「ねえ、机の後ろに下巻が落っこちちゃった。あとちょっとで上巻読み終わっちゃうのに」と木更津はテニス部レギュラーの部屋を次々に訪れては報告している。
「あれ、重くて結構動かすの厳しいですよね、引きずって床に傷つけたら怒られそうだし」「俺もあそこにチェキ落として絶望した。まだ諦めてない」
などなど同意と同情は得られるものの、解決策は見つからない。
こういうとき、どこに向かうべきなのか、木更津はしっかり承知していた。
「あんなところに本を落としようがないじゃないですか、どういう使い方をしたらそうなるんですか」
「読みさしのやつを机のうえに伏せてて、ちょっと邪魔だから押しのけたら落ちていった」
「本当にきみはだらしないですねえ」
文句を言いながらも、もちろん観月は一人部屋から引っ張り出され、木更津・柳沢組の部屋を訪れていた。頼られると観月は弱い。プライドがそうさせるのかなんなのか不明だが、どうにか解決しようと知恵をしぼってくれるので、なんだかんだで困り事が発生した時の最終手段に選ばれがちだった。苛烈なお小言が必ずついてまわるのが、"最終"手段たるゆえんである。
「ええと、棒とかで引っ張り出すのはやっぱり難しそうですか?」
「うん、俺と淳で最初に試したんだけど、後ちょっとのところでつっかえちゃったんだーね」
「えっ観月、そこに腕入る?」
裕太と柳沢が話している背後で、野村がぎょっとして声をひっくり返らせた。
全員の視線が集中した先で、観月が床に膝をつき、花柄のシャツの袖をまくっている。
「はあ、別に、変でもないでしょう」
机と壁の細い隙間に手のひらをねじこむ観月を見て、「うわ、こわい」と裕太が肩をすくめている。
「あ、あった、案外近くにありますよ。でも手前に巾木の出っ張りがあるから、つっかえちゃったんでしょうね」
手首を超えて、腕を半分突っ込んだところで観月が木更津を振り向くが、一同の引き攣った顔を見て心外そうな表情になる。
「み、観月、もうそれくらいでいいよ、僕、諦めるよ」
「無理して痛めたらコトだーね」
「別に無理してませんよ、ほら、あとちょっと」
ひときわ腕を捩じ込んだあと、今度はゆっくりと引っ張り出す。
「ほら!」
そう言って、観月は救出した本を得意げに顔の横で掲げた。が、埃のかたまりがふわりと舞って、動きが凍りつく。
一瞬後、「汚い!」と叫んで部屋を飛び出していき、洗面所に向かったであろう背中に、木更津が声をかけた。
「ありがとー観月ー! これで安心して上巻を読み終われるよ!」
「観月さんって、ひょっとして関節とかはずせるんでしょうか?」
「細いっていうのともまた違うよな、あれは。軟体だーね」
「もしかして観月、チェキも取れるかなあ」
わいわいと言葉を交わす面々の前で、木更津が大事そうに本の埃を払い、ふと思いついたように言う。
「そうだ、赤澤に教えてやろう。観月は今夜も大活躍だったよって」
「あ、『日刊観月』だ」
寮で起こった出来事を定期的に赤澤に書き送る習慣は、木更津がなんとなく始めたものだった。「こういう理由で明日の観月のトレーニングメニューが厳しくなる可能性があるから気をつけて」という注意喚起から始まったそれは、ただのエピソード共有に変わり、どんどん頻度が上がった。観月と赤澤のあいだにどうやら何事かが持ち上がっているようだとわかった今となってはややおせっかいなキューピッド精神のもと、日刊の名に恥じぬ様相を呈しているし、号外も少なくない。定期購読者は赤澤だけだが、裕太も裕太で、倣うように金田に何か報じているようだ。
以前、「強いて言うなら『日刊木更津』でしょう」と観月は言っていたが、その日報のテーマに占める自分の割合を知ったらああいうクールな反応を保てるかどうか、と木更津は柳沢に他人事のようにぼやいたことがある。
しばらくあと、談話室に入ってきた木更津が携帯を指差しながら、
「さっきはありがと。『日刊観月』に書いたら、赤澤が『観月って細いからなー』って言ってたよ」
と報告する。
ソファに掛けた観月は「なんですか、その感想は」と半目で見返したが、耳の先が少し赤い。続報で伝えて赤澤を喜ばせてやるか、木更津は少し思案する。
「なんにせよ、感謝するならさっさと廃刊してくださいよ」
笑いを堪えている野村の隣、観月がカップを口に運ぶ。湯気の向こうの唇は微笑んでいる。こういう戯れがとっくに嫌いではなくなっているのだと、最近はもう隠そうともしない。