Lebewohl_Die Kirschblüte「無茶を言った、ごめん」
「構わないよ。きみのお願いだもの」
テーブルの上に、造花の薔薇が一輪置かれている。他のテーブルには無いそれに、イタルは軽い口調で屋台の飲み物で唇を湿らせている四季へと謝罪のように聞こえない口調でその言葉を口にしてから、成程、と自嘲した。これはここだけの秘密だ、と。
酷いことを頼んだという自覚はある。この先輩は、随分と自分に甘い。正確には、一度内へ入れた人間へ対してはどこまでも甘いのだ。例えば、自分の為に同帝への潜入ルートを提供する、という辺りとか。
三人分、というオーダーにも、四季は黙して頷いた。何のために、とは聞かない。きっとこの人は知っている。自分が何をしたいのか。その為には何が必要なのか。全部、知っている。
潜入の為に何をどうしたのかはともかく、四季自身も無免連、そして同帝を裏切ったのは事実だ。
自分だって、これは創務省へ対する背任行為だという自覚もある。けれど、今のイタルにはそんなことどうだっていい。――自分の願いさえ叶えば、それで。
三つ目の、そして最後の願い。
ピースが予想以上に集まったのは良い事か、それとも悪いことか。それは賽の出目次第。テーブルに置かれたコーヒーは、口を付けられることなく湯気を立てていて、四季の肩に掛けた紗のように滑らかな視線がその行方を追っている。
「……きみ、コーヒー嫌いだったでしょ」
「あー……嫌いっていうか酔っ払う?んだよなぁ、あんな感じ。酒はいくら呑んでも酔わないのに。だから紅茶とかもダメ」
「それは難儀なものだね。そのうち肝臓は壊しそうだけど」
涼やかな青紫が、そっと過去を辿るようにイタルのことを見ている。水底で想いを馳せているのはかつて過ごした日々のことだろうか。
ことり、と栄養ドリンクより少し小さいサイズをした、液体入りの小瓶が差し出すようにテーブルに置かれる。その下には紙片が一枚。
「何ソレ」
「――非合法なもの、とだけ」
なんてもんを持ち込んでるんだ、という感情と、ああ、この人はそもそもこういう奴だ、という感情が混ざり合って溜息になる。
中で揺れる液体を観察しながら、紙片の説明書きを読む。
「……ほんと、こんなんどこで見つけてきたのさ」
「内緒」
液体の出処を誤魔化すように、四季は飲み物をまた一口含む。ふくりとした濡れた唇から、微かに雫が器へと名残惜しげに飛んだのが見えた。それだけの為に何を犠牲にしたのか、四季は答えない。
茶化すようにイタルは小瓶を振った。そうでもしないと、小瓶の誘惑に抗えない。それに、この先輩のことをより深く考えてしまいそうになる。
「これ今飲んだらどうなると思うー?」
「きみが思ってる通りになるけど、それでいいなら」
「そっかー」
その言葉に、小瓶をそっとポケットの中にしまう。小瓶のことは頭からさっさと追い払って、改めて四季の方へと向き直る。
だって、これは。
「……先輩。今、幸せです?」
「きみの想像通りだと思うよ」
――理解できないものを、どう理解しろと、と鏡の向こうは嗤っている。勿論、そんなことを四季は口にしない。
他責をするくらいなら、それを玉座の一部に。
けれどイタルは聞こえないように口にする。分かっているくせに、と。幸せが何かも、愛がどういうものかも、恋の味も。けれど、それはあまりにもその在り方から遠過ぎる。例えば硝子に映る影のように。
話題を変える。もうすぐ、この時間も終わるから。せめて、最後はなんでもない話で終わらせたかった。
「……今年の桜って何時咲くと思います?」
「どうだろう。三月の真ん中あたりじゃないかな」
「――そっかあ」
口から出そうになった言葉を、ぐっと飲み込む。
その願いを叶えられる道に、自分達は進まなかった。ただ、それだけ。それだけなのに、どうしてこんなにも痛いんだろう。
左耳の空白が、更にそれを引き立てる。もしもの理想を語っていたあの時間に戻りたい、とでも言うように。けれど、一度進んだ時間は戻らない。決して、戻ることはない。――何もかも、もう遅い。
だからこそ、四季はその言葉を選んだのだろう。
「どうか、君が幸せであるように」
さようなら、とその目は語っていた。
穏やかに凪いだ目の向こうにある感情は、どうやったって掬えない。鏡に映る花、水面に映る月。
何もかもを知っていて、その上で糸を引くことを選んだ人。
「……うん、幸せになってやるさ」
さよなら、とは言いたくなかった。
大嫌いな言葉だ。二度と会わないとかそういう言葉も嫌いだけど。
だから、未来に希望を託すような言い方をする。――この時点で、結末は決まっているのに。
四季はそっと席を立つ。これで、本当にさよならだ。今頃、あの子達はどうしているんだろうか。まだ、最後の時間を楽しんでいるのか。それとも。
もう会えない、鳥の羽根のように靡く白い生地の残影を名残惜しむように目を閉じる。瞼の裏には、未だにかつての記憶が映し出されている。――ああ、本当に。本当に、楽しかったのだ。
それから、どれ程経ったのか。コーヒーの湯気がそろそろ少なくなってくる頃、声が掛けられた。
「契約の対価を、頂きに参りました」
ニコリ、と褐色の肌をした、狐のような耳を生やした執事服の男――無頭はそう微笑む。
そうか。あの子はきちんと、大切な人にお別れを出来たのか。そんな思いと一緒に、コーヒーを一気に飲み干す。
「ところで、よろしいので? それだけあれば、また別に叶うものもあるでしょうに」
彼の言葉に、少しだけ苦笑する。
確かに、こんな回りくどい方法じゃなくて、本懐を果たすだけなら別の願いをすればいい。――でも、それは。それではきっと、悔いが残る気がしてならないのだ。
それに、願いを自分のためだけに使うより、余程有意義な気がして。
民話にある三つの願いは、最後には何も残らない。けれど、もしも後々にまで残るような願いなら。――もしかしたら、と自分はそこに希望を託したのだ。
とうに朽ち果てたと思っていても、意外と残滓は残っているものなのだなと、もう中身のない紙コップを揺らした。
「多過ぎる分は――まあ、多分使う機会はあるだろうなって思うんだけど。それでも多かったら、イオリと、それから……あの狼ちゃんに。物事が上手く進むように。多分、それで等価になると思うんだけど」
最後の方は、半ば独り言だった。
物事が上手く進むように。――崩落していく世界から、飛び立っていくことが出来るように。
「畏まりました。それでは、頂きますね」
そっと、指先が額に当てられる。コーヒーのお陰か、それとも対価を取られるせいか。ふわりと乖離するような、何かに引き摺られるような感覚に襲われて、意識は落ちていく。暗い、昏い、底無しの深淵へ。
「――確かに、受け取らせて頂きました」
その声だけが、はっきりと聞こえた。
*
「――殿、加々宮殿」
――自分を呼ぶ声に、意識は浮かび上がる。目が覚める。
数度瞬きをしてから、目の前にいるのが誰かということを認識して、軽薄に笑う。彼にとっては一つ、節目になっただろうか。今の自分にとってはここからが正念場なのだけど。
傍らに置かれていた、まだ暖かいココアに口をつける。――自分が買ったのは、本当にこれだったのかと思いつつ。
何かを言いたげに、彼は自分の方を見ている。
それは後輩との別れのことか。それとも。
「……何か、ございましたか?」
「――いや、なんでもないよ」
そう、何も無かった。最初から、何も。
つかの間の夢を見ていたように。
――何か、大切なものを忘れてしまったような気がするけれど。
「――あ」
そうだ。渡そうと思っていたものがあるんだ、とスーツのポケットへと指先を差し入れれば、目的のものを探し当てる。ハンカチとは違う質感の、丁寧に畳まれた布の塊を差し出した。
紅葉する木の葉のように、端へ向かうに従って山吹色から青葉の緑へと変化していく色合いのタイを、彼はよく知っているはずだ。
「それ、は」
「そのまま持っているなり、捨てるなり、好きにしてくれていい。
私だって好きにしてと渡されたんだからね。でも、これは君に渡した方がいい気がして」
そう言って、そのまま半ば無理矢理手の中に収めさせる。本当に好きにしていいのだけれど。そもそも自分がそう言われたのだから好きにした。
――これはもしもの保険に過ぎないけれど。
彼女がもし迷子になりそうな時には、この縁を手繰れるように。これを標と出来るように。
二人にあっただろうあの一幕が決別でも、永訣でもなく。一時の、先へと続く為の別れと言えるように。
「さて、このお祭りが終わってしまう前にトンズラしようか。このはくんも一緒に来るかい」
相手が出した答えの如何を問わず、足を進める。歩いてる最中、過去に学んだ一節を誰にも聞こえないように、口の中だけで転がした。
――岩にせかるる滝川の、われても末に。