過去のいざこざと真っ赤なバンダナ 解説編これは、いちくう小説として執筆中の「過去のいざこざと真っ赤なバンダナ」におけるあとがき的なものと、一郎と空却のキャラ像解釈……のようなもの。
■「H歴維新」と「Double Barrel」の関係性
2024年6月。
ブクロのCDが発売され、ドラパとH歴維新を聞いた際に真っ先に「出会った当初の波羅夷空却」が頭をよぎった。
何故なら、一郎が弟達に謝罪をした際の姿があの時一郎に頭を下げた空却の姿と被ったからだ。更に言えば、一郎のソロ曲「H歴維新」がどことなく「ダブバレ」を掠めたのもある。技術的な事はサッパリ分からないけれど、どことなく似ている。
「Double Barrel」こと「ダブバレ」は空却が一郎にマイクを与えて始まった「Naughty Busters」の原点でもある楽曲。
そして、木村さん曰く「一郎の遺書」として作り上げたH歴維新。全く異なるのに、けれど繋がりを感じ、私はかれこれトレーラーが出てから翌月くらいまでこの2曲を反復横跳びしていた。同じ曲を24時間365日飽きずに聞けるタイプなのである。
……そんな事は置いておき、境遇こそ対極なのに常に共に在れる一郎と空却のように、この楽曲たちもそうなのではないか。
それくらい通ずるものがあったからだ。
因みに余談だが、簓のトレーラーが出た際も「ダブトラ」と反復横跳びをしていた。後に岩崎さんがヒプ生でダブトラの事を挙げていたので、恐らくこの感覚は間違っていないのだろう。
■一郎の頑固さと謝罪について
さて。話を戻し、ドラパとソロを聴いた後、私の手は物凄いスピードで動いた。
ああ。一郎の解像度を爆上げする良い機会だ、と。あの一郎が、弟達に正解が分からないと告げてこちらが苦しくなるくらい心の底から謝っていた。弟達の道標でありたい、高い壁でありたいと誓い戦うあの一郎が、だ。
そりゃ当然家事失敗系の事は容易く謝るのだろうけれど、自分の信念がかかっていることに関してはこの男は中々……いや、全然折れないのだから。
一郎のその図太さは今までのとんでもなく苦しい環境からの成功体験の所為でもあり、「俺は俺の道を行く。俺自身の手で切り開く」が出来てしまったからでもある。
だから頑固だったものが更に頑固になってしまったのだ。
※この頑固さは零譲りでもあり、零が漸く心を開いたのをみれば一郎は大分早い段階で気が付いたともいえるが……。
また、幾ら弟達が成長して一郎の後をついて行くだけの存在ではなくなったとしても、潜在的に「弟達は俺が守るもの」としてインプットされているし、事実二人はまだ学生なので物理的に守らねばならない存在なのだ。だから余計に意固地になるのだろう。そんな中、弟達は着々と成長し、おかしいと思った事はしっかりと意見を言えるようになる。だからぶつかる。それは仕方のないことで、必然でもある。他人とは態度をガラリと変えて「にいちゃん♡」「いてぃにぃ♡」と懐く弟達が好きなオフクロとしては嬉しいやら寂しいやら、なんとも複雑な気分ではあるが。
そうして紆余曲折あり、「迷いながらもそれを庇護対象である弟達に相談出来る」「本当の意味で弟達に信頼を預けられるようになった」のが出来るようになったのが今回のドラパだった。固定概念にとらわれ、頑固なあの一郎が、だ。
■一郎の旅立ちについて
その時ふと思った。
今の一郎ならイケブクロを離れられるかもしれないな、と。
いつだったか零に「だからイケブクロを離れられないんだろう(意訳)」と言われていたのを思い出す。そして、イケブクロには良いも悪いもたくさんの思い出と弟達がいる。知り合いやお大切な客さんだっている。杉田さん演じる町内会の人たちだって。銀魂上がりの私的には杉田さんの登場時にズッコケて全て持っていかれてしまった節もあるが……。
で。固定概念にとらわれがちかつ頑固な一郎であれば「俺がイケブクロを離れる?馬鹿言ってんじゃねぇよ」と一蹴していただろう。そりゃそうだ。
けれど今回はどうだろう?視野が広がり、弟たちに頼れるようになった一郎ならどうか。
うーん。なんか離れそうだ。
弟たちに負けない為に、視野を広げる為に、あの時出来なかった事をする為に。理由は様々考えられるが、今の一郎なら「俺もちょっとやってみようかな」の気持ちが芽生える筈……なのだ。
と言うわけで、旅をさせた次第だ。
では何故一人ではなく「空却」を迎えに行ったのか。
それは冒頭に戻り、一郎の中に彼の存在が大きく残っているからである。
(雑に)和解した事もあり、会いに行っても何ら不思議ではない。当然ビックリはするだろうが。一郎がフラっと現れて当然だと思える時期は残念ながら空却の洗脳時に終わっているのである。
■空却との二人旅について
作中で目的地を決めていなかったのも勿論敢えてで、それは一郎の新たな挑戦の意でもあった。これは本当に偏見……になるのだが、一郎は三郎よりは劣るけれどそこそこ予定を決めて行くタイプだと思っている。何となくだけでも「ココとココには行きてぇな」と。
一郎も割と考えなしに動く節があるが、二郎ほどではない。ちゃんと利害を考え行動できる。弟を攫われたらそういうわけではないが。
だけど今回それを設定したのは「空却の元」のみで、それ以外は決めていない。それは多分「コイツとなら何でも良い」からだ。
うーん、どこかで聞いた台詞。
つまり別れを経験した後も、一郎の中にはしっかりと彼が刻まれていたのだ。なんせ、一郎にとっての導きの太陽でもあるからだ。
それが前編のお話。
そして中編のお話は心理描写が空却に移る。
■空却にとっての一郎とは
空却は未熟な状態でイケブクロに流れ付き、そして一郎という存在を知り「未熟者同士高め合うべし」と行動を共にし、チームを結成させる。マイクを与えたのが空却の方であったというのも熱い。流石、導きの僧侶。とでも言っておこう。
さて。何だか空却ばかりが引っ張っているので「一郎が空却に救われた」と思いがちだが、それは正解でもあり誤りでもある。
何故なら「空却も一郎によって経験値をつみ、成長している」からだ。何も救われているのは一郎だけではない。空却もまた一郎によって救われているのだから。
■一郎と空却の生い立ちについて
そもそも二人は生い立ちこそ対極で、厳しくも愛情たっぷりに大切に育てられてきた空却と、愛情を隠されて過酷な環境の中に置き捨てられた一郎と。親からの愛情のかけられ方が全く異なる二人は普通に考えたら意見も食い違い、人生観も異なり、あまり相性は良くなさそうではある。
が、「不思議と隣が心地よい」「お前となら何でもいい」などと思えるのは、根本的に「高め合うべし」という意識や考えがあるからなのも強く関係しているからではないか。
……という事で、一郎の人生があまりにも悲惨なため、どうしたって一郎を救う、一郎が救われるといったシチュエーションに焦点を当てがちだが、目立たないだけでそれと同じくらい空却だって一郎に救われているわけで。
では具体的に一郎は何をしたのか?というと、空却のように目立った何かをした訳ではなく、ただ年相応に笑い、振る舞えるようになっただけ。
そう、それだけ。
いや、それだけと言えば語弊があるのだが、導きの僧侶になりたい空却からしてみればこれはとんでもない事なのだ。
「拙僧といた事であんなに酷ぇ顔してた一郎が笑えるようになった」
というのは未熟者である空却にとって良くも悪くも彼にとっての大きな大きな大きな成功体験なのである。
なんせ彼らは生き方がまるで違う。超箱入り息子であった空却からしてみたら一郎は同い年にも関わらずとんでもなくヒップホップな生き方をした男だった訳で、今まで最強が「灼空」であった空却は衝撃的だったろう。
それと同時に家を飛び出して良かったと思った筈だ。
つまり、彼にとって一郎こそが今回の家出の成果の一つでもあるといえる。
■上手くいきすぎていたノバス・新生時代
そうして碧棺左馬刻と白膠木簓がいるMCDとも戦いやがてチームを組むわけだが、洗脳まで大きな敗北もなく失敗もなく、ただただコツコツと成功体験を積み、若さ故の勢いで世界が上手く回ってしまっていたわけだ。
「なんだ、拙僧もやれんじゃねぇか。ヒャッハ、見てろよ親父」と少なからずなった筈で。
なのでナゴヤに戻り十四や獄とチームを組んだ初期は彼らの痛みがサッパリ分からなかったわけで、それは一郎や左馬刻、簓がヒップホップな男たちだったからだ。当然空却も強かったのもある。
人物に恵まれた故に成功体験をたくさん積めたが、少し勢いが良すぎてしまったのだろう。それが後述する11月13日に発売されたナゴヤドラパに繋がるわけだが。
そんな勢いあまる空却にとって一郎はいくらアングラな仕事をしても折れることのない信念を目の当たりにしているわけだから、それはそれは眩しい存在であったと思う。隣にいれば毎日が発見で自分も成長できる。
年上である左馬刻や簓といても引けを取らないのも大きかったのだろう。24,5なんてまだ子供に毛が生えた域ではあるが、17歳からしてみれば「立派な大人」に見えるのだから。煙草や酒を嗜む描写は治安の悪さだけでなく、未成年であるノバスとの比較でもるわけだ。大人と子供を目に見えるようにしっかりと線引きしてくれている。性癖的にも有難い。
そりゃあ空却もわざわざ一郎を探して引っ付いてしまうわけで。一郎の隣や後方で見守り、導いているかと思いきや、もしかしたら本人が気が付いていないだけで思考の放棄と驕りだったのかもしれない、とも思う。
「お前といられたら何でも良い」というのは「一郎に決めさせている」ことでもあり、「一郎が決めたなら拙僧も成長できる」という意味があり、つまりどちらとも取れるわけで。
……楽を、してしまったのではないか?と。
あまりにも刺激が強すぎる日々でそれが見えていなかったのではないか?と。
成功体験が目に見えて掴みやすいだけに、こうした少しの綻びは目に見えず取りこぼしがちで、なんせ空却に至ってはまだ未熟者。気が付けなくたっておかしくはないのだ。
とはいえ、一郎と比較して自分自身の弱さや駄目な箇所についてはある程度自覚している筈で、だからこそ彼と一緒にいたのだ。全く異なるけれど対等で、認めた男で、指針でもある一郎。
私は、空却にとって「一郎は紛れもなく喉から手が出る程、素手でも良いから掴み取りたい太陽」であったと思っている。
それが中編のお話。
■空却がしてきたことへの尻拭い
さて長くなったが、後編は11月13日に発売されたナゴヤドラパも含み話が進んでいく。本来であれば発売前に全て仕上げる気でいたため、場合によっては大きく流れを変えないといけないかも……と思っていたもののその必要はなさそうで良かった。
ブクロから始まりオオサカまできて疑念が確信へと変わる。
「あっ。これ、ナゴヤって赦し導くディビジョンだ」と。
今までの流れと頑なに外野ディビジョンだったのが幸いし、ドラパのお試し視聴が出る前からそれは容易く想像がついた。証拠に事前ポストもしているし。そう確信していたからこそ後編の結末に向けて手を動かしていたので、違っては困る……というのもあった。いやそんなことはどうでもいいか。
それはさておき、空却が「出場しない」と発言したのは非常に胸が痛み、と同時に既に「赦し導くディビジョン」だと確信していた私はズッコケもした。
いやいや、出場しないとまずは5ディビの面々導けないのではないか?と。そこはもしかしたら百瀬マジックでどうにかなるのかもしれないが、どうにかなって欲しい点ではない、決して。
もしかしたら「同じ土俵ではない外野」から導くのかもしれないとも思ったが、それはそれで何だか釈然としない。釈然としないことが多いコンテンツではあるが、ちょっと勘弁してよねとは思った。
思っただけで結局出場するのでホッとしたけれど。
前置きが長くなってしまったけれど、今回のドラパでは争いの螺旋を降りるというのがテーマの一つで。空却が過去に暴力でどうにかしてきたことがどうにかなってなかったことから話しが大きく進んでいく。
前述したとおり、空却はノバス・新生時代にあまりにも都合よく成功体験を積み過ぎてしまったのである。
その結果がコレだ。勿論、当時の全てがいけないと言っているわけではなくて、ずっと調子が良いことなんてないよね、という話だ。
後の展開として短期的・刹那的に四人が上手く行っていた描写は必要ではあったし、やっぱり見ていて気分が良いのでもっと見たいとも思う。
新生MCDというチームはやはりあるべくして生まれた伝説のチームだったんだな、という確信。
話がズレたので戻す。
血のつながった家族と、血のつながらない家族、その他自分の周りが危険な目に遭うのを目の当たりにするわけで、それはまぁ……あのスカジャンも脱いでしまうよな、とも思った。
僅かな時間でそこまであっさりと決めてしまうほどの覚悟……言葉にできない。
■空却と一郎について
親はいつまでも元気なわけでなく、寿命で死ぬとも限らず、外的要因であっさりと逝ってしまうこともある。
一郎のように捨てられてしまうことだってある。
今回、空却は大きな存在であった強くて大きくて到底越えられない壁でもある父親があんな目に遭い、先祖代々守ってきた寺が突然守らなければならない存在に変わってしまった。環境というのは一瞬で変化してしまう。
……この展開、どこかの親子もそうだった。
そして「家族だ」と謳う二人にさえ、 弱さを見せない始末。
……これもなんか知ってる気がする。
ここで山田一郎を持ち出すのは違うかもしれない。だけどやはりチラチラ過ってしまうのは致し方ないのかもしれない。対極であり、だけど本質的に似たものを持ち合わせている同士なのだから。
けれど二人とも太陽であり、家族を大切にする人間なので、家族の言葉でまた昇り、空を心を照らしてくれるわけです。
■群れることが嫌いな空却について
空却は群れることが嫌い。今は楽しそうにしているので忘れがちだが、過去形とは言え公式のプロフィールにまだそのワード自体は残っており、「ああ、群れることが嫌いだったんだな」という事実は晒されている。
だけどこれは(恐らく)荒行に行く手前か荒行後からイケブクロに行った直後のことであって、本来彼は周りとギャースカやるのが嫌いな訳ではないと思う。
灼空の教育のもと精神年齢と実年齢が乖離し始めたり、周りの環境だったり、と群れるのが嫌いになった理由はあるのだろうが、まぁ取り敢えず中学生の頃なんかは生きにくそうではあった。
そんな空却が一郎とは毎日のように群れていたわけで、それはつまり「一郎が彼を救った」ということでもある。
ただ笑えるようになっただけだと前述したが、空却にとって一郎の存在そのものがやっぱり太陽で、今までガチガチに装備していた鎧が徐々に取れ始めた瞬間でもあるわけだ。北風と太陽の太陽みたいに。
だからこそ空却も本来持っていた僧侶としての素質を発揮できるようになり、二人して好転していったのではないか?と思う。
本当は中編に入れたかった仮説だったが、二人が好き勝手暴れるもんだから気がついたら省かれていた。責任転嫁。
■一郎と空却にとって争いの螺旋から降りるとは
そうしてここに辿りつくわけだが、盛大なネタバレになってしまうので、後編が完成した暁に気が向いたら書こうかと思う。
一郎がバンダナを空却へ返し、結び直したところで一旦は完結しているものの、それは「バンダナ」の話であって根本的なものではない。
一郎が空却のバンダナを持っていたというのは空却を演じた廣野さんが一郎を演じた高野さんに相談したことから始まった演出ではあるが、確かに、全く意味のない悪口しか出てこなかった空却が終わりを告げる方法はノバスの証であるバンダナを叩きつけることくらいでしか示せなかったのかもしれない。全然関係ないが、痰壺は酷過ぎて偶に思い出しては爆笑してしまう。なんだ、痰壺って。あんまりすぎだろ。あの山田一郎を痰壺に出来るなんてこの世でただ一人、空却だけである。
■「ノバス」の話ではなく「いちくう」にした意味とは
極端なはなし、カップリングにする必要なんて全くなかった、と思うのだ。
けれど、二人の間には明らかに特別な感情があるのは明確ではあったし、いちくう好きだし、山田家に入り込めるのは彼らの中で空却がギリギリ(そう、それでもギリギリ)だろうな、という思いからでもある。
ARBのイベストで、一郎が乱数に「そういうのは考えてねぇ(意訳)」と童貞のような発言をしていたこともあり、二郎や三郎が大きくなるまでは他の誰かを家に招いて良い感じのムード、なんてのは絶対にない。と思いたい。
ただ、そんな中で例外がいる(私的に)。それが弟二人と空却である。この三人の誰かとならワンチャンありそうだな、と。これは勝手なオタク的思考と趣味ではあるが。
「あの時できなかったことを」しようとする一郎が徐々に空却へ恋心を抱き、弟よりも先に一皮むけてくれたら良いな、というこれまた勝手なご都合主義で進めてしまった次第である。
何より、まだ養わないといけない弟たちがいるイケブクロの一郎と、自分の意思で寺を継ごうとしているナゴヤの空却という、今はまだ絶対に動けない(空却なんて一生)二人はどうするのかな?と想像を巡らせるのは楽しいのだ。
灼空さんも空却に何が何でも寺を継がせたいわけではなさそうだが、それもまた良かった。強制的であれば恐らく空却は“空却ではなかった”から。
そんなわけで、後編が出来た暁にはどうぞよろしくお願い致します。
……という感じでいちくう論文を締めくくりたい。