パンドラの箱神様、これから御前に立てた誓いを破ってしまうことをお許しください。
本当ならば古い映画のように告解室に入って神父様に全てを打ち明けたかったのですが、やはりこんなことは誰にも言えません。
私だって矜持があります。きっと今ほんとうに嫉妬に狂った醜い顔をしている筈です。そんな姿を人に見せたくありませんもの。
神様、思えば片手ほどの年月も経っていないんですのね。
私が彼と此処で式を挙げてから。
あの華やかな、信じられないほど華やかな、祝福されて笑顔に満ちた結婚式。
まるでシンデレラにでもなったような想いで未来の幸福を信じて疑わなかった私は、どれだけ愚かな女だったでしょう。
夫の笑顔は、何処か空虚なものでした。基本的にあまり笑わない人でしたから、そういう表情が彼の精一杯だと思っていたんです。
私はあの時に――いえもっと早く気付くべきでした。
彼の何処か宙に浮いたような、遠くを見るような眼差しに映る、真っ黒な闇を。
切っ掛けは、徐倫が夫の書斎で悪戯をして見つけてきた、私たちの結婚指輪の箱でした。
指輪は夫と私が常に嵌めていましたから、それはもう中身のないただの空箱だったのですけれど。
ええ、ただの空箱だった筈なのです。本当なら。
幼い娘にもあの箱にはきっと素敵な物が入っていたと判ったのでしょう。
「これなぁに?」と。女の子らしい好奇心で問い掛けてきたのです。
久し振りに見る指輪の箱は、あの幸福そのものの結婚式を思い出させて、少し私を嬉しくさせました。
もう何処かへ失くしてしまったと思っていた空き箱を、夫が大事に持っていてくれたことも嬉しかったんです。
どこまでも愚かでしょう――?
「これはね、ダディとマミィが一生一緒に仲良くしますって約束した指輪が入っていたものよ。ほら、今はこうして嵌めているから、もう中には何もないけれどね」
つい懐かしくなり、そう言って蓋を開いたのが全ての過ちでした。ええ、あの蓋を開かなければきっと、もしかしたら――。
ごめんなさい、少しセンチメンタルになりました。
そんなことはありませんわよね。いつかはこうなった気がします。
箱の中には、髪の毛で作った輪が二つ、指輪のように納めてありました。
一つは黒髪。毛先が跳ねて輪にするには短くて、手触りも夫の髪に似ています。
もう一つは赤毛。少し緩く波打ったものでした。
私は金髪で直毛。私のものでないことは明らかです。
誰のものでしょう。
疑惑を巡らせるまでも無く、私はすぐに思い当たりました。
この髪を知っている。
彼が頑なに語ろうとしない十代の頃の旅の話。
お祖父さんとお友達と旅行中にテロに遭ったと聞かされていました。その時に夫は親友を失くしたのだと。
絶対に嘘。何かを隠しているのは判っていましたが、私はあえてそこを詮索するようなことはしませんでした。お互いの秘密を守ることが夫婦円満の秘訣と思っていたのです。
まさか図らずもその秘密を、こんな所で暴いてしまうことになるなんて。
いつか夫の研究室へ遊びに行った時、見かけた写真がありました。
そこにはその旅行中に撮ったと思われる写真があり、若い頃の夫の隣に赤毛の男の子が、まるで恋人のように寄り添って立っていました。
彼を傍らにした夫のまなざしは優しすぎて、なんというか、いま思えばなんというか――。
神様。
勝てません、私。
喪われた人の面影に勝てる生者などいるでしょうか?
まして男の子――夫が一番多感な時期に死んだ男の子ですよ。親友の男の子を愛していたんです、あの人。
子供も産めない、一緒に支え合って家庭を作って行くことさえできない、亡くなった男の子を今でも愛しているんです。
遺髪を指輪にして。
結婚指輪の箱の中に、自分の髪と並べて。
それを書斎に大切に隠して。
想像していたのでしょう、此処で彼と挙げる結婚式を。
これが単なる浮気だったなら、どんなに良かったでしょう。
せめて生きている人と生きて別れたのなら、どんなにか。
あまりに自分が惨めで、笑ってしまいました。
神様。今では判るのです。
あの華やかすぎる結婚式こそが、夫の胸に空いた穴の深さだったのだと。
夫の胸には穴が開いていたんです。埋めても埋めても埋まることのない、あまりにも大きな穴が。
華やかなものを、光あるものを、幸福なものを、世界中からこれでもかと集めてもまだ足りない、決して埋めるに足りることのない大きな穴が。
私はそんな夫を憎みます。
私と娘で穴を埋めようとした彼の過ちを、恋していた分だけ憎みます。この先決して許すことは無いでしょう。
徐倫は私が責任持って育てます。
金銭的な面は夫が保証してくれましたから心配はありません。あの人も一応は父親の自覚はあるんですのね。あくまで生物学上の父親ですけれど。
ただこれから一人で子育てをすることになる以上、ままならないことは多々あると思います。
私に似て我が強い子ですから、きっと手を焼くことも多くなりそうです。
夫に顔が似ているので、ちゃんと愛し抜くことができるか不安ですが、勇気をください。
やりきってみせます。ですからどうかもう一度、私に愛する人をお与えください。
今度は私と真っ当な愛を育ててくれる人を、どうか。
私は弱い女ですから、側で支えてくれる男性が必要なのです。
神様、誓いを破ってしまって申し訳ありません。
健やかなる時も病める時も――私、承太郎を愛することができませんでした。
だって仕方ありませんでしょう。
彼に健やかなる時なんて、初めから無かったんですから。