無題 女の顔が隠れる位置を探る。編集で目線に黒い帯が引かれることは知っていたが、ほとんど被害者である彼女にできる最低限の謝罪がそれだけだったのだ。額をくっつけ、鼻頭がこすれ合う位置で息を吐くと入れ替わりにうっすらとリップとファンデーションの香りが。幼い頃ママに抱っこしてもらうとね、ファンデの香りがしたの、私はそれが好きだった──というのはひとつ前の女の話だ。母親にハグされて育った子供は皆コスメの香りを母性と繋げるのだろうか?そうとばかり思っていたが、想像していたような特別いい匂いでもなくて落胆した。マ実際に自分が探していたのはきっと母親ではなく無臭の姉の面影なのだろう。さてシャッターチャンスは与えたが、あのそそっかしいカメラマンはしっかりそれを逃さなかっただろうか。すこし目線を逸らして、カメラがあるであろう位置を見た瞬間、ちょうどタイミングよくフラッシュが焚かれる。綺麗に目線を抜かれた気がした。あまりにも光が分かりやすいと不安になってくるが、どうやら目の前の女は明日銀河のニュースに自分が取り上げられるとは全く気がついていない様子だった。
第一印象は、人の後をつけるのが下手だといったところか。残念ながら浮いた話のひとつもないので、カンパニー社宅の前で一晩中車で張り付かれても痛くない腹というものだった。気持ち悪かったけれど正味な話耐えられる程度だったこと、反応するモンじゃないと考えたことから泳がせていたある日。中途覚醒の深夜三時五十分、ふと気になって窓を覗くとまだ例の車があってついに「面白い」という感情が勝ったのだ。
ンまあ、だって、写真を撮るのも気配を消すのも下手くそな癖にいっちょ前に二十四時間張り付く根性はあるんだから!
コンコンとドアガラスを叩くと車内から遅れてざわめきが聞こえてくる。中には三人いるらしい。可哀想なことに、十の石心のスキャンダルのため働かされている彼らは張り込み中に寝落ちるほどこき使われているようで、アベンチュリン本人が起こすまでぐっすりだった。今更エンジンを起動して車を動かすことはできない。逃げられないと悟った助手席の男はせめてとぼけることにしたのだろうか?もしかしたらな〜ンも考えてないかもしれない。下りた窓の向こうから無害そうな顔で「はぁい」と情けない寝起きの声を発してきた。
「やあやあ!起こしてしまってすまないね。でも君たちと話す機会が欲しかったんだ」
「アぁ、いえ……」
「眠いだろうから単刀直入に言おう。君たちって最近僕を追ってるよね? それも毎日、二十四時間家に帰らず!」
「ひ……人違いだと思いますけど」
「うん、今そういうのいいから」
社畜もといパパラッチの男が窓を閉じようとするのが見える。大声ではできない話をしたい。無理やり手を差し込んで、頭も少し前のめりにして「君たちにとっても悪くない話なんだけどな」と笑えば深夜だというのに男は「ぅひああァあ、アあ」と情けない声を上げた。心霊現象向きの待遇じゃないか。そんなに怖がらせることをしたつもりはない。
「僕がこうやって来たのは取引の為だ。君たちの為に画になるパフォーマンスをしてあげるよ。記事が出ても無視を貫き通して、訴訟にも繋がないであげる。相手の女性の逆鱗に触れたら流石に庇いきれないと思うけど……僕を見出しに記事を売るのを許そう」
「そ、それで、一体なにを」
「えェ? 何も貰わないさ。君らはその日のその時間だけ車を走らせればいい、僕も一日中張り付かれずに過ごせる。ウィンウィンってやつだろ?」
「ぼ、僕が言うのも何ですが……記事を出されることで貴方の信用や名誉が……」
「ハッ、信用!!」
目の前にいるのは人を騙し殺した死刑囚なのに。そうじゃなくても、根も葉もない記事を出された経験くらいある。インターネットのニュース欄に流れてくる一分で読み終わるような文章。それでも十秒見れば広告料が入るなら非常によくできたビジネスだと思ったが、その広告元が自分の勤務先でうんざりしたことをよく覚えている。レジャー施設複合型リゾートの顧客を僕のアンチから探すなそのリゾートを買収したのはまさに僕なんだけど。車の中の男はまだ分かりやすく怯えている。
「それとも売り上げの何割かを貰うって話にしたら安心するかい? そうだな、7:3」
「な、ななさん、はい、ななさんですね」
交渉が始まるという読みで少し強気の配分をふっかけたつもりだったが、呆気ないほど簡単に受け入れられてしまって肩透かしをくらった気分だ。彼らの分の七割を三人で分けたら僕より少ないじゃないか。意地悪をし過ぎたかしら。最初からそこまで怯えさせるつもりはなかった。それとも僕の記事はそんなによく売れるのか?
「来週はセレブが集まるパーティーがあるんだ。そこで僕は取引先のレディをエスコートし、引き立て、部屋に案内までしなきゃならない任務があってね。情報を共有してくれるなら画角に入ってあげよう。レディの逆鱗には触れないように書いて、気をつけるんだよ。あくまで僕のスキャンダルだ」
♢
♢
とんでもない幅の広さの大通り、反対側にガラス張りの高層ビル、同じく高いビルに付けられた看板の光が反射して「目的の」階層を遮るよう。この車内からは肉眼でも見えない距離にアベンチュリンはいる。後ろの席にいる裸眼の同僚は「アほら、今窓際きてる、撮れる撮れるよ」と脅威の視力をアピールしてきたが。
太ももの上に置いておいたバズーカみたいなデカさの一眼を抱える。高額だから空いた席に置くのも怖いのだ。こいつのせいで腕は筋肉質になり肩こりは酷くなった。レンズキャップを外したりシートベルトを外したり何なりしてると後ろから「あ動く……かも。ヤ戻ってきた」と実況が続く。見えなければ始まらない。カメラを覗くとぼんやりと遠くの景色が像を作り始めた。ピントが合わない上、明るくなったり暗くなったりする電子広告のせいで設定も弄りにくい。どうにか編集で何とかなるだろうラインへ持ち込むとファインダーの向こう、アベンチュリンを探す。
目の前に影ができて何も見えなくなった。
「はっ?」
「失礼。君たちが誰を撮って何を売ろうとしてるのか、君たちとあいつの関係性をこちらは全て知っていると思っていい。では本題だ。そのカメラのデータをこちらに渡せ」
「はっ?」
「その、カメラの、データを、こちらに、渡せ。」先程よりも強い口調だった。「僕は同じことも3回は我慢することに決めている。そして今君は2回目だ。慎重かつ賢い判断を、どうぞ?」
カメラを下ろしたら目の前に大男がいた。ファインダー越しに出来た影は目の前にいる大男のものらしい。同僚が「で、出たぁ!」と妖怪を見た時の悲鳴に近い声を上げた。男は片手を差し出してそれを揺らしている。ここにSDカードを乗せろという意味だろう。
対話する気あんのか?相手が屈まないから車の天井に遮られて顔が見えない。仕方ないので自分が姿勢を低くすると、石膏頭が見えた。同じタイミングで同僚が声を漏らす。「ド、ドクターレイシオだぁあ……!」
「今すぐカメラ渡せ!車が鉄屑にされちまう!」
「かっカメラ渡したら俺らが路頭だろ」
「クソッ!やってられっか!鉄屑になる前に俺はこの車を降りる!」
「オイお前も売り上げから取り分貰ってたくせに逃げるなよ!」
同僚は殆ど体当たりの勢いで車のドアを開けようとした。だが車は揺れるだけで開く気配はない。ンだこれ、と一度扉から身を引いて冷静にその隙間を確認する。白い塊がガッツリそこに固まって足止めをしていた。無理に剥がそうとしたせいで脆くて粉っぽいそれは黒いシートを汚している。考えるまでもなく目の前の石膏頭の仕業だ。
大男は手をこちらに差し出したまま制止している。噂によると彼とアベンチュリンはあまり仲良くはなかったはずだ。家族のような絆と称される戦略投資部の面子が出しゃばって来るならまだ分かるが、なぜこの人が。「納得できないといった顔だな」石膏頭が喋る。「大方、なぜ動いたのが石心ではなく僕なのか……といったところか」
予想ならいくらでもつく。例えば、十の石心にはアベンチュリンからパパラッチの情報共有がされているので沈黙を保っているがDr.レイシオはその限りでは無いとか。例えば、目の前に突然現れる石膏頭のやり方がおかしいだけで既に水面下では他の石心が動いているとか。あとは、例えば──
「この売り方が愚鈍ってことですか……」
「ふん」
大男が腕を組んだ。正解の反応なのか不正解の反応なのかは全く読めないが、何となく延命したような心地がする。SDカードを受け取ろうとする手を引っ込めたということは、多少話す気になったか何か言いたくなったかということだ。
「自身の名誉を切り売りし自分からスキャンダルを起こしに行く。恋愛を積極的に売り物にしている。僕はこれを自傷行為と診断した。なんたる愚鈍!」
「は、はあ」
「ただでさえあいつには凡人には想像もつかない奇行に走る癖があった。自身の価値を低く見積もっているからだ。そこで僕はまずスキャンダルを根絶やしにするところから手を付けることにした。いずれ彼が自ら人を頼ることを覚えれば、あぁ……とてもいいシナリオ、いや!事実となるだろうな」
「あの男に金を握らされているというなら値段を教えてみろ、倍の値段で買ってやる。丁度、どれだけ考えても莫大な財産の使い道を見つけられずこの難問に飽き飽きしていたところだ」