ヤング・クロウリー ~始まりの物語~ 第二部⑯話「女王と鏡」 暗い部屋の中、鏡だけがぼんやりと光を放っていた。
その光は、鏡の前に立つ女王を妖しく照らし出していた。女王の美貌には一抹の陰りがあった。美しさそのものが衰えたのではない。深い哀しみと疲れが、忍び寄る宵闇のように陰を落としていたのだ。スノーホワイト姫の美がうららかに晴れた青空なら、女王の美は凄絶なまでに燃え上がる夕焼けのようだった。
女王は鏡に向かって問いかけた。
「鏡よ鏡、今日、姫はどうしていたのか?」
すると鏡面に光の波紋がゆらめき、その中心からある光景が浮かび上がってきた。
──井戸に向かって歌いかける姫。
──現れた貴公子。
──そして白い鳩を介した口づけ。
それを見た女王の形相が一変した。目は驚愕に大きく見開かれ、口元は怒りに震えている。女王は鏡に詰め寄ると、蛇の縁飾りを両手で握りしめた。握る力の強さに指の節が白く浮き上がる。
「なんてことなの……。あれは仇の息子じゃないの……!!」
絞り出すようにつぶやいた女王は、鏡を掴んだまま更に問いかけた。
「鏡よ鏡、姫はあの男を愛したのか?」
鏡の中で一際明るく炎が燃え上がり、光を放つ。
「然り」
女王は鏡を突き飛ばすように放すと、どっと崩れるように椅子に座り込んだ。
「なんてことなの……。やはり私はあの子の育て方を間違えた!! あの子に、しっかりと仇は仇、仇の息子もまた仇と教え込むべきだったのよ。あの子に憎しみを教えたくはなかった……。父を失った哀しみで十分だと思っていたのよ。それが裏目に出たなんて。ああ、今更遅い。あの子は仇の息子を愛してしまった……」
ディアヴァルは、そっと女王の椅子の背に乗ると、いつものように身体を寄せて、嘴で髪を梳いた。
女王は、ディアヴァルに手を差し出すと、いつものように細くたおやかな指でそっと喉を撫でてくれた。その優しい感触に恍惚となったディアヴァルの耳に、女王の言葉が聞こえた。
「愛しい子。私、どうしたら良いのかしらね。あの憎い仇からは何度も求婚されている。『愛し合って一つになろう。身も心も国も』というのが決り文句。反吐が出るわ。もちろんあいつは私の言いなりだから、どうとでも出来る。でも息子はそうじゃない。あの王子が姫を見初めたのなら、奴は喜んで婚姻を申し込んでくるでしょう。そうなったら、姫の代りに仇の息子が愛しい我が君の国を継ぐことになるのよ。そんなの駄目。許せないわ……!!」
女王は立ち上がると、両手を揉みしだきながら部屋のなかを歩き回った。時々「ああ、だめだわ」とか「あれはどうかしら」などと呟いている。
「急がなければ。あの男が求婚してくる前に、二人を上手く引き離さなければ。どうすれば良いの。考えるのよ。考えなきゃ……」
女王は立ち止まると、キッと顔をあげた。そして書き物机に向かって座ると、羊皮紙に何か書き付けて畳み、封蝋をたらして王の紋章が刻まれた印章を押した。
そして、呼び鈴を鳴らして召し使い頭を呼ぶと、封書を離宮へと届けるよう命じた。
翌日の晩。女王はまた鏡に同じことを問うた。すると鏡が見せたのは、高い尖塔の上に閉じ込められた姫が、白い鳩に託して自分のリボンを王子に届け、王子がそのリボンに愛の言葉を書いて送り返す光景だった。
それを見て、女王はまた手紙を書いた。
更に翌晩。女王の問いに応えて鏡が見せたのは、地下室に閉じ込められた姫が自分の片袖を引きちぎってネズミに届けさせ、それに王子が愛の言葉と、救助の約束を書いて届ける様子だった。
それを見た女王の顔が怒りと苦悩に歪んだ。彼女は疲れた様子で椅子に腰を下ろすと、片手を額にあて、もう片方の手を椅子の肘掛けに投げ出して深々とため息をついた。
途方に暮れた様子で女王は呟いた。
「私はどうすれば良いの? あの子をどこに隠しても、あいつと通じてしまうなんて……」
すると、鏡が光を増した。
鏡の中の顔が物言いたげに口を歪めている。
光に気づき、目をあげた女王がそれを見た。
「お前、何を笑っているの?! 答えを知っているのなら言いなさい!」
鏡の中に炎が燃え上がり、男の顔を陰鬱に照らし出す。
「私はあらゆる問いに答えるもの。あなた様の奴隷です。何でもお尋ね下さい」
その声に、ディアヴァルはなぜか不吉な物を感じた。気づくと全身の羽毛が逆立っている。彼は女王が口を開こうとしていることに気がついた。その質問はしてはだめだ!止めなくては!そう思うのに、金縛りにあったように身体が動かない。声すらだせなかった。
そんな彼に気づくことなく、女王が立ち上がった……。
「鏡よ、鏡、教えておくれ。スノーホワイト姫をあの男から永遠に引き離す方法は?」
鏡のなかでふたたび火炎が吹き上がった。踊る炎が男の顔に陰惨な影を与える。そして男が口を開いた。
「姫を殺すことです」
女王が打たれたようによろめき、あとじさった。
「ダメよ、それは、それだけはダメだわ!」
「御随意に」と、顔が応える。
女王は追い詰められた表情で聞いた。
「鏡よ、姫が生きていたら、この国はどうなるのか?」
すると、鏡の中の炎がすっと鎮まり、男の顔がよく見えなくなった。男の声はどこか遠くからのように小さく木霊して聞こえてきた。
「明日のことはわからぬ。未来は霧のなか……」
女王はぐっと拳を握りしめると、ドン!と鏡の台座を殴り付け、そのままずるずると床にうずくまった。
気がつくとディアヴァルは動けるようになっていた。彼は椅子の背から舞い降りると、女王の傍らに寄り添った。
彼の耳に女王の苦渋に満ちた呟きが聞こえてきた。
「ああ、我が君、私はどうすれば良いのですか……」
ディアヴァルは、心の底から女王を慰めたいと思ったが、ただ寄り添うことしか出来ないのだった。
その晩、女王は手紙を書かなかった。そして、床についても眠れず、うつらうつらしたかと思うと突然、恐ろしい叫び声を上げて飛び起きるのだった。
その声に何事かと護衛が声をかけたが、女王は何でもありません、夢を見ただけよ、と、下がらせるのだった。
翌朝、ろくに眠れなかったであろう女王は、ベッドから起き出すと鏡に向かった。
そこには、たった一晩でやつれ果てた己の姿があった。
「何て事。こんな姿は誰にも見せちゃだめ……」
そういうと、女王はいつも以上に丁寧に髪を整え化粧を施した。
「これでいいかしら」
そう呟くと、女王は鏡の前から下がって全身を映し出した。
女王はすっと背筋を伸ばすと、自分の姿を頭の天辺から爪先までじっくりと検分した。
「よし」
小さく呟くと、手に杖をとる。
それを見たディアヴァルは、さっと翼を広げると杖に飛び移った。
女王は鏡に世界一美しいのはスノーホワイト姫だと言われてからは、毎朝毎晩の質問はしなくなっていた。だがこの朝、女王は鏡に問いかけた。
「鏡よ、鏡。この世で一番勇敢なのは誰?」
すると顔が現れて応えた。
「それは女王さま、貴女です」
女王は頭をそびやかすと、堂々とした足取りで部屋を出ていった。
その目には、強い意志の光が宿っていた。