「幸せの泥濘」第十話時はしんしんと降り積もり、やがて三年の月日を重ねた。ベランダには、立派なひまわりが爛々と咲き誇っている。いつのまにかプランターも増えた。大小いくつかのプランターに、それぞれの大きさのひまわりが植わっている。女は飽きもせず丁寧にそれらを育てていた。穏やかな休日、女はパジャマのままひまわりに水をやって、ベランダから部屋にあがってきた。ふとカレンダーを見て、はっとした顔をする。
「そういえば今日はジェーネお姉さまがいらっしゃる日でしたね」
「ああ、そうだったか」
「大変、急いで着替えなくちゃ」
女は、クロゼットを開ける。女の荷物もずいぶん増えたものだった。昔は、女を縛り付けるために与えていたものも、今は贈りたいから贈るものへと変化していた。奪うことが恋で、与えることが愛だというのなら、これは。この気持ちを人は愛だと、そう名付けるのだろうか。そんなセルの想いをよそに、女はさっさとしたくをする。先の記念日にセルが贈ったばかりの新しいワンピースに袖を通し、急いで化粧をした。丁寧にマスカラを塗り、アイラインを引いている。最近のセルとのデートの時より念入りなんじゃなかろうか。姉も妹に少し大きすぎるのではないかと思われる愛を抱いているが、妹も大概特別な感情を持っているようだった。
女が身支度を整え、姿見の前で裾を直している時、家の呼び鈴がなった。
「はーい!今行きます!」
女はいそいそと玄関に迎えに行く。玄関から、ジェーネの声が聞こえた。ジェーネは、トーンこそ落ち着いているものの、女と同じで声が大きい。その台詞は部屋まで筒抜けだった。
「ティーカ、お前は今幸せですか」
「やだお姉さま、第一声がそれは宗教勧誘ですよぉ!」
女の笑い声と、足音。すぐに部屋にジェーネと女が姿を現した。並んで見ると、改めてあまり似ていない姉妹だと思う。女にへにゃりという効果音をつけるなら、ジェーネはきっちりという言葉が似合う。ぴしりと姿勢を正したままダイニングに着席するジェーネに、セルも思わず背筋を伸ばした。
「お茶を淹れますね」
女が台所に立つ。セルとジェーネの間には、きまずい雰囲気が漂っていた。そもそもジェーネがなぜ定期的にセルと女の家を訪ねているのかというと、一応、経過観察という名目なのだ。魔法局が行う、元犯罪者へのアフターフォロー、と言えば聞こえはいいが、その実「見張り」に近いだろう。まあ、この姉の場合、大事な大事な妹の様子を見に来るためにその仕事を他の者から勝ち取ったに違いないが。
ことり、ことり、ことり。テーブルに置かれる三つのティーカップ。二人の沈黙を破るように、女がはつらつとした声をあげた。
「お姉さま、元気にしてらっしゃいましたか?」
そう言いながら、女はジェーネの隣に座る。ジェーネはティーカップを持ち上げながら、元気ですわ、と答えていた。
「それで、セル・ウォー。最近の様子について聞きましょうか」
「なにも変わってない。大人しく暮らしてるよ」
その言葉に嘘偽りはなかった。事実として、セルは普通に人並みの暮らしをしていた。特に悪さもしていないし、真面目に過ごしていた。
「しいて言うなら、この前バイトから社員になった」
結局、セルはあれからずっと牛乳屋で勤務していたのだが、先日女将から社員にならないかと打診があったのだ。たいして待遇が変わるわけでもないが、言葉だけでも社員になったほうが、社会的信頼が上がるだろうと踏んで、その話を受けたのだった。
「それはおめでとうございます」
ジェーネはそう驚きも、喜びもせず、淡々と祝いの言葉を述べた。
「ティーカ、お前はどうですの?」
ティーカ・リコム、忘れがちだが女の本名である。その名で呼ぶものは姉のジェーネしかいないのだが。
「えっと、私も特に変わりなくです」
女はああ、と思いついたようにほほ笑んだ。
「最近、イーストンで花嫁修業講座を開いているんですよ」
その話はセルも聞いていた。初めはお料理教室だったのが、今は家事全般、ダンスにテーブルマナーまでも教えるようになったらしい。何気なく見ていたが、女には教養がある。それが、何とも言えない上品さをかもしだしているのか。
「男女共の生徒さんに参加してもらえて光栄です!」
女は誇らしげに胸を張る。たゆんと乳が揺れたのに目がいった。
「いいことですね、素晴らしいですわ」
ジェーネの持つ堅い空気が、一瞬和らいだ。
ザァ、と外で雨の音がした。それに気づいた女は、慌ててベランダに飛び出す。
「きゃあ、お洗濯ものをとりこまなくちゃ!」
セルがそれを手伝いにいこうとすると、ジェーネに呼び止められた。てのひらに、小さなメモを押し付けられる。これは、と目で尋ねると、ジェーネは小声で答えた。
「お前と話したいことがあります。明日の夜、このバーに来なさい。ティーカには秘密ですよ」
話したい事って、と聞くまでに、手で行きなさいと示されてしまった。ジェーネの圧に負け、メモをポケットにしまうと、ばたばたと洗濯物を取り込む女を手伝った。
「それでは、私はそろそろ帰ります。どうぞ、健やかに平和に暮らしなさい」
ジェーネは女に紙袋を渡すと、帰っていった。紙袋の中は茶葉と焼き菓子のセットだったようで、女はたいそう喜んでいる。セルは、居心地わるそうにポケットの中のメモを触りながら、女の話を聞き流していた。
そして翌日の夜。夕飯を食べ終わったセルは、ぎこちなく切り出した。
「その……今夜は飲みに行ってくる」
普段、飲みに行く、など言ったことがない。怪しまれるだろうと思ったし、実際に女は怪訝な顔をした。じとり、と女に睨まれる。めったに見せないその表情に、う、とセルは肩をすくめる。
「……どなたとですか?」
お前の姉と、と素直に答えようとして、思い出す。
『ティーカには秘密ですよ』
そう言われていたことを。セルは言葉を濁す。
「あ、えっと、職場の奴らと……」
我ながらなんてへたくそな嘘なんだ、とセルは内心頭を抱える。ほら、女からの冷たい視線が突き刺さる。確実に色々疑われている、これは。いつもなんでもお見通しみたいな余裕を保っている女でも、見透かせないことはあるみたいだ。
「そんなに遅くならない、けど、眠かったら先に寝てろ」
セルは女から逃げ出すようにカバンをひっつかんで玄関を飛び出した。
ジェーネから待ち合わせに指定されたバーは、格式高そうな古めかしいところで、セルはためらいがちにその扉を開けた。先に入っていたジェーネが小さく手招きする。ああ、なんだか久しぶりだ、この心因性の胃痛。セルはお腹を抑えながら、ジェーネの隣に座った。
「ここは私が払いますから、好きなものを頼みなさい」
別に酒が好きなわけでないが、この雰囲気は酒でも入れないとやっていられない。セルがカシスミルクを頼むと、珍しくジェーネが口角を上げた。それは嫌味とか、皮肉とかではなく、本当に可愛いものを見る顔だった。
「案外、子供らしいものを頼むんですね」
「悪かったな」
セルは目の前に置かれたカシスミルクに口づけると、ジェーネから目を逸らした。こういう顔は、姉妹でよく似ている。そう思った。
「それで、話ってなんだ」
「いきなり本題に入るのも何でしょう」
ジェーネはウィスキーの水割りのおかわりを頼むと、ふぅとため息をついた。
「正直言って、初めはお前のことを疑っていました」
「それは……そうだろうな」
闇魔法組織、イノセント・ゼロの幹部。そして、ジェーネの大切な妹であるティーカをイノセント・ゼロに関与させた原因。尋問の時も、裁判の時も、セルは一貫して「あの女は個人的に雇っていた小間使いでイノセント・ゼロとの関わりはない」と主張していたが。
「夫をその手で殺め、逃亡生活で疲弊していたあの子の心の隙につけこみ、利用しているのではないかと、そう思っていたのです」
「……最初は利用目的だったさ」
セルは出会ったあの頃を思い出していた。利用するつもりだったとはいえ、あの日気まぐれに女を拾い、ともに暮らし、そして今がある。まったく、大きく運命を狂わせてくれたものだ。
「しかし、お前は裁判の時にずっとティーカを庇っていましたね」
「僕もずいぶん絆された、甘くなったよ」
セルは今までそんな自分をあざ笑っていた。でも今は、それすらも受け入れようする段階だった。ジェーネは酒に口をつけた。まだ全然酔っている様子ではない。
「それに……三年間お前たちを見てきましたが……あの子はとても幸せそうに見えます。」
ええ、もちろんお前もですよ、とジェーネは付け加える。セルは一杯目を飲み干した。ペースが早い、脳みそがじんと熱くなる。二杯目は薄目で、と頼んだ。
「私は感謝しています。絶望の淵に立っていたティーカに、再び希望の光を与えてくれたことに」
「はっ、そんなたいそうなもんじゃない。あいつは……きっと一生夫のことを忘れることはない」
「……そうでしょうね」
ジェーネは否定しなかった。別に否定してほしかったわけでもなかった。セルは、それもひっくるめて女という存在を受け止めていた。
「単刀直入に聞きますが」
いよいよ本題に入るらしい。セルは緊張して、濡れたグラスを握りしめた。
「お前、ティーカと結婚する気はないんですの?」
「け、結婚……」
セルは戸惑った。結婚、という言葉がまさかジェーネから出てくるとは思わなかった。結婚を考えたことがない、と言えばウソになる。未だ、あの女を妻や奥さんと呼ぶことはしていないが。なんというか、考えることを避けていたといか、逃げていたというか。だって、女からは一言も結婚なんて言葉でてこなかったし、ともだもだ心の中で言い訳をする。セルは黙りこくってよくよく考えてから、言葉を発した。
「僕は……あいつの意思を尊重する」
「そうですか」
曖昧な返答だったが、ジェーネはそれで納得したらしい。ジェーネがグラスを飲み干すと、セルもそれに続いてグラスを空にする。酔ったのか、結婚という言葉がショックだったのか、頭がくらくらする。ジェーネが会計を済ますのをぼーっと眺めていた。
「また会いましょう、セル・ウォー」
ジェーネと別れ、ぐるぐると渦巻く思考に足を取られながら帰り道を歩いていた。僕はあの女の結婚したいんだろうか、セルはそれすらよくわからない。女がセルと結婚したいのかなんて、ますますわからなかった。
部屋に入る。真っ暗だったから、女はもう寝ているのかと思ってそっと音を立てないように明かりをつけた。
「セル様、おかえりなさいませ」
低い声がして、セルはびっくりして肩を跳ねさせた。女はテーブルに着き、深い闇を湛えた瞳でこちらを見ていた。
「なんだ、起きてたのか。部屋の明かりくらいつけろよ」
セルは平静を装って女に話しかける。女はそれを無視して、セルに問いかけてきた。
「ねえ、セル様。今日、本当は誰と飲みに行っていたんですか?」
ゆらりと女が近づいてくる。すん、と女はセルの匂いを嗅いだ、動きが止まる。
「……お姉さまの香水……?」
どんな嗅覚をしてるんだお前は、と慄きながら、セルは全てを白状した。ジェーネに呼び出されたこと、どんな話をしたか、それから。
「……結婚、しないのかと聞かれた」
「……結婚、ですか」
女は、あの時セルがそうしたように、考え込んでいた。しばらくたってから、セルに向き直る。
「まずは謝ります、浮気を疑ってごめんなさい」
「いや、いい……僕のほうこそ紛らわしい真似をして悪かった」
女が何度か唇を舐めた。セルはじっと、女の言葉を待つ。
「結婚は……しないほうが、いい、と、思うんです……」
別にかまわない、セルは自然とそう思った。そんなもので縛らなくたって、囚われなくったって。きっと、女にだって整理のつかない気持ちがあるんだろう。女がセルに抱き着いてくる。
「……ごめんなさい」
「……僕は、お前と幸せに暮らせればそれでいい」
素直に、口からでてきた気持ちだった。それがセルの本音なのだ。
「私を……こんなわがままな私を……それでもそばにおいてくれるんですか」
セルは、おずおずと女の背中に手を回して、柔らかい身体をぎゅっと抱きしめた。何も言葉がでてこなかったけど、セルの想いはそれで充分伝わった。
「私は……私は幸せです、本当に……」
セルはもう一度強く、幸せをその腕で抱きしめた。