6月新刊サンプル(サンプル前半はTwitter)
〈 12月20日 〉
押し込めるようにして乗せられた車の後部座席で、癖まみれの黒髪をビョンビョンと跳ねさせる男――花垣武道はその顔に冷汗を滲ませて引きつった笑みを浮かべていた。
一方で左側の運転席に座る千冬は、淡い灰色のスーツに身を包み、精錬された男の空気を纏いハンドルに腕を預けている。車内に広がるアンバーグリスの甘いようでほのかにスモーキーな香りは、武道の記憶に残るライムシトラスの香りとは酷く離れたところにあるようで、武道はそわそわと両の手を絡め合わせた。
千冬の顔色を伺うように、バックミラー越しにチラチラと黒目を動かしては、口を開いて閉じる。そしてまたチラチラと黒目を動かしては、口を開いて閉じる。そんなことを五回も繰り返されれば、千冬の中のナニかは弾けるようにして切れた。
「……ぶっ、はは! タケミっち、なんだよその顔」
ハンドルを握る手元が狂ってしまわないように注意をしながら、千冬は吹き出すようにして笑う。突然吹き出した千冬に、ビクリと一度だけ肩を跳ねさせる武道。だがすぐに、安堵と困惑の混じったような顔で笑みを浮かべた。
「……久しぶりだな、千冬」
それでも、武道の口から飛び出したその第一声に、千冬はくつくつと笑うのをやめた。猫のそれのように大きくて丸くて、緩やかに吊り上がった瞳を少しだけ細め、まっすぐに前を見つめたまま口元に笑みを作る。
安いボロアパートのドアから無遠慮に侵入し、混乱し立ち尽くしていた自分を有無を言わさずに車へと連れ込んだ男に対しなんとも呑気な反応をするものだ。
そのことが可笑しくて、可笑しくて、おかしくて。千冬は胸の内にじんわりと広がる温もりを噛み締めた。
「……オマエは相変わらずだな」
松野千冬と花垣武道、数年ぶりの再会の瞬間だった。
千冬の運転する車がようやく停車をしたのは、走り始めてから四十分後のことだった。
見覚えのある街を抜けて郊外へ出た車は、住宅地の真ん中にある一棟のビルの駐車場で停車をした。駐車場へ入る前にチラリと見えた看板には、剥がれかけのピンク色の文字で建物の名前が記してあった。
武道と千冬にとっては縁のない……否、個々で考えれば縁がないこともないだろうが、この二人で揃って訪れるには全く縁のないはずのその建物を前に、武道は動揺を隠すことができなくなる。車を完全に停車させ降車の準備を始める千冬をジッと見つめ、武道が「……千冬?」と不安げに声をかければ、千冬はそんな武道へ黒いキャップと赤茶色のグラサンを差し出した。
「へ?」
「これ着けてから車降りろ。降りたら極力喋るなよ。オレの一歩後ろをついて来い」
「……へ?」
「じゃ、降りるぞ」
「待って」
乗せられた時と同じように有無を言わさずに車を降りていく千冬に、武道の悲痛な制止は届かなかった。
跳ね回る黒髪にキャップを被せ、困惑して揺れる瞳をグラサンで覆い隠し、武道は慌てて千冬の後を追う。そんな武道を一切気遣わずにスタスタと入り口へ向かって行く千冬に、武道の戸惑いは募るばかりだった。
ガコンと音を立ててから開く古い自動ドアをくぐり、曇りガラスで仕切られたフロントへとまっすぐに足を向ける千冬。一部だけ切り取られた曇りガラスの向こう側に座る誰だかは、歩いてくる千冬に気がつくとガラス越しでもわかるほど露骨に背筋を正し「お疲れ様です!」と元気いっぱいに挨拶をした。
「お疲れ、いつもの部屋な」
「はい、先に入られてます!」
「わかった」
ガラスの向こう側の誰だかとそんな簡素なやりとりを交わし、スッと差し出された鍵を受け取った千冬はチラリと武道を見やる。武道を見て、それからすぐ後ろのエレベーターを見て顎をしゃくる千冬に「行くぞ」と言われていることを察した武道は無言のままに頷いた。
これまた、ガコン、と音を立ててから開く古ぼけたエレベーターのドア。千冬と武道の二人が乗り込めばすぐにぎゅうぎゅうになってしまう狭い箱の中からは、無機質な機械の香りと煙草の煙の混じった匂いがした。
目的の階のボタンを押し上へと運ばれていく間、千冬は一言だって喋らなかった。
目的の階へはすぐに到着し、再度颯爽と歩き出す千冬。エレベーターを降りて右手に曲がり、慣れた手つきで突き当たりにある部屋の鍵穴に鍵を差し込んだ。
ガチャリと音がして、ドアが開いていく。武道の心臓は、ドアの開きに比例するようにドクドクとうるさく鼓動をしていた。
開かれた扉の向こうに現れたのは、なんの変哲もないラブホテルの一室だった。
重たい甘みのバニラのような匂いが鼻につく。武道はすんすんと鼻を鳴らしその香りを確認して、ここが性行為のための部屋であることをより深く理解し、より一層困惑を深めていった。
ピンク色の壁紙に真っ赤なシャンデリア、武道の家にあるものの十倍はありそうな大きなテレビ、簡易冷蔵庫、金色のローテーブル、キングサイズのベッド、と。
「だァから、テメー唐揚げ三個食ったろーが! 肉ばっか食ってんじゃねぇ‼︎」
「ハァ⁉︎ 唐揚げとローストビーフは別モンの肉だろうが‼︎」
ベッドの上に並べられた大皿を取り合うようにして怒声を張り上げる、二人の男。二人が揉み合う動きに合わせるようにしてギシギシと音を立てるスプリングは、本来ならばもっと甘く淫猥な場面で軋むものだろうに、大の男二人分の体重に悲鳴を上げているようだった。
「……へ?」
状況なんてなに一つ飲み込めず、武道はポカンと口を開けたまま呆けてしまう。だがそんな武道を横目に、千冬は大げさなため息を吐くと「もう!」と言って真っ赤なソファに乱雑に放られたダークグレーのジャケットをむんずと鷲掴みにした。
「ちょっと二人とも! 騒がないでくださいよ!」
「おー千冬おかえり」
声を荒げながらも、壁に掛かった金色のハンガーにジャケットを引っ掛けていく千冬。シワにならないように、と丁寧に裾を伸ばすその手つきと「隣に普通の客いたらどうすんすか!」と、大の男二人を叱りつける温度感がなんともちぐはぐで、武道はさらに混沌の渦に飲まれていく。
「あ、あの……」
ひとまず、被っていたキャップとサングラスを外し、武道は狼狽えるように小さな声で呼びかけた。すると。
「うおータケミっちじゃん! 久しぶりだな!」
ガバリ、と。真っ赤なソファの傍でただ立ち尽くす武道の肩に、無遠慮な腕が回された。ぴょんとベッドを飛び降りて裸足のままに武道へと駆け寄った一虎が、まるで旧知の友人のように武道と肩を組んだのだ。
きっちりとスーツを着込んでいる千冬や場地とは打って変わって、一虎は白いブルゾンにジーンズというやたらとラフな出で立ちだった。
「あ、はい……お久しぶりです、一虎くん……」
「元気してたかよ⁉︎」
「はぁ、まぁ、おかげさまで……?」
「へーよかったな! てかいつぶりだよ会うの?」
「あー……いつでしょう……?」
グイグイと武道の身体を揺さぶりながら矢継早に質問を飛ばす一虎に、武道は終始眉を下げ表情を強張らせたまま受け答えをしていく。だがふと、言葉を切った一虎はなにかを考えるようにぐるりと黒目を一周させると、肩を組んだままの武道の顔を覗き込む。
リン。と、未だそこに健在の鈴の音が鳴った。
「――……オマエが、東卍を抜けて以来だな?」
ニコリと緩やかに弧を描く口元とは裏腹に、一虎の真っ黒い瞳孔は一ミリたりとも揺らぐことなく武道の瞳を見据えていた。
武道のこめかみに、ツゥ、と冷や汗が伝い落ちていった。
花垣武道――元東京卍會の幹部にして、東京卍會が現在のような「日本の歴史上に名を残す凶悪犯罪組織」へと姿を変える直前に組織を抜けた、つまるところの「裏切り者」である。
東卍が巨大化する前に足を洗っていたことから、警察組織や裏社会の人間から標的とされることはなかったが、今日この日、武道は心の底から「死」を覚悟しここに立っていた。
東卍を抜けてからの数年間、武道は息を潜めるようにして生きていた。日々巨大化していく東卍を恐れ、逃げ出したことへの後ろめたさをずっと、ずっと抱えて生きてきた。
それでも、東卍を抜けたということに後悔の念は持ってはいなかった。そうしなければ守れないものがあった。あの時の、武道には。
「……そうです、ね」
一虎の真っ黒い瞳を見つめ返し、武道はどこか諦めたような口調でそう言った。その表情から焦りや困惑がするりと抜け落ちたことに気がついたのか、一虎は唇を引き結びほんの僅かに眉を寄せる。
「武道」
そんな武道へ、ベッドの上から言葉を飛ばしたのは場地だった。ギ、とスプリングを軋ませてベッドから足を下ろすと、一虎に肩を組まれたまま立ち尽くす武道へと歩み寄る。それからおもむろに膝の上に手を置くと、ぐっと身を低くして、武道に向かって長い黒髪を垂れ下げるようにして頭を下げた。
「――……え?」
突然の場地の行動に、武道は目を丸くして言葉を失った。
「まずは、謝らせてくれ」
「……は? え、どうしたんですか場地くん……」
「悪かった」
「え、え」
戸惑う武道をよそに、場地は淡々と言葉を続けていく。その様子を眺める千冬も、一虎も、止めることもなくただ口を引き結んでいた。
「――……橘、日向のことだ」
その名前が場地の口から飛び出したその瞬間に、武道の大きな瞳はぐらりと揺れて身体は小刻みに震え出した。
――橘日向。花垣武道の恋人にして、つい数ヶ月前に交通事故により命を落とした、今は亡き人。「暴走族グループの関与」を疑われていたが、真実は暴かれないままに時は過ぎた。それでも、武道の胸中にはずっとモヤモヤとした疑問が残っていた。
「橘日向の事件には、東京卍會が関わってる」
のではないか、と。
その予感が今、現実のものとして「事実」として、東京卍會の一員である場地の口から告げられた。武道はしばらくの間口をつぐんだままその場に立ち尽くしていたが、やがて、肩にかけられた一虎の腕を振り払う。
そして場地へと歩み寄り、膝に手をついて頭を下げる場地の胸ぐらを掴み上げた。
「……っ」
ガツン、と。場地の頬へ武道の拳が打ち込まれる音だけが、広い部屋の中に響き渡った。だが千冬も一虎も、場地ですら身じろぎ一つせずにただ武道の行動を受け入れる。
「なんで……っ、ヒナを」
武道はその大きな瞳に涙を浮かべ、震える手で場地の身体を揺さぶった。
「なんで、殺したんだよ……⁉︎」
そう言って声を震わせる武道に、場地はなにも答えない。
「アイツは関係ねーだろ⁉︎ 殺すなら、オレじゃないんすか⁉︎ なんで、ヒナが」
ぼろり、と大きな水滴が瞬きの拍子に武道の瞳から流れ落ちて、場地は柔く唇を噛み締める。それでもなにも答えずにただ武道を見つめる場地に、武道は再度拳を振り上げた。
「タケミっち」
そんな武道の手を止めたのは千冬だった。振り上げられた武道の手を捕まえた千冬は、ぐっと眉を寄せ目元をクシャリと歪ませて、武道のことを見つめた。
「……場地さんも、オレたちも、ヒナちゃんのことを知ったのは……ヒナちゃんが殺されてからだ」
場地の視線が千冬へと向けられる。まるで「余計なことは言うな」とでも釘を刺すようなその視線に気がつかない振りをして、千冬は武道の頬に伝う涙から決して目を離さないままに、言葉を続けた。
「それを知って、場地さんはドラケンくんと一緒にマイキーくんのとこに行ったんだ」
「……」
「でも、まともに取り合ってもらえなかった。マイキーくんは……変わっちまった。場地さんはそん時マイキーくんのことぶん殴っちまったから、それ以来マイキーくんには接近させてもらえなくなって」
「え……?」
千冬のその言葉に、場地の胸ぐらを掴んでいた武道の手から力が抜け落ちる。場地は殴られた頬を手の甲で拭い、体勢を直し真っ直ぐに背筋を伸ばし、それでもなお武道を見据えた。
「……先週、そんな場地さんと、ドラケンくんにマイキーくんからの呼び出しがかかった」
「……」
「場地さんは、その呼び出しに応じなかったんだ。でもドラケンくんは、一人でマイキーくんのところに行った」
武道の腕を掴んだままの千冬の手が震える。その震えを不思議そうに、それでもなにかを察するように、武道は喉仏を上下させ唾液を飲み込んだ。
「…………ドラケンくんは死んだ。マイキーくんに、殺された」
重量のある鈍器で、後頭部を思い切りに殴られたかのような衝撃があった。武道は息を飲むことすら忘れて唇を震わせ、流れる涙を拭うこともせずに千冬の言葉の続きを待つ。
「だから、オレたちは」
そこまで言って、千冬は一度言葉を切る。躊躇っているのではない。強く宿した意思を噛み締めるかのように奥歯を合わせ、すぅと深く息を吸った。
「――……東卍を抜ける」
まさに、青天の霹靂だった。予想だにしていなかった告白に、武道は瞳を見開いて千冬、場地、そして一虎を順に見やる。東京卍會を抜ける? そんなこと、出来るはずが、許されるはずがない。
東卍が巨大化する前に足を洗った武道とはなにもかもが違うのだ。状況も立場も――犯してきた罪の数も、きっと。
「そんな、こと」
出来るはずがない。
武道の言わんとする言葉を察したのだろう。千冬は少しだけ困ったように笑い「まぁ、今日、今すぐにってわけじゃねーよ」と言って掴んだままにしていた武道の腕を解放した。
「でも近いうちにそうするつもりだ。今はその準備中ってところで」
「……それで、なんでオレを、ここに連れてきたんだよ?」
この部屋に連れ込まれた時から、否、ボロいアパートの部屋に突然千冬が押しかけてきた時から抱いていた疑問を口にする武道。てっきり、数年前の裏切りの報復を受けるものだとばかり思っていた。だがそうではないのなら、彼らが東卍を抜けるのならば、どうして今更自分に接触をしてきたのか。
疑問は有り余るほどにある。
その問いかけに対し、千冬の代わりに口を開いたのは一虎だった。
「ま、その点じゃオマエはオレらの先輩だからな」
言いながら武道の隣に並び立ち、場地や千冬へ「なっ」とばかりに笑いかける一虎。未だ疑問符を頭上に掲げたままの武道は、頬に跡を残す涙を拭い取り、ゆるりと首を傾げた。
「武道、オレらに協力してくれ」
それから、場地の口から飛び出した言葉に。
「……はぁ⁉︎⁉︎」
素っ頓狂な武道の声が、頭上で輝く真っ赤なシャンデリアをかすかに揺らした。
「オレが、協力……?」
「おう」
「い、いやいや、いや……は? なに言ってんすか場地くん、オレは」
「おう」
「もうとっくに東卍を抜けてる、ただの一般人すよ……?」
「知ってる」
なんでもないかのようにそう言った場地に、武道はさらに困惑を深めていく。それもそのはずだった。どこからどう見ても普通の、いや、普通よりも下ラインの生き方をしている今の武道には、当然財力もなければ有力な人脈もなにもない。
どうしてそんな自分にこの三人が助けを乞うのか。武道には、全くもって理解不能であった。
「……どう考えても頼る人間間違えてますよ。オレには……なにもできません」
グラグラと瞳を揺らしつつそう言った武道に、場地はそれ以上なにも言わなかった。数秒、数十秒、音のない時間が続く。そのうちに、武道の中に新たな疑惑が生まれ出る。
――もしかして、ここで断ったら、真実を知る者としてこのまま殺されたりするんじゃないか。
そんな、疑惑が。
だが、首を縦に振ったところで、やはりなにをどう転がして回転させて考えてみても、武道が協力をすることによって得られるものなどなにもないように思えた。
結果、武道は再度ダラリと冷や汗を垂れ流し、息を潜めてその場に立ち尽くすことしかできなかった。
「……とにかく一旦、オマエにはオレらと一緒に行動してもらう」
ようやく訪れた無言の時間の終わり。それは、場地のそんな一言によってもたらされた。なんの回答にもなっていないその言葉に、武道は再度反論のために口を開く。
その、次の瞬間のことだった。
ダダダン、バタン。と、思わず肩を揺らしてしまうような大きな足音のすぐ後に、部屋の扉が勢いよく開かれた。武道は「ヒェ⁉︎」という情けない声とともにそんな扉を振り返り、場地、千冬、一虎の三人は揃って懐へ右手を突っ込んだ。
「っすいません失礼します! あの……っ」
部屋に駆け込んできたガラの悪い一人の青年は、扉を開けるや否や、どこか聞き覚えのある声で焦ったように話し始めた。
「黒川派の、奴らが……‼︎」
青年のその一言で、部屋の中に流れる空気が一瞬にして重苦しいものに変わるのがわかった。鋭く舌打ちをした場地はつい数分前に千冬が丁寧にシワを伸ばしていたジャケットに手をかけて、乱雑な手つきでそれを羽織る。
「わかった、今降りる」
青年にそう返答をした千冬はチラリと武道を見やると、武道の足元に落ちたキャップとサングラスを拾い上げ、武道の手にそれを押しつける。「え? え?」とただ困惑をする武道に「つけとけ」とだけ手短に伝え、千冬はネクタイを締め直し深く息を吐いた。
「どーすんのコイツ」
「タケミっち、絶対に一言も喋るなよ。なんにも言わねーでオレらの後ろに立ってろ」
「下っ端感出せよ……って、なんもしなくても出てっか!」
千冬の言葉に続くように悪意のある声色でそう言った一虎に憤慨する暇もなく、青年の押さえる扉から廊下へと飛び出す場地に続いて部屋を出される武道。部屋を出る瞬間、千冬に「これ持っとけ」と場地のものらしきカバンを押しつけられれば、武道の佇まいは完全に「下っ端構成員のそれ」になった。
わけもわからないまま、ここへ来た時と同じようにエレベーターに押し込まれ、鼻につく濃い煙草の煙の匂いに全身を包まれる。
登って来た時とは違い、四人でぎゅうぎゅうになって乗り込むエレベーターはとにかく狭かった。
ガコン、と音がしてエレベーターの扉が開く。先刻見たばかりのフロント。だがそこに見える光景は、全く違うものへと変わっていた。
人の気配すらなかった寂れたフロントに、数十人の男が詰め込まれるようにして並んでいた。どの男を見ても、身体や顔にタトゥーを携えていたり、数え切れないほどのピアスをぶら下げている。
どこからどう見たって、堅気の人間ではない。
そんな男たちを率いるようにして、先頭に立つ二人の男。武道はハッとする。その二人には見覚えがあった。
「おーっと、こんな真昼間から三人で仲良くしけこんでたのか? いいご身分だな?」
からかうような口調でそう言いながら両手を広げ、エレベーターに向かって数歩歩み寄るその男。鋭くつり上がった切れ長の三白眼に、特徴的な髪型。テラリと赤く光る舌で自身の唇を舐めつけるその仕草にも、覚えがある。
「九井。なんだよ、こんなところまで」
――九井一。かつて、武道が場地から譲り受け、率いていた東京卍會一番隊に属していた男だった。その一歩後ろで場地や千冬を睨みつける男――乾青宗もまた、同じく壱番隊に属していた一人だ。
「なんだ? じゃねぇだろ? わかってるよな、場地」
「……呼び出しすっぽかしたことか? 悪りィな、すっかり頭から抜けちまってたワ」
「ボスからの呼び出しをすっぽかすたぁ、いい度胸してんな?」
「悪かったっつってンだろ。でもよぉそもそも、接近禁止出したのはマイキーの方だろうが、オレはそれに従っただけだぜ」
「ハハ、嫌味ったらしいな? マイキーに危害加えたんだ、当たり前だろうが」
口元に笑みを浮かべたまま歩み寄ってくる九井に、我先にと千冬が勇足で前へと躍り出ようとする。だがそんな千冬の前に片手を差し出し制すと、場地は九井と対峙をするようにエレベーターを降りた。
近距離で睨み合う二人に、その背後に控える乾、そして千冬と一虎の間にも緊張が走る。今、指先を少しでも動かせば、一斉に全ての敵意を引きつけてしまいそうだ。そんなことを考えながら身を固める武道は、腕の中の場地の鞄を強く抱き締めた。
「それにオレぁ、あの店の中華は好きじゃねェんだよ」
「へぇ。まぁ確かに、あの店は味が濃いからな」
「別の店でってんなら、腹割って話してやってもいいぜ」
「はは、そうかよ。ちょうどいいな、オレもオマエと腹割って話したいと思ってたぜ、場地」
「はっ、じゃあお誘い待ってるぜ」
他愛のない雑談が、その場にいる全員の背筋に緊張を走らせる。場地と九井はそれぞれ緩やかな笑みを口元に携えてはいるが、その瞳は決して穏やかではない。武道は静かに固唾を吞み、喉仏を上下させた。
「……とにかく一緒に来てもらうぞ、場地。オマエに用があるんだとよ」
九井は言いながら後ろ手になにかの合図を送る。それに合わせて動く背後の男たち。自動ドアを無理矢理に手で押さえつけると、モーゼの海割りのように九井たちの通る道を開いた。
クイ、と顎をしゃくり、九井は場地を促す。だが場地は頑としてその場から動かない。ジャケットのポケットに両手を突っ込んだまま太々しく九井を見つめると、やがて高圧的に顎を上向け、言った。
「断る」
ピン、と。糸が張り詰めるようにして空気が凍りつくのを感じた。場地の一言を聞き届けた瞬間に懐へ手を伸ばした乾に倣うように、千冬も同じ行動を取る。「やめろ」九井と場地の制止が重なり合った。
「……断れる立場じゃねぇのは、わかってるよな?」
「あ? わかンねーよ」
「馬鹿も大概にしておけよ」
「テメェ」
「黙ってろ千冬」
「……っす」
「用があんならそっちから来いよ、ってマイキーに伝えとけ」
そうとだけ言い、場地はくるりと踵を返しホテルの奥に向かって歩き始める。おそらくは裏口に向かっているんだろう。最後に一度だけ九井を睨みつけた千冬も同じように場地の後に続き、呆然としていた武道の膝裏に一虎の蹴りが入れられた。
「さっさと行けや」
ぶっきら棒にそう言われ、武道は声を出さずに首だけで頷いて見せる。おずおずと場地と千冬の後を追う武道を確認すると、一虎は「リン」と鈴の音を響かせて九井へ背中を向けた。
「……いいのか、ココ」
去っていく場地たちの背中を静かに見つめる九井に、乾はそう問いかけた。色素の薄い瞳をスッと細めて眉を寄せる乾には視線を返さず、九井は再度自身の唇を舐めつける。
「いい。ここで揉め事起こす訳にもにかねぇからな……それに」
九井の視線の先。情けなく背中を丸め、小走りで場地と千冬の後を追う荷物持ちの男。
「元上司に免じて、な」
バタン。
勢いよく閉じられる車のドア。後部座席に転がり込むようにして乗り込んだ武道は、それまで息を止めていたのか、途端に「っぁあ〜」と言って深く息をついた。
「めんどくせぇことになったな」
「誰かが情報流しやがりましたね」
運転席に乗り込んだ千冬と、助手席に乗り込んだ場地はそう話しながら手早く発進の準備を進めていく。少し遅れて後部座席、武道の隣へと乗り込んできた一虎はどっかりとシートへ背中を預け「秒でバレたな〜」と笑っていた。
「っあー……クソ、アイツらぜってぇ黒川の命令で動いてンよな」
「っすね」
ガシガシと髪を掻き毟り、場地は苛立ったように内ポケットからシガーケースを取り出す。それを見逃さなかった千冬はすかさずジッポを取り出して場地の口元に持っていくと「どうぞ」と言ってジッポに火を点けた。
煙草の先端をじっくりと炙り、それから深く吸い込んで煙を吐き出す場地。「ん?」と千冬に向かって吸い口を差し出せば「いただきます」と、車を発進させながら、千冬は吸い口に唇をつけた。
瞬間、車内には重厚な煙の香りが充満していく。樹木を思わせるような深く濃厚な香りは、やはり嗅ぎ慣れないものだった。武道は、あの頃、場地の長い黒髪から漂っていたよく知った市販のシャンプーの香りを思い出していた。
「場地ぃ、オレにも一本」
「ん」
「サンキュー」
後部座席から身を乗り出して、場地の手からシガーケースを受け取った一虎は唇にそれを挟み「ひふう〜」と声を上げる。その声の意図に即座に気がついたらしい千冬は「今運転中だから無理っす」と一虎の甘えを叩き落とした。
「ふめへ〜」
不満げに眉を寄せ、一虎は渋々といった様子で自身のブルゾンのポケットからオイルライターを取り出す。片手で適当に煙草に火をつけて、少しだけ開けた車の窓から外へと逃すようにして煙を吐き出した。
そのまま、一虎の咥えた煙草が丸々一本吸い終わるだけの時間、誰一人として一言も言葉を発さなかった。なにかを考えている故の空白の時間なのか、あるいは。
「…………あ、の」
重々しい口を開き、初めにそんな空気を切り裂いたのは武道だ。吸い殻を車の窓から投げ捨てる一虎は横目だけで武道を見やり、バックミラー越しに場地と武道の視線がかち合った。
「オレは……これからどこに……?」
武道が口にした問いかけに、少しだけ考えるように口をつぐんでから、場地が答える。
「ウチ」
「ウチ⁉︎」
「おう」
「え、いや、あの……帰してもらえたりって……」
伺うように怖々と問いかける武道。だが察す、そんなことしてもらえるはずがないのだと。誰からももらえない返答に、武道が「はは……」と乾いた笑い声を漏らせば、やがて窓の淵に肘をついて外を眺める一虎が言った。
「逆に帰んねー方がいいと思うけど、今は」
「え」
「オマエとオレら一緒にいたのバレてっし、多分」
「でも、変装して」
「オマエのその情けねーオーラはそんなもんじゃ隠せねーよ」
「……嘘でしょ」
窓の外を流れる景色が次第に都会の喧騒を取り戻し、車体の揺れに眠気を誘われた一虎が武道の肩に頭を預け始めた頃、車はとある建物の下に停車をした。
そこはまさに、武道がこれまでの人生で足を踏み入れたことのないほどの高さで聳え立つ、高層マンションだった。おそらくこういったマンションを〝億ション〟と言うのだろう。武道は初めて足を踏み入れる億ションを前にして、一瞬だけ状況を忘れその瞳を輝かせた。
「う、ぉおおおおー……すげぇ」
床や壁、柱など全てが大理石で作られ、重厚な絨毯が敷かれた上を靴屋のワゴンセールで購入した一二五〇円のスニーカーで歩む。あまりの場違いさに終始身体を縮こまらせる武道に、クスリと小さく笑った千冬は「そんな身構えるなよ」と言って丸くなった背中を叩いた。
あの小さく窮屈だったエレベーターとは打って変わり、広々としていてほのかにアロマの香りが漂うエレベーターへと足を踏み入れた武道。どこかで嗅いだことのあるようなその匂いに思考を巡らせて、ショッピングモールの中に入っていた印の無い良品店と同じ香りだと思いつく。
「ここだ、入れよ」
エレベーター内のパネルに指を押し当てる千冬を見つめながら身体を持ち上げられていき、到着したその場所。同じ階には他の部屋の存在はないらしく、だだっ広い廊下に大きな扉が一つ。それだけしか見えない。
足元には、毛足の短いダークブラウンの絨毯が敷かれている。自宅、というよりもホテルや旅館に近いと感じられる内装に、武道は感嘆の息を漏らした。
扉にはエレベーター内にあったものと同じパネルが取りつけられていて、千冬はその上に人差し指を押しつける。すると数秒の後に、扉から「ガチャリ」と解錠音がした。
「指紋認証かよ⁉︎ すげぇ!」
「まぁな」
「うっわ玄関ひっろ、ここだけでオレんちより広いんじゃねぇ⁉︎」
「うるせーな、早く入れよ」
玄関扉をくぐり、黒いタイルの玄関へ足を踏み入れる武道。武道を急かした千冬は続く場地のために扉を押さえたまま「靴脱いで、適当に上がって」と武道の萎縮などそっちのけで声をかけた。
靴を脱ぐことも忘れ瞳を輝かせる武道をよそに、場地と一虎は「ただいまー」と慣れたように室内へ入っていく。適当に脱ぎ捨てられた革靴が黒光りするタイルの上に転がっている様子はなんとも不恰好だった。
「ほら、入れって」
千冬に背を押され、武道はいそいそと靴を脱ぎ玄関へと上がる。靴下の裏で踏みつけるフローロングの感触でさえ知っているそれとは違うようにも思えて、一歩歩くたびに緊張が走った。
六畳一間のアパートに住む武道からしてみれば、目に入るものなにもかもが非日常に包まれていてまるでテーマパークにでも来たかのような心持ちなんだろう。玄関横に備えついた扉を見やり「ここは?」と問いかける武道に、一虎は「シューズクローク」とどこか得意げに答えていた。
「靴入れだけでこんなドアついてんのかよ⁉︎ はァーー意味わかんねーな」
「トイレも風呂も二個ずつあっし、ベッドルームには専用の洗面台もある」
「ウワーーーー」
「別にここ一虎くんちじゃないでしょ」
「オレんちもこの真下だし、ほぼオレんちみたいなもんじゃん」
さも自分の家かのように鼻高々に受け答えをする一虎を見かねた千冬が声をかければ、一虎は真下を指しながらそう言って「こいよ」と武道の手を引いた。自分の家がどれだけすごいのかを自慢したくてたまらない子供のような行動に、革靴を脱ぎ捨てたばかりの場地は呆れたように笑っていた。
玄関から続く廊下の先にあるシックな黒いドアを開ければ、その先にはリビングが広がっている。武道ではその広さは測りかねてしまうが、武道の部屋三つ分は悠に超えているだろう。足元に広がる白い大理石に反射する光の粒を見つけた武道が顔を上げれば、天井からぶら下がるシャンデリアがその頭頂部を煌々と照らしていた。
リビングに入ってすぐ右手には、広々としたオープンキッチン。そのキッチンを超えた向こうには、つい先刻のホテルのテレビなど目ではないほどの大きさの液晶テレビ。ガラス天板のローテーブルを取り囲むようにして設置された黒い革張りのソファ。両手を広げたって到底足りないほどに面の広いガラス窓からは、いくつもの高層ビルの頭頂部を見下ろせた。
「ここで、暮らしてんのかよ……」
「慣れりゃ普通だよ」
「普通じゃねーよ……」
ほんの一瞬だけ、武道の脳内に「あのまま東卍にいたならば自分も」なんて、生々しい未練が顔を出す。それを振り払うように首を振って、武道はするりと視線を落とした。
「なんか……」
ポツリ、武道が呟いた。
「モデルルーム、みたいだな」
武道は、あの頃の千冬や場地の生活をよく知っている。地区数十年の古い団地の一室は、常に動物雑誌や飲みかけのコーラや食べ終わったペヤングの容器が転がる生活味のある空間だった。それがどうだろう。今武道の前に広がるこの部屋は、到底あの頃にはなかった広さや豪華さを持ってはいても、ここで人が生活しているのだという生活味が一切感じられなかった。
まるで、生きているのに死んでいるような。
「さみしい部屋だろ」
武道の思考を見透かしたように、千冬が言った。武道と一虎よりも少し遅れてリビングにやってきた千冬と場地は、脱いだスーツをリビングに入って左手にあるコートハンガーにかけていく。
「……いつなにがあってもいいように、物は持たないようにしてるからな」
次いでスリーピーススーツのベストも同じようにハンガーにかけ、千冬はきっちりと上まで締めていたネクタイを緩めた。
「……そっか」
〝いつなにがあってもいいように〟その一言だけで、武道はこれまでの千冬や場地の歩んできた人生の一端を垣間見たような気になった。武道が東卍を抜けてから、もうすでに五年以上の時が経つ。噂には聞いていた、テレビのニュースで見かけることもあった。だが、いざこうして「自分が置いていった仲間たち」の半生を覗き見てしまえば、武道の中にえもいわれぬ気持ちが湧き上がってきた。
ワイシャツのボタンを外し、息苦しさから解放されるとガラス天板のローテーブルの上に転がっている煙草の箱へと手を伸ばす千冬。中から一本を取り出して口に咥え、同じくテーブルの上に転がっていたマッチで火を灯す。唇の間に燻る煙草を咥えたまま室内を歩き回る千冬に、場地も一虎も、咎めるようなことはしない。きっとこれが日常の風景なんだろう、と武道は言葉を飲んだ。
「タケミっち、軟水と硬水どっちがいい?」
それから、煙草を唇に挟んだままの千冬は業務用かと思えるほどの大きさを持つ真っ黒い冷蔵庫に向かっていく。バコン、と音を立てて開いた冷蔵庫の中身も、ほとんどがミネラルウォーターや酒類ばかりで、食材という食材は常備されていないようだった。
「へ……?」
「水」
「あ、あー……どっちでもいい、かな」
「ん」
冷蔵庫から青いパッケージの見慣れないミネラルウォーターを取り出し、武道へと投げ渡す千冬。豪速球のように飛んできたそれをなんとか受け止めて、武道は「ありがとう……」と弱々しく感謝を伝えた。
「……」
立ち尽くし、ミネラルウォーターを握る武道。
本日何度目かもわからない無言の時間が流れていく。千冬が煙草を燻らせたことを察知した空気清浄機がせっせと稼働をする音と、それに追い討ちをかけるように一虎が煙草を吸い始める呼吸音と、武道がちびちびとミネラルウォーターをすする音しか聞こえない、ペントハウスのリビングルーム。
「タケミっちこいよ、部屋案内するわ」
そんな武道を見かねたのか、千冬が顎先で武道を促す。ようやくこの嫌に緊張感のある空間から離れられる口実ができたと、武道は安堵感を噛み締めながら千冬の背中を追った。
「上は……作業場? 書斎? っつーのかな、になってる」
吹き抜けになっているリビングの天井を見上げれば、メゾネット構造になっている二階部分が見えた。その部分だけを見てもやはり武道の住む家の何倍もの面積があるようで「ヒェ〜」と小さく悲鳴を上げる武道。だが千冬はなんでもないように、スタスタと先へ進んで行ってしまった。
「ここが風呂」
「こっちはトイレ」
次から次へと扉を開けて武道へ説明をする千冬に、武道は「風呂ひろっ、ジャグジーついてんの!?」「これでトイレかよ!?」と逐一感想を述べる。千冬はそれに「うるさいな」とばかりに顔をしかめ、サクサクと案内を終わらせて次の部屋へと向かっていく。
「んで、ここが寝室で、そっちが予備の寝室。まぁ、物置みてーになってるけど」
ダークグレーのダブルサイズベッドが収まる寝室その一と、シワ一つない真っ白なシーツのダブルサイズベッドが収まった寝室その二。武道はその二室を交互に見やると「……まじ?」と口を半開きにした。
「このドアは?」
「そこはクローゼット」
「はぁ⁉︎ クローゼットの広さじゃねーだろ!」
驚きが怒りへと変換されたのか、声を荒げ開けたばかりのウォークインクローゼットのドアを閉ざす武道。千冬は「ドア壊れんだろーが!」と声を荒げ返すが、その表情はどこか楽しげにも見えた。
「タケミっち〜、千冬〜、こっち来いよ、なんか食べもん頼むから」
そんな調子でルームツアーを続けていれば、やがて一虎の声が二人を呼んだ。千冬はその声に「はーい」と返答を返すと、武道の腕を取る。
「行こうぜ」
千冬に腕を引かれ、武道はその表情に忘れかけていた緊張を取り戻す。そしてリビングへと戻されると、窓から差し込む陽の光に照らされた黒いソファへと足を向けた。
「――……で、だ。これからのことだけどよ」
千冬が用意をしたミネラルウォーター入りのグラスをそれぞれ手に持って、広すぎるソファに点々と腰かけた武道、千冬、一虎は場地の言葉に一斉に耳を澄ます。場地はぐい、と冷えた水を喉奥に流し込むとグラスから口を離し、唇を濡らす水滴と親指で拭いとった。
武道は両肩をプレス機で押し潰されるかのような肩身の狭さを感じつつ、背筋を伸ばしソファに腰かけ続けた。
「――……武道」
一虎と共に煙草を嗜んでいた場地が、不意に、武道を呼んだ。その瞬間身体全体を上に小さく跳ねさせて「っはい」と返答をする武道。場地は肺の中に溜めた煙を天井に向かって吐き出すと、チラリと千冬に視線をやり、言った。
「しばらくウチにいろ」
「ぅ、え、でも」
今ここで「いきなり連れ去られて、いきなりそんなこと言われても困るんすけど!」と言ってしまえたならばどれだけいいだろう。だが武道は、そんなことを言うだけの度胸も図々しさも持ち合わせてはいない。
「寝泊りは下の一虎んちな」
場地は淡々とした口調でそう告げた。
「……」
どうしてもそうしなくてはいけないのか、というタケミチの困惑を察した場地は、諭すような口調で言う。
「さっき一虎も言ってたろ? オマエがオレらと一緒にいたのは多分バレてる。家に戻るほーがあぶねーぞ」
「う……」
「ウチなら、オレらが許可した奴以外は入れねェようになってるし、バレたところでアイツらはどうにもできねーから」
「そ、そもそも、オレが場地くんたちといたことがバレてなんか不都合ってあるんですかね? オレはとっくに東卍抜けてるし、場地くんたちだってまだ、東卍を抜けたわけじゃないんすよね?」
武道からの問いかけに、場地は眉根を寄せて黙り込む。その沈黙に恐怖を感じながらも、武道はただ場地からの次の言葉を待った。
「……オレらが東卍を抜けようと考えてることは、もう上の奴らは勘づいてる」
「え」
「だからさっきもオレら三人がただ寄り集まってただけで九井が押しかけてきただろ、オレらが東卍を抜ける工作をするために人と会ってんじゃねェかって疑ったんだ」
「人と……って、でもオレですよ?」
やはりどうしても、武道には理解ができなかった。なぜ東卍を抜けようと目論む三人が、しがないレンタルビデオ屋勤務の今の武道を呼び立てたのか。なぜ武道に協力を要請したのか、が。
わからなかった。
「……タケミっち、オマエは、オマエ自身が思ってるよりも東卍にとって大きな存在なんだよ」
すると千冬が武道の困惑に寄り添うようにしてそう言った。テーブルの上にグラスを預け、まっすぐに武道を見据える千冬の瞳からは「嘘」や「おべっか」の色は覗いていなかった。そのことがより、武道の混迷を深めていく。
「東卍……っていうよりかは、マイキーくんにとってかもな」
自分の言葉につけ加えるように言って、千冬はそれきり口を閉ざしてしまった。日本の闇を牛耳る東京卍會の佐野万次郎にとって「花垣武道」という、ただ一時期同じ組織に所属していただけのなんの取り柄もない男が、大きな存在? 武道は自身の頭を抱え込んでしまいたくなる衝動を抑え込む。
――ますます意味がわからない。
つい数十分前まで家の広さについて饒舌に語っていた一虎でさえ口を閉ざしてしまい、四人はただ音のない時間の中で呼吸だけをくり返す。
「……オレは昔から、わかんなかったんです」
やがて、口を開いたのは武道だった。
ソファの背もたれから背中を引きはがし、前のめりにうなだれる武道は、震えそうになる両手を鎮めるために合掌の形をとる。昔からいつもそうだった。これを口に出すことは、ひどく恐ろしい。
「どうして、オレが」
――prrrr
びくり。武道の両肩が大げさに跳ねる。突如として鳴り響いた着信音は武道の心臓を喉元にまで押し上げてしまって、武道はなんとかそれを唾液と一緒に身体の中へと落とし込んだ。
「あ? 着いたか? ご苦労さん。おう、いつものとこ置いとけ」
着信音を鳴り響かせたスマホをソファの上から拾い上げた千冬は、スピーカー口に耳を押し当てると淡々とした口ぶりでなにやら指示を出していく。その言葉を聞いて事を察したらしい一虎がソファから腰を上げ「オレ取ってくるわ〜」と言いながらリビングをあとにした。
「……なに?」
「メシ、届いた。とりあえずなんか食って、それから話そうぜ」
通話を終えた千冬は再度ソファの上へスマホを放り投げて、武道に向かってニッと笑顔を見せる。昔となんら変わらないその笑顔に安堵を感じた武道は、震えを止めた両手を解いていった。
「ハラ減ったなァ」
「場地さんさっき一虎くんとホテルでメシ食ってたじゃないすか」
「ほぼ食えてねーよ、九井の邪魔が入ったせいでな」
「タケミっち食えねーもんないよな? あっても関係ねーけど」
「じゃあ聞くなよ……」
食料を取りに向かった一虎が両手に大量のピザの箱を抱えて戻る頃には、武道の中にあった混迷の色は少しばかり抜け落ちていた。
◇
「んじゃ、オマエはここ使えよ。オレは向かい側の部屋で寝てっから」
食料と一緒に調達していたらしいグレーのスウェットを胸に抱えたまま、武道は案内された部屋のドア前で立ち尽くす。恐る恐るドアノブを回し室内をチェックすれば、そこにはセミダブルのベッドが部屋の中央に設置されていた。部屋の中央にベッドなんて、ホテルでしか見たことのない光景だ。
壁についた照明、ブラケットの灯りのみに照らされる寝室はなんともロマンチックな雰囲気に包まれていて、だがこの寝室で眠るのは武道ひとりで、なんとも言えぬ「むなしい……」という思いに駆られる武道。
「なに」
「いや、すげーいい雰囲気の部屋なのに、一人で寝るのってなんか……」
「は? ……ア⁉︎ 一緒に寝るとかマジでねぇからな!」
「ちが! そういう意味じゃねぇっすよ!」
武道の言葉を「遠回しなお誘い」として受け取ったのか、一虎は眉を寄せ武道から距離を取るように数歩後ずさる。それに即座に否定を飛ばし、武道は大人しく寝室へと足を踏み入れた。
バタン。と大きな音を立てて、乱暴に閉じられる寝室のドア。怪訝そうに眉を寄せたままの一虎がドアを蹴り閉じた音だった。
「はァーーーー……」
武道は解けずじまいだった誤解を心に引っかけたまま、大きなため息とともにベッドへと沈み込む。背中を包み込むようなマットレスの柔らかさが心地いい。ここ半日の騒動がどっと全身へ押し寄せて、武道は緞帳のように下りていくまぶたを上へと引き戻すことができなくなった。
――今日一日で、たくさんのことがあった。ここまでの数年の平穏が嘘のように。いや、オレの平穏なんてもう、とっくに……。
「タケミチくん」
あの笑顔が日常から消えたその日から、もう。
〝「場地さんもオレたちも、ヒナちゃんのことを知ったのは……ヒナちゃんが殺されてからだ」〟
クッ、と喉に酸素が突っかかり、気道が狭まるのがわかった。喉仏が痙攣を起こして、武道自身の意思ではもうどうすることもできない。胃酸が逆流して舌根を焼き、目頭に火種を押しつけられたかのような痛みが走る。
「……っく、ふ、ぅ……う、う」
ヒナ。音にはならないこえで、名前を呼んだ。
〝「それを知って、場地さんはドラケンくんと一緒にマイキーくんのとこに行ったんだ」〟
ヒナ。
〝「でも、まともに取り合ってもらえなかった。マイキーくんは……変わっちまった」〟
ごめん。
〝「…………ドラケンくんは死んだ。マイキーくんに、殺された」〟
マイキーくん。
どうして。
「東卍を抜けさせてください、マイキーくん」
そう言って砂塵にまみれた地面に額を押し当てた日のことを、今でもはっきりと覚えている。短く切りそろえられた色素の薄い髪に春風をまとい、黒曜石のような瞳を武道へと向けた万次郎の姿も、はっきりと覚えている。
「なんでだよ、タケミっち」
死すら覚悟をしていた。思えばあの頃から、万次郎には「予兆」があった。言葉では形容できない黒い靄をまといつつある万次郎に、誰もが気がついていた。だからこそ武道も、黒い靄に喰らい殺される覚悟を持ってあの日あの場所へ足を運んだ。
「……オレは、ここにはいられません」
「なんで?」
「東卍はこれからもっと……大きくなっていきますよね、そうなった時にオレは……オレ、は」
「うん」
「……ヒナと、生きたいんです」
あの時、万次郎は一体どんな顔をしたんだろう。惨めったらしく地面を見つめていた武道には、その記憶がない。それでも武道の後頭部に降っておりてきた言葉は、今でも武道の鼓膜にこびりついている。
「……オレとの、約束は?」
まるで空の貝殻に耳を押し当てているかのような、空虚な言葉だった。
「……やく、そく?」
震える身体に鞭を打って顔をあげた武道の視線の先で、万次郎は口の端をゆるく持ちあげて笑っていた。まるで中身のない貼りつけられた笑みは、武道の背筋に冷えた水滴を滴り落とした。
「……タケミっちも、オレの前からいなくなるんだな」
覚えているのは、そこまで。
そのあとのことは、正直よく覚えてはいない。だが聞いた話によれば、武道は意識を失うまで万次郎の手によって殴り倒されたらしい。頭蓋骨にヒビ、あばらは三本折れ、前歯が一本欠けた。やたらと真白く輝いている前歯の一本はその時に失ったもので、今はインプラントを埋め込んである。
近くで待機をしていた龍宮寺と場地が止めに入ったことで武道は命からがらその場から助け出されたが、その二人の助けが入らなければ死んでいてもおかしくはなかっただろう。
「タケミっち、あとのことはこっちでなんとかする。オマエはとにかく、もう二度と東卍に近づくな」
「しばらくはどっかに身を隠してもいいかもな」
「オレらの連絡先も全部消せ、なんなら携帯ごと変えて、住所も変えろよ」
数日後、無事に意識を取り戻した武道へ、龍宮寺、三ツ谷、場地はそう言った。それが最後の会話だった。
「……オレは場地さんについていく。だからもうオマエとは……ここまでだな。じゃあな、タケミっち。ヒナちゃんと幸せになれよ」
武道が千冬を見たのも、それが最後だった。
それから一年、武道は助言の通りに東京を離れ郊外の町で暮らした。東京卍會に残った友人たちとは一切の連絡を断ち、目立つ行動を避けひっそりと生きた。日向と共に送る穏やかな日々は「幸せ」そのものの形をしていて、そんな幸せの型にはめ込むような生活を送るうちに、武道は次第に危機感や恐怖心の形を忘れていった。
そうして東京に戻り、武道は日向との生活を続行した。だが薄れてしまった危機感や恐怖心は慢心や怠惰へと繋がり、武道はあの日
「もう、タケミチくんなんか知らない!」
日向と些細なことで喧嘩をした。
家を飛び出した日向を追うことすらせずに「ああどうしよう」とうろたえていただけの武道は、その数時間後に受け取ることになった。
「タケミチくん、おちついて、聞いてください」
「姉が――事故で……っ」
橘日向の、訃報を。
(サンプル終了)