シルヴァンはしゃがみ込み、床に倒れ伏したまだ歳若い男の首に手をやった。まだ温かなその体は、昼までは食堂で勤勉に動き回っていたものだ。
「どうだ?」
ディミトリが静かにそう聞くと、シルヴァン首を横に振った。
「だめですね。首を折られてます」
「あいつ、やるな」
「腕の力は、弱ってなかったですもんね」
「ああ……さて、それじゃあ追いかけるか」
どこか楽しそうに言うディミトリに、シルヴァンは立ち上がって暗い廊下を見つめた。所々に燭台があるが、この冷たく寂しい道を、フェリクスはどこまで進んでいったのだろう。
ハァハァと荒い呼吸を吐きながら、フェリクスは床に爪を立てる。辺りの様子を確かめるために首を大きく動かさなければならなくて、体中の筋肉が悲鳴をあげていた。簡素な服はまくれ上がり、硬い石造りの床に擦れた膝や腕には無数の細かな傷ができ血を滲ませ始めている。ここはどこだ?目線の高さが変わってしまったせいで、距離感が全く掴めない。おまけに、さっきから同じような場所を延々と巡っているような錯覚に陥っている。いや、それが錯覚なのか、本当に同じ場所から動くことができていないのか、それすら分からない。
手枷を嵌められる時に異音を感じるようになったのはいつ頃からだっただろうか。パチンと嵌め込まれるのではなく、ぎちっと鈍く繋がるような、そんな感触。脚の傷が癒えたら、そっちに移してやるからな。そう言って、シルヴァンとディミトリはフェリクスを風呂に入れる時だけ鎖から解放していた。濡れた肌に触れて、錆び付いたのかもしれない。それに気付いてから、意識して鎖を湿らせたり、時には食事のスープをかけたりするようにした。そして不自然にならない程度に入浴をねだり、まるでそこでの行為を気にいっているかのようなふりをして、フェリクスはこの時を待っていた。
とうとう手枷が自由に外せるようになった今日、いつも食事を運んでくる何者かが使っていた、扉の下につけられた小窓が開かないように細工をした。フェリクスの目論見は怖いほどにうまくいき、相手は扉を開けて中を覗き込む。隙だらけだった若い男の体を転倒させ、首を捕らえた時、フェリクスは自分の殺意を抑えることができずに相手を確かめることもせずそのまま殺してしまった。相手がシルヴァンかディミトリだったなら、そもそもフェリクスに飛びつかれても反撃しただろう。それに、彼等でも殺す覚悟はできていた。しかし惜しかっただろうか。少し喋らせて、情報を得てから殺すべきだったかもしれない……いや、この体になってから一度も戦っていないのだ。下手に反撃されたら危険だったはず。殺せる、と思ったから殺した。それだけのことだった。
ギリ、と歯を食いしばって力を振り絞り、前に進む。どうもおかしい。やがて廊下の果てに現れた場所は行き止まりだった。フェリクスは冷たい壁に縋って体を起こし、耳を当ててみる。何も聞こえない。ずりずりと横に這いずりながら壁を叩いていく。トントン、トントン……根気強く出口を探す。
「おーい、フェリクス、そこにいるか?」
「……ッ!!」
バッ、と、来た道を振り返った。壁につけていないほうの耳に届いたのは、どこかのんびりとした幼馴染の声だった。
「そっちは行き止まりだぞ。大人しく投降しろ」
ディミトリの声。二つ分の足音が、コツコツと近づいてくる。彼等に出くわすとしたらこの先でのことだろう思っていたフェリクスは、ぶわっと全身に汗が噴き出すのを感じた。何故だ。逆側に正解のルートがあったのだろうか。ではここは、本当に行き止まりだというのか。先ほど殺した若者から奪った小さなナイフを懐から取り出し、柄を口に咥える。フー、フー……獣じみた呼吸を繰り返しながら懸命に壁を叩いた。
ドン、……
とうとう空洞を見つけ、フェリクスは目を輝かせた。隠し扉があるのだ。ぺたぺたと壁を探って仕掛けを探る。ズズ、と壁の一カ所が沈み込み、手ごたえがあった。
しかしフェリクスの幸運もそこで潰えたらしい。
「フェリクス」
二人の幼馴染は、もうすぐそこまで迫っていた。鎧は身に付けていない。普段フェリクスの部屋を訪れるときと同じ格好で、二人はそこに立っていた。部屋で見るよりも、ずっと背が高く、大きく、恐ろしく見える。少ない燭台の、暗い光を横顔に受け、二人は平素と同じ顔でこちらを見ていた。フェリクスはナイフを手に持ち替えて、壁に背を凭れて体を支える。
「来るな!!」
「落ち着け……ああ、擦り傷だらけだな。帰りは俺が運んでやるから……」
「黙れ、猪……!」
「口が悪いのは変わらないなあ」
シルヴァンは今にもナイフを振り回しそうなフェリクスを見て、ポリポリと頭を掻く。
「……また俺たちから離れて行くつもりなのか」
「っと、ほらフェリクス。今ならまだ間に合うぞ。そんなもん捨てろよ」
シルヴァンが促すより早く、ディミトリはずんずんと大股にフェリクスに近付いて行った。その威圧感。こんなちゃちなナイフではとても太刀打ちできない。しかも足を封じられ、以前の間合いとは違っている。それでも食らいつかなければならなかった。フェリクスは膝立ちになり、低い姿勢を有利に使ってディミトリの死角を突こうと構えた。
速さではフェリクスが上だった。しかし狭い通路にまだ痛む足……不利な条件が揃いすぎていた。ナイフはあっさりと弾かれて、フェリクスは体勢を崩す。それでも組み付き、噛みついてでも一矢報いようとするフェリクスの両手首をディミトリが一掴みにして押さえつける。
「クッ……!」
「フェリクス、よせ。あー、陛下、」
シルヴァンがなにか言っているが、聞いている者はいなかった。すでにフェリクスの両手首の感覚は失われ、もがく体はぶらんと宙に浮かされる。
「帰るぞ、フェリクス」
「離せっ!!嫌だ、この……!!」
吊られながら、ディミトリの脇腹に膝を打ち付ける。何度も、何度も、動かない足の先が痛むのも構わずに。フェリクスがそうして駄々っ子のように暴れるのを、ディミトリは暫くの間、ただ見下ろしていた。フェリクスの息が上がり、動きが鈍った頃に、ぐっと拳が握られる。
「ガッ……!!」
目の前に火花が散ったようだった。息ができない。嫌だ、あそこに戻されるのは……フェリクスは己の腹に埋まったディミトリの拳を恨めし気に目で追いかけ、そのままがっくりと首を垂れると、気を失った。
「予想より早く動けましたね」
「ああ。仕掛けにも気づいたらしい」
フェリクスの体を抱き上げると、ディミトリは来た道をゆっくりと戻り始める。シルヴァンは壁の仕掛けを元に戻すと、回復魔法の準備をしながらその後を追った。