進捗 目を開けると、まずカーテンの隙間から伸びる細い光の筋が目に入った。違和感とともに、ぱっと身体を起こす。そのときついた手に伝わるマットレスの柔らかさも、違和感をさらに濃くした。昨夜、寝るために入ったのは、二段ベッドがずらりと並んだだけの部屋だ。「箱」のような部屋に、カーテンなんてお上品なものはない。太陽が昇れば、否応なしに陽の光に起こされるのが日課である。今朝も、同じことを繰り返すはずだった。少年の違和感は、ひとつの疑問に集約された。
──ここはどこだ?
ドクンドクンと、心臓が血液を通して全身に警鐘を鳴らさんと脈打つ。さながらレーダーのごとく、視線だけをぐるりと室内に巡らせる。夜空を思わせるネイビーのカーテンのかかった窓、数人が座ることが想定されたL字型のソファーとその中心にある滑らかな光沢のテーブル、その上に置かれた、オレンジの花が活けられた花瓶、ビーチの砂のように白い壁にかかる絵画──そこまで視線を動かして、少年は目を伏せた。室内の色鮮やかさに、眩暈がしたのだ。
昨日まで過ごしていた収容所では白と灰色、それらが溶け込むほどの闇ばかりを目にしていた。この豪奢な部屋に見劣りしないものと言えば、空と友人の瞳くらいのものだ。「また、会おうぜ」少しだけ細くなった青い瞳と、夜を連れ出してきた夕陽の色を思い出す。
過去の映像を遮断するように、少年は目を閉じた。過去に飛んだ意識を集中させ、なおもうるさい心臓をなだめるようになでて、言い聞かせる。
──落ち着け、敵はいない。今すぐ命の危険があるわけじゃない。
何度か深く呼吸すると、いつもの脈拍が戻ってきた。カーテンとドアを交互に見て、考える。
──誘拐か? ドアの外に出られるなら、こっちに分がある。武器なしでも、拘束されてないならある程度の人数はさばける。
カーテンの隙間から、外の様子を伺う。確認できたのは大人の男女数名。男は白い燕尾服、女はレースのついたふわふわとした丈の長いスカートを身につけている。おおよそ戦闘には向かない格好だ。続いて、ドアに近づく。ドアノブに手をかけた瞬間、弾かれるように飛びのいた。その向こう側に、人の気配を感じたのだ。少年がシーツに頭を潜り込ませたのと、ドアがノックされたのが同時だった。少年はもちろん、黙っていた。ふわふわの枕に頬を押しつけて、息を殺す。そして、ドアの向こうの会話に耳をそばだてた。
何度か遠慮がちなノックがされたあと、「眠っているのかしら」と女性の声が聞こえた。「困ったな」という男性の声が続く。
「朝食後、ネア様が様子を見にいらっしゃるのに。着替えだけでもすませておいてもらいたいんだが……」
──ネア?
知らない名前が挙がった。
「とりあえず、お着替えと朝食を置いておきましょう」
すべて言い終わる前に、ドアが開きて、すぐに閉まった。それでも身を縮めた少年は、猫から隠れる鼠のようにベッドに潜ったまま、目だけは虎のようにギラギラとさせている。
声は、再び扉の向こうから聞こえた。
「ネア様には、眠っていらっしゃるとお伝えしますわ」
「頼むよ」
足音とともに、男女の声が小さくなっていった。
そこでやっと、少年はもぞりとベッドから出た。毛足の長い絨毯が、裸足の足底をくすぐる。その足元から天井を見上げ、再びぐるりと室内を見回す。カメラやブービートラップは仕掛けられていないようだ。
そして、ドアのところに置かれた紙袋とバスケットを見つけた。爆発物かもしれない。少年は触れずに、そっと覗きこむ。紙袋のほうは白いシャツなどの衣服、バスケットのほうはサンドイッチと飲み物のボトルだった。
──そういえば、着替えがどうとか言ってたな。
自分の胸に手を当てる。識別番号の縫いつけられたその服も白いが、用意されたシャツとは似ても似つかない。袖を通すとき肌に触れた滑らかさには驚いた。ネクタイも添えられていたが、結び方がわからない。首を絞められる可能性も考え、手をつけないでおいた。グレーのパンツをベルトで絞め、黒い靴下を履いた足を、磨き上げられたぴかぴかの革靴に入れる。
ベッド脇の姿見に目をやると、エメラルドグリーンの瞳がこちらを覗いた。見慣れたストロベリーブロンドの髪を手櫛で整えるが、まるで別の人間に触れているかのような感覚だった。
もう一度ドアのほうを見る。手つかずのバスケットからは、何やらいい匂いが漂ってきていた。少しくらいなら食べてもいいか──バスケットに手を伸ばした瞬間、再び目の前のドアがノックされた。尻尾を踏まれた猫のように飛びのいたあと、なんとか「……はい」とだけ返事をする。
「入るよ」
「……どうぞ」
「やぁ」
短い挨拶とともに軽く手を挙げた男を前に、少年はごくりと息を呑んだ。骨董品屋で見た、貴族の肖像画から抜け出してきたかのような男だったのだ。その優雅なしぐさも穏やかな声色も、ビー玉のように輝く色素の薄い瞳も、貧困家庭で生まれ育った少年が今までに会ってきたどの大人のそれとも違う。違和感ばかりだった部屋の高級な雰囲気が、その主を見つけたかのようにぴったり重なって、少年の目に映るものはまるで一枚の絵画のようだった。
自然と、「ネア様」という呼称が思い出された。彼がこの屋敷の主人で、この部屋まで来た彼らは使用人なのだろうと、少年は結論づけた。もしこの男が主人でもなんでもなければ、優雅さは失われ、「慇懃無礼な男」という烙印を押そう──そう少年が思うほど、男は主人然としていた。
一方、男は掘られたダイヤの原石に値をつけるように少年を見つめ、それから満足そうに目を細めた。
「うん、よく似合っているね」
「あなたは……」
「私の名前はネア・ブラディーボ・ヴァロア。我が家へようこそ」
少年の予想通りの答えが返ってきた。
屋敷の主人──ネアの言う「我が家」は、少年の知る穏やかなワードとはかけ離れていた。ちらりと覗いた窓の外には、少し離れたところに別の建物、何台もの高級車、大きな門とそれをぐるりと囲むように植えられた背の高い植物、その向こう側には海──広大な敷地とその中に複数の建物が何棟かあるのだろう。そんなことを考え、少年はぽつりと感想を述べた。
「……おじさん、お金持ちなんだな」
その発言に、ネアはぴくりと片眉を上げた。
「わたしはおじさんじゃない。今、名乗っただろう。ネアだ。わたしのことは、ネア様と呼びなさい」
「……おれを『あそこ』から買ったのか? 使用人かボディーガードにするために?」
少年は傲慢な態度に鋭い視線を向けた。しかし、ネアはただきょとんと目を丸くし、首をひねるだけだ。
「そんなつもりはないよ。わたしが連れてきたんじゃない。とある嫌なやつに援助を頼まれたんだ。きみが我が家の門の前で倒れていたのを見つけて、この屋敷で保護してほしいと」
「嫌なやつ?」
「私が金持ちで見知らぬ子どもの一人や二人受け入れるだけの器量がある男だからこそ頼んできたんだろうがね。まぁ、賢明な判断だ」
──嫌なやつに嫌なやつ扱いされる人間が、この世にはいるんだな……。
冷ややかな目線を送り、少年は記憶をたどる。しかしどれだけ考えても、収容所を抜け出した記憶はないし、暴力によって意識を奪われた痕跡もない。昨夜あの硬いベッドに横になった記憶と、今朝この部屋の柔らかいベッドで目を覚ました事実がうまく結びつかず、少年は考え込んだ。しかし、「とにかく、『おじさん』と呼ぶのはやめたまえ」というネアの頑なな主張が、少年の意識をいやでも信じがたい現実に引っ張り出してくる。
少年は頭をかいた。うまく考えがまとまらない苛立ちを抑え、
「じゃあ……、ネアさん」
としぶしぶ名前を呼んだ。
呼ばれたネアは、ぱっと顔を輝かせてうなずいた。ドアの前に放置された紙袋とバスケットを持ち上げると、ソファーに腰を下ろす。少年のほうをちらりと見て、正面のソファーを手で示した。座れという意味だ。少年はそれに従うが、警戒の視線を向けた。バスケットに手が潜ったのだ。その手が取りだしたのは拳銃や刃物ではなく、ペリエのボトルだった。
「きみの名前は?」
グラスを二つ並べながら、ネアがたずねる。
「……教えない」
そっけない返事のあと、グラスにペリエが注がれる音だけが響く。ネアは「……ふむん」と一つうなって、
「じゃあ、シドというのはどうだろう」
と提案した。