愛のはじまりも、おわりも、食卓から愛のはじまりも、おわりも、食卓から。
女が台所で鍋をかき回している。あんなに愛しかった背中も、今はくすんで見える。違う、お前はいつまでも美しいままだ、それは変わりない。変わってしまったのは、僕だ。セルは、何度か瞬きをした。
「はい、セル様。できましたよ」
ことり、とセルの前に温かなシチューが盛られたお皿が置かれる。柔らかな湯気が鼻をくすぐる。言わなくてはいけない、「別れよう」と。お前を幸せにしてやれるのは僕ではなかった、と。お前はなにも悪くない、ごめん、幸せになってくれ、と。みっともなく言い訳と頭を垂れないといけないのだ。そう何日も、何週間も、何か月も思っているのに、セルは女を傷つけるのが怖くて、違う、自分が傷つくのが怖くて、それと言えないままここまできてしまった。
セルはシチューを口にする。濃厚なミルク、柔らかく煮えた人参、とても味わう気分ではなかったが。セルが食事を進めるのを眺めていた女が、ふと口を開いた。
「セル様、もう、私を愛していないでしょう」
ここまで、きてしまった。女にこんなことを言わせてしまった。女はほほ笑んだ。セルは動揺してスプーンを落とす。からんと乾いた音がした。女は全て見透かしたかのような瞳で、それでいて全て受け入れたかのようにほほ笑んでいた。セルが震える手でスプーンを拾うのを、女は見ている。
「いいんですよ、愛は永遠ではありませんから」
女は、スパイスの小瓶をとると、ぱっぱとシチューに数回振りかけた。セルはごく、と唾を飲み込む。とても、スプーンを洗って食事を進める気にはなれなかった。そんなセルをよそに、女はぱくぱくとシチューを口に運ぶ。
「ねえ、このシチュー。なにが入っていると思いますか」
「お前、まさか」
毒を盛ったのか。セルは喉に手を当てる。味に違和感なんてなかった、今も。遅効性の毒だろうか。セルが大きく瞳を見開いたのをみて、女はけたけたと笑った。
「ふふ、冗談です。シチューに毒なんていれていませんよ」
セルが、それじゃあ、と口を開いた時、女の口端から血が垂れた。女の白い手が、小瓶を手にとって、セルの眼前に突きつけた。
「毒は、これ」
女がさっき自分のシチューにだけ振りかけていた、スパイスの小瓶だった。ごぼ、と女が血の泡を吐く。セルは女の両肩に手をかける。女はくたりとセルの腕の中に倒れこんできた。
「別に、セル様を殺してもよかったんですよ」
でも、と女はセルの頬に手を伸ばす。
「でもこうすれば、セル様は一生私を忘れないでしょう。楽にはなれないでしょう。あはは……ざまあみろ……」
「悪かった、僕が悪かった、なあ、なあお前……」
セルは女を抱いたまま、その腕の中で命が失われていくのを茫然と眺めていた。
「……嘘ですよ、セル様、私を、忘れて、幸せに……」
ふ、と女の身体が軽くなった気がした。女は静かに瞼を伏せて、こと切れた。
「それは、本当に、嘘だったのか」
セルにはなにもわからなかった。女は、セルに一生の謎かけを残していった。セルは、今でもずっと考え続けている。