ヤング・クロウリー ~始まりの物語~ 第二部⑮話「姫と願いの井戸」 ディアヴァルは姫が心配だった。生まれてからずっと愛され大切にされてそだってきた娘だ。突然厳しい世界に突き落とされてさぞ心細いだろう。彼は姫の様子を見に離宮へと飛んで行った。
辛い思いをしているのでは、と心配していたのだが、意外なことに姫は楽しげに仕事に精を出していた。石畳を磨くにも洗濯するにも、楽しげに歌を歌って清々と励む。
その姿には他心はなく、ただただ清らかでほがらかだった。しかも、姫が歌うと、いつだって小鳥やリスがあつまってくるのだ。あの小さなお茶会の、楽園のようだった日々を思い出す優しい世界がそこにはあった。
そして姫は、他の召し使いたちからも可愛がられやさしく扱われていた。
厨房のおばちゃんはとりわけ姫に目をかけていて、何かといっては賄い料理を振る舞っていた。
姫は服こそボロボロで仕事もきつい肉体労働だったが、人の暖かさに恵まれ、決して不幸そうではなかった。
そんな姫を見ていると、ディアヴァルはあのローズことオーロラ姫を思い出すのだった。
……あの方も、純真で疑う事を知らなかった。そして不思議とあらゆる生き物に慕われていたっけ。
それを思い出したとき、ふっとディアヴァルの心に陰が落ちた。そんな純真なローズを赤子のうちに呪ってしまったマレフィセントは、非業の死を遂げたのだ。
ディアヴァルは不吉な予感に羽根を震わせたのだった。
そんなディアヴァルのことなど知らない姫は、美しい声で歌いながら楽しげに仕事を続けていた。
今は石の階段に水を打ち、磨く仕事に勤しんでいる。姫は水を井戸から汲み上げて集まった鳩たちを見回すと、よく通る美声で歌い始めた。
「とても不思議よ この井戸はね 望みかなえる井戸 願いを言えば たちまちすぐ こだまが答えて 夢がかなう」
そして姫は井戸を覗くと歌いかけた。
「すてきな人が 現れますように」
すると井戸の底からこだまが返る。
『すてきな人が 現れますように』
こだまを聞いた姫がまた歌う。
「胸が ふるえるわ ここへ」
こだまが応える。
『胸が ふるえるわ ここへ』
素敵な人が現れるようにと願う歌。即興の歌詞なのだろうか。こんな歌を歌うなんて、やはりこの暮らしが辛いのだろうか。
自分の考えに沈み込んでいたディアヴァルの耳に、カッカッカッとリズミカルに響く音が聞こえてきた。彼が目を上げると、見事な白馬にまたがった貴公子が石畳の道をやってくるところだった。
歌が終わるか終わらないうちに、「すてきな人」が現れた! あの若者はここにやってくるのだろうか? 姫と出会ったらどうなるのだろう。女王の不安が的中してしまうのだろうか?
気が気ではないディアヴァルは、舞い上がると貴公子を観察しに行った。
貴公子は、上質な生地の仕立ての良い衣服を身に着けて、姿勢良く馬を乗りこなしている。服は豪華な刺繍で飾られていた。その身なりや所作からは育ちの良さが伺い知れた。
白馬はというと、よく手入れされた毛並みはつやつやと輝き、細く引き締まった脚は如何にも早く走れそうだ。鞍や鐙には見事な細工が施され、馬の背に掛かった飾り布にも美しい刺繍が施されている。
どこから来たのだろうか。こんな身なりの貴公子だ、よほど高い身分の人に違いない。ディアヴァルが訝しんでいるうちにも、貴公子はどんどん近づいてくる。
彼は、離宮の庭を囲む壁のすぐ外で馬を止めるとひらりと飛び降り、身軽に壁を乗り越えて、離宮の庭へと入ってきてしまった。
姫は気づかずに井戸に向かって歌い続けている。
「お願い すてきな人が 現れますように 今日」
その時、貴公子が井戸を覗く姫の隣に寄り添うように立つと「今日」と声を合わせて歌った。井戸の水面に映った姫のとなりに貴公子の姿が映る。
驚いた姫が振り向くと、貴公子は羽の付いた帽子を取って挨拶した。
「こんにちは」
ところが姫は、突然現れた見知らぬ青年に驚いて逃げ出してしまった。姫は、ボロボロに裂けたスカートの裾を手で押さえながら走ってゆく。それを見たディアヴァルは、ああ、やはりこんな貴公子の前に出てしまうとみすぼらしい服装が気になるのだな、と痛ましく思った。
「待って! 逃げないで、頼むから!」と声を掛けながら、青年が後を追う。
だが姫は、屋敷に駆け込むと重い木の扉をバタンと締めてしまった。
しかし青年は諦めなかった。彼は、姫が駆け込んだ扉の前で歌い続けた。
「今 ついに 君に会えた 真心伝える 愛の歌 君のために 胸ときめかせ 真心伝えよう」
声は姫にも聞こえていたのだろう。ディアヴァルは、姫がこっそりと高窓から外をうかがっていることに気がついた。
青年も同じことに気づいたのかもしれない。高窓の下で手を高く差し伸べて、切々と歌い上げる。
「夢 愛の夢 軽く羽ばたき ただ愛の歌 君に捧げる」
高窓のカーテンの影から、姫が現れ、その赤い唇で一羽の白い鳩に口づけると宙に放った。鳩はまっすぐに青年の元へと降りてゆき、青年に口づけた。
二人の目と目が見つめ合った。姫は頬を上気させるとさっと身をひるがえしてカーテンの影へと走り込んだのだった。
成り行きを見守っていたディアヴァルは心配になった。これは二人の恋の始まりなのだろうか? だとしたら、大変なことになるかもしれない……。女王がこのことに気づいてしまったら、どうなるのだろう。ディアヴァルは迷った。このままここにとどまって二人を監視するべきなのか、女王の元へと戻るべきなのか。
と、彼の脳裏を悲しい思い出が過ぎった。
あの時、彼はあの塔に残る決断をしたのに、何も出来なかった。そして、マレフィセントがローズを見つけ出した時には全てが手遅れになっていた。その結果は……。
黒い後悔が胸を噛む。お馴染みだが薄れることのない痛みが彼を苛んだ。
今は戻ろう。あの方の元へ。少しでもお力になれるように。
ディアヴァルは翼を広げると空へと舞い上がったのだった。
【豆知識】
今回は馬具の話です。王子登場シーンで、悩んだのが「あの馬の背中に掛けてある布はなんて呼べばいいの?」でした。
些細なことだけど、そういう用語をきちんと押さえて置けるかどうかで描写が全然違ってきますよね。
これ、漫画なら正しい絵を書くために画像を漁るところですが、文字書きとしては名前を知らねばとなるシーンです。
そこで色々ぐぐってみました。
基本の馬具を知ろう!
https://pacalla.com/article/article-1412/
最初に見たのがこちらのHP。基本を押さえて丁寧に解説してくださっていますが…。これは現代の馬具。
中世風ファンタジーなので、中世の名前を知らねばなりません。そこで更にググりました。
そして見つけたのが⇩のWikipediaの記事です。
「馬の背に掛かった布 ヨーロッパ」で画像検索して見つけた画像がこのWikipediaのものでした。ちょっと違うんだけど、もしかして知りたい物も載っているかも?
というわけで⇩の記事を見てみました。
「中世の馬」乗馬具の技術:https://is.gd/zEr2h4
するとこちらに以下の記述が。
「鞍の下には、ときに馬飾り(英語版)(カパリスン、caparison)や鞍下(サドルクロス、saddle cloth)を着せた。これらは紋章の色や武具で装飾や刺繍を施すことができた[90]。軍馬には、バーディング(barding, bard)と総称される追加の覆い、毛布、装甲が装備されることもあった。これらは装飾あるいは防御目的でもあった。」
「馬飾り(英語版)(カパリスン、caparison)」にリンクがあったので、そちらへ飛んでみると……。
「Caparison」https://en.wikipedia.org/wiki/Caparison
これですよ!これ!!こういうわっさーと馬に掛けてある布は「Caparison」って言うんですね。
けど、この英単語をそのまま本文に書いても何がなんだかですよね。
そこで「馬の背に掛かった飾り布」という噛み砕いた表現にしてみました。用語の正確性という視点からは妥協になりますが、馬具を知らない人がほとんどであることを考えるとまあこんなところが落としどころかなと思いました。