボン姿だった。これまではスタンドカラーシャツとスーツという出立ちしか見たことがなかったから新鮮だ。
「飲み物は何がいいかな?って言ってもコーヒーか紅茶ぐらいしかないけど…」
「あ、すみません…御礼しに来たのに…お手伝いします…!」
「いいよ…移動してきて疲れてるでしょ?怪我もまだ治ったばかりなんだし、座ってなよ…」
「…ありがとうございます…では紅茶を…」
やっぱり優しい。他の人にもこうなのかな…駄目だ…こうやってすぐウジウジ考え出すのは私の悪い癖だ。
しばらくするとマグカップに入った紅茶が二つ運ばれてきた。湯気と一緒に立つ香りが心地良い。
「執筆中、ずっと紅茶かコーヒーばかりだからね…せっかくだから色々こだわってるんだよ…そのダージリンは眠気覚ましように少し濃く淹れちゃってるからお好みでミルクと砂糖で調整してね」
「何から何まですみません…いただきます…」
熱々の紅茶をまずはストレートで一口頂く。
「…美味しい…」
「ふ…それはよかった…」
北浦さんは両手の指を組ませて手の甲に顎を乗せたまま笑う。
「あ、いけない…忘れてた…!あの、こちら粗品ですが、先日のお礼で持参したもので…お口に合うといいんですけど…」
「これは…チョコレートかい?」
「北浦先生、紅茶とコーヒーを嗜まれると事前に伺っていたので…合うかなぁと…えっと甘いのとビターなのが両方あるので…もしよろしければ…」
「ふぅん…ありがとうね…」
いまいち喜んでいるのかどうか判別しにくい薄笑い。性格というよりは顔立ちと所作のせいだろうか。少し不安になる。
「せっかくだから今貰ってもいいかい?」
「はい…!ぜひ…!」
私が包装とリボンを解いてチョコレートを差し出す。北浦さんはしばらくそれを見て思案したような顔をした後、「じゃあさっきまで執筆していて糖分不足だから甘い方を貰おうかな…」と甘口のチョコレートを一つ摘んで口に含んだ。
「…うん。甘くて美味しいね…僕が好きなタイプの甘さだ」
その言葉に少し安堵する。
「そういえば怪我の方はどうだい?」
「はい…!もう少し休んだらすぐにでも復帰できそうです!」
「そうかい…それはよかったね…」
「あ…北浦先生、執筆中だったんですよね…御承諾いただけたとはいえお忙しいタイミングに押し掛けてしまってすみません…」
「いいよ…もうほとんど終わりだから…幸いちょうど一区切りしたかったところだったし…」
「そうでしたか…」
会話が途切れる。どうしよう…男の人と二人きりなんて滅多にないから、気まずい雰囲気になってしまう…何か話題を…
「花言葉って知ってる?」
あまりにも不意打ちだった。よりにもよって一番今の私の心を揺さぶる話題だから。
「…あ、えっと少しなら…」
私は当たり障りない風を装うように返答した。再び手汗がすごい。動悸までしてきて頭が痺れるような感覚。
「先日のお見舞いでマナーと一緒に少し聞き齧ってみたんだけど…その様子じゃ気付いていない感じかな…?」
北浦さんの口の端が皮肉げに、少しだけ上がる。
「気付いていないならいいんだ…別に」
「ミモザの花言葉は"感謝"…ですよね」
「…えっ…」
駄目だ。その先は言ってはいけない。
「私が怪我をして役を降りてくれて感謝している…っていう意味ですよね…北浦先生…」
「……え、ええと…?」
「わかっています…!私が…いけないんです…!北浦先生の原作のイメージと掛け離れているのに出しゃばっちゃって舞い上がっちゃって…挙句に事故ってせっかくの映画を駄目にしちゃって…関係者の皆さんにもご迷惑をおかけして…ごめんなさい…!ごめんなさい…!北浦先生は優しいから気に病むなって言ってくれたけど…先生からしたら大切な作品を穢されたようなものですからね…」
止まらない。止まらない。堰を切ったように止めどなく私の醜い感情が涙と共に溢れ出す。
ああ、あのいつもの薄らとした笑みが消えて、呆気に取られたように口を開いている…狐みたいな切長の涼しげな目が見開かれている…こんな形で見たくなかった。
あ、絶対これ完全に嫌われたな。面倒臭くてヤバい女だって思われたな。
「……私…これで完全に北浦先生に嫌われちゃいましたね…せっかく親切にしていただいたのにすみません…もう私は関わらないようにします…お見舞いとお花…ありがとうございました…貴重なお時間をありがとうございます…これで失礼させていただきますね…」
顔を見せられない。見せたくない。私は逃げ去るように荷物を持って外へと出た。背後から私を呼び止める声が聞こえたけど、それには応えられなかった。
外はいつの間にか土砂降りだった。雨の予報なんてなかったのに。でも、まあいいか。醜い涙を雨が誤魔化してくれる。
北浦さんの住むマンションから少し離れた公園のベンチに一人座る。雨でずぶ濡れになりながらだけど、周囲に誰もいないから気にならない。
「…最低最悪だ…私…」
「何が最低最悪だって?」
「…え」
声がする方に視線を向けると、そこには肩で息をしているずぶ濡れの北浦さんがいた。私を…追ってきた…?この雨の中、傘も差さずに…?
「ハァ…やっぱり机に向かってばかりだからすぐ疲れちゃうね…ハァ…これを機にランニングでも始めてみようかな…」
「なん…で…」
「君はどうやら勘違いをしているらしいから、それの訂正をしに…ね…」
「勘違い…?」
「…確かに僕は君に、僕の原作のヒロインのイメージとは掛け離れているから役を離れてもらってラッキーだったとは言ったけど、別に君を好ましくないとは一言も言ってないよ…」
「え…」
「それと、ミモザの花言葉だけど、恐らく君が知ったのは本場イタリアでの花言葉…僕が贈ったのは黄色のミモザで…本当は…知られたくなかったんだけど…試しに探りを入れてみたら君が思いの外、深刻な方向に勘違いしてる上に泣いて出ていちゃったから…もうそれどころじゃないよね…」
ずぶ濡れで息を絶え絶えにした北浦さんが近付いてきて私の隣に腰掛けた。そして一度、深呼吸する。
「……秘密の、恋……」
雨に掻き消されそうなほどか細い声だった。けれど、はっきりとそう聞こえた。北浦さんは視線を私から逸らし、顔と耳を真っ赤に染めている。
…え?秘密が何で何が恋だって…?
「…黄色のミモザの花言葉は"秘密の恋"…一目惚れだったよ…今時、あの業界でこんなにも純粋で綺麗な女の子がいるなんて…って…でも、本当はこの気持ちを伝えるつもりはなかったんだ…万が一を考えて鼻の効くハイエナたちに君を餌にするようなことはしたくなくて…だから…お見舞いを口実にあの花を贈って気持ちに区切りをつけるつもりだったんだ…こうなった以上無意味だけどね…それどころか酷い方に裏目に出てしまったし…」
…絶句だった。私が惹かれていた嫌味な人は私を本気で好いていてくれていたのだ。
顔が熱い。これまで流していたものとは違う、一筋が頬を伝う。
ああ、今度こそ舞い上がってしまってもいいのだろうか。
「…とまぁ、こんな形で赤裸々にぶっちゃけた以上、素直に告白するよ……僕は…君が、好きだよ…。そして聞かせてほしい…君は…僕をどう思っている…?」
それはきっと私が欲しくて欲しくて仕方がなかった言葉。きっと向こうも同じだろう。
私は冷え切った手で、同じく冷え切った北浦さんの手に触れる。
「……北浦先生は勝手です…変なところで嫌味なぐらい素直で…そのくせ変な気の遣い方をして…だから……好きです…大好きです…!あんな勘違いして一人で暴走するぐらい大好きです…!責任を取ってほしいぐらいです…!」
精一杯の強がりな笑顔を見せながら、私は返答する。熱い雫が止まらないから説得力はないけれど。
「…それは弱ったね…こういうときの責任の取り方はこれぐらいしか知らないから…」
北浦さんの触れていない左手が顔に伸びてくる。熱が溢れてきて止まらない目元を拭ったかと思った瞬間、唇と唇が重なった。濡れたお互いの唇は冷えていたけど、互いに熱を求めるように触れるだけのキスを何度か繰り返した。永遠に続いてほしい、あまりにも刹那的な時間。
「…甘いです」
「ああ…さっきの君のチョコレートだね」
「ああ…なるほど…」
「それよりさすがに部屋に戻らない?いつまでもここで大自然のシャワーを浴びていたいなら構わないけど…」
「…え、お邪魔しちゃっていいんですか…?こんなびしょ濡れ状態じゃお部屋を汚しちゃうんじゃ…」
「びしょ濡れなのはお互い様だし、意中の女性をこんなところで、はいさようならするほど外道じゃないよ僕は…それに…」
「それに…?」
「…君ともっと一緒にいたいかなって」
…私は今、これ以上ないぐらいに舞い上がっています。