旅は結婚のようなもの(ob-la-di ob-la-da後日談) 朝日奈と銀河の電撃結婚もとい『婚約』事件から数週間が経過した、ある日曜の朝。
スターライトオーケストラは前日も遅くまでコンサートがあったが、次の金曜にべつの新曲を披露する路上ライブがひかえており、朝も早くから合同練習を予定していた。
それでも疲れを隠せないオーケストラメンバーが、三々五々と食堂へ下りてきたのは9時手前。朝食の支度はすっかりできているようなのに、肝心の、それを作っていたらしく男の姿が見当たらず、集まったメンバーは顔を見合わせた。この場に来ていないのは、成宮、竜崎、朝日奈、そして一ノ瀬ぐらいだ。
「どうする、先に食べちゃう?」
空腹に耐えかねたようにおなかをおさえながら、榛名がつぶやく。
「作ってくれた成宮に無断で食べちまうのは、さすがに悪いだろ」
苦笑をして桐ケ谷がなだめ、うんうんと南が頷く。
「そうやね~。ほとんど出来てるけど、まだ完成はしていないみたいやよ」
そうなんだ、と榛名が眉を下げたとき、
「すみません、こっちです。すぐ行きます」
と声がした。どうやら食事当番は、すぐ隣のラウンジにいたらしい。
よほど空腹なのか、榛名は立ち上がり、たたっとラウンジに駆けていく。つられて、弓原、南も連れ立ち、榛名の「なにかあるなら僕が手伝うから、ごはんの続き作って」という台詞を苦笑しながら耳にした。と、そこへ目に入った光景に、弓原が目を丸くした。
「ちょっと、なにこれ! 共用スペースをこんなに散らかして!」
ラウンジのソファテーブルには、一面に(ついでに床にも)、色とりどりのフライヤーが並べられていた。
「ふわあ〜、すごーい! 全部、旅行のパンフレットさ〜!」
はしゃいだ南の声に、赤羽や三上、次いで好奇心を抑えられなかった三年生や、残りのメンバーもラウンジに顔を出す。
「国内、海外…スッゲェ、秘境とかもある! めちゃくちゃ楽しそう!」
「こんなにあると、見てるだけで旅行しているみたいな気分になるな。あ、ニューヨーク…」
「素敵ね。国内にも砂漠横断ツアーなんてあったのね」
散らばったパンフレットを片付けようとしていたらしき成宮は、集まってきた面々に、困ったように見上げた。床に落ちていたものを、ひとつふたつと拾いあつめ、テーブルの脇にそろえて置く。その隣のカウチでは、朝日奈が爆睡していた。
「朝日奈、またこんなところで寝てたのか……」
と呆れたように九条がため息をついた。成宮はますます困惑したように眉を寄せた。桐ケ谷は怪訝そうに首をかしげながら、一歩前に出た。
「成宮、なんなんだよコレ。スタオケの講演ツアーのための資料ってわけでもねえだろ?」
「えっと、それがですね……先輩、新婚旅行の行き先に悩んでるらしくて……」
ずり落ちた毛布をかけ直してやりながら、成宮は申し訳なさそうに一同を見渡した。
「……ああ……」
誰のものとも知れぬ呻き声めいた相槌とともに、しんとした気まずい空気が場を支配する。
朝日奈唯と一ノ瀬銀河の突然の『結婚』と『卒寮』と『再入寮』という地対艦ミサイルのごとき破壊を行った一連の出来事について、スターライトオーケストラの面々は一同暗黙の了解のもと、田舎の村に伝わる恐ろしい禁忌であるかのように一切話題にしないことで、日常(という名の彼らの平常心)を保ってきた。だからこその、成宮の申し訳なさそうな解説なのである。
冷や水をかぶせられた一同の気まずい沈黙を破ったのは、わざとらしく不愉快そうに眼鏡を押しあげる刑部だった。
「悩んでるうちに寝てしまった、というわけか。フン、呑気なものだね」
「下手な芝居はよせよ、生徒会長。声がひっくり返ってんぞー」
「耳掃除ならいつでもしてやる。ちょうど釘バットを新調したのでね」
「あ? なんだ。やんのか?」
苛立ちをお互いにぶつけあうように睨みあう常工の二人をよそに、鷲上がぬいっと一歩前に出た。
「しかし、このままでは風邪をひく。部屋へ運ぼう」
流れるような所作で朝日奈の身体の下に両腕を差し入れようとする鷲上の腕を、隣に控えていた成宮ががしっと掴んだ。
「寝る前の先輩に相談を受けたのも、その後に朝まで側についてたのも、俺なので。俺が運びます」
「朝まで…? しかし成宮より、俺が適任だと思うが…」
「え、ひどいなぁ。どういう意味ですか?」
ショックを受けたふりをしながら、ニコニコと成宮が微笑む。もちろん鷲上の腕を掴んだままだ。不穏な二人に割り込むように南が、「ええっと」とひょっこり顔を出した。
「源一郎〜、成宮くんひとりが心配なら、ボク、手伝うよ〜。こう、脇をボクが抱えて、膝を成宮くんが持てば…」
「南さん。多分、そういうことじゃないと思う」
流星につっこまれながら、片方はにこやかに、片方は無表情に睨みあう二人を、南はハラハラも見比べた。そこへーー
「あー、いいっていいって。俺が運ぶわ」
背後から、一ノ瀬の声がした。
「おはようございます、一ノ瀬先生」
「おー、いい匂いだな成宮」
へらっと成宮に笑いかけながら、一ノ瀬は鷲上の背中をぽんぽんと叩いた。
「つうか起こすよ。こいつ寝起き悪いし、俺と約束もしてたんだ」
「…わかりました、お任せします」
無表情ながらも無念そうに声を落としながら、鷲上は立ち上がった。成宮も場所を譲り、一ノ瀬がソファの横に膝をつく。
「おーい、コンミス。起きる時間だぞ〜。おい。朝の特訓、約束してただろ」
耳元で一ノ瀬は声を張ったが、朝日奈は一向に起きる気配はない。むにゃむにゃと言葉にならない呟きを漏らしながら、仰向けだった体をぐりんとソファの背とは反対側ーーすなわち一ノ瀬側にむける。
「こら、起きなさいって。コンミスとしてしめしがつかないぞ!」
ゆさゆさ、と一ノ瀬が肩を揺らすと、んん、と伸びのような動きをして、朝日奈は両手をでろん、と一ノ瀬の方に差し出した。そのまま、のぞきこんでいた一ノ瀬の首に巻きつける。
「こら苦し、あさひ、…唯、唯! ぐぇ、起きろ…!」
ひときわ大きな声で一ノ瀬が朝日奈の二の腕をはたいたと同時にーー
「んんん、ぎんがくん〜〜…」
夢うつつの朝日奈が、ずいっと首をもたげ、絡まるように一ノ瀬の口元に唇を寄せた。
「わぷ、ちょ、んむっ」
慌てる一ノ瀬をよそに、ちゅ、ちゅうぅ、と甘えるように朝日奈が口付ける。
「うわ……」
誰のものともしれぬショックのうめきが、オケメン一同から上がったとき、ガタンッと開いたばかりの廊下のドアに、なにかがぶつかる音がした。
「な、な、なな…ッ、何をしている破廉恥だぞ朝日奈アァ!!!」
遅れて入ってきた竜崎が度肝を抜かしてドアにぶつかったのだ。
「ひ、ひえッ!! ご、ごめんなさい竜崎くん…!!」
ようやく目を覚ました朝日奈が、不思議そうに周りを見渡す。夫の一ノ瀬銀河をふくむスターライトオーケストラ一同に、みるみる頬を染めながら、目を丸くする。
「…あ、れ? みんな、なんでここに…?!」
「寮の公共空間だからに決まってるだろう!! おまえというやつは公衆の面前で何を考えている…!!」
がつがつがつと大きな足音とともに、ソファに歩み寄った竜崎は、朝日奈の耳をつまみあげた。
「ひいっ、い、いたたた! ごっ、ごめんなさいごめんなさい…! へ、部屋かと思ったんだよぉ~…!!」
「だいたい一ノ瀬先生も一ノ瀬先生ですよ! ふたりとも、立場と状況を理解していなさすぎです!!」
「いや、俺は何もしてないって! 朝日奈も寝惚けてただけで…」
「だからといって!! やっていいことと悪いことがある! ここは学院の敷地内なんですよ?! そもそも、日ごろの行いがーー」
とどまることを知らない竜崎の説教を朝日奈は神妙に聞いていた。その背後では気まずそうにしたり苦笑したりショックを受けて凍りついている者たちに混じって、昨夜朝日奈が熟読していたパンフレットのうちのひとつを、笹塚が手にとっていた。
「へえ、悪くないな。ロンドンは音響がいい、面白い音が録れるぞ」
「待て笹塚、まさか一緒に行くつもりじゃないよな…?」
怯えたような笑みを浮かべながら、仁科が笹塚の手のパンフレットを引き抜こうとする。
「当然、行くだろ」
「ばっ、なんでコンミスの新婚旅行に俺らが…!」
「ネオンフィッシュじゃない。オケの新曲なんだから、全員必要」
絶句して、「いや、なに言ってんの…」などと口をぱくぱくさせている仁科の隣で、
「ヤバい、この展開は絶対ヤバい……」
と三上は早くも一人頭を抱えていた。赤羽はすでにキラキラと目を輝かせて朝日奈のほうを見ている。
「うわあ、それメチャクチャ楽しそう! そうしようそうしよう、ねっ銀河くん!」
弾む声で一ノ瀬に飛びつく朝日奈の肩を、ギョッとした九条がつかむ。
「朝日奈! いくら相手が一ノ瀬先生でも、さすがにそれは…」
九条は純粋に朝日奈と一ノ瀬の関係を心配していた。だがーー
「お〜、いいぜ〜? 面白そうじゃん。新婚旅行で収録するスタオケの新曲なんて、気合が入っちまうなぁ。いっそCDにしちゃう?」
などと、当の一ノ瀬がニッカリ笑ってしまった。
「やったーーー!! 決っまりーー!! みんなで行くぞォーー!! スタオケのデビューCDだーーー!!」
ぴょんぴょんと飛び跳ねる朝日奈と、満足げな一ノ瀬を、絶望的な顔で九条が見比べる。
「おい冗談じゃないぞ、朝日奈…! 行かないからな…?! 俺は絶対に行かないからな…!」
九条の必死の拒絶を、朝日奈も一ノ瀬も全く聞いていない。おい、と数度目の呼びかけに、ポンポンと背後から肩を叩かれた。
「無駄ですって、九条先輩。あの勢いの先輩を止められるわけないじゃないですか」
「だからって、行く気なのか…?! 新婚旅行に、一緒に?! 成宮、おまえまで?!」
「行きたいのか行きたくないのかって訊かれたら、そもそもこの世に存在しないでほしいですけど……行きますよ? 先輩と一緒にいられるじゃないですか」
にこやかに不穏な言葉を混ぜながらもキッパリと言い切る成宮に本気の不安を覚え、九条が言葉をつまらせていると、一ノ瀬が、まあまあ、と声をかけた。
「いいじゃねえか、九条。『旅は結婚のようなもの。コントロールしようとすること自体が間違いなのだ』ってスタインベックも言ってるしな。一緒に楽しもうぜ」
「スタオケの他のメンバーは結婚もしてないし関係もないんですよ…!!」
「朔夜~~、行こうよ~~! 朔夜がいないとスタオケの音にならないよ~~!」
「離せ、朝日奈!!! 君はもう人妻だろ、くっつくな……!!」
すがりつくように朝日奈に腰にぶら下がられ、朝日奈の腕を振りほどきながら(これ結局、俺も無理矢理連れて行かれるやつだな…)と九条は気の遠くなるような長いため息を吐いた。