Silver Knife銀のナイフ
ずっと、広い屋敷の狭い鳥籠に飼われていた。
餌は、豆。
床板から柵に至るまで、全て海楼石の練り込まれた特注の籠は金で作られていて。鎖にこそ繋がれてはいなかったが、ずっと自分でも生きているのか死んでいるのか分からなくなる境界をゆらゆらと漂っていて。
時折、余興という下らない名目の為に血を流す度、与えられる痛みにそういえば生きているのだとぼんやり思い返したりしてもいた。
人間の心は、身体よりも先に死んでいく。後になってから理解した。
─── おまえ、生きていてぇか?
その言葉も、ただぼんやりと聞いていた。
漠然と、屋敷の中で繰り広げられる一方的な暴力を多分床板に伏せったまま眺めていたので、視界は正しくは真横になっていたかと思われる。差し出される掌が、自分に差し出されているのも不思議で、大きな男が口にした言葉も不思議で。次にその刃物が向けられるのは自分だと思っていただけに、言葉も出て来なかった。
ぱくぱくと、唇だけは動かせたので多分よく覚えてはいないが───何かは言った気がする。
何を言ったのかが思い出せない。白い三日月形の髭下、覗く口元の動きだけを覚えている。自分の言葉を聞いて、その男が何か、踏んだのだと思った。散乱するガラスだとか、釘だとか、とにかく踏み抜けば激しい痛みを与える何かを。
ただ、それを確認する気力もなかったが、開かれた扉の中に窮屈そうに差し伸べられた掌に乗せられていた。
─── グララララ!知らねぇなァ、おれは海賊だと言っただろう、欲しけりゃ奪って行く。それが海賊ってもんだ。…不老不死なんてもんに、はなから興味もねぇよ。
海賊って、わるいやつじゃねぇか。
─── 名前は?マルコか。おまえら、新入りのマルコだ。能力者だから、海には落っことさねえように気をつけてやれ!
おれ、海賊にこんどは、かわれたのかな。
─── 傷付ける?バカなこと言うんじゃねぇ、息子よ。この船に、おまえを傷付けて喜ぶような愚か者は一人もいねぇよ。
むすこ、って誰だ?
─── とにかく食え!食いたくねぇものは食うな!何をしたら良いか分からない…?そりゃあアレだな。少しずつ仕事は覚えていけ、同じ船に乗るんだ。家族は助け合わなきゃならねぇ。
家族は、助けあう…何だそりゃ。
─── 笑えるんじゃねぇか、こりゃあ良い。青い鳥ってのは、どこかの国で幸せの象徴だ。おまえは、マルコ。このモビーの幸せの象徴になれるんだ。
……バカじゃねぇの、そんなの。
─── 馬鹿野郎、涙ってのは悲しい時にいくらでも流しゃ良い。嬉しくって泣くヤツが居るか。
なぁ、オヤジ。
─── なんだ、息子よ。
もし、おれがまた捕まることがあったら…おれのこと、放っておいてくれねぇかなぁ。
青い翼を羽ばたかせ、白ひげの肩を定位置に腰掛ける。数年の月日が流れていた。いつしか、兄弟と呼ばれた血の繋がらない男達を兄弟と、自分を息子と呼ぶ大男をオヤジと呼べるようになった頃、マルコは細い足を遊ばせながら水平線に沈む夕陽を眺めていた。
長く、檻の中に閉じ込められていたせいで支えなしではうまく歩けなかったこの脚も、船医の考えてくれた補強の多い靴のおかげでもう素足で走り回っても平気なくらいだったが、白ひげがよく似合うと言ってくれたからマルコはそれからもグラディエーターを好んで履くようになっていた。その脚を揺らしながら、この数年言うべきだった言葉をようやく口に出来そうだったのだ。
─── ずっと言おうと思ってたんだよい、今なら言えるから。これから、おれがまた、不死鳥の肉を食えば不老不死になれるだとか、アホな連中に捕まることがあったら、放っておいてほしい。
─── アホッタレ、そんなことできるか。お前はおれの大切な家族だぞ?家族が攫われて、追い掛けにいかねぇなんて薄情なことあるか。
─── うん、わかってる。だから、お願いなんだ。おれ、皆が大好きになってたんだ。オヤジも、ラクヨウもジョズもマクガイもフォッサもブレンハイムも…全員が全員大好きだ。うれしいなぁ…うれしい、おれの大切な家族だ。
頬に夕陽が照らしただけではない温かな血の気が灯る。自分の命ですらどうでもよかったのに、自分の命以上に大切なものがどんどん増えて行って、そうしたらそれまで怖くなかった死ぬことが怖くなっていた。
自分が死んだら、悲しんでくれる家族がいる。
そのことに気付いたら、瞳から涙が自然とこぼれ落ちていた。
─── おれ、自分が死ぬより…自分のせいで誰かが死ぬのが辛いよ。死ぬことなんか怖くない。おれが死なないように、皆がどうにかしようとして、それで死んじまったら生きてる自分を許せなくなる…。
─── そんときゃそん時だ、マルコ。家族ってのはそういうものなんだ。言っただろ。家族は助け合うし、庇い合う。
─── けど、
─── …ジョズが、狙われたらどうする。あいつのダイヤモンドの身体を狙う奴だって、不死鳥のおまえを欲しがるバカと同じでいくらでもいるじゃねぇか。
─── っけど…!!ジョズはまだ小さいし弟だ、守ってやらなきゃ…!
─── ガキが生意気言うんじゃねぇ、……いいか。
覇気の纏った静かな言葉に、それ以上の言葉を続けられずマルコの顔がハッと強張る。自分達兄弟に向けられる優しい声色とも、敵に向ける威圧の為の怒気とも違う、肌に感じた言葉の放つ重さ。
潮騒の音が沈黙の間に響き続ける。
─── 死ぬのが怖くねぇだなんて、そんなアホンダラはおれの息子にはいねぇ。怖くて当然だ、大切な奴らをこの世に残して逝くんだぞ?……未練があって、無念であって当然に決まってるだろうが。
返す言葉がなかった。
死ぬのは今まで怖くなかった、死ぬような目にあってきたのに少しも怖くなかった。
それが、今は恐ろしい。想像するだけで夜も眠れなくなるほど恐ろしい。
けれど、自分が死ぬより、誰かが死ぬことの方が何倍も、それこそ比べものにならないほど───、
─── おれだってそうだ。死にたくはねぇよ、確かにいつかは人間は死ぬ。死んで、この海に還っていく。それが自然の流れで、今じゃねぇだけで不老不死なんて不自然なものは望んじゃいねぇ。おれ達はみな海の子よ、海から産まれ、海に死ぬ……それでいい。
─── オヤジ……。
─── だがな、マルコ。おまえに死なれたら、家族が悲しむ。それはもう、家族が死んだらおまえが悲しむのと同じで変えられっこねぇ。そもそも、一人で死なせるようなことはおれがさせねぇ。じゃあ、おまえに何が出来る。家族を悲しめさせたくねぇなら、マルコ。おまえに何が出来る?
マルコは青い瞳を懸命に水面へ凝らしながら考え込む。いつかは死ぬ、それは当然だ。自分の血肉を喰らって不老不死の身体を手に入れられるとトチ狂った間抜けもいたが、生憎病気を治す力もこの身体は持っていない。再生を早める力、それだけならばあるが───
─── おれが…死なねぇでいる、こと…?
─── その通り、死なねぇことだ。独りぼっちで死ぬことがねぇように、おまえは強くなれ。お前を殺しにくる相手より強くなれば、死ぬ確率は一気に下がる。それにな、死にたくなけりゃ頼るってことを覚えろ。
一人より二人、二人より三人だと単純な計算であると豪快に笑う横顔に、そんな単純なものではないと首を傾げ掛けるマルコだったが、引いては返す波の音を夕焼けに包まれながら聞いているうちに、妙に気持ちが和らいでいったのを覚えている。少しずつ、石が波の流れに角を丸くしていくように。
仲間が増えれば増える程、守るべき存在が増えて行く。それを背負う背中を誇らしく思ったし、その荷を分けて欲しいと思った。どんなに頭で考えたって理屈をあぁだこうだ捏ねくり回しても、結論なんて最初から決まっているのだから。
─── じゃあおれは強くなるよ、オヤジの背負ってる荷物をおれにも分けてくれ。分けてもらえるくらい、強くなる。
─── 何言ってやがる、荷物なんてどこにもねぇ。おれが持ってんのは、モビーと可愛い息子達。
それが"宝"だと、あの人が笑ってくれたから。
─── じゃあ、それを奪ってやろうかな!おれは海賊だよい、ほしいから宝は奪う。そうだろ?
─── グララララ!ぬかしやがって…宝泥棒はこうしてやる……そら!!
─── うぉぉぉぉおお!?お、オヤジ…!!…っふ、あは、あははは!!高い高いどころじゃ、ねぇよい…!
高く空に放り投げられて、度肝を抜かしたのは一瞬で。天高く笑いながら翼を広げれば、囃し立てる家族の為ならどこまでも飛べる気がした。
✳︎
「素晴らしい!!流石、プロのビジネスマンにかかれば海賊なんて野蛮な生き物も恐るるに足らずですよ。さぁ、みなさん!プロらしく!無駄なく全速で島を離れますよ!!」
「ッどっちが野蛮だ…!」
「おやおや、誰か猿轡を!舌を噛まれても困りますが、無駄なお喋りも困ります。聞いても得にならないでしょう?」
黒いホンブルグを片手に男が慇懃無礼に頭を直角に下げては、また直角に身体を起こして頭の上に被り直す。笑みを絶やさないといえば聞こえは良いが、顔に笑みが画面のように張り付いた男だった。
「テメェ…!もが…っ…!!」
「舌を切られた雀じゃ駄目なんです、完璧な形でないと。まぁ、標本でもご購入希望者はいますが…、値段は落ちますからねぇ…あぁ、申し遅れました。名乗る必要は本来ないとは思うのですが、一応の礼儀として…私の名前は、クラウンベッチ」
海楼石で作られた手錠で動きを奪われるマルコを投げ込んだ船は、既に陸を夜の海原へと高速で走り出している。最低限の装備、しかしその分移動速度に全振りしたであろう甲板で転がされたマルコを見下ろし、木箱に脚を組んだ男は芝居がかった仕草で両手を鳴らす。
「貴方は幸運だ!不死鳥のマルコ…貴方のような危険な存在を、それでも破格の代金を支払ってまで手元に置きたいだなんて…一途ですねぇ、安心してください。この船の装備は確かに不安でしょうが…迅速な移動を約束しますよ」
同じような格好の男達が、先程から別機と連絡を取り合っているのは耳で把握していた。海楼石で戒められてさえいなければ、瞬きの間に蹴散らせる相手だというのに。無駄を嫌うという割に、余程気分が高潮しているのか船縁を叩く男は饒舌だった。
「待機させてある船をノンストップでいくつも乗り継いでもらい…貴方のお仲間が追い掛けて来られない海域まで入ってから寛いでいただきましょう。金の鳥籠、懐かしいでしょう?故郷というものは、鳥にとっても懐かしいでしょうからねぇ…」
「………!!」
「あぁ、厳密に言えば先代ではなく跡継ぎの方の依頼です。全く…、蒐集家の血は争えませんね。貴方も海に逃げたのは良いが、目立っては…おかげで探しやすくはありましたがね。でも何故でしょう、泳げない貴方が自分から海に?」
くすくすと嗤う男に、マルコの体内の血液という血液が怒りで逆流しそうだった。海に決して逃げたのではない、差し出される大きな掌が海へと連れ出してくれたのだ。この世の中で、一番、自由な場所が海原だ。
「何です、その目は…図星は耳に痛いです……のわぁ!!!」
「───ッ…!!」
一瞬のことだった。手首を拘束する鎖を振りかぶり、高笑いする男の首を捻り上げたマルコが夜の闇に突き落としてくれようかとするのを、額に寄せられるいくつかの銃口が阻む。海底に沈む覚悟で男を道連れにしていたが、数が力になる───そんな偉大な父の言葉をここで思い出したくはなかった。
「ゲホォッ!!ウェッ!!オーェッッ!!死ぬかと思った…!!」
「停止!!停止だ!!ボス、ご無事で…!」
「この…下賤な…海賊風情が…!!」
ここにまできて捨て身覚悟で掛かってくるとは思ってもいなかったのか、クラウンベッチと名乗った優男は情けなく木箱から転げ落ちた身体を起こすと両手で汚れを払ってから、マルコの頬を思い切り尖った靴の先端で蹴り飛ばす。
船の緊急停止の反動に持って行かれ、重量を持った鎖がジャラン!!と嫌な音を立てる。
それだけでは怒りが収まらないと、マルコの鳩尾に、喉元に、頬にと靴底が派手に落とされるのをどうにか途中で引き剥がすのは慌てる部下達だった。
「ッッ……!!」
「ボス、商品に傷を付けては…駄目ですって…!」
「はっ!!良いんですよ、いいんです、少しぐらい傷を与えたところで治せるのですから!私を殺そうとしましたよ、恐ろしい猛禽です…!飼い主に渡るまでのしつけと思いなさい」
「おれは、観賞用の鳥じゃねぇ…!!」
力の抜け切った身体で受け身を取ることに専念したが、能力者の力を奪うだけではない。海を愛しながら嫌われた身体にとって、甲板に両の脚を踏ん張って立つだけでも精一杯だ。トラウマが甦る、忘れた筈の地獄が口を開けて迫っている。
口に噛ませられた布が拍子にずれて、マルコの言葉だけは自由にする。
悪魔の実は、海を捨てて力を得る禁忌の契約だ。
その代わりに得た能力も、海に沈めば泡と消える。
「おれは……人間だ!!誰にも、もう飼われることもねぇよい!!」
「そう思っていれば良いじゃないですか、あぁ、海に身を落とすなんて馬鹿なことは考えずに!どうせ引き揚げますし、剥製になったら貴方の値段が下がりますよ!」
「くだらねぇ…、おれの価値は、そんなもんで決まらねぇんだ…、」
─── 仲間に迷惑を、オヤジに迷惑を掛けるくらいなら…、
夜の海に、馬鈴薯一つのために身を投げられる男がいたんだ。だったら、皆の為ならこの海底に沈んだって構わない。
「おれの値は、おれが決め……え?」
「はい?」
船縁に脚を掛けたその瞬間である、その水平線の彼方より此方へと何かが迫って来ていた。
火の玉が、海を赤々と照らし出す。
それも、進むという言葉より、射られたという表現が正しい程の超高速で。
✳︎
「ぼ、ボス…!!あ、あれは…何か来てます、ボス…!!!」
「見りゃ分かりますよ!!な、何です、海の上を…まさか能力者か!?」
能力者───、マルコの切れた唇が呟く。
確かに白ひげ海賊団は参加を始めとして、数多くの能力者が乗っている。だが、火を放つ能力者は誰一人として居なかったはずだ。
この世にあるという、メラメラの実を喰らった能力者は誰も───、
「………マルコ、おいマルコ…こっち…!」
ギョッとした。心臓が口から飛び出るかと思った。
船縁に物陰に。水面からしがみ付く男。その長い髪が普段纏めている黒のカチューシャをどこに落としてきたのか、掌で掻き上げながら、その男は口元に指先を立てる。
「炎上している船です!!まずい、こっちにそのまま突っ込んできます!!」
「馬鹿!!発進させろ!!何をもたもたと…えぇい、グズが!退け!!私がやる!!」
「先程の急停止で、エンジンのかかりが…、」
部下を片腕で突き飛ばし、クラウンベッチが鬼の形相で操舵席に駆け込む。
「あの小僧を捕獲する為に、随分と金を費やしているんですよ…失敗は許されない!!」
「ですが、燃える船なんて乗っていた者は何処に…」
「何処に…って間抜け!!陽動に決まってるじゃないですか、あのクソガキだけは絶対に……!!」
「間に合いません、ボス!!!ぶつかります!!」
「何ですってぇぇぇぇえ!??」
相手が船であろうと氷塊や岩場だろうと、船が衝突する音は瞬きひとつでその一帯に強烈な轟音を響かせる。次いで起こる連鎖爆発が、クラウンベッチの船よりも上回る船ごと覆い燃え上がる焔の柱を海の真上に立てるようだった。
「あちゃあ…、やべ、ミスった…船奪って戻るつもりが…思ったより火が付いたなぁ…」
ずぶ濡れになった身体を傾ぎ始める船体上によっと勢い付けて引き揚げると、状況と真逆の声色に正気かと今度はマルコが裏返った声を挙げる番だった。
「さ、さ…さ、サッチ…!?」
ポタポタと髪から落ちていく雫が赤く照らされる甲板に落ちては、ジュッと蒸発の音を立てていく。木々が焼ける匂いと、火の粉を上げて渦を上げる焔と、唖然とするマルコの手錠を両手で握り何とか外そうと闇雲に引っ張るサッチがそこに居た。
「いやー、おれの予想だとここまで燃えなかったんだよなぁ…買い出し船、……ってて、外れねぇな…いやマジで本当に、ちょっと焦げる程度?……ふんががが…マジで取れねぇ…!」
「呑気に話してる場合か!!馬鹿!!何で…、」
「鍵やっぱり必要か!!…あ、話せば長いけど、今聞く?」
「何考えて……伏せろ!!」
「わッッ!!」
放たれた銃弾が、サッチを横に両腕で突き飛ばしたマルコの髪を掠める。靡いた金髪が、熱風に吹き飛ばされて宙を螺旋に舞う。
「マルコ…!!」
「そこまでです!!そこのガキ!!戦闘員じゃなかったのか…!!」
燃え移る火を消そうと慌てふためく男達、一度崩れれば脆いチームワーク。
「戦闘員じゃねぇ!!コイツは、ただのコックだ!飯作る以外の能はねぇよい!!」
「嘘おっしゃい!!ただのコックが、どうしてこの船に追いつく!!」
クラウンベッチの銃口がブレるのは、過度の怒りと興奮からで、それでもサッチに向かって続けて放たれた筈の銃弾がマルコの咄嗟に挙げられた左脚の脹脛部をあまりに高らかに撃ち抜く。
「マルコ…よせ!!」
甲板に崩れ落ちる仲間に、サッチの喉奥から悲鳴に似た叫びが上がる。
「ッッ…ぐ…、」
マルコ、おれを庇うな!!おれ、おまえを助けに来たんだよ!そんな、庇われる為じゃない!!」
「オーーホホホ!!そりゃお笑いだ!良いですか、この世の中!!助けるだなんて偽善、褒められるのは作り話の中でだけ!全くの無意味が現実!」
「ボス!!船が沈みます!逃げないと焼け死んじまう!!ボートを出しましょう!!」
脚から流れ出る血が止まらない。燃え上がる火が収まらない。それを屈み込んで抑えようとしたサッチの両手が真っ赤に染まる。
「力のない者がどうにか出来るほど、この世の中は甘くないんですよ!!さぁ、茶番はそこまでになさい、美しい友情というのなら、籠の中にお友達も入れて差し上げましょう…首から上だけでもね!」
「…行くよい、おれが行く!だから、こいつには手を出さねぇでくれ!!」
「マルコ!?」
サッチがどうやってい追い掛けて来たのだとか、どうやって見つけたのだとか、細かいことはもうどうでも良かった。出血が止まらない、太い血管をやられたらしい、能力者に与えられた諸刃の剣が死神の大鎌となり首筋に当てられている。
クラウンベッチの言葉は、どこまでも正しい。
力のない者は、この世界では敗者になるしかない。
「ほ…ほほほ!やっと聞き分けましたか、さぁボートに乗れ!!もう後がないんだ!!」
「……サッチ、おまえのことだ。どこかに、自分の"魂"…持って来てんだろ」
ジャラリ、と音を立てて立ち上がる素振りを見せながらサッチの耳元に唇を寄せる。
「……その魂で、おれの両手首…、切り落とせるか」
「マルコ…何言って…!?」
マルコの唇が釣り上がる。勝ち気で、自信に満ちた完璧な笑顔。マルコは完璧だった、それよりもサッチの方が僅かな唇の震えを感じ取るのに優れていただけだった。
「なぁに、おれの能力のことはよく知ってんだろ…?心配要らねぇ、切り落としたってこの忌々しい鎖さえなけりゃあ…いくらだって再生できる」
嘘だ、とも嘘じゃない、とも言い切れない。
今まで、海楼石で作り上げられた檻の中に閉じ込められた数年間で、与えられた傷はあったが切断までは流石にされたことがなかった。再生出来るかもしれない、出来ないかもしれない。でも、それが何だ?
コイツを失う事に比べたら、何だって言うんだ───?
「さぁ、こちらへ!!早く!!」
「おまえの魂…汚しちまうのは悪いが、その代わり絶対におまえだけは……、」
「───なぁマルコ、おまえってさ、神様って信じるタイプ?」
「…………は?」
任せたと背中を叩いた筈の男が、真っ直ぐに問い掛けた言葉にマルコは思わず素で眉を跳ね上がる。船が大きく濁音混じりの鳴動と共に傾いでいく。
神様?
神様って、あの神様か?
人間を救うって、祈りを捧げられる神様ってやつか?
「そんなん、信じられ……、」
「んん〜〜信じられるわきゃないか!じゃあさ、マルコ!!」
マルコの言葉を待たず、血に塗れた掌で髪を掻き上げた男が、ニッと笑う。サッチの腕が、マルコの腰に回される。見上げた瞬間に、マルコは言葉を息と共に呑む。
背負う月に圧倒されるのは、空高く飛んだ時だけで良かった筈だった。
「おれを信じて」
サッチは笑っていた。
クラウンベッチが吠える。
大きく身体が海へと投げ出される。
銃弾がサッチの左半面を襲った、地鳴りの様な衝撃とその血飛沫が飛び散る様がマルコの見開いた瞳に映る。
一拍遅れサッチの空高く振り被った掌から、帽子の男の右腕へと放たれたのは、紛れもない"包丁"だった。
ザバァァァン……ッッ!!
力が抜けていく、海上の火柱となった船が照らす水中内に沈んでいく。大量の泡が一気に沈んでいく自分の代わりに水面へと急上昇していく中で、マルコは口からガポッとひとつ大きな泡を吐き出す。
徐々に朧になる、揺らいでいく水中の景色と意識。
助けなきゃならない、せめてサッチだけでも、絶対に───。
「ふぁるこ、だいひょーぶら……、れったい、れったい…たすふぇる、からな……!!!」
それはおれの台詞だと、言い返すことも出来ずに自分の肩を抱いて泳ぐサッチを横目に見上げたのを最後にマルコの意識はしばらく途絶えることとなる。
医務室のベッドで、跳ね起き目を覚ますまで。
✳︎
─── 帰って来ないなぁ、マルコ…。
─── あら、さっきの怖い顔したお兄さんは帰っちゃったの?それとも…、
煙草をサッチは嗜まない。
初恋の人の、いつも短くひしゃげた咥え煙草も仲間達が燻らせる何処か甘い香りの葉巻も決して嫌いではなかった。特に、料理を学べば学ぶほど味覚と嗅覚の関係性には惹かれるものがあったし、表現だけでは分からないとフォッサに頼み込んで葉巻をこっそり入手したこともあった。
サッチの能力とも言って良かった、相手の機嫌の機微を探るという人付き合いのうまさは育ちもあっただろうが、それ以上に結局白ひげ海賊団の見習いとして可愛がられるマルコの、盃を交わした義兄弟というのは随分と大きなメリットを与えてくれていた。それがマルコの思惑通りだとしたら、サッチは少々複雑な気分になるのだが。
─── それとも、誰か別の娘と…上に行っちゃったのかしら。
─── さーあ、どうだろねぇ?君みたいな可愛い子に誘われたら行っちゃうかもしれない。
─── じゃあお男前な兄さんも、どう?たった二万ドルで素敵な夢を見せてあげる。
鎖骨下にある黒子が妙に艶めかしい美人だった。自分の魅力を分かっている娼婦は嫌いではない。むしろ、"お好き"ではあったが、サッチは笑って首を真横に振る。
─── やめとくよ、今日は飲み過ぎたみたいなんだ。役に立たないかもしれないから。
─── あらそう、残念。気が変わったら声をかけてね。
彼女達も生業にしているだけあって、見切りが早い。客にならないともなれば、テーブルでお喋りに費やす時間はないと早々に立ち上がるのを「ごめんね〜」とサッチは片手を振って見送る。
ブランデーと葉巻は出会うべくして出会った運命の相手だ。ウイスキー、シェリー、ラム酒だって捨て難い。ひとつを知れば、新しい世界がどんどん開けてくる味わいと風味の世界、体験しなければ分からない未知の領域に飛び込むサッチのフットワークは羽より軽い。
ただ、それと同時に余程の機会がなければ嗜もうとは思わなかった。
シガー、シガレットによって味覚が麻痺する可能性も懸念の一つだったが、どうにも口寂しさが薄れ過ぎる。物足りなさが、満たされてしまう感覚。望ましい効果などサッチには必要ない。何かを欲するという欲求は満たされてしまった瞬間に、欠けていく。
窓から見上げる満月と同じだった。
それではいけない。約束を果たすまで、夢を叶えるまで、決して自分のような人間は満たされてはいけない。
幸福に、なり過ぎてはいけない───。
片膝をテーブルについて、ぼんやりと想いを馳せかけた瞬間だった。
「───ッッッ!?なん…だ、これ……、」
サッチの頭の中に、直接言葉が鳴り響く。酒の飲み過ぎではなかった、まるで耳元で誰かが叫び声を挙げたような、鼓膜を強引に引き裂く様な唐突な爆音に視覚からも目眩が押し寄せる。
本能的に、挙げた両手で庇うべく塞ぎ掛けた両耳だったが、寸前でその動きがピタリと止まる。音は止んでいない。だが、音の嵐の中に聞きなれた叫びがあった。
「……ぅ…あ……マル……コ…か?」
キィン!!!と無意識に音のピントを合わせようとすればするほど、ハウリングを起こして頭が中から割れそうだった。悲鳴だ、叫んでいる。恐怖だ。底知れない恐怖と、動揺と、チカチカと音が色の洪水となって頭の中で荒れ狂う。
喚き立てるのは何だ。
─── 鎖の音が聞こえる。
─── 鞭のしなる音だ、刃物の研がれる音だ。
喚き立てるのは、誰だ。
─── 痛みに泣き叫ぶ子供の悲鳴が聞こえる…!!
「………"マルコ"だ…!!」
瞳の奥に、吊るされた大きな鳥籠が見えた。見たくないと緑瞳を瞑るより前に、中で血を流す子供が振り返る。青い瞳から、溢れる涙が濡らした唇が、自分の名前を呼ぶかどうかなんて店から飛び出し夜の街を走り出したサッチには関係なかった。
「おや、少年サッチくん!!血相を変えてどちらに───、緊急事態ですかな!」
「多分、そう!!」
「走りながらで良い!事態の説明を!このヤブサカが援護しますぞ!!!」
もしも、あの大通りでヤブサカに出会さなかったら。
もしも、ヤブサカが偶然でも修繕を終えた買い出し船を入江に寄せていなかったら。
もしも、ヤブサカがすぐに事態を理解して、モビーに連絡を入れてくれなかったら。
サッチはベッドに横たわったまま、左の瞳を覆う包帯に掌を寄せる。
選択肢のどれか一つでも間違えていたら、どっちもこの船には───。
部屋へのノックの音に、サッチは返事と共に掌を下ろす。
「おれだ、サッチ…入っても大丈夫か?」
さらりと滑らかな絹を思わせる声色の主は一人しか知らない。この船の中で、ある意味「入るな」と言えば大人しく部屋の外で待つような、そんな男は一人しかいない。
「問題ねぇよ、ピンピンしてる」
「そうか、マルコの目が覚めたようだぜ」
腕を組み視線だけで問い掛ける、和装の男。
イゾウの姿がそこにはあった。
「あと、料理長が買い出し船の件で話があると…」
「んぁ〜〜それは聞きたくなかったァ……」
TO BE CONTINUED_