月影を落とす 1、2月の河には、月の女神様の宝物が浮かんでいる。
それを手にした者は皆、世界を魅了する才能と、巨万の富を得ることができるという。
でも決して、宝物を拾い上げてはならないよ。
いつか女神様に、対価を払わなければならないから。
一.
今夜、要圭は少しばかりうきうきしている。眠るまでの間を清峰葉流火の家で過ごすことになったからだ。
リトルの後に葉流火の母が迎えに来てくれて「圭くんのママ、パートのお仕事が急に入っちゃったんですって」と言った。だから圭は、葉流火の家でお風呂と夕飯と宿題を済ませてから帰宅せよ、とのことだ。
「やった! 葉流ちゃん家のご飯、お米が美味しいんだよな」
葉流火の家はお金持ちだから、きっと高級な品種の米を食べているのだと、圭は勝手に思っている。
「そう? 嬉しいわ。いっぱい食べていいからね」
「ありがと、おばさん。葉流ちゃん、早く帰ろ!」
「圭ちゃん待って、着替えがまだ」
圭から見た清峰葉流火はいつもおどおどしていて、行動が他のひとより一拍送れているような気がしている。葉流火に容姿もいいし、何より球があんなに速くてかっこいいのに、とても不思議だ。
(まあ、葉流ちゃんらしいからいいけど)
圭と葉流火は小学三年のときに出会った。学校が違うから圭はそれまで葉流火の存在を知らなかったのだが、葉流火が圭を見つけてくれたらしい。
(あんなに泣き虫なのに、見る目はあるんだよな、葉流ちゃん)
他ならぬ圭を選んで、友だちになりたがったのだから。
葉流火が初めて野球ボールを投げた日からもう三年近く経つ。初めて葉流火のボールを受けた圭が予感したとおり、葉流火は『名門リトル宝谷の天才投手』として、名前が轟いていると、リトルの監督が言っていた。圭もその感触を掴んでいる、何せ都内のリーグで試合をしたって、葉流火に勝てる相手なんてひとりもいないからだ。
(俺も強くなったし! 取材でも『賢い』とか『しっかりしてる』って褒められたし)
体格に恵まれ、小学生とは思えないほどの剛速球と制球を誇る葉流火と比べて、圭の雑誌での扱いは小さかった。だけれど『清峰葉流火の相棒たるに相応しい』と書いてもらえたから圭は満足している。
ちゃんと宝谷を選んでリトルに所属した自分を、圭は褒めてやりたい。葉流火と『日本一のバッテリーになる』と約束したから、数あるリトルの中でも『将来性があって』『実力を兼ね備えている』ところを圭が調べて選択したのだ。当時の目論見どおり、二人はどんどんスター選手としての道を歩んでいる。
「圭ちゃんお待たせ、着替えた!」
「よし。帰ろう葉流ちゃん」
「うん!」
三人で並んで帰路につく。葉流火の母の背丈を、葉流火がもう越してしまっていることに、圭は気が付いた。来年にはもう中学生になる。葉流火はどれほど背が伸びるのだろうと思うと、圭は楽しみになった。
(俺も頑張らなきゃな)
金木犀の香りの道の上、満月の出ているもう暗い空の下、圭はそっと決意を新たにした。だから、葉流火の家の美味しいご飯もいっぱい食べようと。
背の高いマンションの最上階、清峰家のドアを開けると、清峰葉流馬がちょうど、靴を揃えていた。有名な高校の校章の入った学ランを着ていて、スニーカーにも汚れ一つない。葉流馬は葉流火と正反対で、運動はからきしらしいが、とても頭がいいのだ。
「に、兄ちゃんおかえり」
「葉流馬兄ちゃん、お邪魔します」
「今日は圭くんがいるのか。ゆっくりしていってな」
兄に弱い葉流火は後退り──どころか圭の背中に引っ込んでしまった。葉流火のこの気の弱いところは直していってほしいと、圭は思っている。
手を洗って、葉流火の部屋に荷物を置いてから広いダイニングテーブルに座った。清峰家は四人家族なのに六人掛けのテーブルなのは、圭と圭の母がしょっちゅうお呼ばれに来るからだ。
葉流馬がテレビを点けた。彼はニュースを見ながら夕飯を食べるのが効率的だと言っていた。圭も同じ気持ちだ。圭が自宅での夕飯のときに見るのは野球の動画だけれど。
『……『天才』と名高い○○氏が不審死を遂げ』
葉流火と一緒に夕飯の皿を運んでいた圭は、『天才』の言葉に反応して、反射的にテレビを見た。テロップには『若き天才指揮者、死に際と遺書の謎』と書かれている。
「指揮棒握ったまま死んでたって──変なの」
圭は独り言ちたつもりだった。だが葉流馬が葉流火を向き、悪戯っぽく笑った。
「お前は球握ったまま死にそうだな」
「えっ……ぼ、僕、死にたくない」
葉流火は怯えた顔で、今にも食器を落としそうだ。兄に揶揄われるのはいつものことなのに、そのたびに葉流火がしてやられるのは、圭はどうかと思う。
「大丈夫だよ、葉流ちゃん、めちゃくちゃ健康だろ」
小学校の健康診断でも飛び抜けて発育がいいと保証されているのだから、葉流火は大丈夫だと、圭は一生懸命諭す。葉流火が今左手に持っているのは、圭専用の茶碗だからだ。
「まるで月の女神様の物語みたいね」
葉流火の母が味噌汁を装いながらそう言った。
「……月の女神様?」
「あら、圭くん知らない? 海に映った月の河に浮かぶ、女神様の宝物のお話」
「知らない」
圭が首を捻ると、葉流馬が説明してくれた。
「月の河には女神様の宝物が浮かんでるんだ。それを拾うと才能と富が得られるが──代わりに『対価』を払わなければいけないらしい」
「対価? 女神様もお金が欲しいの?」
「いや。そのひとにとって大事なものが『対価』になるらしい」
なるほど、と圭は腑に落ちた。ニュースで『これが対価だ』という内容の遺書が残っていたのだと、言っていたのは、命を『対価』にしたということだろう。
(何か……嫌だな)
圭は肌が粟立ち、背中がひやっとした。だって、神様に才能をもらったのはきっと、清峰葉流火もそうだから。
圭はヒーローになるのは自分だと、かつて思っていた。だけれど葉流火という手の届かないような存在を知り、生まれつきヒーローになるべき『天才』がいるのを悟った。
『天才』はもう、身体つきも姿も、何もかもが『違う』。葉流火は髪の一本から爪先まできれいにできているし、野球をするために生きているのだというのが誰にでも分かるように神様が特別に扱ったのだと、圭は思っている。
(だからって、俺も諦めてないけど)
天才はいる。だが、葉流火の投げるボールは誰かが捕って初めて『野球』になるのだ。圭はその『誰か』であるための努力を惜しんだりしない。
だから。
葉流火に才能を与えたのが月の女神様でなければいいと思った。葉流火が死んでしまうのは嫌だから。
『──ほう?』
やけに低い、でも女のひとである声が、不意に、圭の耳の奥に直接届いた、気がした。
圭はダイニングを見渡す、振り返る、見知った顔以外は誰もいない。当たり前だ。だのに、確かに声を聞いたと思う。
「……おばさん、何か言った?」
聞き慣れた葉流火の母の声はもっと優しくて高い。だが、ここには女のひとは彼女しかいないから、そう尋ねたのだが。
「いいえ? 葉流ちゃん、そんなにテレビばっかり見て怖がらないの。大丈夫だから」
「……うん」
結局圭に聞こえた声が誰のものだか、分からなかった。圭は聞き間違いだと思うことにした。そう、信じたかったから。
*
清峰家のご飯はやっぱり美味しかった。葉流火の母が「新米なの」と言ってたから、余計に美味しいのだろう。
夕飯の後には交代でお風呂に入った。圭の着替えはこの家に常備しているのだ。
「葉流火、宿題は」
葉流馬が厳しい声で言った。葉流馬は、弟が『穀潰し』になるのをどうにかして避けようと、葉流火に厳しく接しているのだという。確かに、野球というスポーツは、故障一つで全てが駄目になってしまうこともある。だから圭にも『保険のために』勉強しておくべきという葉流馬の気持ちは分かる。だが当の葉流火はそうではないようだ。
「やる……。でも今日は圭ちゃんがいるから」
「グズグズしてないで宿題持ってこい! 兄ちゃんが監視しててやるから」
「は、はい……っ!」
背中を押すような葉流馬の怒鳴り声に、彼がいつもこんなに強気ならばと、圭は思うばかりだ。人見知りの彼が、小さい頃の圭の前でまで馬のかぶり物をしていたのを圭は忘れられない。
「葉流ちゃん、そこ漢字違う」
「え? どれ?」
「『系統』のとこ。『圭』だと俺だよ」
葉流火は漢字も苦手なようだ。だから、圭はいつもちらちらと宿題のプリントを覗き込んでは訂正してやるのだが。
「圭ちゃんの『圭』以外の『けい』は知らない」
「……あのな、葉流ちゃん。何て言うかこう、もうちょい視野を広く持ってよ」
圭と葉流馬がてんやわんやで葉流火に宿題を教えてやって、ようやく自由時間だ。
葉流火の部屋にはゲーム機がない。葉流火はそういうものに興味がないそうだ。だから二人でいるときには大体、圭が野球に関する本を読書しながら、有益なことを葉流火に教える、という過ごし方をする。だが今日は、突然の来訪だったから、圭は本を持っていなかった。
「チェスかオセロでもする? ウノでもいいけど」
「オセロがいい」
葉流火はにこにこと言うが、圭は葉流火とするテーブルゲームがあまり好きではない。圭が圧勝してしまうからだ。葉流火は悔しがりもせずに「やっぱり圭ちゃんはすごいね」と言うので、やる気も出ないしあまり楽しくない。
だが、葉流火はやっぱり嬉しそうに大きな遊具箱を持ってくるから、圭は仕方なく箱の蓋を開けた。
「オセロ……オセ、ロ、……あれ、これ何だ? 野球、ボール?」
道具箱の一番底がキラッと光って見えた。何だろうと思い圭が手に取ると、それは見慣れた縫い目のボール。だが、一度も使われた痕跡はないし、それにいつも捕っている軟球とは違いやけにすべすべした感触で、そして何故だか内側から光っているように見えた。
「これ何? 初めて見た」
「え……と、何だっけ。覚えてない」
「ええ? 葉流ちゃんのだろ、これ。野球のなのに覚えてないの」
「うーん……?」
首を捻る葉流火だが、不意に「あっ」と閃いた顔をした。
「海で拾った、かも。幼稚園のとき……?」
「……これを、海で?」
寒気が圭を襲った。だって海水に曝されていたにしてはやけにきれいだし、それに何よりこれは、野球をするのに実用されるようなものではない。まるで何かの装飾品みたいなのだ。
「まさか……さっきの『月の河に浮かんでた宝物』なんじゃ」
口から出た言葉を圭は悔いた。無闇に葉流火を怖がらせてしまうと思ったからだ。
「え? そ、それじゃ僕、死んじゃうの」
「そうは言ってないよ、大体『月の女神様』なんていないって」
案の定震い上がった葉流火に、圭は慌てて両手を振って自分の言葉を否定した。だけれど──本心では確信していた。これは女神様の宝物で、葉流火はきっとそれを拾ったのだと。
だって清峰葉流火は天才で、この輝くボールに相応しい。恵まれた容姿だって神様が気に入るだろうし、才能を分け与えたくなってもおかしくない。
(でもな)
葉流火に才能をくれた女神様に感謝はしたい。だって圭に、清峰葉流火ほど輝く存在を見せてくれたから。
でも。
(『対価』って、何だよ)
才能を与え、天才をを愛するのなら、それだけにしておけばいいのに、何故『対価』なんて持って行くのだろう。
そのせいでいつか葉流火が野球ボールを握ったまま死ななければならないなら──そんな『対価』は代わりに引き受けたいと、圭は思った。
『ほほう!』
女性の声が、またした。
だが、今度は声だけではなかった。葉流火の向こう、乳白色に光る衣の美しい女性が、足を組んだ形で座りながら、宙に浮いて笑っている。
「ひ……!」
長い黒髪を結い上げているその艶美も、社会で習った古代のひとのような服装も、肘から先を覆う黄金の布地から覗くこちらを指した手も、どれも圭にとって恐怖の対象だった。だって、こんなひとが存在するはずがない。圭は尻もちをついた。
『其処な洟垂れ小僧。今何を考えた』
「お、俺? 何って」
『お前が対価を払うと。それは確かか』
くすくす笑う女性の言葉も姿も、葉流火は認識していないように見える。それどころか、時間が止まっている、ようだ。圭と女性だけが動いているから。
「月の女神様……?」
『そうだ。この坊に『才能』をやったのは妾。──いずれこの坊から『対価』を刈り取る者』
威風堂々というのは、きっとこの女神の態度のようなことを言うのだろう。圭は怯えた。足が震える、見上げている目が女神の放つ光で潰れるんじゃないかと思う。
それでも。
圭には言わなければならないことがあった。
「そ、そんなこと止めて、ください! 葉流ちゃんは何も悪いこと、してません」
葉流火から『対価を刈り取る』なんて、圭は許せない。それが女神相手だったとしても。
(葉流ちゃんがひどい目に遭うなんて、駄目だ、『絶対』)
そんなことをする女神なら、圭が説得して、心を変えてもらわなければ。清峰葉流火は、圭にとって何よりも大切だから。
『この坊、凡人では味わえぬ繁栄を得るのだぞ。その対価を払わねば釣り合いが取れぬ』
「……葉流ちゃんを、殺すの?」
『はて。何を対価とするかは本人が決める事だからの』
圭の頭を先ほどのニュースが過った。若くして死んでしまった天才指揮者。きっとこの女神へと命で『対価』を払ったのだろう。
葉流火がいつか、そうなるくらいなら。
「俺が、支払う。葉流ちゃんの『対価』は俺が支払い、ます」
圭は一生懸命、足に力を入れて、立ち上がった。せめて頼もしく見えるように。女神にちゃんと、圭が心からそう思っていることが、分かるように。
『おやまあ、向こう見ずとはそなたがこと。妄りな言動は慎め、妾はそなたの命くらい、簡単に刈り取れるのだぞ』
凄むでもなく、淡々と事実を告げるだけ、という様子の女神が恐ろしい、恐ろしくて堪らない。
しかし圭はそれでも。
「葉流ちゃんにひどいことしないでくれ、ください。俺が代わりに引き受けるから」
「頑固か粗忽か。そなたほどの馬鹿はおらぬ。これは愉快、斯くも決心が固いのならば、見せてみよ、そなたの『対価』を」
そうして──月の女神は消えた。時間が動き出したのだろう、驚愕したままの圭を、葉流火が揺さぶっている。
「どうしたの、圭ちゃん」
「……何でもない」
間近で見る清峰葉流火はいつも輝いて見える。こんなにきれいで、大切な輝きなんて、他にない。あの女神だって、葉流火のきらめきに比べたら、全然きれいじゃない。
圭は葉流火の手を握った。
「圭ちゃん?」
「……葉流ちゃんは、俺が守るよ」
たとえ月の女神様に、圭の命を捧げることになったとしても。
二.
夏の甲子園より一足先に開催される、リトルシニアの夏の全国大会で、圭と葉流火の所属する宝谷シニアは準決勝敗退という結果に終わった。
これは、チームが発足してから二度目という快挙で、全試合で先発し、点をほぼ許さなかった二年生エースの葉流火と、その女房役たる圭は大いに注目を浴びた。
その結果、これだ。
「圭、高校の監督の名刺……何処にやったか分かんない」
「そう言うと思ってたよ。俺が管理してるから心配すんな」
葉流火が「これもらった」と言っていた名刺は全て圭が回収して保管している。そのほとんどが圭も名刺をもらいスカウトを受けている高校だった。勿論葉流火だけに声を掛けてきているところもあれば、逆もある。チーム全体として強化したいポジションの事情があるから、そういう事態も圭は想定済みだった。
だが、地方ではなく『全国レベルでの強豪校』ともなれば、スカウトする全ての選手が超一流だ。
だから、圭は少し焦っている。管理している名刺の中に『大阪陽盟館高校』の監督の名がないことに。
(俺はともかく、葉流火には来ると思ったんだがな)
スカウトマンが家を訪れるようになってから、圭は毎日、葉流火に「陽盟からの連絡あったか」と訊いている。
「け、圭の方は?」
「ないな。──捕手は大阪に凪薫がいるから、難しいかもしれない。同学年だしな」
関西の高校だから、関東には目が届きにくいし、凪薫の恵まれたフィジカルは圭とは比較にならない。
「……そうか」
最近毎日のように中学では陽盟や他の学校からのスカウトの話をしているが、シニアのロッカールームではその内容は喋らないように、葉流火にも言い聞かせている。センシティブな話題だし、それに何より──要らない僻みを買ってしまう。
宝谷シニア全体としては──全国大会ベスト四という成績を残したチームの割に、名門からのスカウトを受ける選手が極端に少なかった。
「俺ら、清峰に食われちまった」
そう、チームメンバーが囁き合っているのは、嫌でも圭の耳に入っている。
全国大会で、葉流火は相手打者を塁にすら出さなかった。だから野手の出番はほとんどなく、存在をアピールしたかった者、特にまだ進路の決まっていない三年の選手にとっては葉流火の快進撃は面白くなかったことは想像に難くない。
そのせいだろう、葉流火が加入してからずっと地下水みたいに宝谷シニアの底を流れていた妬み僻みが、表面化してきている。
(気持ちは分からなくはないが)
だが、葉流火より努力している人間など、宝谷シニアにはいない。それから目を逸らして自分を不遇だとかこつのは、圭にとっては負け犬の遠吠えどころか、逆恨みにすら思えてしまうのだ。
清峰葉流火は『天才』だ。神に認められ、神から才能を譲り受けた、本物の『天才』。だけれど、才能があるだけで胡座をかいていられる訳ではないのに、どうして他の者はそれが分からないのだろう。
そんなときだった。
「要、次の主将はお前に任せる」
シニアの監督から圭はび出され、そう指名があった。
「謹んでお受けします」
深く礼をした圭の内心は複雑だ。客観的に見れば適任は他にいないだろうということは分かる。チームを牽引する葉流火が、圭にしか懐いていないからだ。だがその一方で、これ以上、葉流火一強の体勢を敷くことは、他のメンバーの不満を募らせることに繋がってしまう。
(底上げを、するしかないな)
今年度の全国大会のように、葉流火だけが活躍するのではなくて。
葉流火の名はもう既に全国に響き渡っている。それならばいっそ、いざという時だけの登板に絞るのも手だ。
(──こういった戦略を監督に進言できるのは、主将だけだ)
そういう狙いもあって、圭は主将の役割を引き受けた。
しかし。
それはチームにとって最良の手にはならないかもしれないことを、新体制となってすぐに、圭は理解した。
「いいな、天才様は。付き合ってらんねェよ」
不満げな顔と共に、圭もまた陰口を叩かれ始めた。圭は天才なんかじゃないのに。
圭がアドバイスをしても誰も聞き入れようとしない。これではほんの少し前の全国大会と同じ未来が、来年もまた引き起こされるだけなのに。
(どうして)
焦燥感に焼かれる圭の、チームメイトとの溝を埋めようとする努力は、どんどん無駄になっていく。
(こいつら、上手くなりたくないのか? 自分の将来が掛かってるのに)
最早そうとしか思えないほど、圭の正論は通じなかった。
そうして──葉流火と二人、チーム内で孤立するまで、そう時間は掛からなかった。
*
「圭、俺の球捕って」
宝谷シニアの練習で使用するバッティングセンター、その一つのキャッチャースボックスで圭がミットを構えた途端、葉流火の声が隣のブースから降ってきた。
「……葉流火。今はお前打撃練だろ」
「でも……監督はいいって言った」
「あのなぁ」
監督は葉流火に甘いところがある。あるいは、葉流火の手綱を圭が握っているから、圭がどうとでも御すだろうと思っているのかもしれない。
圭も、主将となる前ならば葉流火の我が儘を聞いてやっていただろう。だが今は、建前上だけでもチーム全員に公平に接しなければ。
「要。清峰の練習付き合うんか」
「いいえ。予定通り行きましょう、安田先輩」
きっと圭が葉流火を甘やかすだろうと予想したのだろう三年の控え投手・安田に笑みを投げ、そして葉流火を見ずに圭は言った。
「葉流火、今日は駄目だ。俺は安田先輩の球を捕る日なんだから」
「──誰?」
葉流火のその言葉がきっかけだった。宝谷シニアの内部で、葉流火と圭をバッシングするグループが現れたのは。
はっきりと形を取った、チーム内の軋轢。圭と葉流火を除いて、チームメンバーは概ね三つに分かれた。事態を静観する者が一番多い。圭と葉流火を擁護する者も、後輩を中心に少数いる。そして、監督へと『清峰と要は正バッテリーに相応しくない』と集団で直訴するほどに、こちらを嫌う者たち。
レギュラーの多くが静観してくれたのはありがたかったが、彼らは単に監督のお気に入りの葉流火を敵に回したくないというのが本音だろう。だから、圭と葉流火には、味方と言える者はほとんど居なかった。
「圭、俺、言っちゃいけないこと言った?」
流石の葉流火もチームの様子に気付いたようで、自主練へ向かう夜の道の上、不安げに圭に問いかけてきた。
「いや、お前はそのままでいいよ。チーム運営は監督や俺の仕事だ」
圭は何でもないというように、葉流火を見上げて微笑んだ。
実際、葉流火がこうやって他人を慮らなくなるのは、圭にとっては折り込み済みだ。そうなるように圭が丁寧に育成したのだから、葉流火はそのままでいいし、上出来だとすら圭は思う。
「でも圭、ちょっと顔色悪そう」
「平気だ。日直で、練習前の間食できなかったからだろ」
そう誤魔化したが、圭にはあまり旗色の良くない状態だ。──監督が匙を投げたのだ。
「主将として事態を収めてみろ」
監督室に呼ばれた圭に、監督はそう丸投げした。
宝谷シニアの監督やコーチ陣は、大会実績や政治の手腕に反して、保護者からの評判はそれほど高くない。監督が葉流火を特別扱いしていることが明け透けで、他の投手への対応がなおざりであるのが、チーム全体に知れ渡っている。試合となると名将とすら言われているし、葉流火を可愛がっている監督だが、チーム運営は巧みとは言えないと圭はこの頃身に沁みている。
「そんなことより葉流火、お前こそ調子落としてないか? 投球はともかく打撃練習、ちっとも集中してないだろ」
「えっと、それは……」
口ごもった葉流火に、圭は眉をひそめた。都合が悪いときの反応だからだ。
「どうした」
「その……睨まれてる、気がして」
「そんなの気にするな。全部お前への僻みだから」
「うん。でも……いっぱい、こっち見てる奴がいて」
小さな声で俯いた葉流火に、圭の背中には寒いものが通り抜けた。
(まずいな)
葉流火は本来、とても他人の目線に敏感だ。嫌われるのも妬まれるのも、とても悲しがり、落ち込んだ。圭の見てきた葉流火の傷ついた表情のバリエーションは数知れない。
だから圭は、投手として息をさせるために、そんな葉流火を支え、マインドを変化させ、どんな手段であっても強くなるように仕向けてきたのに。
(チーム内の揉め事ごときで足を掬われるわけにはいかない)
圭が問題を解決するまで、葉流火は無事でいてもらわなければならないのだ。
「葉流火、今日はトレーニングやめて、投球練するか」
「いいの」
「ああ、たまにはな。灯りのあるグラウンド行こう」
「うん!」
途端に上機嫌になった葉流火の足取りが軽くなる。圭もほっとしたが、肩の荷は下りてなどいない。速やかに対処する方法を考えながら、葉流火にずっと微笑みを向け続けた。清峰葉流火の将来への踏み台になるために、圭は生きているから。
練習時間が終わり、葉流火との分かれ道で、少しだけ足を止めた。ちゃんと最後まで笑って、葉流火を見送ってやるためだ。
「圭。今日、楽しかった」
「おう、良かったな」
「圭、……けい」
葉流火の手が、バイバイの仕草をとるのだろうと、そう圭は思っていた。だのに、そうはならなかった。幾度か惑った葉流火の手が、腕が、圭の方へと伸びてきて、呆然とする間もなく抱き締められた。
身震いなんかするんじゃなかった。心がざわめいたのが、葉流火にきっと分かってしまったから。
「圭、俺……圭といるとしあわせだ」
こんな甘い声を葉流火が出すだなんて、圭は知らなかった。葉流火の体温なんて何度もふれて覚えているのに、こんなに胸を締め付けるなんて。
「……葉流火?」
情けなくも掠れた声。葉流火の名前なんて呼んでいる場合ではないのは圭は分かっている、だのに、身体が動かない。このまま葉流火に包み込まれていたいと、心が叫んでいるからだ。
「ずっと圭といられればいいのに」
劇薬というのはきっとこの葉流火の声のように甘いのだろうと。圭はそう思い──抜け出さなくてはとそれだけを考えた。だって、葉流火のその言葉はこの関係を腐らせる。
圭が葉流火の側にいる未来などない。圭にはもう分かっている、自分が何処かで限界を迎えると。それに対して葉流火の未来は、この夜空のように無限に広がっている。
だから、葉流火の胸を強く押した。
「また明日、葉流火」
そうして背を翻し、葉流火の顔を見ないまま足をただ急がせた。家に着いたことさえ自覚なく、気が付いたら母に名を呼ばれていた。
「圭ちゃん、圭ちゃんどうしたの? ずっとぼうっとして」
「あ……ごめん母さん、今日は疲れるトレーニングしたから」
「そうなの、あんまり無理しないのよ。さ、早く食べて早めに寝なさい」
「うん」
そうして、いつの間にか食べていたらしい秋刀魚の塩焼きに箸をつけると。
味が、しない。
食感はあり、匂いも分かるのに、まるで真綿でも噛んでいるかのようだ。
「──……え」
もう一口、急いで口に運ぶ。
白米も、サラダも、食感こそ違えど全て味がない。塩気がないとか味付けがないとかでないことは分かる、噛んでも噛んでも『何もない』のだ。
「……んで」
思わずこぼれかけた声を圭はかみ殺した。これは自分の問題で、母の料理には何の落ち度もないことは分かっている。それに、圭がシニアに所属することで日々負担を被っている母に、こんな心配などかけられない。それに何より、病院に連れ込まれるだろうことが面倒でならないのだ。そんな暇があるなら練習なりチームの状態の改善をしたい。
「圭ちゃん、何か言った?」
「何も。美味しいよ母さん、いつもありがとう」
母にもそっと微笑みかけ、圭はただ顎を動かす努力をした。味が分からないと、いつ飲み込むべきかすら判然としない。
食事を何とか終わらせてやっと自室だ。本当はベッドに倒れ込んでしまいたいが、圭はいつも通りにすぐにデスクの前に座った。スマートフォンのブラウザを開き『味覚障害 原因』と入力し検索した。
(過度なストレスによるもの、か……)
検索結果に対する覚えはありすぎた。今日はずっと気を張り続けたし、それに。
(くそ)
葉流火が、あんな甘い声を耳許で発し、そして抱き締めるなんて、するから。
知らなければ惑わない、ふれなければもう一度なんて思わないのに。
(くそ、どうして俺は)
こんなに矮小な存在なのだろう。本当は、葉流火に「俺も」と笑い返したいのに。
*
翌日、シニアの練習後、葉流火を先に自主練の練習場所に行かせた。渋る葉流火に圭は「監督への質問が長くなるから」と説得して、そうして──帰宅を待っていてくれるよう願い出ていた、安田の待つロッカールーム裏に急いだ。
「お待たせして申し訳ありません」
「清峰は? お前一人かよ」
「無礼をしたのは僕ですから」
途端に不快げに顔をしかめた安田にも、圭は一切顔色を変えない。無表情とは見えないように、非礼を詫びるつもりのあることだけは、ちゃんと認識させるように努力する。深く、勝った試合後のように深く、圭は頭を下げた。
「ご不快な思いをさせてしまい大変申し訳ありませんでした。どうかお許しください」
「は? お前が謝ったくらいでどうにかなると思ってんのかよ。清峰に謝らせろ、あいつがデカい顔してるから全部悪いんだろ」
「いいえ、主将としての僕の監督不行き届きです」
そう言った瞬間、安田の足が蹴り上げられるのを圭は見た。多少の衝撃くらいで倒れ込むほど半端な鍛え方を圭はしていない、だが、わざと草叢に倒れた。そうなるのが安田の目論見だろうから。
「そんなに清峰が好きなんか。気持ち悪ぃなホモ」
横転した圭を安田の足が躙って、腹をぐりぐりと抉られる、練習で痣ができることの多い、腹を。
「悲鳴とか上げんなよ、大好きな『葉流火』を守りたいならな、サンドバッグ」
にたりと笑う下種に葉流火の名前なんて呼ばせたくなかった。だけれどその気持ちにも痛みにも全部、圭は歯を食いしばった。夜が更けていくのを圭はただ見ていた。
練習着のまま謝罪に行って良かったと、圭は自分の判断が正解だったことを悟る。練習着ならばどれだけ汚れていても、母に不審に思われないから。
「またな、サンドバッグ」
安田のその言葉に黙礼し、圭はやっとロッカールームで着替えることができた。だが、圭と葉流火をバッシングするグループには安田から口添えしてもらう確約は得たし、それにちゃんと証拠は得た。野球用品以外に使っていない小遣いで買った、超小型の録画機器には安田の圭への暴力が映っていることだろう。事が収まった後に、安田に映像を見てもらえばいい。
(……自主練、行かなきゃな)
身体中に痣を作った後の練習は流石に億劫だ。だが葉流火が待っているし、一日だって無駄にしている余裕は圭にはない。
いつもの橋の下に着いたときには、葉流火が不安げな表情で待っていた。腕立て伏せをしているのに器用なことだ。
「圭! ずいぶん遅かった」
「ああ、俺も主将だからな。監督と話し合うことも増えるんだ」
「俺が先輩の名前、忘れたから?」
葉流火も彼なりにチームの異変を感じ取っているのだろう。そしてその原因もちゃんと理解している。
だけれど、圭は。
「そんなわけないだろ。お前は今のままでいいんだ。覚えなくていいことは、全部忘れていい」
「でも」
「葉流火。何度も言ってるだろ、忘れたのか? お前は俺のミットにだけ集中しろって」
気弱な葉流火を、圭がここまで強く育てたのだ。誰にも汚させはしない。それが葉流火自身でも。
*
数日後、葉流火が一番、圭が二番の背番号をもらった監督からの練習試合のスタメンの発表にも、誰も異議も不満も唱えなかった。分裂したチームが、表面だけでも元に戻ったことを示すようで、圭は少しだけほっとした。
とはいえ、一度でも入ってしまった亀裂は二度と元には戻らない。今後のチームの運営方針はまた別に考えなければならないだろう。
(とはいえ、一安心だな)
本当は、葉流火と自分のこと以外に思考も時間も割きたくないのが本音だ。名門シニアの主将の経験ごときで大阪陽盟の気は引けないだろうから。
「圭くん、今日はちょっと楽しそうね」
「そうですか? いつも通りです」
ストレスが減ったためだろう、やっと味が分かるようになったからだというのは、誰にも言えないことだ。いつもより味わいを確かめながらも圭は、そっと葉流火の母へと誤魔化しを言った。
今日は自主練を早めに取りやめて、葉流火の家で葉流火が溜めた宿題を蹴散らす予定の日なのだ、だから葉流火の家で夕飯を食べさせてもらっている。
「宿題は適当に埋めて提出だけはしろ」と圭は言っているのだが、葉流火は本当に『適当に』埋めるので、教諭に突っ返された挙げ句、追加の課題を出されるときがある。そういうときばかりは、圭も葉流火の面倒を見ざるを得ない。
「俺も思った。圭、今日は目が柔らかい」
「いつもはそんなに怒りっぽいか?」
「ううん。圭はいつも優しいけど」
「じゃあいいだろ、別に」
チーム内の不穏に心を砕いていたことなんて、葉流火も彼の母も知らなくていい。だから誤魔化そうとした──ら。
ぞわりとする感覚があった。
覚えている、知っている、この感覚と全てが自分と彼女以外の停止する、この強烈な違和感。
『小僧、そなたはなかなか見所があるぞ』
月の女神は、幼い頃に見たシルエットと何一つ変わっていなかった。美貌と邪さは同居することがあるのだと、圭は思った。だって彼女は『神』と仰ぐにはあまりにも質が悪い。
「……お久し振りです。あまりにもご無沙汰ですから俺の幻覚かと思っていました」
『ほう、言うな、命知らずが。そなたの愛するこの坊、『全国大会四強の立役者』になったのだろう。嘸かし良い気分だろうの』
「だから『対価』を求めに来たのですか。──一つ伺いたい。あなたが勝負の、葉流火の将来の結果を決めているのですか」
それはずっと、圭の気に掛かっていたことだった。
この女神の一存で、葉流火の成功が全て保証されるというのなら──今、葉流火のしている努力は何の意味も成さないことになる。それでも構わないと言えばそうなのだが、それは何とつまらない人生なのだろうと、圭は思っていたのだ。
だから。
『まさか。妾の恵みは『才能』のみ。それをどう使うかは本人次第よ。己が運命は己でしか決められぬ、それが『人間』という種族。この答えで満足か、小僧』
艶然と女神が嘲笑うのに、圭は微笑みを返すことができた。
「はい。行動も結果すらもあなたの心一つなら、約束を改めさせてもらおうと思っていましたが、それならいい。葉流火の『対価』は俺が払います」
『潔し。さて小僧、何を払う』
「……俺の『味覚』を」
この答えは、圭が最初に味をなくしたときに決めたことだった。だって。
『それでは足りぬ。まあ今後別の対価ももらうこととしよう。しかし小僧、『味覚欠損』に苦慮しておったのではないか』
「だからこそ払う価値があるでしょう。それに、味覚がなくても野球はできる」
命はまだ差し出せない、葉流火を『日本一のピッチャーにする』と約束したから。いつかは命を差し出したって別にいいが、だけれどそれは、今ではないのだ。
だから、自分からなくなってしまってもいいものを、ずっと圭は考えていたのだけれど、この答えは現状でベストであるような気がした。手足も、肌感覚も聴力も視力も、どれも野球をするには失えないものだから。
『天晴れじゃ。妾はそなたが気に入った。また会おうぞ、小僧』
動き出す、時間。去っていった月の女神に溜息すらも吐かず、圭は何事もなかったかのように食事を再開した。
もう味はしない。本当にあれは『才能を与える月の女神』なのだと、ようやく圭は納得した。
圭は葉流火に、いつもよりも浮ついて見えるように、微笑んだ。今日は『笑みが柔らかい』と葉流火が言っていたから、何も変わらない日常を、圭はただ演じた。
「丁度いい味付けだな」
そう告げると、葉流火の母が笑った。
「圭くんはちゃんと感想くれるから嬉しいわ。葉流ちゃん、『美味しい』しか言わないから」
葉流火の母へと微笑みを返す。葉流火が「お、美味しくて、……すごい」と母への賛美に苦慮しているのを、圭と葉流火の母は笑った。
(ああ、最後は母さんのご飯が食べたかったな)
それだけだ、圭の後悔は。