追憶渡辺将也は、野口洋介の家に下宿している書生であった。洋介は市会議員で、なかなかの資産家である。数年前に妻を亡くしてから、独り身を貫く男やもめである。将也は、その家に住み込んで、雑務を手伝いながら大学に通っていた。いつものように将也が大学から帰って来ると、居間に洋介の姿はなく、二階の書斎を覗いて見ると、洋介は机に向かって何か書き物をしていた。
「何を書いているんですか?」
将也は何気なくそう聞いた。すると洋介は筆を止めて顔を上げ、少し照れたような表情を浮かべた。そして小さな声で答えた。
「小説だよ」
「小説? 珍しいものをお書きになっていますね」
「ああ……。最近、ちょっと興味があってね」
「どのような話なのですか?」
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