eternal2「レモンパイじゃないのか」
「悪かったね、今度ネロにでも作ってもらいなさい」
僕の持っていたカゴの中身を見るなり、目の前にある輝いていた瞳が少しだけ濁ってしまって、彼のことを思い出した。
「ヒースはいるか?」
「今呼ぶ、待ってろ」
手の持った箒でふわりと浮かぶと、その城の天辺までひとっ飛びした。窓を叩くとその主人が開いて目を見開く。下にいる僕の顔を見て、そのこぼれそうな瞳がまた大きく開いた。
「先生!」
一番高いところにある大きな太陽に照らされたイエローゴールドの髪の毛が透けて見える。手を振って返事をすると、見開いた瞳が柔らかな微笑みに変わった。
カゴの中身はジャムだった。今日の花は真っ白なオレンジの花と、実だったから。
どうしようか、と思っているうちに実の方はかなりまだ青くて、そのまま食べるのには皮が硬いようだった。砂糖を余らせていたからそれでジャムを作ろうと思ったのだ。小鍋でコトコトと煮ている時間にネロと会ったことを思い出して、そういえばしばらくヒースクリフに会っていないことを思い出した。元気だろうか、ジャムを持っていったら食べるだろうか、考えながらグツグツと小鍋の中で踊るそれを見て、いってみようかと思ったのである。小さな瓶に必要な分だけ詰めてそれをカゴに入れる。ヒースクリフは気にいるだろうか、そんなことを考えて。
「あっいい香り。紅茶に入れても美味しいそうですね。良ければ中に入っていきませんか?」
カゴを開けると漂うオレンジの香りにくすぐられるように微笑む。扉の前に立つ僕を家の中へ入るよう手招きされるが、咄嗟に手を振り一歩下がってしまう。
「いや僕は…」
「…今ちょうど仕事がキリのいいところまでいったんです。このままティータイムにしようかなと思ったんですが、先生がご一緒してくれるならとっておきのものを出そうかと思って」
だから俺のために居てください、と少し寂しそうに笑う。悪い気はしなかった、彼のことを同じだと思ったから。下がってしまった右足を戻して帽子を下げると、その瞳がゆらりと揺れた。
その日、大きな嵐がやってくることは誰しもが知っていた。だからきちんと戸締りをして、ランタンに火がうまくつくことを確認した。
だけどどうしてかわからない。その日、必ず戻ってくると言った小さな背中を見送ってしまった。何も今日じゃなくてもいい、とたくさん反対した主人を置いて、彼は遠くの街へ出かけてしまった。
そして二度と戻ってくることはなかった。
彼の住んでいた部屋から小さな人形が見つかった。あまりに悲しんでいた主人の親が買い与えたものかもしれない。真相はどうでも良いのだ。人形は、彼の石をぱくりと食べると、ゆっくりと動き出したのだという。そうして、その人形に名前をつけて、中身を変えて、長い時間をかけて彼の魂を馴染ませた。
今は主人の付き人としてこの城を守っている。
「シノに似ていますよね、話し方とか不意な仕草とか。笑った顔なんて瓜二つなんです」
ティーポットから紅茶を注ぐと、僕の前に差し出した。スプーンで丁寧に掬われたジャムを中に混ぜると、一口飲み込む。息を吐いてから、言葉を紡いでいく。「あぁ、そうだね」
「…いつも比べてはいけないと思いつつ、どこかシノの面影を探してしまうんです。シノはもうどこにもいないのに」
ほとんどシノと同じくらいの背丈になっただろうか。初めて会った時、まだヒースクリフの後ろに隠れて威嚇されてしまったのを覚えている。小さな頭を撫でようとして手を振り払われてしまったことも。
何度か会ううちに、ヒースクリフとシノの関係とは違う、彼らなりに関係を築き上げていっているのがわかった。けれどそのどこか似ている面影に、ヒースクリフの心中を思うこともある。
「時折、どうしようもなくなるほど寂しくて苦しくて悲しくなるんです。自分の体の一部が無くなったような喪失感で息ができなくなるほど泣いてしまうんです。夜が来ることが怖い、朝陽を見るのが辛い。いつだって俺の隣にいてくれたあいつがもうどこにもいないことを受け入れるのがどうしようもなく怖い」
石を拾った街の人間が、どうかこれを食べて欲しいとシノが言ったことを伝えられていた。ヒースクリフはそれを一欠片も口にせず、代わりに彼の体を作る材料に混ぜた。
『浅ましいと、笑ってください』
ヒースクリフは少しのためらいもなく石を砕きながらそう言った。
死んだ人間も魔法使いの石も、二度と蘇りはしない。そう思っていても、誰もが正解の道を辿れるわけではない。
「そうしてひとり寝室で泣いていると、何処からともなく窓を叩く音がして、彼が来るんです。何かを言うわけでなく、ただ部屋に入ってきて背中をさすってくれて。気づいたら寝付いてて。朝には跡形もなく、いつも通りに戻っているんです」
遠くの空で箒に跨り、僕たちの様子を見る彼にヒースクリフが小さく手を振る。控えめなその行動さえも瞬時に察してすぐにそれを返す。そうして、見えなくなるまで遠くへ行ってしまう。
「シノはきっとそんなことはしないと思います。泣くなとか元気出せとかそんなことを言って笑わせようとしてきて、俺は怒って彼を追い出してしまうけど、朝まで窓の外で俺のことを見てるんだろうなって」
ソーサーの縁をゆっくりとなぞる。彼の指に小さな雫が落ちる。「似てるけど違う。シノはもうどこにもいない、世界中探しても。そんな簡単な事実を知るだけで、枯れたと思っていた涙が止まらなくなるんです」
ヒースクリフの使う魔法はいつも自律していて、形が美しかった。あれ以来、ほとんどその均衡が崩れてしまっている。いろいろな医者にかかったが、心と身体がうまく調和していない、ということが原因だと言われたらしい。魔法陣さえ、手が震えてしまって書けないと言っていた。
それでも彼のいる時にはまたあの頃のような美しい魔法を使っているところを何度か目にした。
「ファウスト先生。俺もずっと時間が解決してくれると思っていました。時間が過ぎれば、いつかこの傷が癒えて、前に進めるんだと。けれど違いました。それは勘違いでした」
まぶたを閉じる。そうして、微笑む。胸に手を当てて、ゆっくりと握る。
「傷は癒えません。いつもここにあります。多分ずっと。魔法使いの一生は、長いですから」
飲み込めなかった言葉を、少しだけ息を吐いて、そして口から出す。それは思い出の塊のようなものだ。
「覚えています、ずっと」
「ヒースのこと頼むからね」
急な電話が入り、お茶会はすぐに解散となった。シノの代わりに森の門番をしている彼へ、言葉を投げかける。何度も言っている言葉だ。
「わかってる」
それも何度も聞いている。「ヒースは俺の主人だからな」
「似ているな、けど違う」
瞳や髪の色、何もかもが一緒になったとしてもシノと同じになることはない。どれだけそれを願ったところで魔法使いの石を混ぜてしまったから、彼は完全な人形とはなり得ない。ヒースクリフも誰もが知っていることだ。
人形であれば、同じにすることができる。けれどヒースクリフはそうしなかった。彼に心をもたせて、そして自分のそばにいることを命じた。
「ヒースは、俺とシノのことを似ていないと言った。どれだけ混じっても、俺は俺だし、シノはシノだからと」
「うん」
「俺はヒースクリフのことがわからない。人形と魔法使いの思考回路は違いすぎる。最初はシノの石を飲めば、わかると思っていた。それはすぐに勘違いだとわかった。俺は結局シノにはなれないからだ」
彼自身が魔法使いになれるわけではない。シノの石が彼の動力であるが、それは彼を全て支配するわけでもない。
「いつか、分かる日が来るといい。ヒースと一緒に笑いたいんだ。そんな日が来たら、最高だと思わないか?」
「そうだね」
「長生きするヒースのことを残して死ぬわけにはいかないし、俺の中のシノにも長く留まっていてもらわないと困る」
彼は、魔力の供給源がある胸に手を当てる。
「魔法使いの一生は長いからな」
そう言って彼はニヤリと笑った。けれど、魔法使いの石を使った人形はすぐに寿命を迎えることも誰も彼もが知っていることだ。
もちろん彼も知っていることで、ヒースクリフも知っている。
「そうだね」
別れ際に加護の魔法をかけた。彼の一生を、祈らずにはいられなかったから。