観月がいつまで経っても帰っていこうとしないので、赤澤はいよいよ覚悟を決めた。
今夜の赤澤が直感で選んだ店は席の間隔が広い代わりにソファが小さくて、夜じゅう膝頭がしきりに触れあった。
観月から「だから店の下調べが大事だと」「なんで二十歳にもなって自分の図体を把握できないんですか」など文句が出るだろうと思ったけれど、予想に反して、ボタニカルジンをロックで美味そうにかぱかぱ空けて、なんでもなさそうに笑っていた。
聴講しにいった他学部の講義が意義深かったので来期も受けるつもりだとか、夏の短期留学の準備は順調に進んでいるが同室の面々に向学心が欠けているとか、柳沢と木更津がストリートテニスに誘ってきたが自分はこの蒸し暑さで打つ気にならないから見学にする、赤澤と野村で打ってくれとか、観月らしい話の数々を聴きながら赤澤は前回のデートを思い出していた。
帰り道でようやく、自分たちは手を繋いだのだった。薄暗い水族館で過ごした半日のあいだ、一度も触れ合わなかった身体同士をぎこちなく寄せ合って、駅までの道を、手を絡ませて歩いた。包むように握った手を目も合わせずに観月がふりほどき、時期尚早だったかと赤澤が悔やむより先に、指をきつく絡めた。横顔を覗き込むと澄ました顔の頬がわずかに赤かった。
店には思いのほか長居してしまい、二軒目という感じではない。前回のように手を繋ごうにも、駅へと向かう道は前回と違ってひどく混雑して、観月はひとにぶつからないように、横断歩道を渡り切れるように、早足で歩いていく。
血迷い、このまま解散になるくらいならいっそ改札前の人ごみの中でで抱きすくめてやろうと赤澤が思った、そんな矢先に観月が帰らない。
小田急線と中央線にそれぞれ乗って、自分たちは帰路につくはずだった。どちらの改札からもほど遠い、ほとんど閉店した駅構内のモールの手前、人気のない通路の隅っこまで行きつき、ぴたりと足を止め、観月はそれきり動かない。
黙ったまま俯いて、おそらく電車を2本、3本逃した。最後の直通もいってしまったから観月はオレンジの電車を乗り継いで帰る羽目になるだろう。
何かしなきゃこの夜が終わらない、すべてが自分に委ねられている。
赤澤は自覚した。気負うようでもあり、でもなぜか万能感が込み上げてくる感覚もあった。
観月が主導権を握ろうとしない場面なんて、きっと至極限られる。物珍しいと好奇心がかすかに頭をもたげるが、それを緊張と高揚が凌駕する。
駅の地下通路の片隅で、ひとの気配がなくなるのを自分たちはいつまでも待っている。
壁にもたれかかり、いつもの観月であれば服の汚れを気にしそうなものなのに、素知らぬ顔でただ宙を見ている。中身まではわからないがあれこれと思考が巡っていることは見てとれる。頭のなかで回転するモーターの音が聞こえるようだ。
うつむいていて、くんにゃりと脱力して、艶のある黒い髪が目元をすっかり覆い隠している。
とめるなら今だぞ、観月。
前髪を指でかきわけながら、赤澤は内心で思ったけれど口には出さなかった。伏せられたまつげが震えて、それでも何も言わないのだから、きっととめるつもりがないのだ。
一度目は失敗して頬と口の間にくちびるを押し付けたにとどまった。
んふ、と笑うような鼻声を漏らして、目を閉じたまま、観月が口角をわずかに上げる。余裕なのだとしたら突き崩してやりたいが、たぶん余裕に見せかけたいのだと、視線を落として気づく。細い手が握り拳をつくってシャツの裾をしわくちゃにしている。
二度目のキスも正面からぶつからなかったが、そこでようやく観月が顔の角度を変えて、なんとか下のくちびるに触れた。
ふわふわしてるかと思ったその感触はつるんとなめらかだ。
観月もきっと緊張して固く唇を結んでいるせいだろう。
数秒のあいだ、くっついていたくちびるはあっさりと離れた。
ああー、と脱力の声が赤澤の口から出ていった。思わず周りを見回すがほとんど人影はなく、こちらに目を向ける人間は皆無だった。週末の終電間際の吉祥寺駅は赤澤と観月だけでなく、誰もが自分のことに夢中だ。
繋いだままの手にぐっと力がこもり、赤澤は視線を戻した。
「情緒がない」
叱るようにささやかれて、赤澤は観月の顔を見た。もういつもと変わらない、勝気な表情で、品定めでもするように目を細めている。くちびるがわずかに開かれて、薄い肉の間で粘膜がぬるりとひかる。誘いをかけているようにも、無意識にも見える。
俺がどんなに緊張しているかきっとお前にはわからない。
お前の想定の埒外に踏み出しているこの瞬間、シナリオも教えられず自由に動くこのいま。お前の期待に唯唯諾諾と応えたいようにも、お前の予想を完膚なきまでに裏切りたいようにも思う。
赤澤はそんなことをぼんやり考えながら、もう一度キスをすべきか悩んでいる。