いつでもお好きに「高3にお弁当作ってもらうなんて、やっぱり気が引けるなぁ…」
星奏大学に入学して朝日奈唯が借りたワンルームのマンションには、恋人である成宮智治が、毎日のように顔を出している。
「俺がやりたいだけって言ってるじゃないですか。先輩は気にせず課題を続けててください」
「でもさぁ…」
教材を広げていたローテーブル兼こたつから、朝日奈はのそのそと這い出る。キッチンで腕を振るう後輩のすらりとした背中は、よく見慣れた姿だ。卒業をわずかに残したころ、もう彼のこんな姿も見られなくなるのかと感慨を深めたものだが、ほどなく成宮に告白されて交際することになり、舞台が菩提樹寮から自分の部屋の狭いキッチンに移動しただけだった。置きっぱなしにしている焦げ茶色のエプロンをつけて、彼がこの狭い台所に立ってから、もう1時間は経っただろうか。
「夕ごはん作って待っててくれたのに、明日のお弁当もなんて。私、年上なのに…」
「話してませんでしたけど、俺、小学生のときに交換留学に行ってたんですよ。それで1年留年してるんで、じつは先輩と同い年…」
「はい嘘」
「あはは、バレました?」
「わかるよ-。成宮くん、わかりやすいもん」
「ふふっ、残念だなぁ。なかなか信じてもらえなくなっちゃいましたね」
背後から抱きつくようにのぞき込むと、言葉とは裏腹に笑う成宮の表情は思いのほか明るい。最近の成宮は、わかりやすい嘘をついて朝日奈に指摘させるのがブームで、理由を聞いたら「先輩と通じあってる気がして嬉しいんですよね」と悪びれずに破顔した。
(気がするもなにも、普通に通じ合ってると思うんだけどなぁ…)
付き合って三ヶ月経ったが、朝日奈はいまだに成宮の態度が、いまだにどこか腑に落ちない。人前でいちゃつきたがったり、すぐに将来の話をしたり、積極性はあいかわらずなのに、変なところで遠慮したり、過剰に不安がったりする。
(私、こんなに成宮くんのこと、好きなのになぁ…)
ぎゅうっと広い背中を抱きしめると、成宮が小さく息をつめた気配がした。なぜ、そこで緊張するのか、朝日奈にはよくわからない。すりすりと頬をよせると、「先輩」と喜びに隠せない甘い声が返ってくる。朝日奈は背伸びをして、成宮のうなじを、ぺろと舐めた。
「ちょ、っと先輩、なにしてるんですか」
「いつもの仕返しー」
うっすら浮かび上がる頸椎に、ちゅ、ちゅと唇をあわせる。成宮が困ったように息を吐く。
「先輩。揚げ物してるときに悪戯は危ないですよ」
「うち、IHだし。成宮くんは、気にしないで続けてていいよ」
「続けてって……」
ぐいっと制服のシャツをまくりあげ、エプロンの肩紐にひっかけ成宮の背中をあらわにする。
「うわ、大胆ですね」
「揚げ物で動けない今がチャンスなんだもん」
「なんのですか?」
「成宮くんを私の好き勝手に攻略するチャンス」
「ふは、なんですか攻略って」
噴きだす成宮の背中に何度も探るように唇をつける。
「ふっ、ふふ……くすぐったいなぁ。先輩、後でいくらでも俺を好きにしていいですから」
「それじゃダメなの。それはもう結局、成宮くんのターンなの」
「やだな、そんなことないで――」
巧みな成宮の言葉を遮るように、つま先立ちで、なだらかに盛り上がった左側の肩甲骨に、かり、と歯を立てる。
「っ、」
びくと強張った背中に、朝日奈は口角を上げた。
「きもちい?」
「くすぐったい、です」
どこか頑なな声は、成宮の本心を逆に物語っている。
「それだけ?」
気をよくして、朝日奈は大胆に舌を這わせる。
「ッ、せん……」
かた、と何かが落ちる気配。次の瞬間、じゅわじゅわっと音がして、パチパチッと油がはねた。
「わ」
「先輩!」
さっと背中にかばわれ、直後、腕の中に閉じこめられた。
「怪我はないですか? 火傷は――」
「私は平気だよ、成宮くんこそ…」
大丈夫ですよ、と微笑む成宮の奥を見ると、鍋に菜箸が落ちている。
「ごめんね、びっくりさせたかな…。呆れちゃった?」
目を逸らす朝日奈の髪を愛おしそうに撫でて、成宮は翡翠色の美しい瞳を細めた。
「ふふ、知れて嬉しいですよ。先輩にこんな、困った彼女さんな一面があるなんて」
むうと朝日奈は眉を寄せた。
「お弁当に、毎回ラブレターつけてくる彼氏に言われたくないですー! あれすっごい恥ずかしいんだからね?! パンキョーのクラスの子、全員に見られたんだから!」
「ははっ、それはよかった。狙い通りです」
満足そうに破顔して、腰に手をまわしてくる成宮を朝日奈がはたく。
「笑いごとじゃないの! まわし読みされる身にもなってよ!」
「…それだけ不安なんですよ。許してください、先輩」
成宮が以前より心を許してくれるようになった、と朝日奈が感じるのはこういう瞬間だ。前なら、誤魔化すばかりで漏らさなかった心底の弱音を、徐々に明かしてくれるようになった。
「不安になる必要なんて、ないのに」
朝日奈はできるだけ優しく零れ落ちた髪を耳にかけてやったが、成宮は笑みを深めるだけで返事をしない。
「…私だってかっこよくてモテる年下の彼氏がいるから、普通に心配になったりするんですけど」
気恥ずかしさに視線を逸らす朝日奈の頭を成宮がぽんぽんと撫でる。
「大丈夫ですよ。そんなにサービスしてくれなくても、おとなしく寮に帰りますから」
先輩に、卒業までお付き合いはお預けとか言われたくないですし。寂しそうに笑ってみせる年下の恋人に、朝日奈はムカムカとわきあがる苛立ちを覚えた。
「…成宮くんさ、まだ片想いと勘違いしてない? 」
「えっ?」
「さっきキスしたのも、べつに寮に帰らせたくて、サービスしてたとかじゃないからね!? 成宮くんの気持ちいいところ、見つけたかっただけなんだから! いつも私ばっか優しくされて、感じる場所もいっぱい見つけられて、私だって成宮くんにもっと気持ちよくなってほし――」
ぱさ、とエプロンを取ると、成宮は何も言わずに朝日奈を横抱きに抱きあげた。え、ちょ、と戸惑う朝日奈にかまわず、とさっと彼女をベッドに寝かせる。そのまま覆いかぶさってきた成宮は、制服のネクタイを引き抜き、ボタンをふたつ外した。それから、これみよがしにシャツの襟元をはだけさせ、端正なその顔に、とびきり妖艶な笑みを浮かべた。
「どうぞ――」
息がかかるほど顔を近づけて、人前では出さない、格別の低く甘ったるい声で囁く。
「俺を好きに攻略してください、先輩?」
ぶわわっと頬が紅潮するのを感じながら、朝日奈は眉をつりあげた。
「っ、また! やられた!」
「あははっ、気のせいですって。――大好きですよ、俺の朝日奈先輩」
うっとりと蕩けるように微笑む成宮があまり満ちたりて幸せそうなので、それ以上文句も言えず、朝日奈は成宮のシャツの襟をつかんで引き寄せた。
☆ ☆ ☆
授業前のランニングが終わり、二人ひと組での屈伸を交代しようとしたとき。成宮の組んでいたクラスメイトが、
「モテる男は大変だな」
と成宮の背中を指差した。
「なにが?」
「うなじにキスマークつけられてるぞ。気づいてなかったのか?」
「え?」
いつのまに、と記憶を探っても、昨晩ベッドの上で彼女にその余裕を与えた覚えはない。クラスメイトの見間違いでは、と思いかけたところで
『いつもの仕返しー』
めずらしく彼女から自分に触れてくれた、最初のあのときか。昨夜のあれは、彼女らしい悪戯心と、自分の奉仕への申し訳なさで、かまってくれただけだと思ったのに。
『…私だってかっこよくてモテる年下の彼氏がいるから、普通に心配になったりするんですけど』
どっと頬が熱くなるのを感じる。
「…結構本気だったのかな、先輩…」
焦れたクラスメイトに声をかけられるまで、成宮はしばらくニヤける口元を隠し、その場に立ちつくしていた。