「幸せの泥濘」第十一話月日はあっというまに流れていく。雲よりはやく、川よりはやく。気づけば、セルが女と過ごしてから、八年ほどの時が経っていた。夏、幾回目かの記念日を迎える時期。これまで、記念日と言ってもささやかなディナーを楽しみ、シャンパンを開け、プレゼントを交換するだけだった二人だが、今年は。カレンダーを見た女が、まあと声をあげた。
「珍しく、3日間のお休みが被りますね」
セルも釣られてカレンダーと、その横に貼られた二人のシフト表を確認した。
「たしかにそうだな」
セルも女も、不定休シフト制で働いているため、連続して休みが被ることはめったにない。女は甘えるようにセルの腕に抱き着き、おっぱいを押し付ける。こういう時は必ずなにか「おねだり」されるんだ。セルは身構えた。
「じゃあ、せっかくの記念日ですし、どこかでかけませんか?」
「でかける?」
「旅行ですよ、旅行。今まで行ったことないでしょう」
たしかに、近場でデートすることはあったが、今ではそれすら減って、二人でおでかけすることも少なくなっていた。ここらで気分を変えて遠出するのも悪くない、とセルは考える。
「ああ、いいかもな。どこか行くか」
女は嬉しそうに目を細め、どこいきましょうねぇと楽しそうに笑って見せた。
次の日、セルは初めて旅行雑誌を買った。こんなものを買う日が来るって、八年前の自分に教えてやりたい、きっと信じないだろうが。ソファのサイドテーブルに置いておいたら、風呂上りの女が熱心に読んでいた。セルも、魔法で濡れた髪を乾かしてから女の隣に座る。
「どこか行きたいところはあったか?」
「うーん、海、高原、湖……やっぱり海ですかねぇ」
日焼けしそうなところばっかりだ、とセルは顔をしかめる。紫外線は肌の大敵なんだぞ、お前の年齢なら特にわかるだろ、と心の中でぐちぐちと垂れる。しかし、女が行きたいというなら一緒に行ってやらんこともない、と考え直した。数年間、おてんとうさまの下を歩けなかった女にとって、太陽は特別なものなのかもしれない。
「まあ、私も歳ですし、海辺のホテルをとってのんびりしましょうよ」
よさそうなビーチを見つけたらしい女が、雑誌を見せるため寄りかかってくる。風呂上りのいい匂いがした。
「こことかどうですか?海は綺麗ですし、夜はライトアップもするみたいですよ」
女の肩に手をかけるかかけないか、セルはそんなことを考えていた。八年たっても、自分から女に触れるのは緊張する。女は、そんな様子を見かねて腕をとり自分の肩にかけると、ぐいと詰め寄った。
「セル様、聞いてます?」
「えっ、あ、ああ、聞いてる。そこでいいんじゃないか」
「まったくもう……」
女はしかたないですねぇというように、呆れ交じりに微笑んだ。セルの手は、未だ女の肩を抱き寄せられず、空を彷徨っていた。
―幸せの泥濘 第十一話―
「そろそろ行くぞ」
「はぁい、セル様」
セルは箒にまたがる。普段は宙に浮いて移動しているか、転移魔法を使っているから、箒に乗るなんて久しぶりだ。一緒に浮くなり転移してもよかったのだが、なんというか、情緒を大事にしたかった。女との初めての旅行に、セルもセルなりに浮足立っていたのだった。女はセルの後ろに横座りする。女は、自分で飛べますよぉ!などとのたまっていたが、セルは出会ったあの日に箒で飛ぼうとして顔面から着地したその姿を覚えていた。
「しっかり捕まってろよ、落ちても助けてやらないぞ」
「わかってますって、うふふ」
ふわりと空に浮き、女の身体の負担にならない程度にスピードをあげる。
「私たちの住んでいる町がどんどん遠くなっていきますねぇ」
女は足をぷらぷらさせながら、そう言った。
さて目的地のホテルに到着。セルはチェックインを済ませると、伸びをした。たまに箒に乗ると肩がこる。
「セル様、少しだけ泳ぎにいきましょうよ」
「わかったわかった」
ぐいぐいとセルの腕を引っ張る女になされるがまま、ホテルのプライベートビーチにひっぱられていく。水着に着替えてくると言った女を見送り、セルも更衣室で万全の日焼け対策をした。更衣室からでても、まだ女の姿は見えない。自由に使っていいパラソルが空いていたので、一つ陣取って女を待った。
「おまたせしましたぁ!」
明るい声に顔を上げると、たわわなおっぱい、え、すご、セルの思考はいっきにおっぱいに持ってかれた。何度も見てるはずなのに、何年も見続けているはずなのに、改めてびっくりした。おっぱいすご、と脳内でもう一度繰り返してから、セルははっとする。女の水着はひどく露出が高い。こんな姿、他の誰にも見られたくない、頼む部屋で着てくれ、とセルは切実に願いながら、自分のラッシュガードを女に羽織らせた。
「あら、あらあらまあまあ!」
女はそんなセルの気持ちをわかっているのかいないのか、頬を染めてニコニコ顔でそれを受け入れた。
セルがパラソルの下で海を眺めていると、浅瀬でぴちゃぴちゃと水を跳ねさせていた女がこちらに向かって手を振ってきた。しかたがないので、気のなさそうな感じに手を振り返す。女はにこっとしてこちらに踏み出すと、次の瞬間すっころんで顔面から海にダイブした。セルはあーあーとため息をつきながらも駆け寄り、女を抱き起こす。びしょびしょになった女は、驚いたようにセルに抱き着いた。セルの服にも水気が移る。
「なんか踏みました!!!!ぐにゅってしたやつ!!!!」
キーンと耳が痛くなるほどの大声。眉間にしわを寄せながら、セルは水面を覗き込んだ。
「ナマコじゃないか」
「ひーん、ナマコ踏んじゃったんですね私……」
ぴえぴえと半泣きの女をなだめながら、パラソルに戻る。女も、ナマコの感触を振り払うようにじゃばしゃばと波打ち際で足を洗ってから、パラソルの下にやってきた。
女はふんふんと鼻歌を歌いながら、日焼け止めを塗り直している。少し張りがなくなって吸い付くようにしっとりした三十六歳の肌。その感触を思い出し、セルはぎこちなく手を組んだ。触れたい、そんな気持ちを見透かしたように女がきゅるきゅるとこちらを見つめてくる。
「セル様!背中の日焼け止め、塗ってほしいです!」
「しっ、かたないな、貸せ」
声が裏返った。セルは女から乱暴に日焼け止めのボトルを奪い取ると、ビニールシートを指した。女は、うつ伏せに寝そべった。恐る恐る背中の紐をほどいて、背中を露出させる。もう八年以上一緒に居て、何度も肌だって重ねているのに、改めて無防備なそのうなじを見ると胸が熱くなる。セルは日焼け止めを手に取ると、そっと女の肌に触れた。柔らかくて温かい。背中に手を滑らせ、まんべんなく塗り込める。汗ばんで上気したその肌に劣情を抱きながらも、なるべく平静を装って無心で手を動かした。綺麗に日焼け止めを塗り終わったところでふと気づく。
「お前、上着着るんだから背中の日焼け止めいらなくないか?」
くす、と女は笑いながら上着を羽織った。
「だって、セル様。私に触りたそうな顔していましたから」
「……うるさい、バカ」
頬が熱い、またこの女の掌の上で転がされている。いつもこうだ、とセルは顔を背けた。
また少し海で遊んでいる女を眺めている。セルはそんな平和な光景に少しうとうとしてしまった。ほんの少し意識を手放して、夢の中へ。気が付くと、誰もいない海で女が浅瀬に足をつけていた。女は何度もこちらを振り返りながら、深いところへ、遠いところへ足を進めていく。待ってくれ、そっちへ行ったら危ない。セルは焦ってざぶざぶと海に入るが、一向に追い付かないまま女の姿が海に飲まれていく。行かないでくれ、そう叫ぼうと口を開いたその時。ひやりとした感覚が首筋に当たって、セルは一気に現実に引き戻された。
「夢、か……」
「セル様、お飲み物買ってきましたよぉ」
つめたーい、と頬に瓶を当ててほほ笑む女はたしかにそこにいた。セルはほっと胸を撫でおろす。セルは女から瓶を受け取ると、一口飲む。しゅわしゅわとした炭酸が渇いた喉を刺激してむせた。女に背中をさすられているうちに、セルは悪夢のことなどすぐに忘れてしまった。
シャワーを浴びて砂を流し、部屋に戻った。部屋からは夕暮れのビーチが見えて、女はバルコニーの柵に寄りかかってそれを眺めていた。
「楽しいですねぇ……」
しみじみと、女が呟いた。
「私は……自分がもう一度幸せになれるなんて思いもしませんでした」
夕焼けを背に女がほほ笑んだ、ような気がした。逆光で表情がよく見えなかった。
「僕も……まさかこんな未来が待っているとは思わなかった」
セルも女の隣で柵に身体を預けた。夕焼けに目を細めていると、女の顔が近づいた。頬に手が添えられる。潤んだ女の唇にキスを落とした。オレンジの光の中、二人は影になった。触れるだけのキスをして、どちらかともなく部屋に戻り、なにごともなかったかのように夕食のレストランに行く準備をした。
小綺麗なワンピースに身を包んだ女を連れて、レストランに入る。恭しく迎えられたセルと女は、窓際の席に通された。外は薄暗くなっていて、砂浜がライトアップの光に照らされていた。
「乾杯」
セルと女はシャンパンの注がれたグラスを掲げると、小さく一口飲んだ。運ばれてきた前菜は美しく盛りつけられていて目にも楽しい。ウエイターが何か説明していたが、すぐにわからなくなった。
「ふふ、これなんでしたっけ」
「イカのなんか」
「これは?」
「なんかの肉」
それは女も一緒だったようで、お互いなにがなにかわからないまま、しょっぱかったりすっぱかったりするそれらを平らげた。次に来た冷製スープをスプーンで飲む。さすがに女は貴族の生まれなだけあってこういうフルコースも食べ慣れているのか、所作も綺麗だ。海辺なだけあって、魚料理が美味しい。ソースのかかった鮮魚に舌鼓を打つ。
「セル様、お魚好きでしょう?私の分も食べますか?」
「……お前の分はお前が食え」
なんとなくこういう時、こども扱いされているような気がする。セルはぶっきらぼうにそう答えると、最後の一口を食べた。口直しのソルベを終え、肉料理が目の前に置かれる。女は肉をナイフで切ると、それをフォークで刺して口に運ぶ。一瞬、その肉がまるで自分のような気がした。甘酸っぱいソースが口に広がる。僕の血もこんな味がするんだろうか、そんなわけないか、とセルはどうでもいいことを考えていた。デザートの小さなケーキを食べ終わり、コーヒーを飲む。
「ここまで、長かったような、短かったような、だな」
「まあ、突然どうしたんですか」
窓の外を見るとすっかり日は暮れていて、ロマンチックな光がビーチを包み込んでいた。女は一口コーヒーを飲んでから、セルの手に手を重ねる。二人は黙ったまま、海を見つめた。
「なぁ、お前。永遠って誓えるか」
沈黙を破ったのはセルだった。セルは永遠という言葉が好きだ。女に問いたかった、永遠に添い遂げる覚悟はあるかどうか。女ははぐらかすように笑って終わらせようとしたが、射抜くようなセルの視線に真面目な顔をしてまっすぐ瞳を見つめ返した。
「私は……永遠など誓えません」
女はぎゅっとセルの手を握り、ゆっくりと何度か瞬きをした。
「セル様、永遠なんてどこにもないんですよ」
「ああ……そうか」
セルは初めて、自分を捕らえたままだった永遠という言葉から解放された気がした。永遠なんてどこにもない、どこにもなくたっていいのだと、そう思えた。
「でも、私の今はいつだってセル様のためにありますよ」
「……それでいい、お前は、それでいいんだ」
今ここにある幸せを噛みしめて、それでいいじゃないか。コーヒーを飲み終わると、二人部屋に戻って、のんびりと思い出話なんかをしながら、眠りについた。
そして、おしまいはいつだって突然訪れるのだ。