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    oto_882

    @oto_882

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    oto_882

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    夏の終わりのチケタイ小説です。タイシン視点→チケット視点→会話となっています。

    それは何でもない、夏の終わりのある日にそれは夏が終わりを迎えようとしている、ある一日の始まり。

     ドアの前で、朝の支度をしているルームメイトに一言、声をかける。彼女は優しく微笑みを返して送り出してくれる。
     部屋のドアを閉める。
     寮を出る。

     地面に足を載せる。


     朝まだきの通学路。
     昇り始めた太陽の光は空を薄く覆った雲の中で濁っていて、その行き場を失ってるみたいに空気の層を漂っている。
     周囲はどこまでも静けさに満ちている。
     昼の日中はあれだけけたたましい蝉やらなんやらも、何もかもが墓場で永遠に眠りについてるんじゃないかって思える。
     地面のひび割れたコンクリートを叩くローファー。
     棺に鉄釘を打ち込むような乾いた音を響かせる。
     有機物も無機物もぜんぶいっしょに、仲良く、優しく死んでいる、そんな朝の光の中で、ただひとつの音を奏でている。
     それはまるでしめやかに執り行われる弔いの行列の中をひた歩いてるみたいで。
     夏の葬送。
     夏、って一文字が分解されて白骨のように路上に散らばって、蝉の死骸と生温い風といっしょに季節と季節の隙間に運ばれていく。

     夏の死臭に包まれてひっくり返ってる蝉。静かに厳かにどこまでも死んでいる。死にきっている。
     ほんの数週間の命のサイクルを純真に受け入れて硬く硬く足を折り畳んでいる。
     ふっと自分の足元に目線を落とす。
     走者のとしての自身のキャリア、その先の年数。
     それとどのくらいの違いがあるっていうんだろう。
     ――なんて益体もないつまらない感傷が瞬時呼び起こされて。そして消えていく。

     そんななんでもないただの夏の終わりの朝。


     空気も音も匂いも触感も。
     心も。
     いろんな物事の境目が曖昧になるような。
     そんな朝靄の中を歩いているのは。好きだと思う。
     それはターフを駆け抜けるあの時と同じ。
     こんな時だけ、自分は、セカイというものと友達になれる気がする。
     そんな風に走ってきた。
     世の中だとか、他人だとか、そんな色んな色んなものごとは、いつも向こう側にあった。
     そこには、常に線が張られていた。


     そんなぼんやりした意識を朝の空気の淀みに溶け込ませていた、その時。
     その刹那。


     ――彼女の、足音が。

     チケットの、声が。

     聞こえてくる。

     遥か彼方から。ううん、それが、すぐそこに、間近に、迫ってきていて。
     チケットが、こっちに、やってくる。


     それは、いつだって、地面を駆け抜ける音。
     彼女の走る音は、軽い。とてもとても軽い。
     そこには何の夾雑物も混じり込んでいない。
     ただ、ただ走るためだけに走っている。
     そんな音がしている。
     こんな形容はおかしなものかもしれないけれど――まるで鳥が空を突き抜けて飛んでいくように。どこまでも、どこまでもまっすぐに。直線上に。走り抜けていく音の色。

     それが競技用のシューズだろうが。スニーカーだろうが。ローファーだろうが。裸足だろうが。
     走る。
     彼女は走る。
     走って走ってやってくる。
     

     チケットの走る音。
     ――それは、向こう側の音。
     自分が知らないふりをしている、知ってたまるものかと拒絶する、あちら側からやってくる物音だった。
     死んだ世界が、自分が死なせたつもりでいた世界が、断絶させていた世界が、眠りから目を覚ますような、飛び込んでくるような。
     そんな呼び声だった。


     ――立ち止まる。
     身構える。
     彼女がこちらに向かってきて。その身体をこちらに預けてくれるのを今かと待ちわびながら。
     待つ。
     待っている。
     いつでも待っている。
     それしかできないから待っている。
     

     ただただずっとずっと待ち続けている。






     チケットが――彼女がどんな気持ちであんな距離感覚のコミュニケーションを自分に対して取ってきているのか。
     それはどれだけ考えたって分からなかった。分かりっこない身体のリズムの中で彼女は生きて呼吸をしているようだった。
     それらしきことを何気なく聞いても、なんとなく! だとか、時には、タイシンのことが好きだからー! なんてことを満面の笑みを湛えて言ってくるだけ。
     それらはどれも、自分が知りたい本当の意味での理由を説明する言葉なんかじゃないように感じた。

     ――でも。
     それでも、その笑顔や言葉の響きそのものに、嘘や誤魔化しが混じっているようにはカケラも思えなくって。
     ……そうやって思えなかった、そんな自分自身に、心から、安心しながら。
     彼女の柔らかな頬を押しのける。
     胸に残った幽かな暖かみと快いくすぐったさ。それらを慈しみながら、何言ってんだかまったくバカかってのなんて言葉を返して。
     そこで可愛らしい問答が終了するのがいつもの日常。   
     ずっと、ずうっと続いてくれてもいいのになんて思ったりする、日々の一幕。


     チケットとの身体的な触れ合いは、いつだって、一方通行だった。
     それはどんな時でも彼女の側からの片道切符によるもので、切符が切られて回収されたらそこで終わってしまうような、そんな種類のものだった。
     だからこそ、これは、ただの友人同士の、他愛ないじゃれ合いとして成立していた。
     それ以上のなにかだったりするわけじゃなかった。
     気が付いたら、自分の掌には数え切れないくらいの切符が、ただ握りしめられていた。


     チケットは、自分が右手でいじっているスマホの画面を覗き込もうとして、右肩の方に頭を乗っけてきて、後ろから両腕を身体に回してくることが多かった。それから顔を左側に向けて、ほんの僅かの距離で、こちらの顔を見ていたずらっぽく笑いかけるのが常だった。

     お互いの髪と髪が絡み合い、柔らかく溶け合うような感触を覚えた。頬と頬とがもう少しで触れそうなくらいに近づいて、その体温が伝わってきそうだとすら思った。

     お腹の周りに伝わる両腕の暖かさと、右肩に感じる身体の重みが、とても愛おしかった。
     彼女の声は、どんな時でも、そこに子供っぽい無垢な朗らかさを伴っていた。聞いていてとても安心した。誰かを傷つける声ではなく、誰かの側に寄り添ってくれる声だった。
     いつまでも抱き付いていて欲しいと思いながら、しつこいから離れろと言った。
     いつまでも声を聞いていたいと思いながら、うるさいから黙れと言った。
     えへへ、ごめんねタイシン。彼女はそう優しくはにかんで、身体が離れていく。
     いつもこうだった。
     それ以上はなにも起こらなかった。
     それで終わりだった。

     不安、恐怖、焦燥、親愛。
     ふたりの距離を隔てるものごとたち。
     どこまでも永久的に断片化される。分節化される。感情の波間を虚ろに漂う酸化して錆び付いたフラグメント。

     彼女に触れてみたかった。
     彼女が触れてくれるみたいに。

     こんなに側にいるのに。握ってくれた指を、此方から握り返すことすらできなかった。


     きっと――きっと、自分は、本当の意味では。
     彼女の髪だとか。掌だとか。頬の柔らかさだとか。身体の暖かさだとか。汗と交じり合った甘やかな匂いだとか。
     そんなものを感じられたことは。今まで。ただの一度だって。ないんだろうと思う。

     だってそれは彼女から与えられるだけのものに過ぎなかったから。

     自分が心から彼女に求めているものを、自分から求めにいったことなんて、今までに、ただの、ほんの一度さえも、なかった。
     自分にそんなことができるだなんてまるで思えなかった。


     髪に触れてみたかった。頬を擦り合わせてみたかった。身体を寄せて、心臓の音を聞いてみたかった。体温を分かち合いたかった。


     あの子の指先が、自分の指先に触れて、お互いに絡み合って――でも、どれだけ指を重ね合わせてくれても、あの子の指先は、ずっと遠くの場所にあった。

     いつもずっと側にいて、いつもずっと離れていた。

     世界で1番重なり合っていて。
     世界で1番隔てられていた。

     そんなふうに思っていた。

     どれだけ境界線を越えようとしても。越えられないままでいるふたりだった。




     足音が近づいてくる。
     それは彼女一人の音じゃない。

     チケットの足音に呼応するようにして世界は呼吸し始めて、さんざめいて、色づき始める。

     ――チケットは、走ってくる。
     いつだって走ってこっちにやってくる。
     走って、顔中に、身体中に、笑みを浮かばせながら、喜びを汗に滲ませながら。

     まるで、そこに、ゴールの標識が据えられてて。
     電光掲示板で着順がぱあっと鮮やかに表示されるとでも思ってるみたいだ。

     そこにはゴールなんてない。
     着順だって付けられない。
     ターフの上とはちがう。

     ゴールを駆け抜けることなんてできやしないのに。

     ――――でも。
     それでも。
     そうであっても。彼女は、走る。
     風を切って走って、こっちに、向かってくる。
     何度も何度もこちらの名前を呼びながら。
     そんなふうに懸命に、がむしゃらに走り続けるその姿。
     きっとそれが――その姿が、自分は、――――。


     声が聞こえる。
     後ろは振り向かない。
     振り向けない。

     じゃあ自分ができることはなんだろう。

     ただ、待ち続けること。
     くだらないよ。馬鹿じゃないの。走るのやめちゃいなよって言うこと。
     そんなことに何の意味もないんだよ。徒労だよ。無駄足なんだよって。

     そんなことしかできないんだろうか。
     そんなわけ、あるだろうか。

     身体の触れ合いがウソをついても。
     それがどこまでも偽りでも。
     繋がれなくっても。

     言葉だけ。
     言葉だけ。ただそれだけでも。
     ―――――。


     彼女が呼んでいる。
     自分の名前を、呼び続けている。
     なんだかそれは音の羅列というよりも、まるで――。

     ふと。顔を上げると。
     夏の終わりの空に。夏の手向けの花束が捧げられたような淡い薄曇りの黎明に。
     ほんの一筋のか細いものが、飛び去って行くのが、見える。

     それは、彼女が、彼女だけが見せてくれた、たったひとつの世界の色だった。



    ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

     それはある夏の日のこと。一つの季節が霞の向こうに溶けていくような朝。

     ちょっといつもより早い時間に支度して。
     お化粧がんばってる同室の彼女に先行ってるねって声かけて。彼女は眠そうな目で、でもにっこり笑いかけてくれて。
     そうしてドア閉めて。
     寮を出る。

     早朝の通学路。
     夏の風。
     夏の香り。
     夏の手触り。
     起き抜けの身体をやんわり包み込む、夏、という季節のエンドロール。
     それは少しずつ眠りにつき始めてるみたいで、なんだか寝ぼけまなこをしてるように思える。


     きっと、夏という季節は羽毛布団をかけられて、柔らかいベッドで、一年の間、もうじき穏やかな眠りにつくところで。
     それから秋がやってくる。
     忙しなくくるくる回る季節のサイクル、そんな中を、歩いている。

     誰もいない。
     物音も聞こえない。
     鳥さんも蝉さんもまだ寝床についてすやすやお休みしてるのかなって思う。
     こつこつこつ。
     ローファーがアスファルトを踏み鳴らす音が高く響く。
     まだ眠たげな朝の世界をノックする、そんな柔らかな音を奏でる。
     おはよう。今日もよろしくね。どんな一日になるのかな。
     この地面から、クツの足裏から皮膚と筋肉と骨を伝わって、そんな声が互いに滑り込んでいくように思えて。そうすると、なんだか心が元気になって。よーし今日もがんばるぞーって大声出したくなるみたいになって。朝からそんなことしたらあの子におこられちゃうかなってここにいない彼女のことを考えて。そうやって歩いていくともっと気持ちが良くなって。
     そうして、きっと今日もステキな一日になるって。そう思える。


     太陽はまだ、地平線のあたりでまごまごとしてて、顔を出すのを恥ずかしがってるように見える。
     そんな時間の空気は、透明のガラス瓶の中に青く包み込まれてる鈍い光がちりばめられているみたい。
     
     そんなこと考えながら、道を歩いていると。

     先の、ずっと先の方に――。

     彼女が。タイシンが、歩いているのが、見えた。

     風に揺れるちっちゃなお花みたいに道路の真ん中をゆらゆらしている。
     

     もしも、どんなに広大で奥深い森の中を、一人でお散歩してたとしても。
     その、たった一輪の、その花がそこにあることは、すぐにわかる。見つけられる。
     タイシンはそんな子だった。
     すぐにでも駆け寄って、たくさん声をかけてあげたいって思う。
     もっと間近で、その花びらの美しさや、優しい匂いを嗅いでみたいって思う。

     ――――でも、そこで、ふっと。足が止まる。



     例えば。例えばだけれども。
     道の真ん中で、たった一人きりでうずくまってる、小さな子供がいたとして。
     子供はずっとずっと泣きじゃくってる。
     おかあさんやおとうさんのなまえを呼び続けてる。
     その子に声をかけようと思う。
     腰を屈める。
     目と目が合う。
     微笑みかける。
     そしたら。
     その子も笑ってくれる。

     そんな時。
     糸が橋を架ける。

     自分がこの子と――セカイと、はっきりつながってるって、そんな気がする。


     レースで走る時。
     自分が先頭でゴールを駆け抜けて、嬉しい、嬉しいって心も身体も飛び跳ねてる時。
     会場を見渡す。
     名前も顏も知らない人たち。
     笑顔でいっぱいの人。おっきな文字が描かれた応援バナーを振ってる人。ずっとずっと遠くの豆粒サイズの人。
     顔も名前も知らないどこかの沢山のたくさんの誰か。

     そんなみんなみんなと、クモさんの糸みたいに放射状になってつながりあっている。そんな気がする。

     きっと、それは同じことなんだと思う。


     でも。
     時には、その子供の泣き声があんまりにも大きくって。
     こっちが声を出しても、向こうには届かない。
     ――そんな時もある。
     子供はとても悲しがってる。
     深い深い水底の奥まで悲しみに沈んでる。

     水中だと声は泡になって届かない。口から吐き出されるあぶくが水上に浮き上がって光の粒になって消えていく。
     どうしよう。
     どうしたら。
     どうやったら彼女に声を届けられるんだろう。――――
     ーーーーーーー


     タイシンと。キミと、向き合うとき。
     いつもそんな子供のことが心に浮かぶ。




     学園の中で。外で。屋上で、柔らかい草の上で。
     後ろからタイシンの身体に腕を回す時。
     糊のきいたぱりぱりのスカーフと袖の先。
     皮膚と皮膚が直に触れ合う瞬間がある。
     それは柔らかなカーテン生地みたいで。
     その上に指を滑らせると、少し冷やっこくて柔らかい感触に指先が甘く包まれる。

     どうしてこっちの居場所が分かんの。毎回毎回さ。
     キミは眉をキレイな流線形にして、ため息ふっと吐いて、呆れ顔。
     でも、その口元や目じりにほんのわずか、優しい色が混じってるように見えて。ほっとする。
     タイシンの右肩越しに顔を出す。
     少しヒビの入ってるスマホのガラス。
     それを指で触ってる。
     ねえ今何見てたのって言ってのぞき込む。
     キミはまた吐息をもらす。
     それから遊んでたゲームとか聞いてた音楽とかのことを教えてくれる。少し早口になりながら。

     でも、そこからは、光は遮られてる。
     カーテンの向こうの景色は見えない。

     触れてるのに触れてない。
     こんな気持ちは初めてだった。


     タイシンの体温を感じる。
     暖かい。
     冷たい。
     それは猫さんの瞳みたいに変わる。

     でもそれは、ほんとに、タイシンの温度なんだろうかーーなんて不思議なことがアタマの中をよぎる。
     
     そんなこと考えてた、ふとした、瞬間。
     スマホの画面が暗転する。
     そこにタイシンの顔がぼんやり浮かび上がる。
     長方形に縁どられた、ちっちゃな数センチメートルの、ヒビ割れたくらやみ。
     そこでぽつんとひとりで生きてるタイシン。
     なぜだか、どうしてだか、それは、たった今、目と鼻の先にいるタイシンよりも。
     ――もっともっと近くに、すぐ近くに感じられるような気がする。
     そこにいるタイシンと。しゃべってみたいと思う。触れてみたいと思う。体温を感じてみたいと思う。心臓の音を聞いてみたいと思う。
     きっとそこにいるのはカーテンの、あの滑らかなカーテン生地の、向こう側の彼女なんじゃないだろうかって思う。


     ――だから、ふと。
     自分のカオが、くらやみのタイシンと横並びになる時。
     そのほんのわずか。一呼吸のスキマ。
     そのくらやみの中に潜り込んだ気持ちになる。
     タイシンのカオを横切る線と線のはざまの境界線。
     放射状に伸びたガラスの糸と糸。
     キミとつながってるーーそんな気持ちになる。
     キミのあったかさもつめたさもさびしさもうれしさもぜんぶがぜんぶ感じられる世界一の伝導性の糸。
     それでつながってるんじゃないか、なんて。

     でもそれはほんの数ミリ秒。
     瞬き一つで糸が切れる。
     スマホのにぎやかなディスプレイの奥にキミの姿は隠れる。

     キミに繋がってる糸をさがす。
     強化ガラス製のくらやみから抜け出した糸の行き先。
     光の中で繊維は寂しさに解けてほつれて見えなくなる。
     一度見失うと、探しても探しても見つけられない。

     それはまるで、切符の自動販売機の上に据えられた、網の目に広がってる路線図をたどる道行。
     君のとこに行き着くまでの線路が、道を探し当てることが、どうしてもできないでいる。
     キミの居場所は分かってるはずなのに。
     でもそれは、なんだか樹木の一枚一枚の葉脈をたどっていくみたいに果てしなく入り組んでる。
     だから、あれでもない、これでもないって、たくさんの乗車券を用意して、キミのところに向かう。
     いつもそんなことばっかりやっているからキミに怒られちゃったりする。


     ーーーーそれは。その糸は。
     キミが結び付けてくれたものだった。


     ある季節のある日のことだった。
     レースの調整が思うようにいかなくなった。
     また、レースが、怖くなった。走るのが怖かった。
     トレーナーさんが一生懸命ケアしてくれた。みんながたくさん言葉をかけてくれた。
     それでもうまく気持ちが上向かなくって。こんなに優しくしてもらってるのに。情けなくて悔しくて辛くて悲しくて。どれだけ泣こうと思っても涙は枯れたまんまで。
     他の子が滅多に通りかかったりしない、学園の隅っこの場所。剥き出しのコンクリートに座ってた。
     とても地面が冷たかったことをよく覚えてる。遠くの方から聞こえる笑い声だとかトレーニングのかけ声だとかが水の中で聞こえてるみたいにぼんやり反響して耳の中でうねっていて。視界に見えるものぜんぶが逃げ水を打ったように歪曲して見えていた。
     自分とセカイとを繋いでる配線コードがこんがらがって。混線して。どこからも何も受け取れなくて。

     ほんとに文字通り、ヒザ小僧を抱えてうずくまってた。
     そんな時。

     ふっと。
     太陽の光が遮られた。

     気が付くと、キミが、顏をのぞきこんでた。
     無言のまま。

     ただ青い瞳だけがこっちに何かを語りかけていた。

     見つける側と見つけられる側。
     順番がそっくり逆みたいになって。

     そうして。
     冷たい風が通り抜けてキミの髪がふわりと揺れる数秒間。
     見つめ合って。
     そして黙ったまま手を握って、立ち上がって。
     二人で、戻っていった。
     いるべき場所に帰っていった。



     タイシンの瞳はまっすぐで。
     どこまでも透き通り過ぎていて。
     見ているこっちも色が消え失せていって。
     まるでむこうとこっちの境目がなくなっていくようで。

     あんな風に誰かに見つめられたのは初めてだった。

     その瞬間。
     回路が開通した。
     糸と糸がつながった。
     そんなふうに思ったんだ。

     だから、その糸のありかを、ずっと探し続けてる。


     それを手繰り寄せればいつだってキミの青い瞳の海辺に漂着する。
     どんなぼろぼろでくたびれ果てた小舟でもボートでもイカダでも辿り着ける。


     それは、キミの小指に括りつけられてるようなものなのかもしれないし、赤い色をしてるものなのかもしれない。

     ――もしかしたら、ぜんぜん違う場所、違う色かもしれない。

     糸、ですら無いのかも。

     こんなの、自分の何かの思い違いじゃないかって思うこともある。

     キミがいつも言うみたいに、バカで。そそっかしいから。
     だから、だから、ただ、勘違いしてるだけなのかもしれない。
     そうなのかもしれない。

     そんなふうに頭にモヤがかかりはじめると。怖くなる。
     すっごく不安になって、肌も心もぶるぶる震えて。
     またうずくまって心が泣き出しそうになる。


     ――それでも、何度でも、キミに、声を、かける。
     かけなきゃならない。

     世界で一番孤独な糸電話のダイヤルをかけるみたいに。
     さみしくてひとりぼっちの回線のなかを駆けていく4文字のダイヤルトーン。
     か細い糸を震わせて、キミにそれが届くことを祈って。

     直線運動。直進コース。ストレート。まっすぐに。

     そうして待つ、待つ、待ち続けてる。

     糸が波打って帰って来るのを待っている。





     夏の朝の空気をかき分けながら。
     走って、走って。
     近づいていく。
     キミの姿がおっきくなる。
     キミの名前を呼ぶ。
     何度も何度も呼びかける。


     タイシン。キミの名前。ひとつひとつのことばは、硬い殻に覆われた、タマゴみたいで。
     何度も、何度も、呼び続けてると――そこに、体温が宿って。呼吸を始めて。
     4つの卵が、孵化して、飛び始める。
     そんなふうに思う。


     キミのなまえが、愛しい4つの音節が、夏の朝の空を羽ばたいていくように。
     青い青い空をまっすぐ迷いなく飛んでく鳥みたいになるように。
     そうやって呼びかける。
     なんども、なんどでも。




    ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※




    「……タイシン!! タイシンタイシーーンっ!! 今日も良い朝だねええタイシンー-っ!!」

    「……うるさっ。何回アタシの名前呼んでんの、うるさい。っていうかひっつくな、離れろって。……うっ、なんかアンタの身体、すごい汗がベトつくんだけど……」
    「うん! タイシンがとおー-くの方で見えたから、全力で走ってきちゃったよー!  朝から良い汗かいたなあー、うんっ!」
    「バカかアンタは……いや、目、良過ぎでしょ」
    「へへー-ん、どんな離れてたって、アタシはタイシンのこと、見つけちゃうもんね! タイシンがどこにいても、宇宙の向こうのお月さまの上でお昼寝してたって分かっちゃうかも!」
    「なんだよそれ……訳分かんないよ、なんで宇宙?」
    「え、なになに、何かスマホで見てたの? 何を――ん? あ、そうだよっ、歩きスマホは危ないんだよタイシンっ、ダメだよおー!」
    「いやいや、歩いてないし。立ち止まって見てたんだよ。後ろから走ってきたなら分かるでしょ……ああもうだからそんな顔くっつけんなって、暑いし汗臭い!」
    「あ、そうだったんだ、はやとちりしちゃってゴメンね! ……って、ん? 立ち止まって……? ――え、それって、もしかして! ――アタシが追いかけてくるのに気が付いて待ってくれてた、とか!? や、優しいなあ、タイシンーー!! 嬉しいよぉ!!」
    「アホか、アンタとなーんも関係ないよ。今日の天気予報見てたんだよ、なんか今朝から曇り空だし、午後のトレーニングが雨で中止になったりしたら嫌だしって思って」
    「うう、さびしいこと言わないでぇ~~……。――あ、そうだっ! 朝からタイシンに会えて嬉しくておしゃべりしてたら忘れてたよ、大事なこと!」
    「ったく、テンションの上げ下げが朝から激しいっての……何、大事なことって? なんか忘れものでも――」

    「おはよう! タイシン!」

    「……」
    「え、な、なんで固まってるの、タイシン……? や、やっぱりなんか、ヘンだったかなあ……?いまさら、アイサツなんて、……」


    「――おはよう」


    「……へ?」
    「……何その顔。っていうか何、『へ』って」
    「え、だって今、タイシン、おはよう、って……」
    「――いや、さっきアンタが先に言ったんじゃん、だから……」
    「……」
    「……何。何でニヤニヤしながら黙ってんの……?」
    「えっ、だって、だってーー嬉しくてー! タイシンが、タイシンがアタシに、おはようって……えへへ、ありがと、ありがとタイシンーー!!」
    「……ああもう、それくらいで……ったく、せっかく早起きしたんだから、とっとと……」
    「あ、待ってえタイシン~! ――あ、……」
    「? どうかして、――」

    「タイシンも見える? ね、ほら、ずっと向こうの空の――」



    「……うん。――見えてたよ。今も、ずっと、見えてるよ」



    ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


     太陽が曇り空のシーツを剥がして、のそのそと顔を出し始めて。幾分かぼんやりした、それでもはっきりとした光を地面に投射する。

     いつもと変わらない朝の日の光、いつもと変わらない空気。

     コンクリートに浮かび上がるふたつの影法師。
     影はもつれあって、結びあって、またほどけて、それからまた、――。
     そうやって影がふたつ並んで、道のずっとずっと先まで伸びていく。

     そうやって、何でもないような一日が始まって。
     そんな夏の終わりの空を、鳥たちがまっすぐに、ふたつの影を導いていくみたいに、翼をはためかさせて。
     夏の空のずっと、ずっと遠くの先まで、飛んでいる。
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