恋人の一日…? ピリリリリ、とアラームの鳴った音で立香の目が覚める。すぐそばに温もりを感じて、そちらに視線を向ければパチリ、と目が合った。ほんの少し目を見開いた自分とは違い、彼は優しく微笑んでいる。その眼差しで、彼が起きてから自分の寝顔をまた見続けているのだと気づき顔が赤らんだ。
もぞもぞとシーツを口元まで上げて、未だに見つめる彼を見上げる。特に意味はない。なんだか恥ずかしくなって、でも見ていたくて、ただ見つめただけ。
「おはよう」
「おはよう。よく眠れたか?」
「うん。ぐっすり。エドは?」
「そうさな……。矢張りこうせねば、快眠には程遠い」
「……俺だって、いつもみたいに毎日一緒に寝たい」
ほんの少しだけ口を尖らせてそう零すと、頬にキスを落とされる。そして無言で訴えるようにするものだから、上げていたシーツをそっと戻す。すぐに唇にキスが下りて、なんだかいい気分になったから、もう一回、と強請った。
一回では終わらなかったのは言うまでもない。
・
今日の朝ごはんは、白米と昨日の味噌汁の残りに卵焼きと蒲鉾、それからサラダ。明日は洋になるだろう。珈琲を淹れることも忘れない。昨日は何をすることもなく眠りに着いたお陰で、色々と準備を手伝えた。
「いただきます。うん、美味しい」
「それは何より。お前の好みを覚えた甲斐がある」
「さらっとそういう事を言う…。あ、珈琲美味しい?」
「ああ。腕を上げたな」
「でしょ!」
談笑を交えつつ食べ進めていく。美味しい朝ご飯はあっという間に二人の胃の中に収まった。ダンテスは2人分の食器を持って行き、すぐに洗って行く。それを横目に立香は洗濯機を回して、掃除機をかける。日頃綺麗にしている為か、食器洗いが終わるのとほぼ同時にかけ終えた。洗濯機が止まるまでまだ暫く時間がある。何をしようか、と考えたところで名前を呼ばれた。振り向けばダンテスが片手を軽く差し出した状態で口を開く。
「ハンドクリームを出し過ぎてな。もらってくれるか」
「うわ、たまにやっちゃうやつだ。キミもそういう失敗するんだね。……ふふ」
「俺とて人の子だ。失敗くらいはする」
「ごめんって。可愛くて、つい。拗ねないでよ」
「拗ねてなどいないが」
「はいはい」
ちょっと拗ねてるようにしか見えないんだけどなぁ、という内心は言わずにどうぞ、と手を差し出す。ダンテスは人差し指で左手の甲に乗っているクリームを掬い、立香の両手に付ける。そしてまだ動かすな、と告げた後手早く自分の分を塗っていく。どうしてだろう、と疑問に思ったがすぐさま両手を取られ、優しく揉みこむようにハンドクリームを塗られていく。自分よりも大きな手に包まれ、手の甲や手の平は勿論の事、指の間から指先まで丁寧に念入りに塗り込まれた。そんなにしなくてもいいのに、と思うのだけど言っても意味がないことは分かり切っている。
「ん。これでいいだろう」
漸く満足したらしいが、いいだろうと言った割には手を離さない。首を傾げれば、手の甲にキスを落とされる。
「…キミさ、ホントにうっかり?」
「さあ、どうだろうな?」
あくどいような、いたずらが成功したような、楽しそうな笑顔だった。そういう顔はあまり見なくて、どうしてもしょうがないなと思ってしまう。今日もまた、許してしまった。
・
「水族館の時のアルバム、完成した!」
「また増えたものだ」
何冊目かのアルバムは、二人の思い出の数でもある。昼食までの時間に写真データを印刷機で現像し、空のアルバムにしまっていた。形として現れると、何度見ても感慨深い。ずっしりとした重みがやけに心地よく感じた。立香が収めたばかりのアルバムをペラリと捲ると、すぐ後ろから呼びかけられる。
「見るのは構わんがな。もう昼食だぞ。そのまま見続けるなら俺が作っておくが」
「わわわ……!次はオレがちゃんと作るから、待ってて!」
「俺は構わんというのに」
「良いから!洗濯物もやってもらってたし、次はオレの番!」
慌ててアルバムを仕舞いに行き、手を洗ってからキッチンに立つ。手伝いたそうに視線を送るダンテスに対して、大丈夫だからと苦笑する。今日の昼食は本当に簡単なものだからだ。昨日作ったカボチャのポタージュと、サッと出来るオリーブオイルパスタ。それもダンテスが作る方が美味しいのだけど、彼は立香の手料理を楽しみにしているし良いだろう。それに一人で料理を作らねばならなかった時、パスタには随分と助けられた為これくらいは余裕で出来ると自負している。実際、10分程度できのことベーコンのオリーブオイルパスタが完成した。パスタをテーブルに持っていくと、既に皿出しやスープの用意などが為されていた。
「準備ありがとう」
「当然のことだ」
席に着き、いただきますと手を合わせて食べ始める。簡単なものと昨夜の残りにしては彩りの良い昼食になった。旬のものを多く使っているのもあって随分と美味しく出来たなと自賛する。
「美味いな」
「ね!今日はオレも美味しく出来たと思うんだ。難しいことは何もしてないんだけど」
「ポタージュも美味いな。コクが増している」
「昨日の分、少なめにすれば良かったかな。カレーやシチューもだけど、2日目以降の方が美味しいし」
「強欲なことだ」
ダンテスから我儘な子供を見るような、微笑ましい視線を送られた。立香はなんだか気恥ずかしくて、少し目線を外してしまう。
「だって……あ、今日は何もない日だよね?」
「そうだ。おまえが何処かへ行きたいと言うなら別だが」
「ううん、確認。一日中何もしないで一緒にいられるのかなって。…やっぱり、こういう日も嬉しいな」
「俺としても喜ぶべきことだな。おまえは多くの存在を寄せ付ける。過剰なまでに、だ」
「何もしてないんだけどな……」
不思議そうに首を傾げる立香に対し、ダンテスは深くため息を吐いた。
映画を観たい、と言って立香が持ってきたのは猫の写真でパッケージされた作品だった。特にこれといった展開はなく、ただ街中の猫の様子をよく映しただけのものらしい。
「猫でも飼いたいのか」
「いや……偶然レンタルビデオショップ見かけて、入ってみたらカゴの中にビデオがごちゃ混ぜで売られてて、せっかくだから運試ししようと目をつむって適当に取ったらそれだったんだ」
「そうか…。酔狂だな」
「まあでもそんなに悪いわけではなさそうだし、どうせ暇なら一緒に観ようよ」
そう誘われて観た映画は、特段良くも悪くもという出来だった。猫好きには堪らず、嫌いでなければある程度まで見れば満足感を得られる様な、その程度のものだった。一瞬星空の様な色をした謎の小動物が映っていたような気がしたが、恐らく気のせいだろう。そして、買ってきた本人と言えば途中までは可愛い可愛いと言って観ていたが、やはりというべきか寝落ちていた。頭をダンテスの肩に預け、ほんの僅かに口を開けて幼子の様に眠りこけている。ダンテスは口元を緩ませ、開いたその口を指でなぞる。唇はほんの微かにカサついていて、懐からリップを取り出して立香の唇に優しく塗りつけた。そして何事もなかったかの様に軽く立香の頬を叩いて呼びかける。
「立香、起きろ。」
「んん……?えど…?」
立香は酷く眠たそうにして緩慢に瞬きする。目は半分も開いておらず、放っておけばすぐにでも眠るだろう。
「そうだ。今起きねば間食を逃すことになるが、構わないのか。」
「やだ、ねむい…」
「我儘になったな…。眠りながら食べるなど、どこぞの海賊主人公でもあるまいに」
「ふふ…」
立香はダンテスの台詞が可笑しかったのか、くすくすと笑う。それで目が覚めたか、先程よりはしっかりと目を開けてダンテスを見上げる。
「エドがオレをおこしてよ」
「今起こしているが」
「おこし方が良くないんだよ。すんごく有名で定番のおこし方じゃないとだめ」
「ほう」
日頃から奥手でいじらしい恋人からの、何とも可愛いお強請りだった。ダンテスは姿勢を変え、立香の唇と己の唇を合わせる。そしてリップ音すら立てずに一瞬で離れた。
「さて、目覚めたか?」
「意地悪だ」
「クハハッ、何のことだか。言葉にせねば解かるまい」
「嘘つきー!絶対に解ってるくせに!解ってない顔してない!」
「フ……そう拗ねるな」
ダンテスは機嫌を損ねた立香の頬に触れ、顔を近づける。立香は不服そうにするが、その瞳からは期待の色が隠しきれていなかった。大人しくなった立香に口付け、ぬるりと舌を潜り込ませる。リップを塗ったばかりの唇はやわらかく、かさつきも感じない。ダンテスは己の舌で立香の舌を絡め取り、弄ぶ。夜の気配すら感じさせるそれに、立香の瞳は蕩けていく_
「さて、続きは夜だ」
「……はっ!」
妖しい空気は霧散し、穏やかな午後の雰囲気が戻っている。ダンテスは先程までディープキス(又はフレンチキス)をしていたとは思えない風体だが、立香は未だ余韻を残してぼんやりとしていた。ダンテスは手を伸ばしかける己を抑え、キッチンに向かった。
「……オレのばか。なんであんなこと……」
一方、我に返った立香は恥ずかしさに項垂れていた。寝ぼけていたとはいえ、己の行動が信じられなかった。しばらく固まっていたかったが、コーヒーの香りが鼻に届き、のそのそと動き出す。おやつは逃すわけにはいかないのだ。
・
カーテンが靡く程度の強すぎない風は心地良くて、動くことが惜しいと思うくらいには快適だ。窓から覗く空は茜に染まっていて、もう少し経てばすっかり暗くなる。立香はダンテスの膝を枕にして、じっと朱い空を見つめていた。ダンテスは手元の本に意識を割きながらも、空を見つめ続ける立香の頭を時折撫でている。
この時間はとてもとても穏やかで、愛おしくて、幸せで。ここ最近が忙しかった二人は、久方ぶりの日常をこれ以上なく堪能していた。ダンテスは仕事が、立香はテスト期間があったのだ。電話やメール、手紙などできる限りの交流は取っていたが、それにも限度はある。直接会い、話し、共に時を過ごすことに勝るものはなかった。
「立香?」
ふと、ダンテスは膝の重みが増したと感じた。もしや眠ったのかと思えば案の定、立香はすっかり寝息を立ててその瞼を閉じている。ダンテスは頬を緩め、立香の額にキスを落とす。そして起こさぬように慎重に慎重に、立香の頭を膝から落とし、自らは立ち上がる。そろそろ為さねばならないことがあったからだ。
「いや、先にあちらか。手がかかる」
文句と受け取れるような言い方とは裏腹に、ダンテスの声色は酷くご満悦だ。
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目覚めのきっかけは料理の匂い、というのは何ら珍しいことではないだろう。立香も例に洩れず、いつの間にか落ちていた意識がかぐわしい匂いによって浮かび上がった。ソファから身体を起こし、すっごく良い匂い……と呟いたと同時に腹の虫が鳴る。もう夜なのだろう。カーテンは締め切られ、部屋の照明が点いている。それから、このお腹の減り具合と夕食の匂いは間違いない。
「起きたのか」
立香の様子を見に来たのか、ダンテスが現れる。夕食を作っている途中なのだろう。前に立香が贈った、猫の柄つきエプロンを律義に身に着けていた。最初はどうしても可笑しく見えてしまって笑っていたが、慣れた今はそうでもない。ただ、ミスマッチ感がすごいとみ見る度に思う。
「エド。ご飯作ってくれたの?」
「ああ。もう完成するところだ。起こしに来たが、おまえの腹時計は優秀らしい」
「えへへ……ほらオレ日本人だから。毛布ありがとう。しまったらそっちに行くね」
「ゆっくりでいい」
立香は掛けられていた肌触りの良い毛布を丁寧に畳み、最後に抱きしめて頬擦りした後に押し入れにしまう。このふわふわの毛布は立香のお気に入りで、いつまでも触っていたい気持ちになる。ふわふわの誘惑を振り払ってキッチンに向かうと、既に殆どの準備が終わっている。彼は本当にギリギリまで立香を寝かせたかったらしい。ヒモ、という不名誉な称号が頭をよぎるが、テーブルに並べられた料理を見るとそれもどこかに消えてしまう。
「すごい!これ全部エドが作ったの!?」
「前に言っていただろう。簡単なものばかりの上、口に合うかは保障しないが……いや、おまえには関係のないことか」
「絶対に美味しいって。見てるだけで分かるから!早く食べよう!」
ガーリックトースト、カプレーゼ、ムニエル、シーザーサラダ、ブイヤベース……ダンテスが作ったフランス料理の品々は香りが良いだけでなく色とりどりで、とても食欲をそそられる。ぐぅ、と起きた時よりも大きな音が立香の腹から叫んだ。
「ほら、オレのお腹は限界なの!」
「分かった。分かったから大人しく座っていろ。先に食べていても構わん」
「え……嫌だけど」
「だろうな」
ダンテスはワインを自身のグラスに、ブドウと桃のミックスジュースを立香のグラスに注いで持って行く。何故ブドウ若しくは桃単体のジュースではないのか気になったが、立香曰く思ってたよりも美味しいらしい。
二人は手を合わせいただきます、と食膳の挨拶をして食べ始める。
「美味しい~……!!やっぱりエドの作る料理は美味しいな。ブイヤベースもムニエルも美味しいけど、サラダもこんなにおいしいのはずるくない?」
「3つは精々が切っただけだ。おまえが作ろうと変わらんだろう」
「いや、もしかしたら切り方とか。そういうのが上手いとかはあるんじゃないの?」
「ありえんとは言わんが、これは刺身ではないぞ。…だが、おまえからの賛辞は受け取っておく」
「受け取って受け取って」
久しぶりの二人での夕食は、ここ数日間の寂しい夕食を取り返すかのように楽しくて。立香は前に何気なく言った言葉を、ダンテスが覚えてくれたことがとても嬉しかった。身体温まるブイヤベース。しっかりと下味のつけられたタラのムニエル。バターとニンニクとオリーブオイルのバランスが上手くとれたガーリックトースト。丁寧に作られたそれらを味わっていると、ダンテスが作っている間に何もしていなかった事が少し苦しい。一人でさせてしまった、という思いもある。ただ、それ以上に立香がダンテスと作りたかった。
「ごちそうさまでした。すごく美味しかった。次はオレも一緒に作りたいな。共同作業……なんて」
「次などいくらでもある。待て、しかして希望せよというやつだ」
「それここで使っていいの?もっと重要な何かの時がいいんじゃ」
「なればこそ、それこそ今が相応しかろうよ」
「何でぇ……?」
お風呂が沸きました、と自動音声が流れる。夕食は食べ終わり、食器の片づけも完了する頃合いだった。
「先にお風呂入っていていいよ。ご飯作るの疲れただろうし」
「いや……先に歯を磨いていろ。俺は準備をする」
「はーい……あれ、でもそんなにかからなくない?」
立香は洗面所に向かいかけた足を止めてダンテスに呼びかける。ダンテスは立香へ顔を向けてニヤリと笑う。
「なんだ、忘れたのか?」
「何が?」
「続きは夜だ、と言っただろう」
続き。続き。夜ということは日中の出来事で__思い至った立香の顔は真っ赤に染まった。
「え、あ、」
「理解したなら良い」
ダンテスは”準備”の為に寝室へと向かい、洗面台に立った立香は歯ブラシに歯磨き粉を塗りたくり、これでもかと口内を磨く。きっと、いいや間違いなく、この後は数日の取り返しをするのだろう。これ以上なく甘く激しい夜を持って、漸く全てのいつもの日常が戻る。
「立香。準備は終わったのか」
「エドこそ、ちゃんと磨いたの?」
「とうにな」
「いつの間にって、もしかして一旦立った時?抜かりないなぁキミは」
「おまえを求めていた。それだけのことだ」
「……そんなの、オレだって」
立香は赤らんで俯くが、ダンテスはその顔に両手を添えて己を見るように促す。
「立香」
「うん」
「愛している」
「うん、オレも。愛…、してる」
二人は唇を重ねる。優しく、穏やかなキスをする。
「エド」
「ああ」
「一緒にいてね。離れたら怒るから」
「それが、お前の望みならば」
もう一度、二人は唇を重ねる。先程よりも、少し深いキスをする。
「エド」
「どうした」
「だいすき。愛してる」
「……敵わんな」
「ねえ、エド」
「愛している。愛しているとも。何よりも」
「えへへ」
もう一度、二人は唇を重ねる。今日の今までで最も深く、溺れるようなキスをする。
恋人同士の一日は、朝から晩まで甘いもの。されど夜ばかりは二人だけのものらしい。