ファンタジーパラレルなロビぐだ♂―――物心ついた頃には既に、自分が“はぐれもの”であることを自覚していた。
その時代、その地域において孤児は然程珍しくない話だ。貧しさで、飢えで、病で、事故で、襲撃で、強奪で、戦争で、様々な原因で人は死んでいく。その時が家族より早いか遅いか、残されるのが誰なのかは、別離の瞬間まで分からない。少なくとも、そのうちの一人であるロビンはそうだった。
母は物心つく前に亡くなり、顔すら覚えていない。朧気な記憶にある父親も、十を越す前に喪った。森番として親子二人で暮らしていたロビンは他に頼るあてもなく、そのまま最寄りの村にあった教会に引き取られた。その小さな教会では、神の教えを喧伝し実践する活動の一環として、寄る辺を喪った子供達を養育していたのだ。
孤児院も兼ねたそこでの暮らしは、決して悪いものではなかった。不運なみなしごの末路―――どこぞで野垂れ死ぬか人買いに売られるか、はたまた―――を考えれば恵まれていたとさえいえる。厳格だが懐の深い牧師も、その妻である慈愛溢れた副院長も、翼の下に匿った子らに良くしてくれからだ。特に少し捻くれたところのあるロビンについては心配していたようで、何かと気にかけてくれているのを幼いながらに感じ取っていた。
暖かい心遣いはありがたく、ロビンも二人のことは好きだった。祖父や祖母とはこのようなものなのかと思ったこともある。
けれども、薄らとした孤独は常に付き纏った。
それは何気ない会話をしていた筈の相手が浮かべた表情であったり、うっかり耳に入れてしまった陰口であったり、どうやら己の視界にしか映っていないらしい生き物の存在であったり。そういったことが積もり積もれば、嫌でも己の特異性を悟らずにはいられない。むしろ完全に孤立する前に、許容する人間の方が少数派だったのだと気付けたことは幸いだった。
ロビンの眼には、この世界に住む殆どの人間が見えないものが見える。
所謂、“妖精”と呼ばれるものの部類が。
この世には人や動物、植物が存在するように魔物も存在する。ただし確固たる肉体を持つそれらと違い、魔素だけで出来ている精霊や妖精のようなエネルギー体はしっかりした輪郭を持たない。素養の無い人間には触れることはおろか見ることすら出来ず、その実在を感じられる機会自体が皆無だといえる。大多数の人間にとって、“小さな隣人達”は御伽噺の生き物だった。ロビンには、幸か不幸かそうでないだけで。
遠い記憶の中の父親も同様に見えていたようだったから、恐らく血筋なのだろう。だからこそ人里ではなく森に居を構えていたのかもしれないし、息子に“精霊の小鳥”と名付けたのかもしれない。尤も、既に確認のしようがないことだが。
誰とも同じ視界を共有出来ない。些細だが決定的な違いは薄い膜のように張り付いてロビンと他者とを隔てた。集団に属していても疎外感は拭いきれず、己が異分子であるのを再確認させられる。ほの暗い事実を突きつけられる感覚は幾度味わっても疎ましく、いつの間にか人の輪からは自然と距離を置くようになっていった。
そんな事情もあって、ある程度まで成長してからは専ら森で狩人の真似事をして過ごした。真似といっても知識は父譲りの本物で、時には草木に宿る妖精達からも教わった。どうやらロビンには猟の才があったらしく、数年のうちに腕前はめきめきと上達した。特に罠猟や弓の精度は近辺で敵う者は居なくなった程である。
これならば一人で食べていける。そう自負出来るだけの力量を身につけた頃、ロビンは教会を出ることを決めた。別段頼る先があった訳ではない。だが食い扶持を自分で稼げるようになったからには、これ以上世話になってはいられないと思ったのだ。夫妻は別れを惜しんで引き留めたが、養い子の決意を曲げるには至らない。数度の話し合いを経て、最後には幸いを祈りながら旅立ちを見送ってくれた。
村の門前に立つ二人に手を振り、纏う外套で朝霧を払って。路傍に最初の薔薇が花開く道を歩き、ロビンは十数年育った土地を後にした。
◇◆◇
それからは森から森へと移動する旅の猟師として生きた。
基本的に寝起きは自然の中で。狩りは自分の口に入る分より少しだけ多く獲り、剥いだ革や肉、骨を近くの人里で貨幣に変える。時には外歩きと罠の経験を活かして傭兵紛いの仕事もしたが、そんな場合は報酬を貰ってからそう日を空けず発った。獲物が減ってきたら次の土地へ。周辺がきな臭くなってきたら次の土地へ。何をするにせよ、一つの場所に長居しないよう心掛けていた。
様々な場所をさすらう間に、やはり己の存在は異端であることを改めて実感したからだ。
ロビンのように隣人達と関われる人間を、世の中では“妖精憑き”と呼ぶ。妖精は殆どの人間にとって不可視であり、存在すら疑わしい生き物だ。それ故に妖精憑きの言葉の真偽を周囲は大抵区別出来ず、そもそもそこにいるのが本当に妖精憑きなのか、それとも狂人なのかさえ判断が難しい。
“わけのわからないもの”はそれだけで集団に属する者の脅威となり得る。異分子を排除しようとするのは社会生活を営む生物の本能だ。そして数の多い方が力を持つのも当然のこと。少数派が圧し潰されるのは仕方のない話だ。
ならば無理に混じろうとするよりか、端から諦めて外で暮らす方がずっと楽だった。
誰にも深入りせず、深入りさせない、自由気ままな根無し草。気紛れに湧いて出る人肌への恋しさは、街で適当に酒か女を見繕えば事足りた。他者の目を考えずに済む旅暮らしは気楽だ。人の群れを遠巻きに眺めて、興が乗れば隅の方でこっそりと混じるような、そんな生き方がロビンの性には合っていた。
きっと自分はこうして生きていくのだろう、主流には入れないはぐれものとして。そしていつか、狩ってきた獲物と同じ土に還る。森の恩恵に預かった命だ、己だけが自然の摂理を逃れる道理はない。そう思っていた。
――――――運命が変わる出会いをするまでは。
◇◆◇
独り立ちしてから迎えた季節の数が、そろそろ両の指に届こうかとする初夏のことだ。
冬から春を温暖な土地で過ごしたロビンは、北上する薫風の後を追うようにとある街を訪れた。そこはかつての出城跡に築かれた城郭都市で、王都や港沿いの商業都市に比べれば小規模ながらも活気がある街だった。しかしロビンが目的地として目を付けた理由は街そのものではなく、全体をぐるりと囲む塀の先の東側。国境でもある山脈の裾野に繋がった森林地帯である。木陰に潜んで獲物を狙い、ちょっとした拠点を作るにはおあつらえ向きの場所だった。仕留めた肉をこっそり卸せる市場が近辺にあるのも魅力的だ。それに植生が生まれ育った場所に少し似ているのも決め手の一つである。
ロビンは街で必要な物資を補充すると、その足で木々を分け入りこぢんまりとした拠点を作り上げた。寝床の確保と周辺の偵察を終えてしまえば、どこでもやることは変わらない。いつもの通り稼業に励むだけだ。猟に出かけて、獣道に罠を仕掛けて、ついでにちょっかいをかけてくる妖精達を軽くいなして。これまで訪れた場所と同様の生活。いつまで居るかは世間の風向きと気分次第だ。臨機応変に行動出来るのは独り身の特権である。
ただ、この時のロビンは思ってもみなかったのだ。
まさか塒を構えてから数ヶ月もしないうちに、その権利を自ら手放す羽目になるだなど。
◇◆◇
「―――――人間がかかってる?罠に?」
始まりは、一翅の妖精が寄越した報せだった。
前提として妖精という種は総じて好奇心旺盛である。そして自分達の庭で起こったことにとても敏感だ。故に妖精が見える珍しい人間が森に住み着いた、となればこぞって見に来てしまう。そして更にその中には、ロビンの存在自体を面白がって何かと構われようとする個体も出てきてしまうのだ。その日保存用にベリーや野草を採取していたロビンへ一報を届けに来たのもそんな人懐っこい個体の一翅だった。
「罠ってオレが仕掛けたやつ?どこの?」
問いかければ小妖精は身振り手振りも交えて場所を説明した。緑の肌と真白の翅を持つ彼女は、今年初めて花をつけた鈴蘭の化身だ。若い妖精は知性が高くない分無邪気で人外の生き物特有の毒気が少ない。金色の鱗粉が撒き散る程大きくジェスチャーする彼女のおかげで、どうやらわざわざ藪にまで分け入って罠を踏んでしまった不運な人間がいることが分かった。
「教えてくれてありがとな。こいつは礼だ。」
集めていた木苺の中から色づき方が艶やかなのを選んで渡してやると、鈴蘭の彼女は機嫌好さそうにくるりと宙返りした。そのままどこへなりと飛んで行く小妖精を見送って、ロビンはやれやれと立ち上がった。
不幸中の幸いというべきか、場所から考えて予想外の獲物がかかってしまったのは小動物を獲るための小型罠だった筈だ。よっぽどの悪運に見舞われない限り命に係わることはないし、その人間の膂力によっては自力で外せるだろう。
だが、知ってしまった以上放置するのは目覚めが悪い。それに罠に引っかかったのが近隣住民だった場合、後から厄介事の種になりかねないのだ。
「……めんどくせえ。」
折角作った仕掛けが一つ駄目になったことに対しても舌打ちをして、ロビンは件の罠がある方角へ向かった。
風に若葉が踊る音がする。梢がそよぐ音を聞き流しながら狩人は足早に道を歩いた。道といっても手の入った人工的なものではなく、木の根や小石が所々に露出した路無き道だ。迂回すればもう少し踏み固められて開けた通りがあるのだが、真っ直ぐ突っ切る形になるこちらの方が近い。素人なら進むうちに方角を見失ったり悪路に足を取られたりして結局は遠回りが近道になることもあるが、人生の半分以上を鬱蒼と繁る木々の下で過ごしたロビンにその心配は不要である。四半刻もしないうちに目的地付近に辿り着いた。
近付いてみれば確かに草木の向こうから人の気配を感じ取れ、眉根を寄せる。どうやら哀れな何某は自力で抜け出すのが不可能だったらしい。
「……さてさて、こんなとこまで入ってきたうっかり者のご尊顔を拝するとしましょうかね。」
願わくば面倒なことにはなってくれるなよ、と極々小さな声で呟きながらロビンは茂みを抜けた。
まず目に入ったのは、草地にうずくまって丸まった背中だった。片側の足を投げ出すように座り込んでいたその人物は己に近寄る物音にびくりと肩を跳ねさせる。
恐る恐るこちらを振り向いた顏と目が合い、ロビンはそれまで寄せていた眉を僅かに持ち上げた。
それはまだ年若い少年だった。見たところ十四、五といったところか。派手に転びでもしたのか頬が汚れており、身に着けている衣服にも土が付着している。短い外套と足首までのズボンからしてどこかの屋敷の下働きなのだろう。けれど、たかだか土汚れと質素な服装で埋もれる程凡庸な面貌ではなかった。
驚いたように円くなった瞳は空を映したような蒼。あちこち好き勝手に跳ねる癖毛はやや茶色がかった黒。明るい色の虹彩だけならともかく、蒼眼と黒い髪の取り合わせはこの辺りの国に珍しい。目鼻立ちも彫りは浅いが整っており、派手さはなくとも人好きのする顔つきをしていた。
「あ、あの……」
少年が戸惑った声をあげる。それにはっと我に返り、我に返ったことで自分が見入っていたことに気付いた。それでも次の瞬間には対人用の笑顔を取り繕えるのは長年の旅の賜物だろう。
「大丈夫ですか、オタク。」
「あ……はい!いや、ええっと、大丈夫だけど、大丈夫じゃなくて……」
声をかけると彼は慌てたように返事をした。うろうろと泳ぐ蒼い視線が最終的に折り曲げた方の足に留まる。見れば踝より少し上に罠に使った縄が巻き付いていた。更に周りには散らばった木苺と藤篭が落ちていて、何となく事の成り行きを推測する。
「踏み抜いちまったんですね。待ってください、今外しますから。」
言いながらロビンは少年の足元に屈みこんだ。懐に忍ばせていたナイフも使って手早く罠を外していく。程なくして少年は無事解放された。
「あ……ありがとうございます。助かりました。一人でどうしようかと思ってたので……」
柔和な顔立ちにふにゃりと笑顔が浮かぶ。元からあどけない面差しが邪気のない表情でますます幼く見えて、つい口にするつもりが無かった言葉が滑り出た。
「いえ、オレにも責任がありますんで。」
「へ?」
「……オレが仕掛けた罠なんですよ、これ。」
「ええっ!?」
黒い睫毛がひらめく。目を瞬かせた少年からロビンはつい視線を逸らした。
余計なことを言うつもりはなかった。仕掛けに名前が明記されている訳でもないのだ、万が一問い詰められても素直に認める必要はない。ましてや、彼がまだそれの出どころを気にしていないのなら話題にすること自体が藪蛇だ。つるりと滑ってしまった口を今更曲げても撤回は出来ないのだが。
「すみませんね、怪我させちまって。」
逸らした目を彼の足首に向ける。恐らく罠を踏み抜いた時にくじいてしまったのだろう、踵より上、靴に覆われていない箇所が赤く腫れていた。
加虐癖がある訳でもなし、他人の怪我を見て喜ぶ趣味は無い。それが自分より年下の者なら猶更だ。思わず顔を顰めると、少年は慌てたように首を振った。
「う、ううん!こっちがうっかりしてたのがいけないし!……俺の方こそ、仕掛けダメにしちゃってごめんなさい。」
そうして申し訳なさそうに非を詫びる。些か想定外の反応にロビンの方が戸惑った。
「……罠はこれ一個じゃねえですから、気にしないで下さい。それよか手当しましょう、医者じゃありませんから応急手当程度ですがね。」
打ち身や挫き程度のよくある怪我なら多少の心得はある。ロビンは応えを待たずに処置に必要なものを道具入れから取り出した。少しばかり不愛想な言い方になったのは、生来の捻くれた性質が顔を出したからだ。
職業柄、野外を歩くうえで必要になり得る品物は携帯している。加えて妖精に呼ばれるまで集めていた野草に薬効があるものが混じっていたのが幸運だった。消腫と鎮痛効果のある薬草をそれぞれ揉んで患部に貼り付け、包帯で固定していく。とりあえずの措置としては充分だろう。
「……こんなもんですかね。」
結び目を確認しながら塩梅を確かめる。きつくはないかと少年に問えば、ふるふると黒い頭が左右に振れた。実のところ他者に手当を施すのは久方ぶりだったが、どうやら腕は鈍っていないらしい。
「立てますか?」
「あ……うん、何とか。ありがとう、狩人さん。」
少年はロビンの差し出した手を借りて立ち上がる。腰を上げる時に少しぐらつき体重がかかったが、転倒することなくそのまま安定した。どうにか一人で立てはするようだ。
「あ、籠……」
だが、思い出したようにそう呟いて近くに落ちていた籠を拾いに行く足取りはどう見ても危なっかしい。しかも側にあった木の幹に手をつきつつ、散らばっている木苺をよろよろと拾おうとするものだから流石に見過ごせない。溜息は足と同時に出た。
「手伝います。オレが集めますからオタクは籠持って立っててください。拾うのはベリーで良いんですね?」
「えっ?……そ、そうです、すみません……」
隣で膝を折りながら訊ねれば、彼は申し訳なさそうに肯定した。やはりロビンの推測は正解だったようだ。下草に覆われた地面に零れた緋や山吹、搗色の粒を拾っていく。幾つかは落ちた時の衝撃で潰れしまっていたので無事なものだけを籠に放り入れた。
「……っし、こんで良いでしょう。」
「ごめんなさい、何から何まで……」
「良いんですよこのくらい。それより……」
ちら、と少年の足元を一瞥する。
結局のところ、外傷への一番の薬は時間である。極力安静にして、自前の回復力が癒してくれるのを待つ。特に最初が肝心だ、無理をすれば必ずどこかにしわ寄せがいく。ロビンは頭の中でちょっとした天秤にかけて、最終的に傾いた結論に我がことながら苦笑を浮かべた。
「……オタク、あの街のお人でしょう?送ってきますよ、その足じゃ難儀でしょう。」
「ええっ!?」
蒼い硝子玉が今までで一等丸くなる。本当に何歳なのだろうか、素朴な顔立ちにますますあどけなさが足されてどこか稚くすら思えた。
「そんな、そこまでしてもらう訳には……」
「いいんですよ、あそこはオレの商売先でもあるんで。」
「商売先……?」
「狩った肉を卸したり、革や骨を買い取って貰ったりしてるんですよ。オレみたいな流れ者は評判が命だ、怪我した人間を放っといた鬼畜野郎だ、なんて言いふらされたら商売あがったりなんすわ。」
「い、言わないよそんなこと!」
力強い否定。慌てたせいか崩れた敬語から少年の人柄を感じられて、ほほえましさが口許に上る。
「オタクが言わなくても周囲がそう取るかもしれねーってことです。ほら、大人しく肩借りてください。」
「う……じゃあ、失礼します……?」
腑に落ちない、というような顔をしながらもそろそろと伸ばされる腕。ロビンはそれを受け取り自分の肩に回す。流石に負ぶったり抱えたり出来る程膂力に自信がある訳でも体格に差がある訳でもない。出来るだけ怪我の方に体重がいかないよう気を配りながら歩き出した。
森を抜けて街の入り口の近くまで歩く間、ロビンと少年は幾つか話をした。それほど長くはないが短くもない道程をずっと無言で通るのは気まずい。尤も、話すといっても殆ど少年が喋るのをロビンが聞いているだけだったが。
その話の中で、彼は何故あそこまで森の奥に踏み込んでしまったのかを明かした。
家の者に言いつけられて木苺を摘みに来たこと。
中々籠が一杯にならずについ奥まで来てしまったこと。
必死になるあまり罠に気付かずに引っ掛かって転んでしまったこと。
動けず途方に暮れていたのをロビンに見つかったこと。
―――――それが、本当に嬉しかったのだということ。
本来、自分と関わりのない話を聞き続けるのは退屈だ。けれども不思議と少年の声は耳馴染みが良く、ちっとも不快に感じなかった。
そうして少年の語りに相槌を打っているうちに、二人は街と森を隔てる囲いが見える辺りまでやってきていた。梢の隙間から覗いた石壁を見て少年が弾んだ声をあげる。
「―――ありがとう、ここまでで良いです。」
彼はそう言ってそっとロビンの身体を押した。確かにこれくらいの距離ならそう心配は要らないだろう。否を唱えることもなく身を離す。
「お世話になりました、狩人さん。」
向き直って頭を下げる少年。角度の深さに性根の善さが伺え、またしてもくすぐったさが口角に浮かんでしまう。
「いーえ、お気になさらず。気ィ付けて帰ってくださいね。」
「はい!……あの、ええと……」
「?どうしましたか。」
「……狩人さんの、名前を訊いてなかったな、って思って。」
柔らかそうな唇を震わせた内容に、ロビンは目を瞬かせた。
一対一での会話なら固有名称は然程重要性を持たない。実際お互いに名乗らないままここまで来てしまった。
そわそわとこちらを窺う少年の瞳。夏空を固めたような双眸が綺麗で少し目を細めた。
それでも、逡巡した時間は一秒にも満たなかったが。
「――――なあに、名乗るほどの者じゃございません。たまたま行き逢っただけの仲、これっきりなんです。狩人さん、と呼んでくれりゃあ十分ですよ。」
へらりと軽薄なやり方を心掛けて表情筋を動かす。どこか芝居がかった物腰と軽妙な声色は、真意を包む薄皮でしかない。
恐らく彼は悪い性質の人間ではないだろう。それは何となく、これまでの観察と旅人の勘で察している。
ただ長年の旅暮らしで染み付いた処世術ーーー踏み込まず、踏み込ませないーーーは、そう易々と剥がれ落ちるものでもなかった。
「……そっか。ごめんね、狩人さん。」
少年はどうにも人心に敏いようだ。一瞬だけ虚を突かれたような表情を見せたものの、すぐに元の微笑に戻った。下がってしまった眉の角度までは、完全に戻せていなかったけれど。
「じゃあ、俺はこれで。」
最後にもう一度軽く一礼して、彼は街に向かって歩き出す。片足を庇っておぼつかない足取りが痛々しい。その後ろ姿はロビンのなけなしの良心を小さく刺した。
「……ああそうだ、ちょっと待ちな坊ちゃん。」
だから、つい後を追って引き留めてしまった。
短いが綺麗に生え揃った睫毛が上下する。丸っこい両目には当然きょとんとした色が滲んでいて。それがあんまり透明だから、ロビンは急にきまりが悪くなった。
「これはおまけです。」
何か言われる前に、と殆ど反射で口走る。言葉より先行した手は彼の胸元にある籠の上で開き、包んでいたものを落下させた。
「籠一杯、とまではいきませんが、ないよりはマシでしょう。」
「わ……!」
感嘆の呟きが少年の口から漏れる。僅かに高くなった声音に喜色の響きを感じて、こちらの心境も幾らか和いだ。
藤籠に落としたのは、ロビンが集めていた分の木苺だった。今日は山菜の類いを主の目的として採取していたから果実の量は然程でもないが、少しでも多い方が良いだろう。彼は言いつけられてあんな奥まで入り込んでしまったのだから。
「それじゃ、今度こそ。」
「あ……!」
これ以上はと踵を返す。背後から呼び止めるような声が聞こえたが、意図的に無視した。振り返らずに手だけ振って、そのまま森に戻っていく。
生い茂る下草を踏み、地表に飛び出した木の根を跨ぎ、樹木の間を通り抜けて。完全に石壁が見えなくなるところまで歩き、一際太い樫の樹の前で止まった。そしてそのまま、幹に背を預けてずるずると座り込む。仰いだ先には常盤の葉が陽光を透かして輝いていた。
「……何を、らしくねえことを。」
木漏れ日を頬に受けながら呟く。自問自答に近い独り言は、当然誰からの返答もなかった。
◇◆◇
狩人が少年を助けた次の日、柄でもない行動を天がからかうように雨が降った。
一度崩れた空模様はそのままぐずぐずと続き、ロビンは数日の間猟にも出られず予期せぬ休息を味わうことになった。とはいえ食料は備蓄があったし、そこそこの長雨になると悟った時点で街に入り酒場と宿屋に顔を出したため別段困りはしなかった。強いて言うなら少しばかり財布が軽くなったくらいである。
さて、漸く鉛色の雲が去った朝。ロビンはここ暫くの分を取り戻すべく『仕事』に励んだ。雨の間に手入れを済ませた相棒を携え森を駆ける。高々数日間で錆びつくような生半可な腕はしていない。
早朝から罠を仕掛け、息を潜め、矢を放ち。茜光が斜めに差し込む時分には若い牡鹿を一頭と一角兎を三羽仕留めた。一日の成果としては充分である。
狩ったその場で血と内臓を抜いておいた獲物を、どうするか算段を立てつつ次の処理に取り掛かっていた時だ。
鈴蘭の匂いが風に乗って鼻を擽る。同時に無機的にも有機的にも聞こえる複数の脚音。金に輝く粉が視界の端に散って、ロビンはそちらを振り返った。そこには思った通り純白の翅の彼女が宙に、地面には水玉模様のドレスを纏った茸の化身や芋虫とてんとう虫を合わせたような蟲の精霊など小型の妖精達が集まっている。
「ん?どうしたよ揃いも揃って。今日はオタクら好みのもんはねえぞ?」
代表して浮いている彼女に話しかけると、小妖精は頭が捥げそうな勢いで首を横に振った。そしてこちらに纏わりつくように飛び回りぐいぐい袖を引いてくる。しかもそれを合図に他の妖精達まで同様に靴やら足やらに跳びついてきたものだから堪らない。
「おあっ何だ何だ急に!やめろって、何か用なら口で言え口で!!」
いつになく忙しない彼らに思わず非難じみた声をあげる。群がってきているのは妖精の中でも小さくか弱い種族だ。強く振り払うと怪我をさせてしまいそうで下手に動けない。
切実な訴えはどうにか届いたらしく、小さな隣人達はぴたりと動きを止めた。そしてロビンからそれぞれ離れる――――までは良かったのだが。
「だぁあああ!!うるっせーわ!!!」
次は全員が一斉にけたたましく喋り始めたので、両耳を押さえる羽目になったのだった。
それからロビンは何とか、自分が自分がと前に出たがる妖精達を制しながら話を聞くことに成功した。そうして彼らが齎した報せに切れ長の目を丸くする。要約するに、内容はこういうことだった。
『人間がロビンを探しに森へ来ている』。
それを聞いたロビンは妖精達に突然の来訪者が居る場所まで案内を頼んだ。その人物はロビンを探しながら移動しているようで、ならば隣人に協力を仰ぐ方が効率的だと判断したからである。知らせに来た彼らは儚く弱い種ではあるが、だからこそ己が領域内の気配には他の生き物よりもずっと敏い。その証拠にロビンはすぐ目当ての何某の居場所まで辿り着けた。
単に人間が訪れたというだけなら様子こそ見に行っても姿を現しはしない。わざわざ森に入ってまでロビンを探すような輩の出現は、大抵碌でもない出来事が起こる前触れだからである。にも関わらず今回は足早に妖精の後をついていくのは、ひとえに人間の、特に余所者の見てくれなど興味を持たない彼らが、珍しくも容姿に言及したからだ。たった一ヵ所の説明だったが、それだけで充分だった。口にしたのが鈴蘭の君だったのも決め手である。
―――――――『天狼星のような眩い目のヒトの子』だと。
「……本当に居やがった。」
遠目に黒い頭を見つけ、呆れ混じりで呟く。たった数日の長雨では、記憶までもが洗い流されることはない。木立の隙間に見え隠れする姿は間違いなくあの時の少年だった。
彼はしきりに周囲を見渡し、あちらへ少し行っては止まり、こちらへ少し行っては止まりとふらふらしている。足取り自体は以前と違ってしっかりしているが規則性は見当たらない。明らかに何かを、或いは誰かを探している様子である。
それに何より。
「―――――おーい、狩人さーん!いませんかー!!」
呼びかけが、駄目押しだった。
「……何してるんですか、オタク。」
「あ、狩人さん!」
ああも大声で呼ばわれては無視し続けるのも難しい。両脇から小さな手や足につつかれているなら猶更だ。
木陰から出て声をかけると、少年はロビンの気などまるで知らない暢気な顔で、また会えて良かった、と笑った。屈託のない表情に毒気を抜かれつつも、ロビンは溜息を吐いて言葉を続ける。
「この森には獣や、少ねえが魔物も出ます。もうすぐ日も暮れるっていうのに、慣れない人間が足を踏み入れるもんじゃねえですよ、坊ちゃん。」
ちらりと西の方角に視線を向ける。太い枝の隙間から覗く天の球は、もう随分真朱に近くなっていた。視線を戻した先の少年が決まり悪そうにえへへと苦笑する。
「うん、ごめんなさい……でも、やっぱりお礼がしたくて。」
「お礼……?」
そこでロビンは漸く、彼が何か手に持っていることに気が付いた。
少年の腕にある物、それは見覚えのある持ち手付きの籠だ。先日と違うのはそれに麻布がかかっていて、中身が分からないこと。生成りの布はやや盛り上がっているので中身が空という訳ではなさそうだ。
「助けてもらったお礼!大したものは、用意出来なかったけれど……」
言いながら布を取り払う。露わになったのは木の器に入ったチーズとライ麦の丸いパンだった。彼は藤籠を腕に通し、器用に丸パンとチーズを持ちやすいように纏めて布でくるむ。
「はいどうぞ、受け取ってくれたら嬉しいです。」
そうして持ち手を作った包みを、彼はロビンへと差し出した。照れているのかはにかむように綻ぶ口元。淡く色づく唇にどうしてか目を惹かれた。
「……律儀な性質ですねえ、オタク。」
「そうかな、助けてもらったらお礼をする。当然のことだと思うけど……」
瞬間的でも見入ったのを誤魔化すために吐いた台詞。けれど少年は甚く真面目に、そして不思議そうに言葉を返した。性根が滲み出たような返答にロビンは何か言うこともなく、曖昧に笑うだけに留める。世の中が彼のような人間ばかりであれば、きっと自分はもう少し他者と関わる生き方を選んでいただろうに。
「別に、見返り目当てで助けた訳じゃあありませんが……貰えるってんなら、ありがたく頂戴しておきましょうかね。」
一瞬断ろうかとも思ったものの、すぐに考え直して腕を伸ばした。彼の靴は泥で汚れている。礼の品を渡すためだけに、森のどこに居るかもわからない男を探していたからだ。それを思えばとても無碍に扱えない。
けれど。
「えい。」
「……あ?」
ロビンが伸ばした手から、少年はひょいと包みを持ち上げて躱した。
「……坊ちゃんや坊ちゃんや。これはオレへのプレゼントじゃあなかったんです?」
「そうですよ?」
「じゃあ、何で急にそんな意地悪をなさるんで?」
思わず問えば、丸っこい瞳が弧を描いた。刹那、蒼い二対の三日月が蠱惑的な光を宿す。ほんの一瞬見せた輝きにロビンは少しだけ目を見張った。それはこれまで少年が浮かべたどの表情とも違う、年頃らしく悪戯っぽい笑みで。
「……ねえ狩人さん、“これっきり”、なんかじゃなかったでしょう?」
少し高めの声音はまるで歌のように弾んでいる。くふふ、と綻ばせる面貌はどこか得意げで。強調された一単語にロビンは先日のやり取りを思い出した。
「……ああ、成程。」
空を掻いた手のひらをそのまま自分の顔面に持ってくる。何とも無邪気な意趣返し。指の隙間から覗けば、悪巧みが成功した腕白小僧のように楽しそうな少年が居た。
「――――俺、立香って言います。狩人さんは?」
「……ロビンです。よろしく、リツカ。」
差し出された名前と布包みを、こちらも同じものを返すことで受け取る。パンとチーズで塞がっていない方で握った手は、彼の人柄と同じく暖かかった。
運命はどこにでも転がっている。ロビンと立香の場合は初夏の緑に染まる森だった、それだけのこと。
――――――結局のところ、この出会いから幕を開けたのが喜劇だったのか、悲劇だったのか。それは当時どころか未来の二人にさえ、分からないことだった。