無意識のうちに、こうなることを想定していたのかもしれない。
そう思いながら、僕の肩を押して、ベッドに押し倒した晨のにこやかな表情を見ていた。晨はいつだっていたいけに笑うな、なんて現実から遠く離れた感想を抱く。
何度断っても何度も「行きたい」と言われたから、晨を部屋に招いて、共に時間を過ごし、唐突に「眠い」と言い出した彼を寝室に案内した。その「眠い」という自己申告が偽りであることにも、何か企みがあることにも、全て気がついていた気がする。気がついていたのに、その気づきを無視して、寝室に招いてしまったのは、無意識下の何かが僕を唆したからだろうか。
でも、何もわからなかった。わかりたくなかった。
「意外。嫌がると思ったのに」
晨の細い指が僕の頬を撫でた。硬くて無機質な爪が、つうっと皮膚を優しく引っ掻いていく。くすくすと軽やかに響く笑い声が、思考を放棄して伽藍堂になった頭の中にこだました。
「何も言わないの?」
晨の指は顎までたどり着き、そのままゆっくりと首筋を降りていく。爪が頸動脈の上を滑り落ちていく感覚に、ゾクゾクと背筋が震え、晨の手のひらの上で命を転がされている感覚に陥った。唇が乾いているような気がして、舌先で舐めれば、また、晨が笑う。
そして、僕の服の襟元に指を引っ掛けながら、晨は「襟が邪魔だね」と呟くように言った。襟が、邪魔。何をするのに、邪魔なのか。考えなくても分かるようなことを、僕はあえて、ゆっくりと考えた。その答えを導き出してしまったら、今度は対処の答えを出さないといけない。それができるのか、自信がなくて。
「脱がすね」
しかし、晨は少しの猶予も与えることなく、僕の肩に引っかかっているサスペンダーのストラップ部分に指を掛けた。途端、僕は受け入れ難い現実に引き戻されて、慌ててその指を掴む。
「あっ、だ……! ダメ、だ」
解答を強いられて、反射的にそう言った。無意識とは恐ろしいもので、口に出してから、拒絶が正解だよなと思い至る。そんな簡単なことを、すぐに導き出せなくなっていた自分の状況が理解できなくて、視界が揺らいだ。
それでも、揺らぐ視界の中で、晨の存在だけは確固として存在している。にこやかな顔つきで首を傾げながら、「どうして?」と無邪気に問われて、僕は返す言葉を失った。
こんなことは間違ってる。それは自明の理で、揺るぎなくて、正しい。そのはずなのに、僕はそれを、うまく説明できなかった。説明するには、認めたくない感情を、認めなくてはならない気がするから。
「分からないの? なんでダメなのか」
晨は、僕が妨害したのとは逆のストラップを肩から外しながら、そう聞いてきた。説明責任を果たしていない僕には、それを止める権利なんてなくて、スルスルと腕を滑り落ちていく感覚を甘んじて受け入れるしかない。どくどくと心臓が跳ねた。
「教えてよ、眞鍋さん」
美しく微笑む晨は、その純粋な笑顔で僕を照らしながら、僕に掴まれた指をくいっと動かす。その爪が手のひらを優しく引っ掻いて、その感覚にびくりと肩が震えた。早くしないと、侵されてしまう。そんな焦燥感に駆られて、僕は向こう見ずに口を開いた。
「……晨は、僕の生徒で……」
僕がそう言うと、晨はあははと笑った。楽しそうな笑い声が、居心地の悪さを生んで、腹の中がそわそわする。
晨が口を開いた。その口が紡ぐ言葉を、少しだって聞きたくない。それでも、黙らせる手段が、僕の手中には存在しなかった。
「ねぇ、よく見て。ボクは小学生じゃないよ」
晨は天真爛漫に、僕の最後の砦を崩していく。
「ボクが君の生徒なのは、君の頭の中だけの話だ。眞鍋さんがボクに触れても、それを咎める人は誰もいない」
丸裸になった僕を置き去りにして、自分を守っていた無意識の砦が消え去った。途端、気恥ずかしさに、顔がひどく火照って、熱くなる。
「先生としての君がどう思うかは関係ない。君はボクに触れられることを、どう思うの?」
そんな僕の頬を、まるで熱くなっているのを楽しむかのように、晨は片手でぺたぺたと触りながら、そう尋ねた。
晨は悪魔だ。自分がどう思うかなんて、わかりたくない。そんな気持ちも分かりきっていて、僕に問い続けている。答えを出したって、きっと良からぬ結果しか残さない。それだけが確かなのに。
そうして言葉に詰まっているうちに、晨は僕の頬に手を添えながら、顔を近づけてきた。このまま何も答えないでいたら、きっと、晨は僕に無断で、超えてはいけない一線を軽々しく超えるんだろう。
「……わからない」
それでも、僕には上手く彼を拒む手段を、ついに見つけられなかった。そして、諦めたように言葉を溢せば、ふふっと湿った声色で晨が笑う。
「じゃあ試してみる?」
晨が顔をより近づけてきて、その熱い吐息が僕の頬を撫でた。鼻と鼻がぶつかって、晨の顔が視認できなくなっていく。彼が何をしようとしているのかなんて、聞くまでもない。
「し、晨……まって」
片手でその肩を押して、引き剥がそうとした。でも、手が震えて上手く力が入らない。僕の小さな抵抗なんて、晨の好奇心を阻む理由にはならなかった。
「やだ」
駄々をこねる子どものように、僕の願いを蹴散らして、晨は僕に唇を重ねた。肌が触れ合った瞬間、身体が酷く硬直する。ギュッと目を瞑って、現実から己の意識を切り離そうとした。しかし、押し付けられた唇の感覚は、自分を騙すには生々しすぎて、現実だと受け入れるほかない。
晨のそれは、熱くて、柔らかかった。僕の強張りきった唇をほぐすように、何度も何度も重ねられる。離れては、すぐに角度を変えて重ねられる感覚に、ゆっくりと侵蝕されて、思考が霞んでいった。
不意に、濡れた何かが僕の唇に触れる。それが舌だと気付くのに、少し時間がかかってしまった。そして、気が付いてしまったが最後、思わず「あ」と声をあげてしまう。その隙に、晨は僕の口の中を舌で暴いてしまった。
ぬるぬるしたそれが、僕の口の中に素早く入り込んでくる。どうにか奥までは入り込んでこないように、歯をグッと食いしばった。それでも、イタズラするように、歯茎を舐められると、背筋が震えてしまって力が抜けていく。その隙を見逃さないで、晨は奥の奥まで入り込んでしまった。
「っふ、ぁ……」
舌を絡められる感覚に、間抜けた声が口から溢れ出る。自分のだって信じられないぐらい、その声は湿っぽくて艶やかで、僕の思考回路を焼き焦がしていった。
口内を自由に蹂躙されて、快楽と嫌悪感が混じった渦に巻き込まれていく。たまに上顎に触れられると、どうしても腹の底が気持ちよさに揺れてしまって、頭がどうにかなりそうだった。
晨はひとしきり僕をめちゃくちゃにして、そしてゆっくりと口を離していく。ようやく解放されたと安堵して、目を開けると、晨の楽しげな視線に捕えられた。訳もわからず、ゾクゾクと背筋が震える。
「どう?」
晨は楽しそうだった。その口元は濡れてギラついて、妙に扇情的に見える。――あぁ、やめてくれ。そうすがるように願っても、〝良からぬ結果〟が僕の腹の底に芽吹いてしまった。
「いや、だ……晨、嫌だ」
声が震える。自分が泣きそうになっていることは、誰に指摘されることもなく分かっていた。
「どうして」
きっと晨だって分かっているはず。それなのに、彼はニコニコと微笑みながらそう尋ねて、僕の唇を親指でなぞる。やっぱり悪魔だ、と思った。言葉にしてしまえば、認めざるを得なくなってしまうのに。
「教えて?」
晨は僕の背中を押すようにそう言った。目の前が奈落へとつながる暗闇だとしても、彼に躊躇はない。
「僕は、……君に、溺れたくない」
僕は観念するように、そう溢した。まるで、晨に引き摺り出された欲望に溺れそうだと、認めるように。
「そんな、動物みたいで、愚かな生き物に……僕は、なりたくないんだ、晨」
そう口にしているうちに、つうっと涙が頬を伝っていくのが分かった。みっともなくて、情けない。こんなのは立派な大人がすることからは、遠くかけ離れている。そう思っても、もう止められなかった。
「なればいいのに。動物みたいな眞鍋さんも、きっと面白い」
そう言って、晨は楽しそうに笑った。そして、僕の涙を指で拭って、僕の唇に撫でつける。塩っけが口の中にじんわりと広がって、余計に僕を惨めにした。
「それが君にとっての罪なら、ボクが許してあげる。そうしたら、君は立派な大人であり続けるよ、眞鍋さん」
――どうか、どうか許さないでくれ。甘えてしまいそうになるから。そんな願いは、声にならないまま、服が肌の上を擦れる音にかき消されていった。