めぐりめぐる夢のなか「生まれ変わったら、なにになりたいですか」
むせ返るような甘い空気で満ちた部屋。呼吸の度に喉の奥が痺れてしまいそうになる。身体も脳みそも心もぜんぶ溶かされてしまった俺の口から零れた声は掠れていた。
「おや、突然どうしたのです?」
「この前インタビューで聞かれたから、なんとなく」
差し出されたペットボトルを受け取って素直に二口飲み込む。ひんやりとした液体が喉を通る感覚が心地よかった。横から伸びてきた手が俺のペットボトルを奪って行って、二度、彼の喉が上下に動く。その何気ない一連の流れを俺の瞳はぼんやりと映していて、またぼんやりと綺麗だと思っていた。ペットボトルを置いて視線に気づいた彼がふっと口の端を綻ばせた。それから、壊れ物に触れるみたいに柔らかな手つきで俺の頭を撫でる。深く深く触れ合った後のその柔らかすぎる手つきが、俺は大好きで、それから少しだけ嫌いだ。
「……もっと触ってよ」
わざとらしいムッとした表情で彼の首に腕を回す。おんなのこみたいに弱々しくない、でもきっと世界が反転したって彼よりは弱い、そんな俺の力で彼を引き寄せる。ギシリ、ベッドが重さに軋んで立てた音の裏側にそっと隠れるようなキスをした。そうすると彼はどこか安心したように俺を強く抱き締めて、今度は深く甘いキスをするのだ。
「か弱い子兎だと思っていたのに、いつしかライオンにでもなってしまいそうですね」
ねぇ、友也くん。俺を抱きしめたまま、彼は俺の名前を呼んだ。うずめていた胸元からちらりと視線を上げて、彼の顔を見る。仄暗い部屋の明かりの中では表情を読み取ることは出来なかった。
「あなたは、なんと答えたのですか?」
生まれ変わったら、なにになりたいですか?そう言って紫色の瞳が煌めいた気がした。俺は甘い空気でモヤが掛かってしまった思考をぱちぱちと瞬きでクリアにする。
「俺は──……?」
つい数日前の取材なのに、その質問の回答だけぽっかりと穴が空いたように忘れてしまった。
鳥だったか、犬だったか。あぁ、そうだ。満はチーターだったな。速く走れるからいっぱいダッシュしたいんだぜ〜って。あれ、女の子になるって言ったんだっけ。違う、それはに〜ちゃんだ。今も間違えられるからいっその事って苦笑いしてた。創は、花って言ってたかな。道端に咲いて、見つけてくれた人を少しでも癒せるようなって、創らしくて良い回答だった。
違う、俺は。俺はなんて答えたんだっけ。穏やかに訪れる疲労感が、またぼんやりとモヤのかかり始めた思考が、ジンと甘く痺れる身体の奥の気だるさが、生まれ変わった俺の姿を隠していく。
「俺、は、」
俺の心の奥の願望は、なんだったんだろう。なんと願ったんだろう。
「もし、あなたが鳥になりたいと願ったとしましょう」
むかしむかし あるところに。まるでそんなふうな語り口。
「鳥になったあなたは、クリーム色の翼が可愛らしい小さな鳥です」
「……小さいんだ」
「えぇ、私の手のひらにすっぽりと収まるくらい」
「うん」
彼がその大きな手を丸い受け皿のようにしてみせる。そっとその器に手を乗せてみれば、蓋をするように包まれてしまった。
「あなたはその小さな身体からは想像もできないほど大きくて美しい声で歌って、やわらかな春風に乗って大空を飛び回るでしょう」
ぎゅうとあたたかな手に包み込まれた、男にしては小さな俺の手が本当に翼だったなら。彼が言うような鳥に生まれ変われるだろうか。
「……もしあんたが鳥なら。誰も見た事ないくらい綺麗な翼で世界中を飛び回って、誰も聴いたことないくらい綺麗な声で歌うよ」
小さく呟いた俺の声を彼は拾わなかった。ただあたたかく俺の手を撫でながら俺のつむじに唇を落とす。甘い夜の空気は程よくかき回されて、ゆっくり馴染んで透明になり始めていた。
鳥。あぁ、鳥だったかもしれない。鳥になりたいって言ったかもしれない。
「俺、あの質問に──」
「もし、あなたが犬になりたいと願ったとしましょう」
彼の声に口を噤んだ。新しい物語を読み聴かせるような、優しい声だ。でも、俺に話させないという強い意志がにじみ出た有無を言わせない声だった。だから俺は小さく頷くだけ。
「犬になったあなたは、ふわふわで真っ白であたたかい、可愛い可愛い子犬です」
「ふふっ、……また小さいんだ」
「えぇ、私の腕ですっぽりと抱きしめられてしまうくらい」
包み込んでいた手を離して、今度はたくましい腕を小さな子犬を抱えられそうなくらいに開いた。俺がその腕の中に身体を預けると、また蓋をするようにそっと包み込んだ。
「あなたはその小さく愛らしいからだで周囲の人たちを癒します。そしてその小さな身体からは考えられないほど勇敢に、賢く、様々なことに挑み周囲を驚かせるでしょう」
ゆらりと揺れる腕の中に包み込まれた、男にしては小柄な俺の身体が本当にふわふわで柔らかかったなら。彼が言うような子犬に生まれ変われるだろうか。
「……もしあんたが犬なら、きっと世界中の誰も見たことないくらいサラサラの毛並みが綺麗な大きな犬で、世界中の誰もが驚くような芸もするよ」
彼はまた、何も言わなかった。ただ俺を包み込む腕の力をほんの少しだけ強くして、やわらかく頬にキスをした。
犬。そうだ、犬だったかもしれない。犬になりたいと、そう答えた気がする。
「俺、さ、」
「友也くん」
名前を呼ばれて腕の中から見上げた彼は、なんとなく寂しそうで、それでいて嬉しそうな、よくわからない変な顔をしていた。
「もし、あなたが鳥でも、犬でも、うさぎでもライオンでも花でも石ころでも」
大きな両手が、俺の両頬を包み込む。その手つきはもう柔らかすぎるものじゃない。他の誰でもない、ただ俺だけに触れる、その手。
「あなたはきっと、どこまでも『真白友也』なのでしょうね」
紫色の瞳がじっとまっすぐに俺を見る。煌めいたそれに映る俺の顔がやけにはっきりと見えた気がした。
あぁ、そうだ。思い出した。俺は。
「──俺は、生まれ変わっても『真白友也』になりたいです」
そう、答えたんです。
彼はその答えにも何も言わないまま、ただふんわりと微笑んで、やわらかく俺の唇に触れた。
流れるようにふたりでベッドに寝転ぶ。むせ返るような甘い空気はもうどこかへ行ってしまったようで、ゆるやかで穏やかな空気が部屋を満たしていた。いずれこの空気も程よくかき回されて、抗いようのない眠気が部屋を満たしていくのだろう。
「ねぇ」
俺の声にさらさらと俺の髪を梳いていた彼の手が止まる。頭の先から頬を通って、それならそっと言葉の先を促すように俺の唇の端を親指が掠めた。
「あんたは……渉は、生まれ変わっても『日々樹渉』になりたいって思う?」
「何に生まれ変わろうと、『日々樹渉』でありたいと願いますよ」
俺は手を伸ばして、真っ白いシーツの上に散らばる髪の毛の先っぽを掴んだ。つややかな銀髪は彼の身体の動きに合わせて俺の手の中からあっという間に零れ落ちていく。
「今度はもう少し捕まえやすい姿で現れて欲しいな」
「友也くんは何になっても私にひょいと捕まえられちゃいそうですねぇ」
くすくす笑う小さな声がふたりきりの世界でこだまする。ぎゅうと抱きしめ合った腕の中はあたたかくて優しくて、愛おしい。トクトクと一定のリズムを刻む心音に耳を澄ませば、段々とまぶたが落ちていく。夜の中にとろりと意識が蕩けていく。
「わたる」
舌っ足らずで、甘えたな声で名前を呼んだ。視線だけで見上げた彼はくすぐったそうに微笑んで、やわらかく眉を下げていた。なんにも言わないまま、俺の言葉を待っている。
もし、生まれ変わったら。
もし、生まれ変わっても。
「何に生まれ変わったとしても、『真白友也』はきっと『日々樹渉』を捕まえるよ」
意識を手放す前の声は少しだけ掠れていた。埋めた胸に当てた耳に響く心音が早くなったのはきっと気のせいじゃない。
「……では、私はあなたに見つけてもらえるようにしないといけませんね」
そう言って、この世界中の俺以外誰も見たことの無いような顔で彼は笑った。