「幸せの泥濘」第十二話旅行から帰ってきて一か月ほど。セルと女はまた日常を過ごしていた。おざなりに行ってきますのキスをして、それぞれの職場に出勤する。いつもは振り返りもしないセルだったが、なんだか今日は。別に嫌な予感とかなにかしたわけではないのだけれど、ふと振り返った。立ち止まる、女の背中が一瞬かすんで見えた。女は振り返ることなく、やがて角を曲がって見えなくなった。きっと、照りつける眩しい太陽のせいだ、セルはそう納得すると、自分の職場に向かった。
淡々と仕事をこなし、今日の夕飯のことを考えていた終業間際。牛乳屋の女将が血相を変えて飛び込んできた。
「今っ、あっちの通りでっ、かっ、壁が崩れてっ」
女将は走ってきたようで、ひどく息を切らしている。セルはなんのことかわからず、エプロンの紐をほどいていた。
「落ち着いてください、何があったんですか」
「もしかしたらっ……あなたの奥さんがっ……」
ぱさりとエプロンが床に落ちた。セルは女将の肩を掴む。「壁が崩れて」「奥さんが」、そんなはずはない、まさか、だって、そのあとにつづく言葉は。
「あの女がどうかしたんですか」
セルの声は、動揺を隠せず震えていた。女将は大きく息を吸い込んでから、話した。
「壁が崩れて……あなたの奥さんかもしれない人が……下敷きに……」
ひゅ、と喉が鳴った。セルは騒ぎの声を辿って、現場に向かう。なぁ、人違いであってくれ、頼む、頼む、お願いだから。そう祈ることしかできない。崩落現場はすぐに見つかった。ざわつく人々が、魔法でひとつずつがれきをどけて救助をしている。セルはそんな人々を押しのけると、杖の一振りでがれきをすべて取っ払った。人だかりが遠のく。
そこにいたのは。そこに、無残な死体としてあったのは。たしかに、ジーンだった。がれきに押しつぶされ、変な方向に曲がったその白い手を握る。もう、脈はなかったけど、まだほんのり温かかった。
「お前……」
駆け付けた救急隊員が、女の様子を確認する。一人が、セルに向かって問いかけた。
「こちらの女性は、あなたの奥様ですか」
セルは茫然としながら答えた。
「ああ……この女は僕の妻だ」
セルは初めて女のことを妻だと言った。その声は、もう女には届かなかったのだけれど。女が担架に乗せられて運ばれていく。救急隊員が小さく首を振りながら、セルに告げた。
「残念ですが、即死です」
セルの世界から、色が消えた。
―幸せの泥濘 第十二話―
真っ白な病室、女は白い布をかけられていた。連絡を受けて駆け付けたジェーネは、「ティーカ!」と一言だけ悲痛な叫びをあげると、すぐに冷静な表情に戻り、粛々とことを進めた。セルがぼーっとしている間に、ジェーネが死亡届をもらい、葬式の手配をしていたようだ。椅子に腰かけたまま、ずっと女の亡きがらを眺めていたセルだったが、肩を揺すられはっとする。ジェーネがこちらを覗き込んでいた。
「しっかりしなさい。お葬式はお前が喪主ですよ」
セルと女は、戸籍上「他人」だ。長く一緒に暮らしていたとはいえ、結婚していないのだから。セルはゆるく首を横に振る。
「僕はあの女の何でもない……」
ジェーネはしゃがみこんで、セルと視線をあわせると、諭すように優しく語りかけた。
「……あの子のそばにいて、支えてくれたお前が、あの子の何でもないわけがないでしょう。私は、戸籍上の関係より、心の関係を尊重しますわ」
セルは、転んだのを慰められた子供みたいに、ちいさく頷いた。
小さなお葬式だった。女の両親は来ていないようで、親族席にはセルとジェーネと、仲が良かったらしい女と同年代くらいの親戚が何人かいるだけだった。一般席にはイーストンの生徒が現役、卒業済み問わず数名、購買部で働いていた時に親しくしていたのだろう。その中にはアベルの姿もあった。牛乳屋の女将がいたので、軽く挨拶をする。
「ああ、本当に、なんて言ったらいいか……」
「……僕は大丈夫ですから」
気の優しい女将は、セルになんと声をかけていいものかとひどく狼狽していた。セルはそんな女将の前で気丈にふるまって見せる。セル自身、まだ大丈夫だと思っていた。それは気持ちの整理がついていなくて、そのせいで「大丈夫」なだけであったが。葬式は淡々と始まり、そして終わる。セルはどこか、自分だけ遠いところにいるような気持ちで、挨拶をした。
「本日はご多忙の中、妻、ティーカ・リコムの葬儀にご会葬いただきまして、誠にありがとうございます」
まだ若い生徒たちには、酷なことだろう。すんすんと小さくすすり泣く声が聞こえる。セルはどこか他人事のようにその悲しみを眺めていた。
「あまりに突然の事故で、皆様まだ信じられない思いかと存じます」
僕だって、まだ信じられない、信じたくない。セルは極めて冷静に、周りから見ると妻が亡くなったのに冷たすぎるのではないかと思われるくらいに、用意した文章を読み上げていた。
「生前ご厚誼を賜ったこと、故人に代わって厚くお礼申し上げます。本日は誠にありがとうございました」
挨拶を済ませると、人々が女の眠る棺に花を添えた。ぐちゃぐちゃだった死体は、魔法で綺麗に生前の姿に整えられ、いつかの記念日に贈った紫色のフレアワンピースを纏っていた。セルも、一輪花を添えた、両手を握る女の胸元に。セルの手は震えていた。
会場の隅で、食事会場に向かう人を見送っていると、アベルが近づいてきた。アベルは形式ばった挨拶をしてから、セルに話しかける。
「セル、ひどい顔だ。大丈夫……ではないだろうね、すまない」
アベルがセルを気遣うような素振りを見せているのに腹が立った。セルは八つ当たりをするように言葉を尖らせる。
「お前になにがわかるっていうんだ」
「……大切な人を失った悲しみなら、少しはわかるよ」
かっとなって衝動的に杖を構えるセルの手を、アベルはそっと抑えた。
「残された者が幸せになることが、故人への一番の供養だと思う」
セルは杖を下す。ぽろり、とセルは涙を零した。女が亡くなってから、セルは初めて泣いた。アベルに泣き顔を見られたくなくて、顔を伏せながら物陰に隠れる。しゃがみこんで、あとからあとからあふれてくる涙をぬぐった。残されたものが幸せになること、なんて。僕はお前とずっと幸せに暮らしたかったのに。お前こそ希望の光で、愛の塊で、幸せの象徴だったのに。
「お前のいない世界で、僕は幸せになんてなれない……」
セルは一人そう呟いて頭を抱えた。
ひとしきり泣きじゃくっていると、頭上から声が降ってきた。
「よぉ、セル坊。こんなところにいたのか、探したぞ」
「……デリザスタ様」
そこにいたのは、仮出所中のデリザスタだった。いつもの派手な服ではなく、黒い格式ばったスーツに身を包んでいる。
「カノジョちゃん、死んじゃったんだってなぁ」
デリザスタは軽い口調でそう話す。元上司でなければ、セルがデリザスタより強ければ、掴みかかっていたかもしれない。妻の死を軽く扱われ、いらだったセルはデリザスタを睨みつけようとする。しかし、そっぽを向いたデリザスタが、どこか悲しみを湛えているのを見て、それをやめた。
「……昔さぁ、カノジョちゃんたまにオレの部屋遊びにきてたんだぜ」
そんな話を、時々聞いていた。
「いつも楽しそうにお前のこと話してた」
デリザスタは、ふー、とため息をついた。別に泣いているわけでも、声を詰まらせているわけでもなかったが、デリザスタはたしかに女が亡くなったのが悲しいのだ。そうわかった。
「オレもお花あげていーい?」
「はい、どうぞ……。ちょうどもう誰もいませんので」
デリザスタと二人、女の棺の前に立つ。デリザスタは白い花を女の足元に添えると、女の冥福を祈るように小さく頷いた。
「綺麗な女だなぁ」
「ええ、本当に綺麗な女です。僕の中でこの女は、永遠に、ずっと、綺麗なままです」
セルは女の頬に手を添え、体温のない頬を慈しんだ。
最期の別れを済ませてからしばらくの間、セルはいつも通りの日常を過ごしていた。それが一番の慰めだった。いつ女が帰ってきてもいいように、玄関の鍵は開けていたし、女の持ち物もそのままとっておいた。セルは表面上なにごともなかったかのように、でも静かに狂っていた。それを見かねたジェーネが、セルのもとを訪れた。
「話ってなんだ」
セルはお茶を淹れ、ジェーネの前にカップを置く。ジェーネはそれに口をつけることなく、話し始めた。
「セル、お前がどれだけ待っていても、あの子はもう帰ってきませんよ」
身体中の血液の温度がなくなったような気がした。全身が冷え切って、それでも胸元だけなにかこもったように熱くって。
「……わかってる、わかってるんだよ、そんなこと……」
セルは自分の持っていたカップを乱暴に床に叩きつけた。カップは割れ、お茶が飛び散る。平静を装っているのも、その内で静かに狂っているのも、それでももう女は帰ってこないのも、全部全部、セルはわかっていた。わかっていたうえで、「停滞」という楽なところに心を置いているだけだった。女の死から逃げて、日常という上っ面だけの行為を繰り返す。そして、いつまでもそうやっていたって、なにも解決しないのも、よくわかっていた。
「……ずっとここにいるのは、お前にとってよくないと思います。物件探しなら手伝いますから、引っ越しなさい」
セルも、うっすら気づいていた。その方がいいと。このまま、女と過ごしたこの家で一人暮らしていくのは辛すぎる。セルは思い切って引っ越しを決めた。
女の荷物を片付ける。大きな袋を持ってきて、クロゼットを開けた。女の柔肌を守ってくれていた美しい服たちよ。セルはそれらを丁寧に畳んで袋に詰めた。一着、女のよく着ていた大きく胸の開いた黒いタイトワンピースを残して、あとは処分する。女の持っていた雑誌や雑貨、アクセサリ、コスメ。女の愛していたもの全て、女を愛してくれたもの全て。セルは思い出に浸りながら、ひとつひとつ片付けた。出会ったあの日に持っていた大きなカバンと箒、運命を変えたあの日のことも思い出しながら。たぶん、セルに必要だったのはこういう時間だったのだ。大切な人が亡くなったという事実から目を背け日常をなぞることではなく、故人のことを思い出しながら死と向き合い、気持ちを整理する時間。悲しみはもちろんとめどなく溢れてくるが、それといっしょに感じられたのは、深い愛と感謝だった。女を彩り形作っていてくれたのものたちへの愛と感謝。そして、ともに寄り添い過ごしてくれた、女にも。ベランダに出ると、女の大切に育てていたひまわりはすっかり枯れていた。セルはそれを見ないふりしてずっと枯れたひまわりに水をやっていた。でも、今日でおしまいだ。しっかり、枯れたひまわりと向き合った。
「ごめんな」
今まで目を逸らし続けていたことを謝り、セルはひまわりから種を摘んだ。
ジェーネの助けもあり、新しい家はすぐに見つかった。少し通勤は遠くなるが、小さな庭のある家を選んだ。そして、季節になったら、ひまわりの種を植えた。女がかつてそうしていたように、ひまわりに水をやる。ひまわりはすくすくと育ち、やがて小さな庭を黄色く彩った。大切な人を失った悲しみは永遠に消えない、それでも人は前を向いて生きていかなくてはいけない。セルは、女との思い出とともに生きていく。これまで、女と過ごせたこと。これから、女の思い出と過ごしていくこと。それが幸せだと思えた。
「僕は……生きていく。お前の生きたこの世界で、お前の思い出と一緒に」
セルはひまわりのはなびらを撫でた。女の頬を撫でたときと同じ感覚がした。
「見てるか、お前」
小さなひまわり畑のなか、ほほ笑んで伸びをひとつした。
「僕は幸せだ、これまでも、これからも」
穏やかで優しい幸せの泥濘の中、セルは生きていく。
幸せの泥濘 完