正直な鏡 「べん。べん、ねえーー、べん」
いつものように機械を弄っていると、後ろからこの場所では聞くことのない名前で呼ばれる。
「ん?どしたの?」そう言いながら振り向くと、「彼」がいた。
彼とは____オネイロスの事である。自分の愛機…それが、ヒトのカタチをとって、目の前にいる。ヒトになっても相変わらず巨体で、何故かふりふりの可愛い衣装を身にまとっている。
「めいぷぅしろっぷ、なくなった」と差し出してきた大きめのビンの中身はカラッポになっていた。メイプルシロップが彼の好物で、暇さえあれば少しずつ飲んでいる。
「あ…ほんとだねえ。局員くんにもらってこなかったの?」
「あれ、キライ。べんじゃなきゃ、ヤ。」
大柄な体で頬をふくらませて駄々をこねるオネイロス。最初は、その姿と振る舞いに少し戸惑ったが…今となっては、非常にかわいいものだ。
「そっかあ。わかったよ、ちょっとまってて…」そう言いながら、詰め替え用のボトルを机の下から引っ張り出して、ビンに移し替える。彼は少し黄色っぽい半透明な容器にシロップが満たされはじめてから満タンになるまで、キラキラした顔で眺めていた。
「ハイっ、どうぞ。こぼさないようにね」
「ウン。べん、ありがとでち」
"べん"とは、過去の名である。『ベン=グリッド』、あの宙域に生きた自分の名前。彼は、今の自分が「ライト」という名であることを告げても、いっこうに「ベン」と呼びたがる。どんな理由があるのかは知らないが、そう呼ばれたからといってなにか不都合なことがあるわけでもないので、好きに呼ばせるようにしている。
「べん。」
「どしたの?」
「きょうは、うれしくないのね」
「なにが?」
「べんが。」
「俺が?俺の機嫌のこと、言ってるの」
「ウン」
彼は、こちらを真っ直ぐ見てそう言う。
「えー。そうかな?そんなことないよ。いつもと一緒で、ニコニコしてるでしょ?」
自分はそう言って、両手でピースして頬に寄せるしぐさをしてみたが、「うそよくない。」と即答され、「べん ウマミのじっけん しっぱいしたでち。それで、いらいら。あせってる」と続けられた。
「…」
確かに、今は個人的な研究の実験に失敗したあとの昼休憩だった。そして、この失敗は54回目であったから、彼の言うように少し焦っていたのかもしれない。刺激の強いゼリーを口に含んで、気を紛らわしていた最中だったのだ。
「ああ…………焦りかあ。俺らしくないねー、ごめんねー。よく分かったね。流石、俺のオネイロスだよ」
そう言って身を乗り出して頭に手を近づけると、自分から頭を下げてくる。そのまま彼の頭を撫でてやると、彼は「んふふー。」と照れを含んだ声で喜んだ。
不思議なもので、自分が手塩にかけて作り出した機体であるからか、彼は本当に自分のことをよくわかっている。
不思議といえば、彼の存在も不思議だ。じつは、彼以外の機体もいくつかは出撃しない時にはヒトの姿をとる場合がある。彼の場合、ほとんど出撃しないため、よく局内をうろついている。局内といっても、そのほとんどは「楽園」と呼んでいる研究室である場合が多いが。
周囲は既に「あたりまえの光景」という認識になっているが、当時は大きく騒がれたものだった。
「べん」
「なあに」
「ニンゲン、いつつぶすの」
表情を変えないままそんな事を言うものだから、ズッコケるかと思った。
「つぶすとか物騒なこと言っちゃダメだよう。他の人、びっくりしちゃうよ」
ヘラヘラと笑いながらそう返事をする。
「でも______」「そんなこと、思ってないから。」自分は、まるでその先を言わせないように上から言葉をかぶせた。
これも、「焦り」なのだろうか。