めんどうなやつら 鉢屋三郎は運転席に付き、苛立ちを堪えていた。
ドリンクホルダーに入れたコンビニのコーヒーを啜る。家を出てからすぐに買ったコーヒーは、半分ぐらいを飲み干したあたりから一気に冷えてきて、いまでは香りもなにもない苦い液体へと化している。しかし、なんとなく意識の裏にある眠気を抑えるにはこれくらいの方が丁度いいのだろう。
指の腹でハンドルを叩きリズムを取りながら前の景色を睨む。夜の帳を押しのけるLED群。道路に続く赤い灯。そしてなによりも車道にはみ出さんばかりの人、人、人。先ほどから通りすがるテンションが上がりまくった人達が身体を左右にぐねぐねしながら車体にぶつかりそうになっては、「おい、気をつけろって!」と笑い声が聞こえてくる。色々な意味でぶつかってこないことを祈るしかない。
暇つぶしに流したラジオは、売れっ子の男性シンガーソングライターが今日出演した歌番組についての感想を視聴者の手紙を読みながら語っている。「本当に昨年も色々ありましたからねえ」なんて話を聞きながら社会は確かにいつも大変だと、どこか冷めた感想を抱く。
世界はどこも年越しモードで一色だ。昨年のどことない気怠さと、新年の現実をいまばかりは忘れて美しい人工的な煌めきにテンションぶち上げて歩いているひとたちに三郎は冷笑を浮かべる。
それから忘れた頃にため息をつく。
カップホルダーの空いたもう片方に入れたままのスマートフォンを取り出して、メッセージアプリを見る。先ほどまでの会話だ。
『ひさしぶり~、いまから車出せる?』
”OHAMA”と書かれたアカウント名とその一文。それから三分程度の通話履歴。メッセージの通知が来た時点で無視すればいいものをなんとなく開いてしまった自分が悪い。既読をつけた瞬間に着信が来れば出ざるを得なかった。これは仕方のないことだ。
勘右衛門の話を要約すると大変酔っ払っていて歩けないから車で迎えに来て欲しいということだったのだが、一体どんな風の吹き回しなのだろうか。
勘右衛門とは同い年で高校までは同じ私立の学校に通っていた。しかし、それ以降の交流は正直そこまでない。
だのに、「わざわざ連絡を取りたい」と思われたことが三郎にとっては不思議だった。
互いにSNSで近況は確認しているが、基本的に三郎は投稿をしないので、正確に言うと三郎は勘右衛門の近況を一方的に知っている。なぜか『親しい友人』登録までしていただいているので、勘右衛門のより"プライベート"なことまで筒抜けだ。
親しい友人登録もしていない(そもそも機能を活用していないだけだが)、密に連絡も取っていない。そんな男から誘いが来ることに驚いたほどだ。
……とは言ったものの、勢いに乗って迎えにこいと言われたため、押し負け断ることができなかった自分もいた。それに電話越しからもかなり酔いが回っていたことも気になった。もちろん、他のやつに頼め、と一蹴してしまえばよかったのだが、それはあれだ。誰もいなくて野垂れ死にされても困るし、なんとなく会ってやろうという気持ちになっただけだ。
どうせ一人暮らしの年越しなんて、適当にSNSで友人らのバカ騒ぎをみたら満足して寝るだけの予定だ。それよりも勘右衛門は三郎が今夜酒を飲んでいなかったことを感謝するべきだろう。と、思いながら勘右衛門に電話口で指定された場所でひたすら待つ。
辛味しかない虚しいガムを二個口に含む。
「あー! さぶろぉだ」
ラジオで流れた音楽を聴きながら指でリズムを取っていると、車外から聞き覚えのある大声がした。おい、嘘だろ、まじでへべれけじゃねーか。
吐きませんように、と祈りながら振り向くと、無遠慮に扉は開かれる。
「新年あけましておめでとー!」
「あー、はい、おめでとう」
「うは、まじで鉢屋来てくれたのうれしすぎ」
黒のダウンジャケットをしゃかしゃかと奏でる酔っ払いに対して三郎は睨み付ける。
「お前が来いって言ったんだろ。それよりも寒いから早く乗れ」
せっかく車内に溜めておいた温かい空気がどんどん外へ吸いだされて、代わりに冷たい風が吹き込んでくる。防寒もしていない三郎は突然の寒さに暖房の設定を引き上げる一方で勘右衛門はカラカラと笑う。
「おまえ、むかしっから寒がりだよな。――っと、ほい、出発しんこー!」
「はいはい」
ドアを閉めた途端に酒の匂いが車内に広がる。ツンとした独特な香りに勘右衛門は気が付くことはないのだろう。
「いやほんとうに、まじで迎えに来てくれるとは思わなかったんだよね」
「お前が来いって言うからだろ」
「律儀~! 優しすぎるだろ」
車を出したものの、年始のこの時間は同じようなお迎えの車が多く渋滞に合流するだけだ。予め勘右衛門のために買っておいてやったペットボトルの水を手渡すと「本当に優しすぎる。俺の彼氏?」と捲し立てた。
少し苛立ったのでノールックでチョップする。いてぇっと悲鳴が上がるが無視だ、無視。
「じょーだんじゃん」
「どこまで送ればいいの? まだ実家?」
「あー、それなんだけどさ、明日暇?」
なんだ藪から棒に。答える前から嫌な予感がして肩を竦めた。青信号のあと一台が届かず停車する。
「まあ、暇だけど」
と、答えた三郎が言い切る前に勘右衛門は「じゃあ鎌倉! このまま行こう!」と両拳を突き上げる。ゴンっと鈍い音がなった。頼むから車は壊さないでくれよ。
堪らず三郎は「はァ⁉」と声を荒げた。
鎌倉なんて、車で行った場合一時間はかかる。これ以上の渋滞に巻き込まれたら数時間はかかるだろう。
「なんで、鎌倉」
「え、初日の出して初詣したいから」
「上野とか秋葉原とか川崎とかでいいだろなにも鎌倉までいかなくても」
暗がりで詳しくみることはできないが、勘右衛門は唇を尖らせている。昔からそうだ。俺に噛みつくときはそんな顔をしていたことを思い出した。
「鎌倉がいいの。海みえるし」
「川崎大師でいいじゃん」
川崎であるならばここからであれば、渋滞なしであれば三十分程度で行くことができる距離であり、早めに目的地について寝ることもできるだろう。海で初日の出を見たいのであれば千葉県の方がよいのではないかとも思うが、自分の首を絞めるだけなので黙っておくことにした。
「え、鎌倉の海と川崎の海は一緒にしちゃだめだろ」
酔っ払いとはどうしてこうもたまに確信を突いたことをいうのだろか。冷え切った一声が車内に虚しく落とされる。
暇だと答えたことを後悔する。
「ガソリン代も朝飯代も出すから! お願い!」
「本気で言ってるのか?」
「本気! 楽しそうじゃん、深夜のドライブからの初日の出初詣コース!」
勘右衛門の強引さには若干違和感を覚えつつも、悪くはない一年の始まりだ。どうせ一日はほとんどのお店がやっていないため、だらだら寝るだけになりそうだし、それならば勘右衛門と居た方がよっぽど飽きなそうだ。
それに、ひさしぶりにこうして話せて嬉しい気持ちも大いにある。数年振りだが、あの頃と同じようになにも変わらない調子で話してくれて、だらしなく笑う顔をみて、気持ちが高揚したのも事実だ。
「……わかった、いいよ」
「ほんと⁉」
「ガソリン代に朝食代な。あとコンビニでコーヒー買い直すからそれも」
「任せろって!」
ミラー越しにみえたライトに照らされた勘右衛門の満面の笑み。アルコールによってとろりと溶けた眦とだらしない口元。
それをちらりと見てしまったことを三郎は後悔した。目が合うよりも早く視線を逸らす。
赤信号でカーナビを設定すれば、前方の赤いテールランプの列を三郎は眺める。なるべく道が混みますように、なんて願いをしていたことを勘右衛門は知らないだろう。
どこにでも流れているような歌謡曲から、一度きりのカーナビアナウンスに切り替わる。勘右衛門の鼻歌をバックグラウンドミュージックにして二人を乗せた車は青信号への切り替わりと同時に都会の道に飲み込まれて行った。
「鉢屋、すぐ連絡気が付いてくれてたけど何してたの? こーはく?」
酔っ払いの飽きは思っていた以上に早い。聞いたこともないメロディーの鼻歌をやめた勘右衛門が突然口火を切りだした。
律儀に答えてやる必要もないのだが、
「途中まで観ていたが飽きて消した。もう寝ようと思っていたところだ」
と言えば、案の定勘右衛門が「え、ごめん誘ってやればよかったな」と同情を含んだ物言いをしてくる。
「要らんわ。そんな知らん飲み会」
「知らなくないよ、兵助と八左ヱ門と飲んでたんだよ俺」
「だったら余計に行かない」
「なんでだよ。同じ高校だったのにさ」
久々知兵助と竹谷八左ヱ門、三郎、それから不破雷蔵という男、そして勘右衛門はかつて同じ高校でつるんでいたグループであった。兵助と勘右衛門は同じ大学へ進み、八左ヱ門は専門学校へ。三郎は雷蔵と同じ大学に進んだため、高校卒業以来、雷蔵意外の面々とは自然と疎遠になっていった。まあ、SNSがあるからお互いの近況というか生存確認はしていたんだが。
「お前が調子に乗りそうだから」
「うわ、でたでた。かわんねーなその毒舌」
勘右衛門はからから笑って、ペットボトルの蓋を開けた。大きく傾けながら水を飲む姿を横目にみて車を減速させる。道路の車はみるみるうちに増えてきて年始の賑わいを感じる。二人と同じように初日の出目的のものもいるのだろうか。早いうちにコンビニに寄ろうとハンドルを左に切る。
「毒舌?」
「俺にだけ当たりキツイじゃん、むかしっから」
「そんなことは……」
ない、と言いかけた科白に勘右衛門が「ある」と重ねてくる。空いた口を渋々閉じた。お前こそ昔から俺に当たり強いよなと心のなかで吐露する。 数年ぶりなはずなのに、高校生の頃となん変わらずに話すことができる事実に安堵している自分がいた。大学の四年間で変わるひとは少なくない。だけれども、この男はあの頃と変わらないのだなと知ることができたのと同時に三郎は驚く。安堵したのだ、自分は昔と変わらずに勘右衛門と話すことができたことに対して。買ってから時間が経っていたのにも関わらずなかなかコーヒーが進まず冷めきってしまったことにも理由ができてしまった。口の端が引きつりそうになるのを堪えるため、「そもそも、そのメンツで飲んでいてどうしてお前一人なんだ。兵助も八左ヱ門も終電逃してるだろ」
「そ、―……れは、まあ、なんかノリで」
「ノリ?」
「ああいや。ふたりは帰る方向一緒だからタクシー相乗りするって。おれひとりになったからさ、どーすっかなあってなってからお前のこと思い出したわけ」
いくら二人が酔っ払っていたとしても兵助と八左ヱ門の性格からして、ここまでできあがっている勘右衛門を置いていくはずがないが、あえて触れないことにした。ひとまず間をつなぐために「そうか」と返す。
ただの相づちのはずなのに勘右衛門は三郎の声にくふくふと笑いを零した。
「でもまさか本当に来てくれるとは思わなかったから嬉しいよ。こうして二人っきりで話すのとかいつ以来だろう」
過ぎ去る対向車線のライトは過去を遡る記憶のように目の前を流れていく。
「――、学園長室の清掃以来じゃないか」
「あー!」
興奮気味に勘右衛門が三郎の方を見た。
「あった! 卒業した後のやつだろ!? あれ、絶対おれたちだけだよな!?」
高校三年生の三月。小学校から高校までエスカレーターでいっきに駆け上がった俺達の学園生活は充実したものだったと思う。多少の変化はあれど、ほとんど周りのやつらは十年以上の付き合いとなって、三郎は特に勘右衛門ら五人とばかり学園生活を過ごしていた。
三郎が思い出したのは、理不尽な最後の掃除当番のことについてであった。
卒業式が終わったあと、学級委員長委員会として学園長に呼び出され命じられたのは学園長が普段から使っている執務室の掃除であった。そんな委員会の仕事任されたことも聞いたこともなかった。しかも三郎と勘右衛門の二人だけというのもいまだに納得していないことだ。
当日、学園長室に三郎が向かえば扉の前には勘右衛門が一人立っていた。
「他のやつらは?」
と聞いた三郎に対して、勘右衛門は肩を竦めて首を振った。
「俺たちだけみたいだよ」
その当時、三郎は勘右衛門をどことなく避けていた。理由は単純で、好きだったんだと思う。ただし、好きが故に接し方が分からなかった。距離感やふれあい方が分からなかったのだ。三郎と勘右衛門の本質は異なるものの、通ずる部分は多い。三郎の方がどちらかと言えば他人に踏み込まれたくない性質をもっていた。だから、人をおちょくることを好み、飄々とした生活を送っていた。
三郎が考えていることを勘右衛門はいつも察してくれており、この男はむやみやたらと三郎に踏み込むことはなかった。
それが非常に心地よくて、まろい顔もみているうちにどうも可愛く思うようになっていた。我ながらあまのじゃくで不器用な少年で、自分の気持ちにも勘右衛門にも素直になれず。最後の方は委員会活動を除いてほとんど惚れた相手と話をすることはなかった。
だから、好きを自覚してからは、勘右衛門と二人きりで過ごす時間というのはなかったと思う。
なにかを言いかけようとした勘右衛門を置いて「そうか」と一言返したあと、学園長室の扉をあけた。
年期の入った飴色のケヤキ扉は静かに開く。
カーテンの備え付けられていない大窓は、澄んだ朝日を部屋に招き入れていた。羊羹色のカーペットは高級感があり、手入れがこまめにされているのか、足を踏み入れるとさくり、と心地よい感触がした。細かい埃がきらきらと輝くものの室内は整然としている。机の上にものはひとつも置かれておらず、書類も棚にすべて整理されていた。なんなら場所によっては鍵までかかっている。だというのに、応接用のローテーブルには埃叩きと『しっかり掃除をすること』の置き手紙が残されていた時には、項垂れたものだ。
窓をあけた勘右衛門が「まあ、三十分くらい掃除したふりしようよ」と苦笑いを浮かべる。
「いまだから思うけど、学園長室なんて、生徒にみられたらまずいものばかりだっただろうし、なにかしら考えたうえで私たちを呼んだんだろうな」
レギュラーサイズのホットコーヒーを示すボタンを押しながら三郎は言う。独り言のように小さな声で。
男の隣にいた勘右衛門は酔っ払っていたとしても聞き逃すことはない。「たぶん、学園長先生は俺たちのこと気にかけてくれていたんだろうなあ。……ほら、さぶろー俺のこと避けてたし」
「避けてな――」
「ん?」
すべてを言い返すまえにぐっと堪える。かわいこぶって両手を顎の前にあてた男の鼻をつねることで気を紛らわした。
「んぎゃ」と勘右衛門から汚い声がでる。
「結局ほとんど積もってない埃をはたいて、乾拭きだけかけて終わったんだったか。……いや、違うな。桜の花びらが吹き込んで大変なことになったんだった」
外のあまりの寒さに立ち止まりたい身体を勘右衛門に妨げられる。コーヒーが零れたらどうするんだという念を込めて睨めつけるも彼はどこ吹く風だ。
「そうそう、あーなんかいろいろ思い出してきた。うわ、はっず!」
三郎たちから少し離れたカップルが勘右衛門の大声に振り向く。「おい、大声やめろ」と慌てて三郎が注意した。
そそくさと車に戻る。
ちょっとの停車だったはずなのに車内は早くも冷え始めていた。鼻を啜りながらエンジンをかけ、シートベルトを着ける。勘右衛門から受け取ったコーヒーが冷えた指先を温め、苦みが眠気を押し退ける。
「なあ」
「ん?」
車はふたたび発進した時、勘右衛門が口を開く。ちらりと向けた視線の先で、オレンジ色の明かりに照らし出された勘右衛門は唇をとんがらせながら真っ直ぐ前だけを向いていた。その顔が三郎にはなんだか怯えているようにみえた。
やはり自分は、コイツのことを分かってしまうのだ。なんとなく、根拠のないただの直感ではあるけれども、この予想が外れることはきっとない。
それは、勘右衛門も同じなのだろう。何故ならば二人は似たもの同士であり、同じことに怯えていて、同じものを大切にしたいと感じていたはずだ。だから、あの時の自分たちは先に進むことができなかった。そう三郎は強い自信があった。
いつから勘右衛門の酔いが覚めていたのか、なんて野暮な質問はしない。
「あのとき、俺がお前に聞いたこと、覚えてる?」
「…………、忘れた」
嘘だ。忘れられるはずがない。あの言葉を聞いてから、三郎は何年も会っていない男のことを忘れることなく考え続けてきたのだから。
「鉢屋ってさ、俺のこと嫌いなの?」
他の学級委員が来ないとか、そもそも学園長が来ないとかそういった文句を一通り三郎が言ったあと。勘右衛門は唐突にそう問うた。
二つの感情が湧き上がる。突然どうしたという動揺と何で気がつかないんだという苛つきだ。
普段は誰よりも察しがいいはずなのに、どうして今回ばかりはそんなことを聞いてきたのだろうか。ふつふつと沸き上がる熱が喉を灼く。
すぐに三郎が答えられず、沈黙が訪れると、勘右衛門はさっと視線を反らした。
「ぁーっと、ごめん。俺が考えすぎたかもしれない。なんか、ほら、ちょっと元気なさそうだったから、さ」
そういった勘右衛門は、自ら土に埋まっていくようだった。
その声に危機感を覚えた三郎は、「なあ勘右衛門、いまのは――」と近づく。
勘右衛門は、振り返ると花が咲くように笑った。その手にはスマートフォンを掲げており、連続でシャッターを切る音がした。勘右衛門がおどけた調子で言う。「おっ、鉢屋の慌て顔ゲット~!」
その瞬間、掃除のために開けて置いた窓から大きく風が吹き込んで、散った桜の花びら達が二人の間を遮った。
太陽に照らされたひらひらと薄ピンク色のそれは空の涙のように煌めいて、三郎は言葉を失った。 だのに、勘右衛門は「うわあ、大変だ」と言いながらすぐにちりとりと箒を揃えて動きだす。
三郎は酷く苛立った。どうして自分はこんな状況になっても素直になれないのかと。どうして、勘右衛門は怒ってくれないんだと。身勝手な怒りだった。
「……悪かったよ」
そう云った勘右衛門の背中は、初めてあった頃のようにとても小さく見えた。
ただでさえ混雑していた車の流れが完全に停滞した。交通事故発生により、現在走っている国道で渋滞が発生したらしい。液晶パネルに映る車のアイコンの進行方向へ、道に沿って真っ赤な線が引かれていた。
三郎はちらりと勘右衛門の方へ視線を向ける。その顔色にはまだ眠気の兆しは訪れておらず、意識はしっかりしているようだ。
あの日から自分は少しでも大人になれたのだろうか。三郎は自身に問いかける。あの日以来、三郎は勘右衛門に会っていない。だのに、三郎はこうして男に会うことにした。もっとも、勘右衛門以外の誰かが大晦日に連絡をしたとしても、三郎は電話に出ることも、メッセージに既読をつけることもなかったのだろう。ただの罪悪感ではない。捨てきれない思いがあるからこそ、三郎は勘右衛門に会いに来た。あの時の話をするために、ただ一言伝えるために。
「よかったあ。あんとき言ったこと本当に俺、なんかおかしかったんだと思う。卒業って言葉にセンチメンタルになっていたのかな」
酷く安心した口ぶりで、勘右衛門は煌々と照らされた窓の外を見た。独り言のように続ける。「だから、今日も少し連絡すんの怖かったんだよな。ブロックされていたらどうしようかなーって」
三郎は自分の声が震えそうになるのを堪え、「ブロックなんてするわけないだろう」と返す。
勘右衛門は笑いの気配を滲ませるも、三郎からはその表情は窺えない。
三郎の科白をきっかけに、
「それは、お前にしかわかんないことだろ」
勘右衛門は感情を隠すことなく声を張り上げる。
その通りだ。鋭い男の科白に三郎はコーヒーを口につけることで沈黙を誤魔化した。苦みが舌に広がり、香りが鼻を抜けていく。
男が三郎の内面へ侵入してくる。無遠慮に、粗雑に。空気ばかりを撫でていたようなあの勘右衛門が。
彼らしくない行動にぞわぞわと背筋に這い上がるものがあるが、不思議と厭な気はしなかった。むしろ喜ばしいとすら感じ始めている自分がいることに気がついて、三郎は小さく喘ぐような声をあげる。手で口元を隠した。鼓動が早く、顔が熱い。
勘右衛門は肘おきを使い仰々しく足を組む。完全に車が停車してしまったところでだから、と男が話し始めた。
「兵助と八左ヱ門と解散して、久しぶりにお前と会おうと思って、それから俺は今日お前が困るようなこといってやるって決めたんだ」
「なんだそれ」
「お前が守ろうとしたもん、全部壊してやるから」
「意味がわからん」
「――……好きだったんだよ」
「っ……」
男は前を向いて云う。それでも、三郎の方からは男の特徴的な丸い毛先が邪魔で表情を伺うことはできなかった。
「俺もお前も大概めんどくさいよな。ずっとさ、いつからか分かんないくらい、前からあるこの感情溜め続けて、勝手に育っていくもんを無視して。そのままでもいいのかなって思うこと多かったよ。お前の反応みて、予測してそれで満足って。思ってたけど、しばらく会わなくなってから、次会ったときに言ってやろうって決めていたんだ。俺、巻き込まれ方だけど、たまには俺の方から巻き込んでやろうって」
三郎がなにかを言う前にすかさず勘右衛門は「あ、返事はいらない。俺もう言ってすっきりしたし」と言った。その言葉のわりに、期待を捨てきれない声色をしていて、三郎は動揺の声を出す。
「は、ァ?」
「三郎。お前はまだ臆病なめんどくさいやつでいるのか?」
そういった男はいよいよ欲を隠すつもりがないらしく、むしろ三郎の反応をみて楽しんでいるようにも見えた。
突然来し方を振り帰りはじめたかと思えば、こちらが止めるまもなく言葉を迸らせ、引っかき回す。かつてこちらが得意にしていたような態度は、あの頃の仕返しだとでも言っているようだった。
「俺は、――」と勘右衛門の方をみれば、男の指が進行方向へと導く。渋滞中とはいえ前を向けとでも言いたげだ。いや、それだけではないはずだ。勘右衛門は目を細めながら笑っていた。
「三郎も俺のことまだ好きなんだろう?」
後ろからクラクションの音がつんざく。それもそのはずだ。気がつけば信号の前にいて、前の車は青信号になったと同時に走り出し、三郎の車が列を止めたのだから。
だけどこれ、俺のせいか?
と、三郎は思いたくなった。運転しているのは確かに自分ではあるが、この車を止めたのは自分なのだろうか。
新しい年を迎えてしばらく時間が経てば、道を征く人々のほとんどはホテルやらタクシーやらに吸い込まれていて、歩道だけががらんとしている。
「……まあ、好きだけど」
そう返した科白に、はっはと勘右衛門が満足気に笑った。
アクセルを踏み込む。白線をたった一度超えたとしてもまだまだ渋滞は続いている。テールランプはつらつらと夜の街を照らしていた。