「幸せの泥濘」第九話平和で、平凡で、当たり前の日常が続いていた。世界は夏を迎え、まぶしい太陽が天で輝いている。昔は、青い空も白い雲もどうだってよかったのに、今は「まあそこにあってもいい」くらいには思うようになった。
「いつもありがとうございます」
セルは客に牛乳を渡すと、ぺらっぺらの愛想笑いを浮かべる。セルが勤めているのは、街の牛乳屋だ。元イノセント・ゼロ幹部、執行猶予付きということでバイト探しは難航を極めていたとき。求人票とにらめっこしているところを、気のいい牛乳屋の女将に拾われたのだった。一通り朝の配達を済ませると、その旨を報告しに一度店に戻る。
「配達、終わりました」
「ああ、ありがとねぇ。若い子がいてくれて助かるよ」
それも二本線だなんてすごいよねぇ、と女将は屈託なくセルを褒める。セルはバイトを始める時、最初に言った。自分は闇魔法組織イノセント・ゼロの元幹部で、執行猶予付きの身であると。女将はにこにこ微笑みながら、それ以上なにもセルの過去について聞かなかった。その代わり、現在については色々聞かれるのだが。
「セル君は一度家に帰るんだっけ?」
「はい、朝食を食べに戻ります」
セルは朝の配達が終わると、いつも一度家に帰って朝食をとって、それから仕事に戻るようにしていた。女将は質問を続ける。
「誰かと一緒に住んでいるの?」
「ええ、まぁ……」
セルは言葉に詰まる。小間使いの女と、なんて言ったらおかしいだろう。バイトの身で小間使い?という話になってしまう。かといって明確に付き合ったり結婚しているかと言われたらそういうわけでもない。女将は、もしかして、と笑った。
「カノジョさん?」
「カノジョ……じゃないです……」
「あ、まさか奥さん?」
「うーん、えっと、まぁ、それに近いような」
女将はセルの肩を叩いた。
「じゃあ奥さんのためにもしっかり稼がないとね!」
「いや妻でもないんですが……が、がんばります……」
セルはごにょごにょと言葉を濁すと、逃げるようにその場を離れた。あの女のことを、他人になんと説明するのが正しいのだろうか。立場で言えば、たしかに「妻」に近い存在ではあるのだが。諸々考えながら歩いているうちに腹が鳴った。早く帰って朝食にありつこう。セルは帰る足を速めた。
―幸せの泥濘 第九話―
「おはようございます、セル様」
セルの出勤が早くなってから、女はセルより遅く起きるようになっていた。それでも、セルが帰る頃にはきちんとメイクをして朝食の準備を整え待っている。まったく、できた女だ。女はベランダでひまわりに水をやっていた。ひまわりはそれなりに育っているようだ。
「セル様、見てください!ひまわりが咲いたんですよ!」
そういえば、昨日まではつぼみだった。女も花開くような笑顔を見せ、まるでひまわりのようだと思った。
「ああ、そりゃよかったな」
以前のセルだったら、そんなものにかまけて暇だなお前は、とか言っていただろう。今では、自然と普通の言葉がでるようになった。ぶっきらぼうなことには変わりないが。
「朝ごはんできてますよぉ」
女はベランダ用のサンダルを脱いで部屋にあがってくる。テーブルの上にはできてからそう時間は立っていないだろう、まだ温かい朝食があった。焼かれた魚に箸をつける。セルは器用に骨を避けて食べる。柔らかくてしょっぱい一口を良く噛んで飲み込んだ。ほれんそうのおひたしに箸をつけながら、女が不器用に魚をぐちゃぐちゃにしているのを見る。ため息をついて女の皿を奪った。
「貸せ」
いつもこうだった。セルは綺麗に魚の骨を取りほぐしてやると、女の前に皿を戻す。
「ありがとうございます!」
甘えた声で女はお礼を述べた。セルはきのこのマリネの酸味を、まったく僕がいないとダメだな、と満足気に噛みしめる。本当に、いないとダメなのはどちらなのだろうか、セルも女も、よくわかっていなかった。もしかしたら、お互いにいないとダメなのかもしれないし、もしかしたら、お互いにいなくたって平気なのかもしれない。それでも、二人はこうして一緒に朝食をとっている。いいじゃないか、それがすべてだ。
女が片付けをしているうちに歯を磨いて、再びの出勤準備を整える。女もそれにつづいて、仕事に行く準備をした。そう。女も、いつのまにか、どこからか、仕事を見つけてきていた。おそらく姉であるジェーネの手回しがあったのだろうが。今、女はイーストン魔法学校の購買部にパートタイムで勤めている。いたいけな学生をその乳でたぶらかしてないといいがな、と内心セルは心配だったが、本人はいたって楽しく仕事をしているようだった。
「それではお気をつけていってらっしゃいませ」
女はセルの頬にキスをする。女に「キスをされたら返すものなんですよ!」なんて教え込まれているセルは、当たり前のようにセルも女の頬にキスを落とす。
「行ってくる、お前も気をつけろよ」
「はぁい、セル様」
セルと女は玄関で別れ、それぞれの職場に出勤していった。
そして午後、セルは仕事を終えるとロッカーから荷物を取り出す。ちょいちょいと女将に手招きされ近づくと、ぽんと小さな小包を渡された。中には焼き菓子が入っているようで、ふわりといい香りが漂う。
「お疲れ様。帰って奥さんと食べなね」
「奥さん……ではない……ですけど、ありがとうございます」
セルは小さな声で奥さんという言葉を否定しながらも、礼を言って小包を受け取る。あの女はこういう焼き菓子は大好きだ、きっと喜ぶだろう。そうだ、たまには様子を見ついでに迎えに行ってやろうか。ここから歩いてイーストンに着くころには女も退勤の時間になるはずだ。セルはぷらぷらと街並みを冷やかしながら、イーストンに向かって歩いて行った。
イーストンに着くと、真っ先に購買部に向かう。何度も潜入した場所だ、何がどこにあるかは把握している。途中、イノセント・ゼロ戦で顔を合わせた生徒ともすれ違ったが、帽子を目深にかぶってやりすごした。購買部では、授業を終えた生徒たちが群がっていた。それは、商品が目当てというより、女と喋るためにそこにいるようだった。男女の生徒に囲まれ、楽しそうに笑う女を、少し離れたところで見ていた。どう声をかければいいかわからずセルがためらっていると、女と目が合う。女はぱっと顔を輝かせた、主人を見つけた犬のように。
「セル様!」
生徒の注目がセルに集まる。気まずい、この場から逃げ出したい。こほ、とセルは咳払いして、女に向かって小さく手をあげた。
「あの人がお姉さんのご主人様ですか?」
女子生徒がそう尋ねる。女は、手を合わせセルにうっとりとした視線を送った。
「そうですよぉ!かっこいいでしょう!」
「え~うん、そ、そうですね……」
微妙な反応をするな、僕に失礼だろ、とセルは眉間にしわを寄せる。女子生徒はそれを見て肩をすくめるとこそこそと人混みに紛れた。
「じゃああの人が胃袋掴まれてころっとおちた人か!」
男子生徒が無邪気にそう言った。セルの眉間にしわがますます深まる。
「はい、楽勝でした!」
セルはづかづかと女に近づくと、片手で女の頬をつねった。
「お前ぇ、僕のことなんて説明してるんだ……!」
「ひん、私の料理でころっとおちたちょろい人……」
さすがに、これは両手でつねってもいいだろうと、女の頬を思いっきり引き伸ばした。
生徒たちの生暖かい視線に見送られ、帰路につく。「お幸せに~!」なんてやじに「やかましい!」と返しながら。街を歩きながら、女と他愛もない話をする。
「今度、お料理教室をするんですよ!」
「ふうん、まあ、たしかに需要あるかもな」
なんて、平和で平凡で、なんてことのない話。女がふと酒屋の前で立ち止まった。
「セル様、ちょっとだけ良いお酒を買いませんか?」
「別にいいけど、なにかいいことあったのか?」
女はほら、と指を立てた。
「ひまわりが咲いたでしょう?今日を私とセル様の記念日にしようと思って」
突拍子もないことを言う女だ。セルは首をかしげる。
「私たち、誕生日も知らないし、出会った日も覚えてないじゃないですか」
誕生日、セルは自分の誕生日を知らなかったし、女は自分の誕生日を教える気がないようだった。夫を殺したあの日、本名と一緒に捨てたとでもいうのだろうか。
「だから、今日を私たちの記念日にしましょう?」
一年、一年、そうやって積み重ねていくのも悪くない。セルはひらひらと手を振って、どうでもいいというふりをしながら、いいんじゃないか、と女に酒を選ばせた。
女は、甘口のシャンパンのハーフボトルを手に取る。会計を済ませると、当たり前のようにセルに持たせるし、セルも当たり前のようにそれを持った。
夕飯が終わり、セルは洗い物をする。女が働きにでるようになってから、セルも幾分か家事を手伝うようになった。セルも家事が不得意なわけではない。綺麗に皿を洗いあげ、水切りラックに置く。ぱっと魔法で風を送って乾燥させてしまうと、食器棚にしまった。
「セル様が家事をやると早いですねぇ」
「魔法使えば早いんだよ」
セルは洗った手をタオルで拭くと、女の隣に腰かけた。ソファが柔らかく沈む。ほほ笑んだ女がグラスにシャンパンを注いだ。薄金色の液体でグラスが満たされていく。シャンパンなんてデリザスタに無理やり飲まされたことくらいしかないが、こんなに美しいものだったのか。
「乾杯」
女がグラスを掲げる。あわせて、セルもグラスを持ち上げた。くい、と口をつける。セルはそこまでお酒が得意なわけではない。アルコールの味が喉に染みる。
「おい、あまりペースあげて飲みすぎるなよ」
ハーフボトルを半分こくらいなら問題ないと思うが。実は女は酒癖が悪いことをセルは知っていた。というか、何度か女の酒癖の悪さで痛い目をみたのだ。
「わかってますよぉ」
ぐいー、とグラスを飲み干す女に、わかってないだろ、と水を飲ませる。女はけらけらと楽しそうに笑っていた。セルは酒を注ごうとする女のグラスを手で塞ぎながら、いつまでもそうやって笑っていてくれと心の淵でそう祈った。
そして夜。セルは風呂上りのスキンケアをしていた。入念にフェイスラインをマッサージしていると、シャワーから上がった女が横を通る。シャンプーと石鹸だけじゃない、女から発せられるこのかぐわしい香り。パジャマから覗く胸元にしずくが一筋垂れていた。ゆるいパジャマ越しでもわかるお尻のライン。そういう欲が強いわけではないセルも、今日はなんだかそんな気分だった。お酒のせいだろうか。でもいつもそれと誘うのは女の方で、なんと言えばいいのかわからない。セルがもだもだとしていると、女が後ろから抱き着いてきた。柔らかい塊が背中に当たる。
「セル様からお誘いなんて珍しいですねぇ」
「べっ、別に誘ってなんかない……!」
心の中を見透かしたような女の発言にセルは焦る。女はふふと笑ってセルの頬をつついた。
「したいって、顔に書いてありますよ」
「……バカ言え」
セルは振り返り、すぐそばにあった女の唇にキスをする。そのまま、ベッドへともつれ込むのだった。
二人はいつも別々のベッドで寝ている。一緒に寝るとは、こういうときだけ、たまにだ。女のものより少し広いセルのベッドで、女はセルに寄り添う。二人とも、いつもより少し体温が上がっていた。行為のせいもあるし、そのあとに浴びた熱いシャワーのせいでもあった。セルは女の肩を抱く。温かい、まるで愛の塊、幸せの象徴だ。そんなことを思ってから、自嘲気味に笑った。変わっていく自分を、あざ笑ったのだった。女に絆され、優しくなっていく自分が、ばからしかった。そして、女は相変わらず全てわかったようにセルの頬を撫でた。
「私は、今までのセル様も、これからのセル様も愛していますよ」
「なぁ、お前は……お前はどこまでなにをわかっているんだ?」
セルがそう問うても女はなにも教えてくれなかった。朝の早いセルは、それを問い詰めることもできないまま、眠気に身を任せた。女も、セルの腕のなかでやがて眠りにおちたようだった。
こうして、日々は繰り返されていく。毎日、毎日。ゆっくりと時は進むのだ。