月影を落とす 3,4三.
圭が月の女神と取引をして数週間、季節がもうすっかり秋に変わった頃。
母が「食欲の秋ね」と笑いせっせと栗ご飯を装ってくれるのを片目に見ながら、圭は洗面所に洗顔と歯磨きをしに行き、体重計に乗ったら。
(今日も体重が落ちてる)
冷や汗が背を伝った。
圭は曲がりなりにも成長期だし、筋肉を増やすためのトレーニングもしている。だのに、こんな結果になっているのは。
(味覚のないせいも、あるんだろう)
この頃、食べること自体がとにかく億劫になった圭だ。そのストレスもあってのことかもしれない、この体重減少は。
「母さん、弁当箱を買い直してもらってもいい?」
圭は体重計の数値を見ながら声を張り上げた。月の女神に『味覚はなくとも野球はできる』と大見得を切ったし、それに何より、こんなことごときで野球に影響するなんて、あってはいけないと圭は思う。
「あら、圭ちゃんもついに成長期ね! いいわよ、いっぱい入る二段の買ってくるわ」
「ありがとう」
ダイニングテーブルに着いた圭は、母に朝食の礼を言ってから栗ご飯を食べた。餅米を使っている分、いつもよりべちょべちょしていて気持ちの悪い感触だ。それでも圭は何もないかのように食べる。ひたすらに、食べる。
「圭ちゃん、美味しい? 新栗って書いてたから初物よ、これ。寿命伸びちゃうわ、ラッキーね」
「美味しいよ。母さんが長生きしてくれると俺も嬉しいし」
朝は魚の焼いたのが多いから、比較的ましだ。噛み切るのに面倒な歯応えのある肉などは、できればあまり食べたくない。だが、赤身の牛肉にはたんぱく質もビタミンも多いから、圭は努力して残さず食べるようにしている。
「ごちそうさま。母さんパートの準備あるだろ? 洗い物は俺がするから」
「え? ええ、ありがとう圭ちゃん」
母に苦労を掛けている分、圭はできる範囲の手伝いはなるべくしようとずっと心掛けてきたが、最近は無理をしてでもそうしておこうと思っている。
(いつ命を支払うことになるか、分からないからな)
例の、指揮棒を握ったまま死んでいた指揮者は『若き天才』と呼ばれていたという。何歳かまでは圭は調べていないが、精々三十代というところだろう。
(俺はきっと、両親より先に死ぬ)
だから、親孝行は先にしておかなければ。いつ死んでも後悔しないように。
学校の支度を済ませて、葉流火とともに登校した。今日も葉流火は一時間目から朝弁をしている。圭が『そろそろ温かいものも食え』と言ったのを、葉流火はどう勘違いしたものか、教室でスープジャーに入った鳥がゆを食べている。香りがふわふわ漂うので、葉流火の席の周りの生徒はあまねく葉流火をチラチラ見ている。葉流火と隣の席である圭のところにも。
(これは、これでいいのか?)
葉流火にしたらちゃんと『圭のいうことを聞いた』つもりなのだろうが、そうじゃない。そうじゃないのだと思ってしまう圭だ。
「清峰……その湯気、何だ」
遂に指摘をした国語教師の顔にも、戸惑いが浮かんでいる。葉流火の堂々たる早弁には教師陣はもう慣れたようだが、流石に、ほかほかな湯気は見過ごせなかったのだろう。
「ム。お腹減ったから」
「我慢しなさい。皆そうしている。朝食は食べなかったのか」
「食べたけどもうお腹減った。食べる」
そうして堂々と、教科書で隠していたのを取り払って、レンゲに掬ったおかゆをふうふうして食べた。絶句する教諭と生徒、圭としては悩みどころだ、これほど自我を通すようになった葉流火の投手としての資質を更に伸ばすべきか、常識とすり合わせることを覚えさせるべきか。
昼休みが来て、葉流火と弁当を食べる。そうとは言っても、会話をしながら楽しく、という雰囲気ではない。圭は時間を効率的に使いたいから、食べながらスマートフォンで野球に関する電子書籍を読んでいる。一方の葉流火は食べるのに夢中だ。そんな葉流火が子供みたいでかわいいと圭は思っている。
味のない食事にも少しはいいこともあった。片手で箸を持ち、片手で読書といういつもの動作が、より効率的になった。ただ噛んで、飲み込むだけ。それならば何も考えずにできるから。
(この本はかなりいいな、紙も買うか)
紙の本には書き込みをできるから、サブスクリプションで読んでいるスポーツ関連の本から厳選して個別にも買っている圭だ。小遣いが足りるか頭の中で勘案しながら、スマートフォンのページを捲る。
「……い。圭、なあ圭」
「……ん、どうした葉流火」
本に夢中になっていたら、呼ばれているのに気付かなかった。集中しすぎる弊害だ。
「圭、最近食べるの早い。圭が『いっぱい噛め』って言ったのに」
「……ああ、本が、当たりが多くて」
頬を膨らませている葉流火に軽く言い訳をして、『前までと変わらない』ように演じることにも集中する。食事時、葉流火の前で演技をするのにも圭は慣れつつある。
「今日の弁当美味しい、これあげる、圭も食べてみて」
「ありがとう、葉流火」
何て白々しい演技、何て味気ない食事だろう。これではまるで、乾燥した月の大地を食べているみたいだ。
*
「圭ちゃん、最近また忙しくなった? ちゃんとお弁当食べてる?」
「そんなことないよ、母さん。美味しく食べさせてもらってる」
心配そうに圭へと尋ねてきた母にそう嘘を吐いた次の日、昼休みに弁当箱を開けた圭は、流石に目を剥いた。
「圭の弁当、かわいい。猫?」
「キティちゃんだな」
キャラ弁、という奴なのだろう。母の昨日の問いかけを、そして最近の自分の行動を思い起こした。
(母さんに『美味しかった』って、あまり言ってないな)
味が分からないから無意識に避けたのだろう。母は、圭が弁当の内容に飽きたか何かだと思ったのかもしれない。のほほんとした顔をしていることが多い割に、母は妙に鋭いところがある。内心圭はひやりとした。しかし、そこでキャラ弁を選択してくるあたり、変わった性格の母らしさが滲んでいる。
(母さんらしい)
苦笑しながら、そして風変わりな弁当を食べてみたそうにしている葉流火にちょっとだけ餌をやりながらも、ちらちら見られる昼休みをやり過ごした。
帰宅後に母には丁寧に毎日のお弁当作りの礼を言ったら。「案外楽しかったからまた作るわね」と言われた。勘弁して欲しい。
だが、弁当にまつわる騒動は『らしくもないキャラ弁に耐える』だけでは済まなかった。
「……葉流火、これ何に見える?」
「伊勢海老」
「だよなあ」
鮑も柔らかそうな和牛も入っていて、どこかの料亭の仕出し弁当みたいだ。
こんな豪華なもの、食べたことがない。特別な日でもなければ、母が弁当について何か言っているということもなかった。
(……母さん、もしかして俺の味覚がないのに、気が付いてるのか)
圭は、そうとしか思えなくなってきた。キャラ弁ももしかしたら、こちらを試していたのではないかと。
背筋が凍った。
ストレス性の味覚障害だと思われているかもしれない、そうすると厄介だ。葉流火の才能の対価に味覚を女神に支払っただけだから心配ない、なんて言えないし、おそらく病院に引きずって行かれるだろう。
「葉流火、これ、一切れやる。美味いから」
鮑を葉流火に食べさせて、妙な味付けではないことだけは確かめ、そうしてスマートフォンで『鮑 味 どんな』と検索する。母に『どうだった』と問われたときに答えられるように。
葉流火が「おいしい」と嬉しそうにしているが、お礼にとからあげをくれるのはいらないなと思った。葉流火の好物は、美味しく食べられる葉流火に食べて欲しいから。
(母さんにはずっと嘘を吐かなきゃならないな)
それに、一人っ子で親から溺愛されている自覚のある圭は、葉流火のためとはいえ、自分の身体の機能を自ら損ねたことに罪悪感を覚えた。
「圭、どうした? からあげ美味しくないか」
心配げに葉流火がこちらを覗き込んでいる。圭は微笑みを作って、葉流火に向けた。
「美味いよ。ありがとな、こっちの海老も食え」
そうして伊勢海老も味見をさせた。葉流火の目が輝いているから、圭も嬉しくなるし、きっと美味しいのだろう。圭に味は分からなくとも、葉流火がしあわせそうなら圭にとっては『美味しい』と思えるのだ。それだけでいい、圭のための栄養なんて。
「今日は圭がこっち見てご飯食べてくれるから嬉しい」
いつもは無表情な葉流火がにっこり笑ったから、圭もちゃんと笑みを浮かべた。内心が露見しないように。──もう二度と葉流火と、同じ『食事のしあわせ』を分かち合うことはないのだと思うと、陰鬱な気持ちになったからだ。
だが。
『小僧、後悔しただろう。そなたはもう一生、この坊にもそなたの父母にも嘘を吐き続けるのだ』
女神の姿は見えない。
だが耳許で、まるで堕落を誘う娼婦にも似た月の女神の声がした。
『戻してやっても良いぞ、他人の対価をそなたが支払うなど阿呆らしいことをせずに』
「……結構です。これでも良い選択をしたと自画自賛していますから」
『そうか。気が変わったらいつでも申せ。聞き届けてやろう』
止まった時間は終わり、女神が去っていったのが分かる。圭は溜息を吐くのを我慢した、葉流火がしあわせそうにしているから。
女神にいつも見られているというのは気持ちが悪いが、『神』相手ならば仕方がないのだろう。それも含めて『対価』であるのかもしれないことだし。
その後も何度も、圭が罪悪感やむなしさを感じる度に女神は来て『戻してやろうか』と誘ってきた。
圭は全て突っぱねた。だって、自分の味覚なんかより、清峰葉流火が大切だから。
四.
木枯らしも、初霜さえももう去った。
季節は冬と呼ばねばならないほど寒くなっていて、要家のささやかな敷地には紅の山茶花がひと株だけ、花を付けている。毎年母が「クリスマスらしくていいわね」と微笑むので、花や植物には疎い圭も、山茶花だけは名前と形を覚えているのだ。
「圭ちゃんが生まれた日にお父さんが植え付けたのよ、あれ。シンボルツリーっていうのかしらね」
数十センチだったらしいたったひと株がもはや圭の背丈を超し、定期的に剪定しなければならないほどになっているのだから、植物の生命力は恐ろしい。圭もそんな風に生まれたかったとすら思う。
「おばさん、シンボルツリーって?」
学校への見送りに玄関へ出てきた母へ、葉流火がそう問うた。
「そうねえ、圭ちゃんと一緒に成長して、圭ちゃんを見守ってくれる記念の木、ってことかしら」
「圭の、記念の木?」
「そう。立派に育ったでしょう? 圭ちゃんみたいに」
そんな風に言ってもらえるような息子ではない、特に、葉流火と比べたならば。
だから。
「うん。圭みたいにきれい」
葉流火に甘い声で褒めそやされ、甘い眼差しで見詰められたら、困ってしまう。圭は葉流火にとってそんなものであってはならないし、事実違うと圭は思う。
「あらま。葉流ちゃん、本当に圭ちゃんが好きねえ」
「うん。大好き」
葉流火は、こちらから決して目を逸らさない。視線に焼かれるようにすら圭は感じる。だが、身体の芯を炙る視線を、圭は意識しない振りをしている。
「圭ちゃん。お母さんは、孫の顔見たいとか、思ってませんからね。圭ちゃんの好きに生きたらいいわ」
「……どういう意味、母さん」
「どうせなら一生チェリーボーイでも」
「黙って、母さん」
最近、葉流火の圭に対する態度が、やけに甘ったるい。チーム内で孤立すればするほど、二人だけの時間が増えるからかもしれない。
「圭とだけ居られるから嬉しい」
葉流火がそういう思考に動くのは、圭にとってはまずいことだ。『共犯者』となどと嘯いて葉流火を依存させたのは圭の方だ。しかしそれは葉流火を『最強の投手』へ導くための手段であって、真実ではないからだ。
全ては、清峰葉流火の輝ける未来のため。その未来の中に圭は居ない。
そのため──学校に向かう途中に、毎日さりげなく手を握られるのを振り払うのに、圭は苦心している。葉流火を傷つけず、圭から目線を逸らさせる術を考えるべきだと感じる。だけれど手の力は葉流火の方が圭より圧倒的に強いし、愛おしげな視線をこちらに向けている葉流火に気付かれずに手を離すなんて、不可能に近い。
「葉流火、離せ。変に思われるだろ」
「そう? 俺は気にしない」
「駄目だ。お前のファンに妙な噂が広まったら大勢泣くぞ」
「どうでもいい」
どうしてこういうときばかり頑固に育ってしまったのだろう、清峰葉流火は。圭は嘆きたくなる。仕方なく、毎日同じ言葉で葉流火を震え上がらせる。
「しばらくノースローの練習メニューにするけど」
「ごめんなさい!」
そうして毎日、葉流火の対処に苦慮していたら、クリスマスが来た。イブと大晦日、元旦はシニアの練習がないから、圭は例年通り、家でささやかなクリスマスを過ごそうと思っていたのだが。
「お父さんが『たまにはデートしよう』って誘ってくれたの」
珍しくも頬を染めて母が言ったので、圭は「良かったね」と一緒に喜んで見せながらも内心焦っていた。だって、そんなことを葉流火が聞きつけたなら。
「俺たちもデートしよう、圭」
「……あのなあ」
圭は大きく溜息を吐いた。
(そう来るだろうと思ったが、本当に言うとは)
葉流火にとって『デートをしたい対象』などになるわけにはいかない。葉流火にとってそういう存在は、圭などではあってはならないのだ。思春期の葉流火の迷走や幻想だ、そんな感情は。
「嬉しくないのか、圭は」
「当たり前だろ、何でバッテリーでデートに行くんだよ」
「俺は、すごく行きたい」
学校に向かうだけなのに、圭は毎日やたらと苦労している気がしている。野球をしていないときの葉流火は、最近ずっと、圭だけをを見ているから。
「イブは練習ないだろ、キャッチボール付き合ってやるから馬鹿なこと言うなよ」
「嫌だ。デートの方がいい」
葉流火がそう膨れっ面をするから、もう頭を抱えたくすらなる。
(……重症すぎる)
いつからこんなだっただろうか、と頭痛すらする脳を回してみるが──最初からこうだった気がしなくもない。明確に、確固たるものになっただけで、最初から葉流火は圭を眩しそうに見ていた。──圭が葉流火の輝きを目を細めて眺めていたのと同じに。
(駄目だ)
葉流火の輝きこそが本物で、圭のはただの、他の天才の真似事でしかない。勉強で得た知識も、練習方法も全部、誰かの借り物だ。
だから。
「あのな。俺とデートなんてしてる暇があったらトレーニングの一つでもこなせ。お互いその方が建設的だろ」
普段葉流火には決して向けない、強い口調で圭は言った。
「お前が恋愛したいなら俺は止めない。でもな、俺には関係ないだろ。お前を支えてくれる、お前のことを一途に愛する女性を好きになれよ。それがお前のしあわせのためだ」
清峰葉流火のしあわせ、そのために圭は生きている。だから、それを損ねるのが自分だなんて、圭は絶対に許すことができない。
「圭は」
葉流火が、まるで子供の頃みたいに、泣き出しそうな顔をこちらに向けた。荒くなった声に葉流火自身が驚いているようだし、強く拳が握られている。
立ち止まった葉流火の震える腕、が、圭の頬に伸びてくるのを、どうしてか圭は、防ぐことができなかった。
「圭は。誰かを特別に好きになったこと、ないのか」
まるでこれでは、特別が圭であるかのようで。
また圭は、葉流火の前で吐く嘘をひとつ、増やした。
「ない」
圭の『特別』は、圭だけが知っていればいい。葉流火にだけは知られてはならない。
圭はそう信じている、のに。
「……それなら、俺を見て」
葉流火の手のひらが温かくて、圭は目眩すらする。彼ともっと温度を分け合えたならば、どれだけ圭はしあわせだろう。
「俺だけ見て、圭」
葉流火の美しさが、それでいて強張っているような顔が、こちらに近付く。その先を圭は予想をして、全身が歓喜でざわめくのを否定して、必死で歩き出した。わざと大きくした足音で、圭の言葉が掻き消えてくれればいいと願う。
「…………ああもう、しょーがねェな。ちょっとだけだぞ、デート」
「圭! ありがと」
走り寄る葉流火の表情は見ないことにした。いつも通りだ。デートなどと銘打ってしまったけれど、普段通り幼なじみと出かけるだけ。ただそれだけだ。
*
デートをしたいと言ってきたのは葉流火の方なのに、何処に出掛けたいとか、彼は一切考えていなかったらしい。
仕方なく圭は、昼休みにクリスマスイベントを検索して──不意に出てきた文字に、手を止めてしまった。
「……吉祥寺とか、どうだ」
「何処?」
「駅から直通のバスがある。クリスマスツリー、色んなところに出てるらしい」
「行く。圭とクリスマスツリー、見たい」
吉祥寺、という街には引っかかるものを抱えている圭だ。いつか一度だけ見た深夜アニメの登場人物たちが『帰りは吉祥寺に』と言っていたから。
まだそんなことを覚えていた自分に、圭は自嘲しながらも、だが悪くない案だとは思う。バスで一本で済む範囲で、さっさと済ませて帰りたい。それに何より、ひとの多いところならば葉流火も妙な行動を起こさないだろうと圭は狙いを付けたのだ。
だがその読みが甘かったこと、イブの日の放課後、圭は思い知った。中学生らしくない、仕立ての良いチェスターコートを着た葉流火が言ったことには。
「圭。手、繋ごう」
「……勘弁してくれ」
「繋ごう。デートだから、繋がないと嫌だ」
どうしてこんなときにまで意固地になっているのだ、清峰葉流火は。
「いいじゃない圭ちゃん、減るもんじゃないし。お母さんだってこの後お父さんと繋ぐわよ」
いつもパートに行くときよりもばっちり化粧をした母が、ニヤニヤとしながら唆す。勘弁してほしいと圭はまた思った。
「あのな。ご近所の誰かにそんなところ見られたら、妙な噂立てられるぞ。もうリトルの頃じゃないんだから」
「じゃあ、吉祥寺で繋ぐ。近所のひと居ないだろ」
「そういう問題じゃねェ」
妥協に妥協を重ねて『吉祥寺でだけ手を繋ぐ』ことになった。何がどうして、男同士の幼なじみでデートスポットで手を繋がなくてはならないのだろうと圭は思うのに、心にあるのが嫌悪でなく、体裁を繕わなくてはならないという義務感であることこそが嫌だった。
吉祥寺の降車場に降り立った瞬間、葉流火に手を伸ばされた。
「圭」
柔らかな葉流火の笑顔に、不覚にもときめいてしまった自分が、圭は嫌だ。その笑顔を向けるべき相手は別にいるのに、それなのにその手を取っているのが圭であることに、ひどい罪悪感を覚えた。
それなのに、圭の宝物である葉流火の手に、自分の手が包まれていることが、しあわせで、圭は参ってしまう。
「行こう、圭。ツリーの場所、ちゃんと調べたから」
「どうした、お前がそんなことするなんて」
「俺が誘ったからリードしないとって、兄貴と母さんに怒られた」
待ってほしい。清峰家にも『デート』と認識された上で応援されているのだろうか、これは。
(葉流火の将来が心配じゃないのか?)
幼なじみの男にほいほいデートを申し込むような情緒に育ってしまっているのに、清峰家は不安にならないのだろうか。
「……葉流火。帰り家に寄っていいか。おばさんと葉流馬さんと話したい」
「うん。連絡しとく」
そう言うくせにスマートフォンを手に取ろうとしない葉流火に、圭は諦めて自分で清峰家とのグループLINEに『帰ったら少し話をさせてください』と送っておいた。送信した後に、意味深に捉えられていたらどうしようかと頭を痛めた。
「街路樹も光ってる」
「ああ。きれいだな」
冬だ、と強く感じさせるものがある。冬は、特にこの十二月は、葉流火の誕生日があるなくらいの感慨しか圭にはないのに、こうしてクリスマスイブに、人生で初めてのデートを葉流火とした、という事実は圭の記憶に刻まれて一生消えないのだろうと思った。
(……葉流火もそうなのか)
不要なことは全て忘れろ、と葉流火にそう圭は教育している。けれど、じっとこちらを見下ろして、足取りさえも確かではない葉流火はきっと、このデートを忘れてくれないだろうと思った。
(胸が、痛い)
葉流火にとって圭が何であるか、形を取ろうとしているのだろうことが、怖い。そして葉流火の認識と、圭の自意識は決定的に食い違うだろうことが、恐ろしくてならない。
「圭、着いた。クリスマスツリー、一カ所目」
「一カ所目?」
「あと四カ所ある」
圭はがくりと肩を落とした。圭の中ではそんな予定ではない。
「……クリスマスツリーは全部同じだろ」
「うん。でも、いっぱい見たら、いっぱい圭といられるから」
しれっと言う葉流火に呆れながらも、圭は自分の葉流火に対する甘さを自覚しているから、仕方なく付き合ってやることにした。
クリスマスツリーは、青い電灯に統一されて彩られていて、てっぺんで青い星が輝いていて、まるで葉流火みたいだと圭は思った。だからだ、やけにきれいに見えるのは。
「きれい」
「そうだな、悪くない。……そういや昔、お前の家のツリーの装飾、おばさんが一人でやったので──」
「うん」
相槌がやけに近いなと感じて、圭は目を葉流火の方に向けた、ら。
「……葉流火、ツリー、見てるか?」
「見てない」
「何で」
「圭の方がきれい」
もはや、圭は苦悩で思い煩いそうなほどだ。そんな、女性を誑し込むような台詞を、自分相手に吐く葉流火が信じられない。
「何処で覚えてきた、そんな台詞」
「? 何のこと」
天然か、と圭はもう額を抑えることしかできなかった。確かにこの清峰葉流火が、相手の機嫌を取るための言葉を吐く、なんてあり得ない。
だとしたら、何故。
(どうしてそんな、愛おしそうに俺を見るんだ)
圭は、葉流火の『特別』であってはならない。
そんな風に育成した覚えもないし、野球だけを愛しそれだけを見るように仕向けてきた。
だのに。
「葉流火。……こんなの、楽しくないだろ。野球の方がずっといいよな?」
「野球、好きだけど。圭といられるから、今も楽しい」
「……そんな」
怖くて、圭は震えてしまいそうになる。
そんな感情は、今の葉流火には必要ない。ましてやそれを圭に向けるだなんて、不要どころか足枷になる。
「……馬鹿なこと言ってないで、行くぞ。あと四カ所行ったら帰るからな」
「夕飯食べてこいって、母さん言ってた」
葉流火の手を振り払ったのに、再び繋がれて、圭は表情が崩れるのを抑えられない。それに自分の家にも親がいないことを思い出し、どうしようもなくなった圭だ。これでは本当に、葉流火とクリスマスデートをしている、みたいで。
(駄目だ、これ以上は)
嬉しくても繋がれた手が愛しくても、肺がしあわせに満ちていても。
(葉流火には必要ない)
これからはもっと、葉流火に厳しく振る舞わなければと圭は気持ちを新たにした。きっと甘やかしてしまったのだ、圭は。『デート』なんて名の付くものを葉流火の、自分たちの生活に持ち込むなんて、もうこんな失態は、もう二度と。
*
クリスマスイブのデート以来、圭は葉流火との肉体的接触を極力避けた。学校はもう冬休み期間だから、シニアに向かうタイミングをずらしてしまえば、葉流火がこちらにふれるなんて考える時間を潰してしまえる。夜の自主練の後はお互い流石にへろへろで、手を繋ぐどころではないからある意味楽だった。
だが、そんな圭の努力は数日しか保たなかった。大晦日の夜、葉流火が要家で過ごす慣例だけはどうにもならなかったからだ。
「葉流ちゃん、ここに布団敷くわね」
これまた例年のごとく、母が圭の部屋に葉流火のための布団を敷いた。圭に断る権利も理由もない。葉流火とのデートがきっかけで一緒に眠るのさえ嫌がったら、母に邪推されそうだし、大体葉流火をこの暮れの寒空の下、一人で家に帰すわけにはいかないから。
「葉流火、もう寝ろよ。十二時頃には起こすから」
「いい。今年は起きてる」
決意に満ちあふれた声で、葉流火がそう宣言した。圭は机に向かいながら、葉流火の方を見ずに窘める。
「無茶すんな。十時過ぎてるぞ、普段は寝てるんだから大人しく寝ろ」
「寝ない。圭こそ、大晦日なのに勉強するのか」
「習慣だからな。一日だって欠かしたら後悔するから」
自分は欠けているものだらけだと、そう感じている圭だ。だから、行動で何とかなるものくらい、完全にしていたい。そうでないと、とてもではないが『天才』清峰葉流火の隣には立てないから。
「やっぱり圭はすごい。俺も筋トレする」
「今は身体を休める時間帯だから駄目だ。起きてるなら動画でも見てろ、お前の参考になりそうなのまとめてあるから」
それは本来は圭が葉流火に教えられるようにまとめたプレイリストだ。だから、圭が説明しながら葉流火に見せたいのだが、身体は一つしかない。たまには葉流火に自学自習をさせてみることにする。
葉流火にタブレットを貸してやって、圭は今日は読みさしのスポーツ栄養学の本を纏めることにした。お節や餅の外せない年末年始は栄養が偏りがちだから、ビタミン類を補充できる食品を目で追いながら。
「葉流火。寝るなら布団で寝ろ」
部屋の隅に追いやった折りたたみテーブルの上で涎を垂らしている葉流火に圭はそう言い付けた。妙な姿勢で寝られて筋肉に影響があったら困るからだ。
「う。ね、寝てない」
「寝てる。いいから布団には入っとけ。布団の中でも見られるだろ」
圭は葉流火の方へと向き直って、にっこりと笑い、言い渡す。
「言うことが聞けねェのか、葉流火」
「ご、ごめん!」
そして、しばらくの後に案の定寝息を立てだした葉流火に、圭はやっとほっとして勉強の続きを始めた。これで何とか今年もやり終えることができると圭は思った。
ピピッ、と圭が勉強の終わりの時刻として毎日深夜十二時に設定しているアラームが鳴った瞬間、葉流火が起きた気配を背中で感じた。
「……起きたか。あけましておめでとう、葉流火」
「ん……おめでとう、圭。今年もよろしく……来年も、再来年も、ずっと」
「いつまでウチに押しかけるつもりだよ」
新年初の会話を笑って流し、圭は机に向かって固まった身体を軽く解してから、寝る準備に向かう。
「歯磨きしてくる。葉流火は先に寝てろよ」
そう言い残し、洗面台より先に両親に新年の挨拶をして、丁寧に歯磨きを。野球をしていると歯を食いしばることが多くて奥歯がすり減るから、せめてそれ以外の原因で損ねることのないようにと圭は気を配っている。
そうして部屋に戻ったら。
「……葉流火。ベッドから降りろ。お前の寝床はそこじゃない」
「一緒に寝よう、圭」
「駄目だ。何考えてるんだお前、幼なじみ同士で一緒に寝ていいのは小学生までだ」
「そんなの誰が決めたんだ」
頬を膨らませた葉流火がベッドから降りてきて、圭の腕を掴んだ。圭は反射的に震えた──怖い、と。
見上げるほどに身長差のある葉流火に抱きしめられると、感覚としては『包まれる』と言った方が正しいのだと、そんなことは圭は知りたくなかった。だのに、葉流火のぬくもりが息遣いが力任せにぎゅうぎゅうと抱く腕が心地好いことまで知ってしまって、もうどうしようもないと思う。
「圭、俺は」
吐息混じりの甘い声で呼ばれて、圭の肩が跳ねた。動作が全て葉流火に伝わっているという、恐怖。だって圭は葉流火に知ってほしくない、今の圭の気持ちなど、何一つ。
「俺は圭にいっぱい、さわりたくて」
圭はさわってほしくなんかない。だって、身体が、心臓が。
「ずっと側にいたいのに、でも側にいると心臓が痛くて」
葉流火が『心臓』と言ったから、圭はまさにその器官が潰れてしまいそうになった。葉流火の言葉はそのまま全て自分に当てはまるのが、圭はとても嫌だった。
「だけど圭がいないともっと痛いから」
「……だから、何だよ」
「今日は一緒に寝て、ほしい」
前後が繋がっていない、のに、圭にはその文脈が理解できてしまう。だからこれ以上、葉流火の思うとおりになんかされたくなかった。
「圭」
溜息のように呼ばれて、思わず顔を上げてしまった自分を圭は、一生後悔いるだろうと予想した。
「……何でキスした、今」
清峰葉流火の唇を知ってしまったこと。清峰葉流火が圭の唇を覚えてしまったこと。そのせいできっと圭は──戻れなくなった。
「ああ、これ、キスか」
正真正銘驚いた、という表情の葉流火が、不意にはにかんで。
「俺、圭とキスした、のか」
微笑まないで。
そんなしあわせそうにしないで。
圭は思い知ってしまう、自分の本当の望みを──醜悪な欲望を。
(俺は、葉流火が好きだ)
幼なじみでもバッテリーの相棒でも、ただの特別だけでもなく。
ふれて重ねて独占してしまいたい、執着じみた、醜い愛だ、これは
「圭、もっと」
「待て、そんなの許してねェ」
「待てない、ごめん」
何度も、何度も落とされるキスは、まるで強い酸のように圭を溶かす。このままだと身体は溶けて亡くなるのに甘くて、それなのに痛いほどに切ない。
清峰葉流火を愛している、のは、その才能への憧れだったはずなのに、知らない間にこんなにも葉流火自身に恋をしている。
愛している、愛してほしい。こんなに不相応な身なのに。
*
冬が深まって、山茶花はもう散ってしまった。だが、落ちた花びらから移ったみたいに、街の彩りは赤いままだ。今日、バレンタインデーが終わればきっと、春らしい色に変わるのだろうけれど。
圭は学校で沢山の女子からチョコを渡されかかったけれど、全て拒否した。
「野球が一番大事なんだ。ごめん」
その言葉が嘘であるのは圭は自分で分かっていた。そして。
「圭、俺は圭が好きなんだ」
自主練の帰り道、満月の下、葉流火にそう告白されることも圭は薄々予期していた。
断ると、あの年越しの日からずっと決めていた。結局あの日も葉流火は布団に寝かせたし、その後もずっと葉流火からの接触は拒絶している。
だのに。
(どうして声が出ないんだ)
受け入れたい気持ちなど、一片たりとも存在してはならないのに、身体中が縛り付けられたみたいに動かない。
縛られているとしたら。
(葉流火に愛されるのが、そんなに嬉しいかよ)
この密やかなしあわせを手放すのがそんなに嫌かと、圭は自嘲すらしたくなった。
葉流火の将来に必要なのは自分ではないのは分かりきったことだ。だから、葉流火のためを思うなら今ここで、断ち切らなければならないのに。
『何を迷っている、小僧』
「……今来てくださって感謝します、俺からじゃあなたにコンタクトを取れないから」
『妾がそなたを見ていることは知っておろう。呼べば来てやらなくもない』
傲岸不遜な彼女の態度が、今の圭にはありがたくすらある。
「次の『対価』を決めました」
『ほう。申してみよ』
「俺は──葉流火を愛しています。葉流火が俺を愛してくれてしあわせだ。だから、このしあわせを『対価』にします」
味覚より何より、清峰葉流火の野球に必要ないのは、圭のこのしあわせだ。だから。
「葉流火の告白には応じません。俺は葉流火を、しあわせにできないから。葉流火に愛を告げないことを『対価』にしたい」
『……そなた、随分と人間らしくないものよの』
女神の美貌が歪んでいる。面白くないとでも言うかのように。
「そうでしょうか」
『人間とは、自己中心的な生き物だ。生物としての本領すら忘れ、自己としての生き方を確立しようとすらする、自己愛に支配された生き物なのだ。それがなんだ、そなた、気付いておるのか。そなたの自己愛そのものを手放したも同然なのだぞ』
女神が人間を見下しているのか、それとも圭を見下しているのか、圭には分からなかった。恐らく両方なのだろうけれど。
「葉流火がしあわせになるなら、俺は俺のことなんかどうでもいいんです。どうせいつか葉流火の天才にはついていけなくなる身ですしね」
葉流火の『天才』を支えられるひと。その者だけが、葉流火の横に立つ資格があるのだと圭は信じている。だからそれはきっと、圭ではないと。
『相分かった。そなたの対価、確かに受け取った』
消えた女神が心なしか難しい顔をしていたのは何だったのだろう。だが、苦しげに困ったように、圭を見下ろす葉流火の前にはどうでもいいことだった。
「葉流火。俺はお前を愛せないよ」
目を見開いてポロポロ涙を落とす葉流火が哀れだ。今圭にできるのは、傷が少しでも浅くなるように、葉流火に速やかに愛を捨てさせること。
「圭、俺は」
「馬鹿なこと言ってないで野球に集中しろ。恋愛なんてプロになってからでもできるだろ。今俺相手にそんな幻想抱いてんじゃねェよ」
実際、恋愛なんてアドレナリン中毒に似たようなものだ。だから、別の形で脳内麻薬を得られれば、恋愛なんて可笑しくもなくなると、圭は思うのに。
(じゃあ俺がずっと葉流火を愛してるのは?)
その答えは出ないまま、圭は平静を装い続ける。
「幻想、とかじゃない」
「男相手に愛だ恋だなんて──」
「男とか、じゃない。圭が好き。圭以外のやつなんか好きにならない。圭、今じゃなくていい、いつか、俺を好きになって。ずっと一緒にいて」
そうして嗚咽を漏らす葉流火を慰められないのが、苦痛だった。
葉流火を愛する資格を失った自分よりも、こんな自分なんかを愛した葉流火が可哀想だった。