僕を見てて司はとある日、夜鷹純を見つけた。何だか雰囲気が前と違う気がして司は酷く気になる。
(……何か存在が薄い?いやでも私が知ってる夜鷹純って映像で見たスケートしてるやつと、直に会った二回。あとは何故だかあったビデオ通話一回。個人的に凄く知ってるわけじゃない。殆どファンの域のまま。でもそんな私にもわかるくらいには、違う)
「夜鷹さん!」
呼びかけに振り返った純はやはり司には違和感が拭えなかった。
「……君か。なに」
「えっと、あの、夜鷹さん、は……ここで何を?」
純が狼嵜光のクラブ移籍に伴い活動拠点を東京にしていることを司は知っていた。そのため出た質問だったが純はアッサリと答えた。
「なにも」
「え?……狼嵜選手はどうされたんですか?」
「東京に居ると思うよ。詳細は知らない」
「は?貴方、彼女のコーチですよね?」
司としては教え子の状況を把握していないなどあり得なかった。けれどそれに対する純の答えはもっとありえないものだった。
「光はもう僕の手を放れたから。僕はあの子のコーチを辞めた」
そう言った純の瞳は常にある煌々とした煌めきが見えなかった。
◇◆◇
「僕のコーチやってよ」
「う゛!?いやいや無理です!絶対無理!」
「絶対はないって言ったの君だよ」
「そうですけど!?そういう意味じゃないです!!」
唐突に持ち掛けられた純からのコーチ要請は司にとって到底受け入れられるものではなかった。だって彼は夜鷹純だ。全ての大会で金メダルしか獲ったことは無く、彼がオリンピックで滑った得点は未だ誰にも破られず世界最高のまま。司がフィギュアスケートを知った原点。憧れ。
しかも現役を退いて十年以上沈黙を続けた夜鷹純が現役復帰するだなんて世界的ニュースになるに決まってる。世間は知らない。今の純が以前より研ぎ澄まされたスケートを滑ることを。
そんな純のコーチだなんて無理!というのが司の正直な感想だ。そしてもう一つ司には受けれない理由がある。
「無理です!俺はいのりさんの人生も」
司は既にいのりの人生を請け負っている。同時に純ににもその情熱をかけれるほど司は器用ではない。
「うん、それは知ってる。だから僕の人生まで背負えとは言わない。でも諦めきれない。だから、一年。一年だけでも駄目?」
「だ、め」
「練習だって君の都合がつくときで構わない。ただ、僕を見てくれれば良い」
どうにか断ろうとする司に最後まで言わさず、純は言葉をつづけた。
「そんなのコーチじゃ」
「コーチだよ。今までの僕のコーチという名前を称した人間たちもそうしてた」
「……そういうことなら尚更頷けません」
純はコーチをキスクラの飾りと言いきった男だ。それは光に言った言葉らしいが、これまでのやり取りで司も聞いていた。その考えは司とは相容れない。司は、そういうコーチにはなれない。なりたくない。
「なんで?君は違うでしょ。君は僕と同じだ。見るだけで解る。なのに自分で滑らず、教え子に寄り添おうとする。なにより君だから。君が僕が氷の上に戻る理由。僕をもう一度跳ばせる人間。君が導いたんだよ。それってコーチじゃないの?」
今二人が居るのは冷たい氷の上。光の下にスケートシューズを置いて去った純が、そこに居る奇跡を誰が知っているだろうか。
「……貴方は、俺にそういったコーチを望むんですか?」
「うん。傍に居て、僕のスケートを見てくれてるだけで良いんだ」
お願いだよ、と続けられる声に司は断り切れなかった。涙なんて全く流れていないのに、泣きそうに見える懇願に頷きたかったから。なにより憧れにそう望まれて胸が熱くなったのも嘘じゃないから。
◇◆◇
夜鷹純の電撃復帰は予想通り世界に激震を走らせた。けれどその大半は今更ロートルが何をしに来た?といった反応だ。しかしそれは直ぐに覆されることになる。
侮り蔑みすらしていた者たちは改めて理解させられた。夜鷹純は紛うことなく氷上の王だと。
そうして以前と変わらず出た大会すべてで金メダルを獲り、オリンピックへの切符すら手に入れた。そのコーチとして名を刻む司の注目度は半端なかったが、それらは全て純が封殺して問題は無かった。……一部を除いて。
何より一番弟子であるいのりの反対が凄かった。
「司先生は!私がオリンピック金メダリストのコーチにするんです!」
「君は年齢が足りないけど僕は問題ない。明浦路司にオリンピックの金メダルを与えるのは僕だよ」
自身の子どもでも可笑しくない年齢の女の子と真剣に論争を繰り広げる大人気ない大人の姿に司は止める術を持っていなかった。何しろ争いの原因は司だからだ。
「あの、いのりさんも夜鷹さんも」
「司先生「君」は黙ってて」」
「……はい」
どうにか間を取り持とうにもいのりと純に同時に言われ、司はすごすご引き下がるしかなかった。いのりの主張も解る。なにしろずっと司といのりは二人三脚でやって来た。けれど純の言い分も正しい。いのりは次のオリンピックへ出場できる年齢に達してなかったから。平行線を辿ったが、結局純の出場取りやめなど出来るはずもなく、渋々、本当に渋々といのりが引き下がるしかなかった。
そんな純のオリンピックでの滑走直前。リンクに入る前で純は目の上に掌を翳し、司の視線を遮る。
「今から君が見るのは僕だけだよ。さあ目を開けて。何が見える?」
そっと純は翳していた掌を退けた。
「……夜鷹純が」
「そう、僕だよ。君の夜鷹純だ」
純はそう言って満足気に瞳を細める。
「見てて。最後まで一瞬も目を逸らさずに。今の僕のスケートは、君がくれた。だから、お願い。僕を見てて」
「はい」
司の返事を聞いて軽く抱きしめる純に見ている人間から悲鳴が上がる。今までの夜鷹純が見せたことのない動きだったから。
「指輪は受け取れないって君が言ったんだよ?だからメダルをあげる。金色のをね」
「え!?」
突然の宣言に驚く司をリンクサイドに残して、純は氷の上へと滑り出していた。
◇◆◇
当然のようにオリンピックで二度目の金メダルを純は獲った。「何故再び選手に?」というインタビュアーからの質問に「見せたかったし、あげたかったから。前は僕自身の証明のためだったけど、今回は司に捧げたかったからだよ」と平然と答え、傍に居た司が顔を青くしながら赤くなるという器用な状態になったことをカメラはバッチリと捉え、その映像は世界中に発信された。
純と司の関係については色々と良くも悪くも言われたが、純は一切取り合わない。なにしろ純には武器があった。それは純ではなく、司が持っているもの。純はただ、それを世間に知らしめれば良いだけだ。
「僕は王様らしいよ。なら君はキングメーカー?違うよね。君は女王だ。僕に並ぶ人間」
そう言ってエキシビションで司を小道具として連れ出し、アイスダンスを披露したのだ。あの夜鷹純と滑っても見劣りせず、シンクロを見せた司の評価は言わずもがな。世間は司への評価を改めるしかない結果となった。
「私の!司先生なんですからね!!」
「そう」
司の弟子は自分だと主張するいのりに純は淡々とそう答える。それを聞いていた慎一郎が不思議そうに「いいの?」と聞いた。純の司への執着を慎一郎も理解していたからだ。てっきり自分のコーチだと主張するかと思っていた。
「うん。結束いのりが彼女の教え子だという事実は間違ってないから」
純くんも大人になったんだな、と同い年なのに父親のような目線で感心した慎一郎は続いた言葉に「やっぱり純くんは純くんだ」と思わされることになる。
「でも僕は世界公式初の四回転アクセル、アクセル以外の五回転ジャンプ、五回転から四回転へのコンビネーションジャンプ記録。世界最高得点。オリンピックフィギュアスケート最年長ゴールドメダルの保持者のコーチっていう冠を彼女に捧げたけどね」
そう宣った純にいにりは憤慨し、慎一郎は曖昧に笑うしかなかった。
「なにより……本当は女子シングル選手としてが一番良かったけど、自分はコーチだって頑固に譲らないからだけど。オリンピックのリンクで彼女を踊らせることは出来たから」
そう言う純は今までで一番満足そうに笑った。
◇◆◇
「そう言えば君の僕へのコーチ料払って無かったよね」
「いただけませんよ!?」
司は純に技術指導は一切していない。教えることなど無かったからだ。だから純の要望通り彼が滑る際共にリンクに居ただけ。そう自認している。
「うん。君はそう言うから受け取り拒否できないものにしようと思って」
「え?」
「夜鷹純onアイス」
「は?」
言われた言葉を司は理解できなかった。「夜鷹純onアイスってなに?いや、まさか。でももしかして……」と困惑と期待に声が出ない。
「僕がノービスから二十歳で引退するまでの約十年分のプロ、その年で一番評価が高かったものを全部滑るアイスショー。どう?」
是非!という返事しか司には持ち得なかった。