届け歌声「はぁ……」
高校一年生の春、部活中と解っていても迫る日付に怯えてしまう。つい漏れた溜息で、鄧艾先輩が神妙な表情で近付いてくる。
「何か悩み事か、文鴦殿」
先輩には入部してから何時もお気遣い頂き、申し訳無い気持ちで一杯だ。だが未熟な私には他に伝手も無く、相談をするしか方法が解らず口を開くしかなかった。
「あの……来週、音楽の授業がありまして」
「うむ」
「その……歌の、試験があるのです」
まもなく行われる合唱祭のパートやソロを決める為に必要なのだという。しかし、私はこれまで人前で歌うことなど一度も無かった。聴いてもらえる様な歌唱力なのか確かめる勇気も出ず、憂鬱な気持ちだけが支配していた。正直に吐露すると、鄧艾先輩は静かに頷いてくれる。
「……うむ、その様な時期か……自分も歌は苦手でな、同じ経験をしたので多少は解る……自分で良ければ、助言は出来よう」
「本当ですか?!是非!」
先輩も、同じ様に悩むことがあったとは。思わず身を乗り出してしまうと、先輩は記憶を手繰り寄せる如く顎を擡げ口を開いた。
「自分の場合は……夏侯覇殿にカラオケへ連れて行かれた」
「か、カラオケ……?!」
確か、駅前のビルで大きな看板を掲げている店だ。入ったことは無いが、私の悩みに有効ならば興味深い。
「一度、皆の前で好きな曲を歌ってみれば良いのだと……司馬昭殿や賈充殿も来てくれたが、その空間で皆と歌ううち、多少は慣れることが出来ていた」
「何と、それは素晴らしいです」
未知の空間だが、その様な作用があるなら是非試してみたい。漸く視界に光が戻ると、鄧艾先輩は柔らかく口元を緩めてくれる。
「加えて……そういった場に行くと互いの知らない一面にも気付け親睦も深められる」
「どういったことでしょうか」
「例えば……夏侯覇殿は流行りの歌を沢山知っていたな、司馬昭殿は聴き惚れる程歌が上手い……あと、賈充殿は歌声が優しく爽やかで驚いた」
「凄いです、それは知りませんでした……」
それ程の発見まである場所なら、益々興味が募ってしまう。
「申し訳無い、参考になるかは解らないが……」
「大変勉強になりました!ありがとうございます」
明日、早速行ってみよう。光明は見えたが、もう一つ勇気を振り絞る過程があることをこの時は忘れていた。
「それで、何故……私なんですか」
そう、誰かを誘わなければならない。とはいえ他の同級生に聞かれるのは気恥ずかしく、要らない気も遣わせてしまい兼ねない。
「お願いします、鍾会殿しか頼めないのです」
隣の席で何時も助言をしてくださる鍾会殿なら、私の歌唱力がどうあれ容赦なく意見も仰ってくださる筈。
翌日の放課後、何とか駅前まで辿り着いて看板を指差し頭を下げると鍾会殿は諦めた様に溜息を吐いた。
「し、仕方ありませんね……ですからもう、その眼は止めて貰えないですか」
「あ、ありがとうございます!その眼とは……?」
「っ……もういい、入るぞ」
私はどうやら、鍾会殿が嫌がる表情をしているらしい。今後気を付けなければと心に留め置きながら階段を登り、受付へと辿り着いた。
「歌わないんですか、文鴦殿」
「え、あ……」
鍾会殿のお陰で部屋を確保できたものの、席に着いても落ち着かず曲を入れられると持たされた端末を眺めたまま動けない。何を歌えば良いのかも迷ってしまい、手は震えてしまう。
「その……さ、先に鍾会殿からどうぞ」
「は?連れてきたのは貴方でしょう」
「まだ迷ってしまいまして……それに、鍾会殿の歌を是非聴いてみたいです」
正直に意思を告げると、鍾会殿は前髪を直しながらもう一つの端末に手を掛けてくれた。
「ふ、そこまで言うなら……歌ってやらなくもありませんよ」
つい安堵の息を漏らすと、鍾会殿の指先が滑らかに画面を動かせば大音量で前奏が始まる。初めての経験で緊張に身を縮めてしまうと、鍾会殿は徐ろに立ち上がり息を吸った瞬間に眼を奪われた。
堂々と、素晴らしい歌声が響き渡る。ああ、どうしてこれ程に眩い方なのだろう。私では気後れするほど、自尊に溢れた歌詞だというのに。想像が付かない程に努力を重ね、その意志を掴んで来たのだろう。貴方程の輝きを、持ってはいなくても。せめて貴方の様に誇らしく、自らの声を発せられたら。
「素晴らしいです、鍾会殿……つい聴き惚れてしまいました」
歌い上げた鍾会殿へ向け、思わず口を動かしていた。
「……このくらいは、当然ですよ……」
言葉とは裏腹に、鍾会殿でも気恥ずかしそうに目線を外すことがあるとは。確かに知らない一面を覗けて、口元が緩んでしまう。
「ところで、何を歌うか決めたんですか」
「わ、私は……鍾会殿の様に歌う自信が無く……」
声で我に返り、見惚れて忘れていた端末を眺め答えるしか無い。鍾会殿は座り込んで細長い脚を組み、頬杖を付いて呆れた溜息を漏らした。
「全く……私はお前の歌を聴いていないんだ、そんなもの判断しようが無い」
苛立ちを含む言葉で、胸に微かな炎が点った。私の歌を、聴こうとしてくれている。私が踏み出さなければ、この声を届けなければ何も始まらない。此処に居てくれる鍾会殿に、応えなければ。端末を探すと、一曲が目に留まる。好きな特撮映画で流れていて、この曲も好きになった。指先を震わせながら、送信した。
「宜しく、お願いします……」
前奏で既に、心音が跳ね上がる。それでも、これなら歌いきることが出来るかもしれない。大画面に歌詞が出ることに感謝しながら、大きく息を吸う。歌声にして吐いた瞬間、何故か鍾会殿が眼を見開いた。それが何かを考える余裕は無いまま、歌うことに専念するしかない。
幼い頃見た、自らに悩みながらも進むヒーローの姿と共に流れた歌だった。誰に聴いてもらいたい訳でも無く、自らを鼓舞したい時に口ずさんでいた。もし私自身だけでなく、誰かを励ませられたら。どうかこの声でも、届いて欲しい。それだけを馳せながら歌うと、いつの間にか曲は終わっていた。
「……あの、どうでしょうか……?」
鍾会殿が身動き一つされないので今更不安に苛まれると、遂に瞬きを一つして瞳を伏せた。
「……ま、まぁ……この私程ではありませんが……良いんじゃないですか」
予想もしなかった一言で、視界が明るく映える。私の歌でも、否定しないでいてくれたとは。
「本当ですか?!ありがとうございます!これで心置き無く歌の試験に臨めます」
「ま、まぁまぁと言っただけですよ……」
それでも、滅多に人を褒めそやさない鍾会殿が良いと言ってくれただけで充分自信に繋がった。やはり、貴方は凄い人だ。迷ってばかりいる私が、前に進む勇気を与えてくださる。貴方は何処に居ても、燦然と瞬く星の如き光を放つ。何時か私も、貴方の様な堂々たる一等星になれたら。
それならば何故私の歌を聴いてあの様に硬直されていたのかは解らないままだが、私が壁を乗り越える闘志への火種をくれたことが嬉しくて笑みを溢した。
「鄧艾先輩、先日はありがとうございました」
「その表情では……上手く事が運んだのか」
「はい……鍾会殿にお力を貸して頂き、無事試験に臨めました」
聴いて頂いたあの瞬間を、思い起こして。すると、信じがたいことが起きてしまった。
「実は先生から……合唱祭でのソロに選ばれまして」
「それは見事だ、文鴦殿には才があられたのだな」
「ですが……私だけ選ばれたので、鍾会殿の機嫌を損ねてしまい……」
「う、うむ……難儀なことだ」
その後鍾会殿が伴奏のピアノを弾くことになり何とか事なきを得たが、その分貴方に恥を晒さぬよう努力しなければと心に誓う。貴方となら、私はどれ程高い壁も乗り越えていけると胸を弾ませた。