サバイバー太陽が西にやや傾いた頃。
一応仕事中の身であるにも関わらず、無数のモニターに照らされながら無気力に虚空に視線を投げ続ける。
──最近、春の陽気にあてられたのか、どこかうわの空でうだつが上がらない事が増えている。
対策として、意識して小休止を挟んでみたり体を動かす量を増やしたりしてみても日に日に悪化していくだけでなんの気休めにもなっていなかった。
らしくない……
組織で高い地位にいる自分がこれでは部下に示しがつかないだろう。
眼前に広がる無数のモニター達。数年前に起こった大火災から復旧しつつあり、今はそのほとんどが以前までと同じかそれ以上に異人町に目を光らせている。
表に出て動く事が多い自分にとって、再び平和になった今「特にする事もないから」とここの監視をさせられるというのは、どうにも役不足に感じてしまう。
故に、この憂鬱が過度な疲れからくるものではないのは明白だった。であれば眠りの質が落ちているのか?とも考えたが、筋肉には充分な睡眠が必要なのを重々承知している自分に限ってそれもないだろう。……ほんの少しだけ布団の中で動画を見ていることはあるが。
今日も何度目になるのか。背もたれが反るほど大きく背伸びをすると座っているオフィスチェアが「ぎぃ」と軋んだ。更に強く限界まで伸びきり、脱力。続いて腰を捻ったり肩の筋肉を伸ばしたりとストレッチをして大きく息を吐く。
このままだといよいよ体が鈍ってしまいそうだ。
『役不足』────
少し前にそんな話をしたばかりだった。
何度反芻したか分からない会話。その会話の相手。その人に想いを馳せ始めた時、モニターの1つに目を惹かれた。
仕事が手に付かなくなる原因の1つがそのモニターだった。無意識の内にそのモニターにばかり目がいってしまい、次第にうわの空になっている。
今もそうだ。何かを渇望するように、ボーッとモニターを見つめてしまっている。
……ふと。
モニター内に映った動きを見てハッとした。
途端に高揚する感情……。
この感覚は記憶にあたらしい。
そうか、この憂鬱の正体は……。
答えに行き着いた瞬間ガタンと立ち上がり、その足はモニターの映す先へと向いていた───
出入口の前に立ち止まり、荒れた呼吸を落ち着かせる。
「サバイバー」
スナック街の一角に看板を置く店。この町で飲みに困った時はもっぱらここに足を運んでいる。
かちゃり
金具が回る音を立て木製の扉を開ける。
ひねったドアノブは、いつもよりもなんとなく重く感じた。
「いらっしゃいませ。おや、……お久しぶりですね」
鼻骨に横一線の傷跡を携えた強面な眼鏡の男。店主としてカウンターに立っているが、この人相に加えて愛想も良くはないため客を選ぶ店だとつくづく思う。
まぁ、そんな店を選んでいる客の1人なのだからとやかくは言えないが……。
「どうも」と挨拶もそこそこに、店内を見回す。顔に似合わずシックに整えられており良く手入れもされているのだが、店主のあれこれも手伝ってか伽藍としている。この店にとっては珍しいことでは無いのだが、とある人影を求めやってきた自分にとって、今この瞬間に限っては別だった。
とぼとぼカウンター席に着いて、ため息。
人ひとり分の隙間を残し置かれたピアノの陰も確認してみたが、やはりハズレで更に肩を落とす。
「……どなたかお探しですか?」
これ見よがしに思われたのだろう。
こちらに目をやる事なく、忙しなく手元を動かしながら面倒くさそうに問いかけてきた。久しぶりに顔を見せたと思ったら着きしな露骨に落胆されたのだから無理もない、声をかけてくれるだけ有情だろう。
「いえ…。あの、先程ここに誰か来ませんでしたか」
うなだれたまま顔を上げることもなく問い掛ける。
質問に質問で返すのが無作法なのは百も承知であるが、生憎それを気にする余裕もなかった。
さしずめ入れ違いになったか、ここで待ち合わせなりをしていてとっくに店を発ってしまったのだろう。そう自分に言い聞かせるも気持ちは曇っていくばかりだ。
しかし、そんな自分に掛けられた言葉は、なんとも呆気ないものだった。
「あぁ、春日ですか。アイツなら2階で寝てますよ」
「……は?」
勢いよく顔を上げ、口をぽかんと開ける。
一拍置いて、その言葉の意味を噛み砕いたのと同時に体は席から飛び立っていた。
──慌てて階段を駆け上がった先で、彼は呑気に布団を敷いているところだった。
「うおぉ!びっくりした…って、ハン・ジュンギか」
既に昼を過ぎた今、東向きの窓からは朧気な陽だけが差しておりぼんやりと薄暗い。
そんな陽の光を探るようにして敷かれた布団を目の当たりにして、頭の中は疑念でいっぱいだ。
「……なにしてるんですか、それ」
「あ、あぁ……ちょっと、昼寝しよっかなー…って」
ジトッと呆れた視線を送ると、彼はタジタジしながら頭をかいて目を逸らす。
「昼寝……。自分の家でなされたらよろしいのでは?どうしてわざわざ」
「いやっ、前にちょっと昼寝で借りたことあってよ。気に入っちまって今もたまに借りてるんだ。ほら、俺の部屋って結構西日入るからさ」
「はぁ…………」
呆れて物も言えないとはこの事だろう。
彼の突拍子のなさを痛切に思う。
本当に呑気なものだ、人の気など知る由もないのだろう。
「ところで、俺に用事があったんじゃないのか?あんな大慌てで。」
「─あ。」
あまりに拍子抜けだったものだからここに来た肝心の理由が頭からすっぽ抜けていた。
思わず「それは…」と口ごもってしまう。馬鹿正直に話せるようなことではないのでどう説明したものかと思考を巡らせる。
うんうんと悩んでいたところ、彼はなにやら動き始めていた。見ると布団をもう1組準備し始めている所だ。
「…………どういう風の吹き回しですか?」
「お前もちょっと休んでいけよ。何かあったのかと思ったけど、その感じだと大至急ってワケじゃないだろ?」
はにかんで見せた彼は、そう言いながらテキパキと準備を続けている。
ご丁寧にマットレスまで敷いていたりと妙に手付きが小慣れているのがここで世話になった回数を物語っている。
(そういえば、以前ここを溜まり場の休憩所に使わせてもらっていた時にも布団担当は春日さんだった気がするな…)とぼーっと見ている内に、押し入れ側に置かれた枕とあえて選ばれたタオルケットがセットされた布団が、窓から少し離れた位置に手前と奥で2組完成していた。
「あの…せっかくですが、私は……」
遠慮します。そう続けようとして、言葉を止める。
布団の準備を終えてこちらに振り返った春日さんの顔が、目が、ひどく優しかった。
まるで全てを見透かしたようなその表情に、思わず言葉が詰まってしまった。
「今日は俺とアンタしかいないぜ。……たまには肩の力抜けよ、キム・ヨンス」
いたずらっぽく細められた瞳が、「自分」を捉えて離さない。
有無を言わせぬその優しい圧に、「ぐ……」と詰まった声で白旗を上げた。
(本当に、この人は…………)
妙なところだけ察しのいい彼。
思わず「どこまで分かってるのか」と問い詰めたくなるが、流石に野暮というものだろう。それに、ポーカーフェイスで素性を隠しながら生活するよう心掛けている自分にとってやたらと見透かされるのは面白くなかった。
上げられた白旗に満足したようでいつもの笑顔に戻る。そんな彼を横目に体を滑り込ませ、2つ敷かれた布団のうち、より日当たりのいい奥側の布団に突っ伏すように寝転がり奪取した。
うつ伏せのまま「これでおあいこです」と吐き捨てると、後ろで嬉しそうに失笑される。
拗ねる自分に続いて、彼ももう1組の布団に寝そべった。
─────
「悪ィな、陽のあたる場所狭くて並べるしかなくてよ」
狭い光を取り合うようにして敷かれた2組の布団はピッタリとくっつけられている。
確かに、傍目から見て体格のいい大の大人が狭苦しく寝ているのは中々の絵面だろう。
「別に構いませんよ。おかげさまでとても暖かいので」
「そーかい」
「……そういえば、今は私達しかいないと言いましたよね。1階にはマスターがいるのでは?」
「あぁ…マスターなら『後で買い物に行く』からって俺に留守を頼んでったからもう居ないんじゃねえか?」
「買い物?私が来た時にはまだのんびりした様子だったような……。というか留守を頼まれてるならそれこそ寝てる場合じゃないと思いますが?」
「ま…まぁ細けぇこた良いじゃねぇか!」
どこか歯切れの悪そうな様子に眉を顰める。
この人は口八丁で人を丸めこむのがやたらと上手いのだ、どうせなにか裏があるに違いない。
「……あ。あなた、私を留守番をサボる共犯にするつもりですね!?」
バッと体勢を変えじっとりと睨みつける。
言い訳でも考えているのか、少し目を泳がせて1拍挟み、「……ばれた?」と苦笑い。
「けど、俺からの誘いならどうせ断らなかったろ?」
と続けた彼は口角を上げ、不敵に笑ってみせる。
その言葉に大きくため息をつき、またヘナヘナとうつ伏せになった。
正直なところ図星だから殊更困るのだ。
無駄な足掻きと分かっていながら声を絞り出す
「さて、どうでしょうね。今からでも帰ったっていいんですよ」
「釣れないこと言うなって。お前のそういう人間らしいとこ、俺は好きだぜ、キム・ヨンス。」
「………………全く。」
1を言えば10の善意で返してくるのだ、この人は。
"キム・ヨンス"……捨てたはずの自分の名前。
外部の人間だとこの人にしか教えていない。
春日さんは時々こうして2人きりになるとこの名で呼んでくる。茶化すように言うが、その言葉の裏にはいつも彼らしい優しさが隠しきれないほどに満ちている。
いつもなら、あるいは彼以外の誘いであれば断っていたかもしれない。
しかし、たまには甘えてみても───
……目を閉じると、自然と聴覚が研ぎ澄まされる。
人々の行き交う街の喧騒。風に撫でられる木々の葉。
各々の目的地へと走っていく車達。
どの音もそう離れた場所のものではないはずなのに、この空間だけが世間から切り離されたような感覚に微睡んで暫し浸る。
たった2人の大人ですら手狭なこの部屋すら照らしきれない曖昧な陽光も、暑すぎず眩しすぎずで最高の掛け布団となり、心地良さを十二分に手伝っている。
あえてタオルケットを選んだのもこれが理由だろう。
もぞ、と首だけを動かし右隣の布団を見やる。随分と寝付きがいいようで、春日さんは既にすやすやと寝息を立てており、仰向けに寝る彼の腹と、その上に無造作に投げられた左手が規則的に上下している。
心臓が早鐘を打つ。
少し手を伸ばせば触れてしまえる距離で、彼は無防備に眠っている。それが妙にもどかしく感じてしまうのは何故なのか……。
ぼうっと考えを巡らせ、遂に行き着いた答え。
(どうしてもっと早く気付かなかったのだろう)
ここ最近の、どこか憂鬱で、どこか落ち着かない日々。その原因は春の陽気にあてられたわけでも役不足の仕事に不満があったからでもなく、ただ……
(貴方に会いたかったのですね、春日さん)
あの時モニターに映った、サバイバーに入っていく彼の姿。その映像に妙に駆り立てられた情動。
2ヶ月以上前になるだろうか。ある案件で一時的に多忙になったタイミングがあり、そこで今の業務を手伝い始めた。散々役不足だなんだと言っているが最初は本当に忙しかった。
これを境にサバイバーからは足が遠のくことになる。
ここ数年は裏社会の人間として会わないことを選択していたため、その癖が出ていたのだろう。
ここ最近の憂鬱に結び付けられない程に、会えない溜飲を抑えることにも慣れてしまっていた。
否、慣れたつもりだったのだ。
事実、こうして飛び込んできてしまっている。
ハワイでの再会でタガが外れたのだろう、前以上に皆に…彼に会えない事がストレスになっていたようだ。
そして、ハワイでの再会の時にも感じていた胸の高鳴り、高揚する気持ち……。今日の情動はこれに似ていた。しかし決定的に違うことがある。それは、この感情の行先が春日さんただ1人に向いている事。
春日さんに会えるのはもちろんの事、彼や仲間達との共闘に胸を躍らせたのが前回だった。
ずっと思っていた。
主人以外に"自分の名前"を知り"自分"を見てくれる唯一の存在。自らの意思だけで国すら跨いでみせてしまった存在。
そんな彼に向けているこの感情の正体について。
─無論、そこまで自分の気持ちに鈍感ではなかった。ただ、気付かない振りをしていた。
─おもむろに、腕を立たせて起き上がり、彼に覆い被さるように上半身を跨がせる。
ちょうど押し倒したような姿勢。
少し顔を寄せるだけで鼻先が触れてしまう距離だ。
「……春日さん」
喉奥から絞り出した声は震えていた。
彼が寝付いてからさほど時間は経っていない、眠りも浅いはずで些細な事で起きてしまうだろう。
しかし、いっそ起きてくれたのなら……?
「春日…さん」
返ってくるのはやはり、触れた鼻先の寝息だけ。
彼に聞こえてしまいそうなほど強く、早く心臓が脈打っているというのに、肝心の当人は呑気なものだ。
この油断を突けるなら
心を乱してしまえるなら
この手に落とせるなら
……そして今、それが出来るのが自分であるなら
軽く、唇が触れる。
胸が詰まった気がして一瞬顔を引いてしまい、瞼を閉じてもう一度。
やわらかく、それでいて強かに唇を重ねた。
(あなたに会うために息を切らして走ってきたのだと知ったら、あなたはどんな反応をするのだろう
…きっと素直に受けとって、無自覚に笑って、なんでもない事のように済ますんでしょう)
もし、薄く開いた唇に舌をねじ込んで、貪るような口付けをしてやれば、その余裕を崩せるだろうか──
そんな貪欲な感情を必死に抑え、惜しみながらゆっくりと顔を離す。
「…………お慕いしております、一番」
果たして答えを求めていたのか、自分でも分からない。それでも、この切なさを言葉にせずにはいられなかった。
「んぐ……ぅ…………」
一瞬、心臓が跳ねる。
起きてしまっただろうか……そう思い様子を伺うが、それっきりまた寝息を立て始めた。
途端に襲う脱力感。
そのまま再びゴロンと布団に寝転がる。
心臓は中々落ち着かず、未だバクバクと騒ぎ続けている。そんな事など露知らず、隣の男は構わず心地よさそうに再び寝息を立て始めた。
大きく息を吸い込み、「ハァーーーー……」と力いっぱいのため息を吐く。
「全く……甲斐のない人だ。」
天を仰いでポツリとボヤき、静かに瞼を落とした。
【おまけ】
(──♪ ──♪)
ある日、春日のスマートフォンか鳴った。
どうやら着信のようだが、発信元は"非通知"。
普通であれば訝しむ所であるその表示に、春日には心当たりがあり特に躊躇いもなく応答のボタンを押す。
「……もしもし 春日。私だ、ソンヒだ。」
ソンヒ──"コミジュルの女王"と呼ばれている彼女は、現在の異人町の裏社会を統べていると言っても過言ではない。そんな彼女だが、春日とは奇妙な縁で繋がっており、今でも度々顔を合わせ酒を飲み交わす仲でもある。
とはいえ裏社会を生きる人間。いくら春日と言えど流石に連絡先は伝えておらず、こうして一方的に連絡してくるのが主だった。
「だと思ったよ。ちょっと久しぶりか?」
「あぁ…ちょっと立て込んでてな。最近やっと落ち着いたんだ。」
「そいつはお疲れさん。てことは人手が要るってワケじゃないよな、どうした?」
電話の内容は、最近の調子や些細な出来事を互いに話し合う、意外過ぎるほどの至って普通の世間話であった。多少身構えていた分拍子抜けだったが、それなりに話に花を咲かせる。
そうして話すうち、次第に他の仲間達の話へと移っていった。
「───フフ、そうか。アイツらも相変わらずみたいだな。」
「わざわざ俺から聞かなくてもどうせ見てたんじゃないのか?」
「まぁな。とはいえ、私は監視に張り付いてはいない。どうせならより身近なやつの口から聴けた方が情報も鮮明だろう?」
「へっ、じゃあ次は直接本人達にも聞きに来いよ」
異人町全域に監視網を張り巡らせるコミジュル。
この街で隠し事は通用しない情報通であり、その総帥たる彼女も当然情報には長けているはずだ。
それでも尋ねてくるのは、彼女なりに寂しかったのではと邪推してしまう。
「……あ。そういやよ」
不意に、ある人物の顔を頭に浮かべた。
「ハン・ジュンギはどうしてる?忙しかったんだろ?」
「あ、あぁ。アイツな……」
「なんだ?…なにかあったのか?」
「いや……ところで春日、お前、昼寝にサバイバーを使っていたことあったよな?」
「…………は??」
曰く、ハン・ジュンギは最近うだつが上がらない様子だそうで、その理由に春日ら仲間達と会えていないところにあると見ているらしい。
裏社会に身を置く者として自重し顔を合わせずにいた期間が長く、その癖が抜けきっていないようだ、と。
そこで春日には、ハン・ジュンギがサバイバーに来たところを捕まえ、ついでに少し休ませてやって欲しい……とのことだった。
「私が直接言ってやってもいいんだが、それだと仕事として受け取るか素直に受け入れないかのどっちかになりそうで……。
それに立場上、気を弛めろとも言いづらくてな」
電話越しでも気恥ずかしそうな様子が伝わってくる。(素直じゃない上司だ)と春日は肩を竦めた。
「……それは全然構わねぇけどよ、肝心の本人はどうすんだ?アイツが来ないんじゃやりようねぇだろ」
「お前が1人でサバイバーに入るところを見ればその内すっ飛んでくるさ。」
「あ?……なんだそれ?」
「…マスターにはこちらから伝えておく。『春日に続いてハン・ジュンギが飛んできたら少し店を空けてくれ』ってな。気兼ねなく休ませてやってくれ」
「お、おう……」
─────────────
──────
「ん"、んん……」
春日が目を覚ます。
陽はほとんど落ちたようで、微かに差していた光がなくなり、部屋もすっかり暗くなっている。
大体17時を過ぎた頃だろうか?
暗い部屋に目を慣らそうと寝起きで霞む目を左手で擦る。
数回瞬きを挟み、目も慣れたところで右に首を向けた。
気持ちよさそうに寝息を立てているハン・ジュンギ。
嫌々、渋々といった様子で呑んでいた昼寝だが、意外にもしっかり寝ているようだ。疲れも溜まっていたのだろう。
薄く唇を開きすやすやと眠っている様子には普段の気高くいようとする姿はなく、珍しく完全に気を弛めているようだ。
ずいぶんと気を許してくれているのだと自惚れてしまう。
それにしても、本当によく眠っている。
整えられたその容姿もあるだろうが、それとは別に"彼自身"の姿が見え隠れするようでどこか可愛らしさも感じる。無論、本人に正直に言えば二度と油断などしてくれなくなるだろう。
起こしてしまうのを躊躇ってしまうほどの様子に二度寝も考えてしまうが、流石にそろそろマスターが帰ってくる頃合い。折角自分の前だからと気を許してくれている彼が春日以外に起こされるのは忍びない…と腹を括って、まずは自分の体を起き上がらせようとした。
「……ん?」
すると、右手に何かが乗っている感触。
目をやるとそこには、春日の手を握るハン・ジュンギの左手があった。
おおよそ寝ぼけて握ってきたのだろうが、ずいぶんと可愛らしい寝ぼけ方だと吹き出してしまった。
体を起こすのは一旦諦め、春日は声を掛ける。
「おーい、そろそろ起きろよ。もうじき夜んなるぜ」
その声に重ねられた手がぴくりと反応し微かに唸りながらハン・ジュンギが目を開く。
開くか開かないかの微妙な目を瞬かせ春日の方に顔を向けた。
「…………おはようございます…」
眠そうな顔のまま体を起こし、そのまま暫しボーッと呆けている。
……が、春日の手を離そうとはしない。むしろ指を改めて絡めてきている。
握られている手は一旦諦め、もう片方の手を重心にしながら春日も起き上がった。
「おはよーさん。…なぁ、手離せよ、動きにくいし……」
少し引っ張るような動きで催促したのだが、逆に引かれ返してしまい、むしろ握る力が強くなり
「いやです」と何故か頑なである。
その態度にたじろいで、つい黙ってしまった。
「…………」
「…………」
微妙な空気が流れる。
変わらずにぎにぎと手遊びするように握り続けるハン・ジュンギは、ほとんど無表情で感情が読めない。いつも読めない存在だが今日は一段と何を企んでいるのか予想も付かず、握られた手を眺めながらしばらくされるがままになっていた。
「───……なぁ〜、そろそろマスター帰ってきちまうぜ?」
いつまで寝惚けているのか……と些か呆れながら改めて声をかけたところ、やっと手が離れていく。
流石に起きたのかと顔を上げようとして
「…ッ!!」
ずいっ、ハン・ジュンギの顔が目の前に寄せられる。
やっと離れた手の次の行き場は、春日の頬。
"逃がさない"と言わんばかりの真剣な眼差しに目を捕らわれて息が詰まる。
「……一番。」
甘ったるく、それでいて切なさも孕んだ声に、ごくりと喉頭を上下させて固唾を飲み込む。春日のその様子にハン・ジュンギは目を細めた。
「一番、私は───っ」
意を決し言葉を紡ごうとした時、彼の頭に「ぽん」と春日の手が乗せられた。
「……ねっ、寝ぼけすぎだぞヨンス!」
その手はそのまま彼の銀髪をわしゃわしゃと撫で回し、髪を乱す。
「わ、ちょっ、何するんですか……っ!!」
「誰と間違えてんだか知らねぇけどよ、俺みたいなオッサンなんかに色掛けたって意味ねーだろ!」
流石の春日も動揺を隠しきれず、早鳴る心臓を誤魔化すように言葉を矢継ぎ早に話し続ける。
「そりゃアンタにこんな事されたら誰だってときめいちまうだろうけど、俺で確かめたって仕方ないだろ…??」
「……ときめいたんですか?」
「え"っ、……まぁ、そりゃアンタ位のイケメン相手なら…その、悪ィ気はしねーっつーか……」
口を尖らせながら幾分不服げに返された言葉に、今まで髪を整えていたハン・ジュンギは途端に機嫌を良くする。
「……フッ、そうですか。ならとりあえずいいです。」
「お、おー??そいつはドーモ……」
「さ……マスターが帰ってくる前に布団を片付けましょうか。春日さん?」
スッと立ち上がった彼はいつもの"ハン・ジュンギ"であり、先程までの様子はすっかりなりを潜めた。
「へいへい、やっとかよ……」
少々狐につままれた気分で布団を片付け始める春日。その鈍感さに内心肩を落とす者がいることに、春日が気づくことはない。
しかし、片付けようと動く2人からは、微かに春の匂いがした。
長く日を浴びたからか、はたまた……
end