SS④「そういえば、家守さん知ってます?研究棟の喫煙所無くなるの。」
「…え?」
パラパラ、と貰った資料を立ったまま流し見していた時だった。さも軽度の世間話のように資料を届けに来た同僚は話す。
「あ、今日眼鏡なんですね。めずらしい」
その後の会話は、あまり記憶にない。ぁ〜うん、だとか。そうだね、だとかなんの面白味もない返答をしたような気がするだけだ。
バン!内開きのドアが数度のノック後応答を受けて勢いよく開く。彼は育ちが良かった。
「所長ッッッ!!!!!!!!!!」
「…来たね、家守くん。」
「来たねじゃないですよ喫煙所の話ッ、正気ですか!?貴方も無しじゃ生きられないでしょ!?」
まるで来ることが分かっていましたと言わんばかりの口調、体制。実際、所長は分かっていた。そろそろこの話を聞きつけた家守真城がこの所長室のドアを開け放つことは。
「私もね、その話をされた時抵抗はしたんだよ。コミュニケーションの場だとかなくてはならない人がいるとか。」
「でもダメだったんだよ家守くん。そもそも使用者5人しか居ないし。過半数定年間近だし」
「それなら喫煙所がある事で生まれる不満を消す方がよくない?って話に落ち着いてしまったんだ。」
「…所長はそれでいいんですか、」
グッ、と何かを飲み込んでから僅かに眉間に皺を寄せ家守は言葉を続けた。
もう分かっている。敗北は。
ならば次得るべきものは道連れだった。どうやって苦しむんだ、これから先。解決策は?妥協案は?偉い人に習うべきだ。権力を持つ人は下っ端の自分より遥かに先に妥協線を引ける。参考にしたい。あわよくば便乗したい。科捜研の副主幹には警部相当の権力があるのだ。
「禁煙を、しようと思う。」
全ての望みは簡単に消えた。到底、受け入れられない形で。
「嘘でしょ…?子供が出来ても禁煙しなかった所長がこのタイミングで…?」
「家守くん、私上司だけど大丈夫?」
大丈夫ではない。全てが。
「…孫が出来た。娘が言うんだよ、禁煙しないなら年末年始には帰らないってさ」
「娘さァん…」
真っ当である。全てが。
「どうだろう家守くん。もうこの際一緒に禁煙しないか?」
「……………いやぁ、」
自身がヘビースモーカーである自覚はある。俺今毎月何箱吸ってんの?分かることは今も白衣のポケットに入っていることと資料置いたらそのまま喫煙所行こと思っていたこと。
最早なんでこんな吸うようになったか覚えてない始末。俺が、禁煙…!?
ぐるぐるぐるぐると言い訳を探すも何も思いつかない。喫煙者だって分かってはいる、この生産性の無さに。上司が禁煙するなら喜ぶべきである。部下としても、医師免許を取得した身としても。
「いや分かるよ、家守くん。」
「はぁ、」
「私は理由があるとしても、家守くんは孫どころか子供も奥さんも恋人すらいないアパート一人暮らしなわけだし。32歳で。」
「ちょっと待ってください」
「科捜研内ではほぼ最年少だけど、世間的には売れ残りだし」
「ちょっ、と、あの、」
「賭け事もタバコもやる人間に恋人できる見込みほとんどないし」
「あの、所長?」
「警視庁の科捜研勤務に出会いなんか壊滅的にないからね、だいたいみんな就職するまでに作るんだよ。」
「いやだからその…」
「そもそも化学系で博士号取ってるのも意味わからないし。なんで医大出て科学研究所にいるんだ。」
「ショチョォ…」
「まぁそれは一旦置いておいて。家守くん、煙草なんていつ辞めてもいい。一緒に頑張ってくれる人が欲しいんだよ」
ゆっくりと、いや急に家守に言葉の槍を突き刺した所長は腕を顔の前で組み直す。所長自身もそこそこの覚悟をもって禁煙に取り組もうとしていた。孫の前には勝てない。会いたい。そして彼もまた例外なく「道連れ」が欲しかった。前向きな方で。
既に家守の姿は視界になかった。理由は単純、膝から崩れ落ちている。蚊の鳴くような声が机を跨いだ下から聞こえていた。そこそこでかい彼が見えないということは、もはやおそらく潰れている。ここまで言うにはもちろん訳がある。所長は知っていた。家守真城という人間は1回ボコボコに殴った方が言うことを聞く、と。
例を出すなら残業を頼む時、「だって家守くん定時で帰ったってパチンコ行くだけじゃん」と言うと何も言い返してこない。家守と所長は仲が良いのだ、共に競馬に行き居酒屋で反省会を開く程度には。
「どうかな、私たちの仲じゃないか」
「…家帰って1人なのに、吸わずにいられると思います…?」
「無理だね、私なら」
「所長ッ…!」
家守とて実際、辞める気が一切ないかと言われるとそんなことは無かった。
隣の部屋に非喫煙者の年下が住んでいるからである。しかもそこそこ親しい。
決定的なきっかけがないまま時間だけが過ぎ、ある日。
……嫌になった。泥に煙が染み込むものか。
すとん、と表情が落ちていく気がした。
上げかけた目線は行き先を無くし、上司にも書類にも落ち着かないまま空を不器用に漂う。
「あ〜、」
ぎぃ、と錆び付いたように思考の巡りが遅くなるのを実感する。何も考えたくない。何も。
「…とりあえず、保留で。」
「分かった。ま、直ぐに無くなるわけでもないし、いい返事待ってるよ。」
「あ、これついでに持って行って。」
「は〜い、しつれいしま〜〜〜す。」
ガチャン、と後ろ手に持たれたドアが閉まる。
…ある日から、彼の中に''地雷''が増えたことには何となく気がついていた。
踏むと行動が粗末になる。ドアを出る時の一礼が無くなる。靴が地面を叩く音が少しばかり大きくなる。科捜研に就職するような人間は、多くが親に財力とコネがあり幼少期から英才教育を受けた育ちのいい人間である。家守真城も例に漏れずそうだ。違う点といえば他の人に比べて親が放任主義で趣味が悪化したぐらいのもので、基本所作に育ちの良さが滲み出ていた。
故に、ぶれると直ぐに分かる。
なにが起きたか。それとなく聞いてみてもはぐらかすばかりで答える様子は無い。…そんな彼に禁煙を勧めるのは些か無理を強いたか、
う〜ん。足を組み直し頭を働かせ、彼が持ってきた書類に目を通す。この見易さが禁煙で無くなるのかと思うと、もう少し彼のために喫煙所廃止反対に粘ってもいいのでは無いか。…いや、私も禁煙したい。やはり彼は道連れにしよう。結論が変わる余地は上司になかった。
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自らのデスクに預けられた書類を放り、一瞥もしないまま足を背ける。
一刻も早く肺を煙で満たしたかった。
「…あ〜ぁ、」
2回、飛んで3回押し込んで火を灯す粗末なライターに苛立つ日が増えた。もういい加減まともなものでも買おうか、いや、毒には安物で十分だろ。
「禁煙ねぇ…」
無理だろ、と思う。こんなにも諦めるのが下手なのだから。
全部が全部泥なら、己が死ぬ物狂いで学んだ6年の学問はなんだったのか。結局人体に向き合えず化学に逃げたのに、またここで対面させられるのは理不尽だろ。
死体が苦手だった。助けられなかった命に正面から向き合うのが。血も臓器も平気だったのに、悪意に晒された死体をどうにも許容出来なかった。
1度志した解剖医の道を放り捨て、捨てきれなかった警察に関わる職の妥協案がここだった、だけ。
いい加減諦めるべきだ。隣人の生きている姿に安堵を覚えてしまうなら、いい加減泥でできた人間を「生きている」と肯定しなければならない。
「さっさと全部泥になりゃあいいんだけどな」
自分が泥であると確信はないが、あれだけ''そう''である隣人と同じ空間に入ればもう自分も''そう''なっているだろう。
死にたいわけじゃない。無駄死にも他人を人殺しにするのも嫌だった。だから生きている。生きている?あぁもう、
ぐしゃりと灰皿にタバコを押し付け存在をなかったものにする。仕事なんかやってられるか。いち早く家に帰って酒でも煽りたい気分だった。
正義も覚悟もない。それを許容出来る諦めぐらいは、さっさと身につけなくては。
今やることは、そうだ、
「絶対定時で帰ろ。」
先程デスクに投げ出した書類と見つめ直すこと。さっさと日常に戻ること。こんなかったるくてややこしいもの考えたってどうしようもない。全部丸めて思考の隅にでも置いておけば、いずれ溶けてなくなるだろ。
2本目に手も出さず喫煙所を出る。もしかしたら、そのうち。すぐでなくても、タバコぐらいなら辞められるかもしれない。……いつか。うん、そのうち。